上智大学 文学部 哲学科 レポート等特定課題 2019年 小論文 解答例

■設問

なぜ私は哲学を学ぶのか。

 

■ 答案構成

議論の整理→哲学の在り方と学ぶ意義

問題発見→不要

論証→不要

解決策or結論→不要

解決策or結論の吟味→不要

 

■答案

議論の整理→哲学の在り方と学ぶ意義

哲学とは人間やその人生、周囲を取り巻く様々な事物の本質を探究する学問である。なぜ私は私なのか、この人生にどのような意味があるのか。目には見えないものの根源をどこまでも深く探っていくのだ。しかしこの学問を必要のないものだという考え方を持つ者もいる。たしかに哲学ははっきり言ってしまえば非常に面倒な学問であるかもしれない。本質を求めるとはいえどその正解はどこにも示されてはいないし誰が賛同してくれる訳でもない。ただひたすらに答えを求めて思考を深めていくだけだ。けれど私はこの本質を考える行為はどんな分野にも通ずる重要な思考術であると考える。たとえば経営に置き換えてみよう。経営とは利益を生み出す為の運営の仕組みであり、そこには会社と従業員の契約関係や、顧客や株主などの第三者の存在も絡まってくる。そこで一度経営の方向性について議論が巻き起こったとする。顧客数の増加を目指し薄利多売にするのか、既存の顧客に向けブランド力を強化し付加価値性で勝負していくのか、経営方法によって対立が発生するであろう。そこでの二者の方向性は全く別のベクトルを示しておりメリットもデメリットも互いに補完しあうような関係となってしまっているため、論争は平行線の一途をたどる。そこで新たな観点として取り入れるべきが、そもそもその会社にとっての経営はなにかという哲学的思考術である。経営という一つの観点においてその本質を明らかにすることは、経営方法を議論する前のスタートを明確にさせることに繫がる。よってその経営の本質を思考していくという行為は、経営方法を巡るための一つの確実な視点となり得るであろう。このように物事の本質を捉える哲学の思考術は、様々な物事に尺度を与えてくれる非常に便利なものなのだ。ここで一つ哲学の特長として見えてくるものがある。それは答えを多様性にすがらず、一つのところに終着させようとする姿勢だ。少し話は変わるが現在の日本は人間関係に疲弊しきった社会に思われる。厚生労働省が発表する年代毎の死因統計を見てみると15歳から39歳まで自殺で溢れかえっており、このことからいかに息苦しい人生を送る人々が多いのかが窺えよう。しかし私はその息苦しさの要因の一つとして、現在の多様性を受け入れるべきだという社会的な価値観の出現にあると考えている。現在はSNSなどの発達により、今まで見えてこなかったものが容易に検索することができ情報として入ってくる時代となった。それにより社会的にご法度とされてきた問題に声を上げやすくなったことはSNSの発達における良い影響といえる。しかしその一例としてセクシャルハラスメントやパワーハラスメントなどハラスメント行為を取り上げてみると、その被害者の本音のみならず個々人のボーダーラインの異なりが明らかになり線引きの難しさに議論が巻き起こっているのが現状だ。この際にしばしば飛び出す言葉が「人それぞれ」という考え方である。多様性の尊重は非常に素晴らしいことといえるが、この「人それぞれ」は多様性を尊重しているようで実は多様性の受け入れを強制しているように思われる。多様性を認めることと受け入れることは似ているようで大きく異なる。多様性を認めることは個々人によって微差がある考え方の存在を認めることである。しかし多様性を受け入れることは、そこからもう一歩踏み込んでくる姿勢であり、個々人の考え方を認めた上で理解や共感が必要になってくる姿勢といえる。たとえば先ほどのハラスメントの例でいうと、会話の中でプライベートな問題に踏み込んでくる人をセクシャルハラスメントとする人もいれば、会話は良くても男性が女性に触れたらハラスメントだと主張する人もいる。ここでその両者を考え方の多様性として受け入れなければならないとなるとどうなるのだろうか。すなわち会話で踏み込まれることをボーダーラインとする人は触れたことをボーダーラインとする人を受け入れなければならないのであって、そういう考え方を理解ができずとも共感する姿勢を見せなければならない。これは生理的にも精神的にも大変な苦痛を伴うものだ。なぜなら自身でボーダーラインとしているところがあるにも関わらず、その一歩先をボーダーラインとする人をよしとしなくてはならない。多様性を認めるだけであれば、その考え方の好き嫌いは関係ない。しかし多様性を受け入れるためには内心は違っても表面上の好き嫌いの提示が必要になってくるのである。ここで哲学の本質に立ち返りたい。哲学は物事の本質への探究であって、そこには誰もが納得できるような一つの答えを目標として探求していく。これは現在の多様性を受け入れる「人それぞれ」な社会とは真逆の行為である。「人それぞれ」を何とかして受け入れようというこの社会だからこそ、ただ一つの答えをめぐる哲学を今こそ学びたいのだ。そしてもう一つ哲学を学びたいと思い至った理由に人間や人生の存在意義への探求がある。当たり前に存在する人間の意義やその人間が送る人生の意味を懐疑的にとらえ見出そうとする学問などは哲学をおいて他にはない。人間はなぜ生まれて生きて死んでいくのか。その極めて原初的な過程すらも考えてみようという姿勢は、まさに人間らしさを表している顕著な欲求であろう。ここに先ほど述べた現在日本における自殺率の高さを絡めて論じていきたい。そもそも自殺という狂気的な行為はなぜ起こってしまうのだろうか。何もせずとも人間は寿命を経て誰しもが死んでいく。その中で自らその生命を絶つ行為は破壊的な衝動であり、哲学における人生の本質の答えでもあるのかもしれない。たとえば自殺が死因の一位である15歳から19歳という年代は殆どが学校教育の中に生活を置いており、学校内での人間関係が自身の関わる人間関係の大半を占めている。そこでしばしば発生する問題がいじめ問題だ。ここでいじめがなぜ起きるのかという問題に迫っていくときりがないかもしれないが、そこには原因の違いはあれ優劣が必ず存在している。つまりいじめる側といじめられる側のどちらが優れていてどちらが劣っているかという思考回路だ。これは当然学校という閉鎖的な環境下において生じている個体差でしかないため、学校の外を出れば逆転する可能性すらもある曖昧な物差しだ。しかしいじめられる者といじめる者にとっては世界のルールとでもいうべき絶対的なもので、そこには前述した多様性の受け入れすらも存在していない。いじめ問題は近年非常に問題になっている若者の自殺要因の一つで、ひとたびそういった事件が起きれば新聞やニュースなどで連日取り上げられ議論されている。しかしその議論の内容をよく見てみると、なぜいじめが起きたのか、なぜ防げなかったのかという問題についての堂々巡りが多い。責任の所在を明らかにしようという目的の上に議論が行われているのである。ここで哲学的思考を取り入れるとするならば、そもそもいじめとは何かということである。事件によってはそもそもいじめる側がいじめているという認識までには至っていなかったこともよく起こりうる。いじめというものの本質を誰も理解しないで、行為だけが発生しているのだ。そこでその原因を探り防ぐための対策を講じるのは、いじめそのものの本質を捉えようとすることとは少し軸の異なる話だ。哲学における本質とは理由でも要因でもなく、それは何かという直接的な問いである。そこが考えられない限りは本質に迫るとは言い難く、本質を無視した行為に転化していってしまう。これは20歳から39歳の年代における職場での人間関係も同様に考えられるだろう。この年代に入っていくと失業や職場の人間関係を苦にしての自殺が増えてくる。その中で失業や人間関係を理由に自殺するということは、人生を送る意味が仕事や潤滑な人間関係にあるということに置き換えられる。そこで今一度哲学の最大のテーマの一つである人生の意義について見直してみたい。ここまで述べたように自殺を導くいじめや失業、パワーハラスメントなどは他者の存在によって自身の平穏が脅かされる行為である。しかしその行為が人生の意義すらも踏みにじるために人間は自殺を選んでしまうのだが、これは哲学で人生の意義を探究する上で非常に興味深い事例である。人間はなぜ生まれて生きて死んでいくのか、この哲学的な問いには今のところ一つとして答えはない。けれどなぜ死を選んだのかという答えは自殺という形で沢山転がっている。それは一転してなぜ生きることを選ばなかったのかという答えにも直結し、さらには生きる意義についての見解とも成り得る。人生の意義を考える上で生と死の本質を考えることは切っても切れない関係にあり、人生の意義を見つめることは生死を見つめることと同等になっていく。だからこそ自殺の盛んなこの現代日本において哲学を学ぶことは、とても有意義なことに思えるのだ。もしかしたら哲学の一つの答えに向かって考え抜くという姿勢が強制的に見えてしまう場合もあるかもしれない。たしかに多様性が受け入れられている現代において真っ向から一つの答えに向かう哲学は、画一的な考え方に映るだろう。しかし最後に付け加えておきたいのが哲学の求める一つの答えとはそもそも何かという問題である。これは決して絶対主義のもとに主張されるようなものではなく、あくまで過半数の人々が納得できるようなところに着地させるのが大前提として成り立っている。哲学は人間のための学問である。本質を探ることはあくまで共通理解を得るための手段であり、より揃った理解の上に物事を推し進めていこうとする姿勢を伴っている。ある答えのない物事の根源や欲求において、多くの人々が納得しうる答えを導きだそうとするのが哲学だと私は考える。ゆえに哲学を学ぶことで哲学的思考を身に着けて、考える力と深める能力をいくつかのテーマに沿いながら培っていきたいと思うのだ。

 

(計4043字)

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