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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 2007年 解説

・ 問題文

設問1  筆者は、「包囲されたサラエヴォで『ゴドーを待ちながら』を上演すること」をサルトルの「アフリカで子ども が飢えているときに文学に何ができるか」という問いに対する「一つの、根源的な応答にほかならなかった」と考えている(傍線部①)。それはどのような理由によるのか、一八〇字以上二〇〇字以内で説明しなさい。

設問2  第二次世界大戦時にみずからのユダヤ的出自のゆえに亡命を余儀なくされたドイツ人哲学者テオドール・アドルノは、みずからの体験と多くのユダヤ人を襲ったはるかに苛酷な運命をふまえて、「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」と述べた。これとは対照的に、筆者は「「アーミナの縁結び」も「ヘールシャム」も、アウシュヴィッツ、そしてヒロシマへの応答でもある」(傍線部②)と述べている。両者をふまえて、文学は「「戦争」の対義語」 たりうるかについて、四八〇字以上五二〇字以内であなたの考えを述べなさい。
□ 問題の読み方
設問1
ある行動を、ある思想・概念で捉えようとしている、つまりある目に見える行動を、具体例を、ある目に見えない概念、抽象論をもって捉えようとしている問題である。
質問から察するに、「包囲されたサラエヴォで”ゴトーを待ちながら”を上演すること」は、サルトルの「アフリカの子供が飢えている時に文学はなにかできるか」という問いに対する「答えのようなもの」であることはわかる。包囲されたサラエヴォで”ゴトーを待ちながら”を上演することによって、なんらかの困難に直面している人を救おうとしたことがわかる。それがどうして「一つの根源的な応答になりうる」のか?という問題を主題として論じることが、この問題に答えるということである。本筋から逸れてはいけない。
設問2
そもそも答えなければならない問題は文学は「”戦争”の対義語」であるかどうかという問題である。この本筋から逸れることがあってはならない。
その上で、なにを前提条件として参考にするかというと、ユダヤ系ドイツ人の哲学者の「アウシュビッツの後に詩を書く事は野蛮である」という考え方と、それには対照的に「”アミーの縁結び”も”ヘールシャム”もアウシュビッツ・ヒロシマへの応答でもある」とする筆者の立場である。
この二つの設問は、片方は説明しろと書いてあり、片方は論じろと書いてあるが、それぞれの意味の違いに着目すべきだ。説明しろというのは、文中の言葉を使って論じること、論じろというのは文中の言葉をふまえながらも、自らの考えを披瀝することである。この二つをうまく使い分けなければならない。

□ 課題文の読み方
・ イスラエルによるパレスチナ侵攻の話
・ イスラエルの空爆下でいま、レバノンの人々が殺されているとき、文学にいったいなにができるのか?
・ 文学とは飢えたもののためにこそある。
・ この逸話は、サルトルの問いにあらまれたある種のエスノセントリズム(自民族中心主義)、ないしはオリエンタリズム(西洋の自己中心的な思考様式)を明らかにしてくれる。
・ その前提は、文学作品を享受するのは「われわれ」であって、決して「彼ら」ではないということ。
・ 非常事態に生きる者たちにとって、必要なのは、あくまでも空腹を満たすパン、あるいはつつがなく生きる平和であって、文学などではないともし考えるとしたら、文学とは平時を生きる者のみに意味有るもの、彼らだけが堪能することを許されたぜいたく品ということになる。
・ 日常それ自体が狂気と化した情況のなかで、だからこそ、本を読む事が希求されていた。
・ いつにも増して、なににもまして切実に、生き延びるために、人間にとって文学が真に生きる糧となるのは、平時を平時として生きるものたちにおいてなのではなく、私たちにとっての例外的情況を日常として生きるこれらの者たちにおいてなのではないか。(そうである。)
・ 「アミーナの縁結び」……もうすでに死んだ人間の縁結びに奔走する精神失調者の話。
・ 「アミーナの縁結び」は狙撃によって亡くなった人の人間としての尊厳を回復する営みという点に置いて、アミーナの縁結びとは文学の意味すること。
・ 人間らしく生きることを否定されているからこそ、アミーナの愛する者たちは「縁結び」を必要とする。
・ 私たちにとっての例外的情況を日常として生きる者たちは、それゆえにこそ、ほかの誰にも増して文学を必要としているのだ。
・ やむを得ない犠牲、の一言で人間の死が正当化されるなかで、一人一人の人間の尊厳を尊重しようとする文学とはまさしく「戦争」の対義語である。

□ 解答の指針
設問1
まず、この手の説明問題としては、この文字数は長いことに気付こう。
答えるべき問いは、
質問から察するに、「包囲されたサラエヴォで”ゴトーを待ちながら”を上演すること」は、サルトルの「アフリカの子供が飢えている時に文学はなにかできるか」という問いに対する「答えのようなもの」であることはわかる。包囲されたサラエヴォで”ゴトーを待ちながら”を上演することによって、なんらかの困難に直面している人を救おうとしたことがわかる。それがどうして「一つの根源的な応答にならなかった」のか?という問題を主題として論じることが、この問題に答えるということである。本筋から逸れてはいけない。
まず、サルトルの「アフリカの子供が飢えている時に文学はなにかできるか」という問いは、文学作品を享受するのは「われわれ」であって、決して「彼ら」ではないということを暗にはらんでいる。その前提は、文学作品を享受するのは「われわれ」であって、決して「彼ら」ではないというある種のエスノセントリズム(自民族中心主義)、ないしはオリエンタリズム(西洋の自己中心的な思考様式)である。
もしそれが正しいならば、非常事態に生きる者たちにとって、必要なのは、あくまでも空腹を満たすパン、あるいはつつがなく生きる平和であって、文学などではないともし考えるとしたら、文学とは平時を生きる者のみに意味有るもの、彼らだけが堪能することを許されたぜいたく品ということになる。
しかし、実際には、日常それ自体が狂気と化した情況のなかで、だからこそ、本を読む事が希求されていた。なぜならば、文学とは、一人の人間として尊重されずに亡くなった人の人間としての尊厳を回復する営みだからである。そういう意味でいうと、包囲されたサラエヴォで”ゴトーを待ちながら”を上演するという試みは、”ゴトーを待ちながら”を戦場で上演することそのものが一人の人間として尊重されずに亡りそうな人の人間としての尊厳を回復する営みなので、根源的な営みになるということである。
ここでは、説明問題ではあるが、一応論じる問題と同じフォーマットをつかって、説明していこう。
1. 前提条件
→ サルトルの「アフリカの子供が飢えている時に文学はなにかできるか」という問いは、文学作品を享受するのは「われわれ」であって、決して「彼ら」ではないということを暗にはらんでいる。
2. 問題の発見
→ 「包囲されたサラエヴォで”ゴトーを待ちながら”を上演すること」はなぜ「一つの根源的な応答になりうる」のか?
3. 原因の分析
→ 日常それ自体が狂気と化した情況のなかで、だからこそ、本を読む事が希求されていた。なぜならば、文学とは、一人の人間として尊重されずに亡くなった人の人間としての尊厳を回復する営みだからである。
4. 解決策の提案
→ ”ゴトーを待ちながら”を包囲された戦場で上映することそのものが、戦場で文学が求められる理由である、一人の人間として尊重されずに亡りそうな人の人間としての尊厳を回復する営みなので、根源的な応答にはなりうるということ。
5. 解決策の吟味
→ 記述の正確性を検討
これを、きちんと分かる形でまとめることは難しそうだ。次は、結論、根拠、具体例のフォーマットでまとめることを考えよう。
1. 結論
→ ”ゴトーを待ちながら”を上演するという試みは、サルトルの問いの根源的な応答にはなるということ
2. 根拠
→ ”ゴトーを待ちながら”を包囲されたサラエヴォで上映することは人間の死が正当化されるなかで、一人一人の人間の尊厳を尊重しようとする試みだから。
3. 具体例
→ ”ゴトーを待ちながら”包囲されたサラエヴォで上映することそのものが一人の人間として尊重されずに亡くなった人の人間としての尊厳を回復する営みであるため。
設問2
そもそも答えなければならない問題は文学は「”戦争”の対義語」であるかどうかという問題である。
1. 前提条件
→ ユダヤ系ドイツ人の哲学者の「アウシュビッツの後に詩を書く事は野蛮である」という考え方と、それには対照的に「”アミーの縁結び”も”ヘールシャム”もアウシュビッツ・ヒロシマへの応答でもある」とする筆者の考え方
2. 問題発見
→ 文学は「”戦争”の対義語」であるかどうか
3. 原因分析
→ やむを得ない犠牲、の一言で人間の死が正当化されるなかで、一人一人の人間の尊厳を尊重しようとする文学
(具体例)
・ 「アミーナの縁結び」は狙撃によって亡くなった人の人間としての尊厳を回復する営みという点に置いて、アミーナの縁結びとは文学の意味すること。
・ 人間らしく生きることを否定されているからこそ、アミーナの愛する者たちは「縁結び」を必要とする。
・ 私たちにとっての例外的情況を日常として生きる者たちは、それゆえにこそ、ほかの誰にも増して文学を必要としているのだ。
4. 解決策
→ 文学とはまさしく「戦争」の対義語である。
5. 解決策の吟味
→ サルトルの考え方からの解説

□ 模範解答
設問1
”ゴトーを待ちながら”を上演するという試みは、サルトルの問いの根源的な応答にはなりうる。なぜなら、この作品を包囲されたサラエヴォで上映することは、戦争により人間の死が正当化されるなかで、一人一人の人間の尊厳を尊重しようとする試みであるからである。こうした環境で、劇を上映することにより犠牲者が出たら、その犠牲者はやむをえない死としてカウントされる。しかし、こうした環境でも演劇をすることは、たしかに戦争によって失われている一人一人の人間の尊厳を回復させようという試みなのである。なぜなら、仮に彼らが戦火でなくなることがあっても、彼らは芸術を鑑賞することにょって一人の人間として亡くなることができるからだ。(195文字)
設問2
文学は「”戦争”の対義語」である。
なぜならば、「戦争」ではやむを得ない犠牲、の一言で人間の死が正当化されるなかで、「文学」は一人一人の人間の尊厳を尊重しようとするからである。
たとえば、「アミーナの縁結び」は狙撃によって亡くなった人の人間としての尊厳を回復する営みである。人間らしく生きることを否定されているからこそ、アミーナの愛する者たちは「縁結び」を必要とする。私たちにとっての例外的情況を日常として生きる者たちは、それゆえにこそ、ほかの誰にも増してこうした文学を必要としているのである。
非常事態に生きる者たちにとって、必要なのは、あくまでも空腹を満たすパン、あるいはつつがなく生きる平和であって、文学などではないともし考えるとしたら、文学とは平時を生きる者のみに意味有るもの、彼らだけが堪能することを許されたぜいたく品ということになるが実際には、非常事態に生きる者たちにとってこそ文学は必要なのだ。
戦争が、やむを終えない犠牲という表現で人間の死が正当化する中で、文学が一人一人の人間の尊厳を尊重しようするならば、文学は「”戦争”の対義語」たりうるのである。

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