慶應義塾大学 FIT入試第2次選考 法学部政治学科 2010年グループ討論 解答例

2010年度FIT入試第2次選考概要(政治学科)

3.グループ討論の概要 •テーマ:『格差社会について~どのような側面に格差が現れているか、その問題と対処』『地域の安全のため、公共の場に監視カメラを設置する考え方の是非』

  *グループ討論の順番によって上記テーマのどちらかが指定される。

  • 司会者の有無:教員が司会役を務めるが、進行とタイムキーピングのみを行い、受験生の自由な議論にまかせる。
  • 討論時間:60分

4.発表と質疑応答の概要 •発表と質疑応答時間の配分:各15分程度、合計30分

 *自分がこれまで行ってきた活動や入学後の目標と構想を自由に表現する。

※グループ討論と発表と質疑応答の順番:午後のグループ討論と発表と質疑応答は、受験生によって順番が異なる。

■想定される議論(その1)『格差社会について~どのような側面に格差が現れているか、その問題と対処』

それでは、「格差社会について~どのような側面に格差が現れている、その問題と対処」について議論したいと思います。

《格差社会とは何か?》

まず、格差社会とはどんなことを指しているのかを概観します。格差社会とは、社会の構成員において格差が明確に現れている社会とされ、特に、賃金や所得における格差が問題視されることが多いようです。そして、格差が少ないと言われてきた日本社会であっても、小泉政権下で推進した規制緩和等の煽りを受けて、長期の不況や終身雇用制の崩壊、産業構造の変化が起き、格差の指標となっている「OECDの相対的貧困率」が日本を含めた先進諸国にて上がり続けていることが問題視されるようになっています。格差社会の出現を危惧する視点からすると、日本社会が規制の緩和等によって階級社会化し、所得の格差が年々広がりつつあるということが問題視されます。しかし、格差そのものは現実の世界ではそこまで明確に見えてこないとする意見もあり、実際にマスメディアが報道するような貧富の格差が日本社会において露骨に存在するようになったかどうかについては、議論が残るところです。

《格差社会にどのように対処すべきか?》

確かに、人間が同じ努力をしているのにも関わらず得られる所得が違い、その結果全く違う経済環境下に置かれるということが現実に起きているのであれば、社会問題として格差社会を認識すべき問題かもしれません。しかし、現実の社会では、他人と同じ努力をしていると本人が思っていても、実は同じ努力ではないケース(本人の認識が間違っている場合)や、得られる所得の違いに合理的な理由があるケースも多々あるため、何と何を比較して「格差である」と認識するのかは、きわめて困難であると言わざるをえません。個人として全く考え方が違い、一律に扱うことがそもそも難しい私達一人ひとりが一律に扱われるということ自体が、ある意味では危険な考え方であると考えることも可能です。とにかくどのような努力をしてもそれを平等に扱わなければ納得がいかないということであれば、一つの「結果平等」であって、各人の創意工夫の余地を全く認めない社会になってしまう危険が存在するからです。これは、現代日本の自由主義資本経済の考え方ではなく、経済学的な誤りを指摘されている共産主義的な考え方であるようにも見えなくありません。

また、考えようによっては、「規制緩和等によって、格差社会が出現して所得の差が生まれ、階層社会になりつつあるのだ」という考え方は、別の考え方をすることも可能です。つまり、「規制緩和等によって、産業構造が変化し、終身雇用制などの身分保障制度が崩壊することによって、既得権益を享受していた階層が崩れ、新たな資本階層が出現しつつある」ということも可能だからです。要するに、産業から得られる利益を享受する層が変わっているだけなのではないかという見方もありうるわけです。そのように考えると一つの結論として得られることは、「格差社会そのものは、社会の階層の変遷の一部をとらえて問題視しているだけなので、そもそも問題ではない」という考え方もでてくるということです。そもそも問題ではない以上、対処も不要だということです。マスメディアの出来合いの論法に騙されないことのほうがはるかに重要であるという見方もありうるだろうと思われます。

まとめ

以上のことから、「格差社会への問題と対処」については、社会制度が大きく変わっていく中で起きている社会階層の変遷の一側面を、「結果平等主義」の視点から問題視しているだけであるため、問題視すること自体があまり意味のない議論であるといえます。先進諸国で「OECDの相対的貧困率」が同様に増加しているのであれば、先進諸国の全てにおいて、もっと深いレベルでの社会的変革が起きていることを問題視すべきなのではないでしょうか。

■想定される議論(その2)『地域の安全のため、公共の場に監視カメラを設置する考え方の是非』

それでは、「地域の安全のため、公共の場に監視カメラを設置する考え方の是非」について議論したいと考えます。問題点としては、監視カメラを公共の場に設置することで個人のプライバシーが侵害されないかとそもそも監視カメラ設置が地域の安全に資するものなのかの二点が考えられます。

《監視カメラを公共の場に設置することで個人のプライバシーが侵害されないか?》

まず、個人のプライバシーが侵害されないかについてです。設置することにより、2通りの考え方があり得ます。一つ目は、「公共の場に設置をするのであるから、そもそも他人の目を意識して各人が行動しているはずであり、プライバシーの侵害には当たらない」とする考え方です。この点は、確かに常識的にも納得のいく考え方です。二つ目は、「たとえ公共の場に設置するからといっても、録画につき各人の同意をとって承諾したうえで録画をしているわけではないので、プライバシーの侵害に当たる」というものです。どちらの考え方もあり得るだろうと思います。

《監視カメラ設置が地域の安全に資するものなのか?》

その上で、そもそも監視カメラ設置が地域の安全に資するものなのかどうかを考えましょう。これは、結論は場所によっては地域の安全に資する(犯罪が減る)場合もあるとしか答えられないことになります。設置してみたら、犯罪が激減したということであれば、監視カメラ設置が地域の安全に貢献したということになりますが、その結果を正確に設置前から予測できるわけではないだろうと考えます。

そして、監視カメラの設置によって、相当数の犯罪の抑止が可能になったということが分かった時点で、「ある程度プライバシーが侵害されても、犯罪が激減するなら容認する」という考え方を多くの人が採用するだろうと考えられます。また、反対に、監視カメラの設置によっても犯罪の抑止効果が全く見られないということがわかったら、「プライバシーが侵害されてまで監視カメラを設置しなくてもよいのではないか」という意見が多勢になるはずです。そのため、監視カメラの設置の是非を考える上では、その設置のおける犯罪の抑止効果の度合いをみて総合的に判断するしか方法がないのではないかと考えられます。

まとめ

したがって、公共の場に監視カメラを設置することの是非については、カメラ設置によって犯罪の抑止効果がどの程度発生するのかを判断し、その抑止効果のメリットと、監視カメラ作動による個人のプライバシーの侵害のデメリットの比較衡量によって、全体として公共の場に監視カメラを設置すべきかどうかを判断することがよいのではないかと考えられます。

 

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