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年中無休の家庭教師 毎日学習会

十年間不登校から合格!

Q.10年間学校に行かずに引きこもった人は慶應に合格できるか?

A.具体的な目標設定、現状認識、そのギャップを埋めるための的確な方法設定、それらを支える圧倒的な勉強量があれば合格できる。

十年間不登校・二年間浪人からの慶應SFC合格

 この体験記を読んでいる受験生に対して私自身が何か直接的な手助けをすることは出来ないけれども、私のように何とかして乗り越え進んできた人も居るということを示すことは、多少なりとも自らを奮い立たせる勇気を出すきっかけになるのではと考えている。

 どうか読んだ人が少しでも合格に近づきますように。

小学4年生からの不登校

 時間は私が小学4年生であった時まで遡る。私は学校という雑多な環境が好きではなかった。最も嫌いだった授業は道徳だ。あんな先生のご機嫌取りのための授業なんて無くなればいいと思っていた。作文も嫌いだった。「今回の出来事に関して思ったことを書きましょう」というようなお題を与えられたときに、「全くもってくだらないものだったと思います」と書けない、書くと酷評される窮屈さがたまらなく嫌だった。

 そうこうしているうちに私は学校に行かなくなった。 学校に行かなくなると何が問題かというと、当たり前だが学校の勉強についていけなくなる、たまに行ってみても何をやっているか全くわからない、字が全く書けなくなる、外から聞こえてくる子供の声が恐怖そのものになる、などである。みんなが当たり前に出来ていることが自分には出来ないという圧倒的な劣等感、社会不適合感、etc、自分が究極的に世界に存在してはいけないという気持ちになってしまうのだ。

 まだ学校に行っていたころ、ある自分を嫌っていた友人が私の襟首を掴んで私を壁に押し付けこう言った。「お前が居ても居なくても世界は何も変わらない」。私は家に帰って一人で泣いた。小学校の卒業式には出たが、同級生が壇上で夢を語る姿を体育館の一番後ろで眺めているだけで終わった。 中学校に上がるタイミングで学校に復帰した。自分の中で「このままではダメだ」という感情があり、自分を変える丁度いいタイミングだったからだ。そして半年ほど通ったのち、夏休み明けからまた不登校になった。

 学校の楽しみ方なんて全くわからなかったし、同級生とどうコミュニケーションを取ればいいかわからない。そもそも小学校でまともに勉強していない人間が中学校の授業についていけるわけもなかった。不登校生活は卒業まで続いた。

 ここまで読んだ人ならこの先の生活は想像に難くないだろう。形ばかりの高校受験を通り過ぎ底辺校に受かった私は、一日も登校せずに通信制高校に編入した。無論その通信制高校にも全く行かずに卒業した。 引きこもっている間の私は、精神・肉体ともに惨憺たるものだった。自分の存在価値など一ミリも信じられない。親は酒を飲んで口論しており、そのたびに心をナイフでえぐられているような気分になる。髪はどこまでも伸び、目は窪み、頬はこけている。生きている意味など無い。どのように死のうか考える日々が続く。なんとかして自分の居場所を見出そうとネットゲームに手を出し、さらに社会から遠ざかっていった。

引きこもっていてもいいか……

 引きこもり生活において一番まずいのは、「まあ引きこもっててもいいか」と思ってしまうことである。私にもそういう瞬間があった。例えば皆が学校に行かない長期休みの期間は、自分が社会に存在してはいけない理由が消えた気がして、なんとなく心が軽くなった。そして休みが終わるといつもと同じように心が沈んでいくのである。そうした体験を10回近く繰り返した。

 高校3年の大学受験期。大学受験は自分の進路を変える最後のチャンスだと考えていた私は、家の目の前にある小さな個人経営の塾に通い、受験勉強を始めた。といっても通い始めたのは3年の11月からで、受験勉強を始める時期としてはかなり遅い部類に入るスタートである。受験生には簡単すぎるほど簡単なFランク大学の過去問を東北大医学部の大学生に教えてもらう。彼自身「なんでわからないのかわからない」と考えていることが手に取るようにわかった。過去問に平行してセンター試験対策もしていたが、「三平方の定理ってなに?」というレベルだった。 結果はといえば、センター試験英語は100点、数学ⅠAは30点、という結果だった。

Fランク大学の合格

 Fラン大学には受かった。親はとにかくFラン大学に行くべきだと私に説いたが、そんな大学に行ってもたかが知れていると考えた私は、さて来年はどう過ごすべきかと考えていた。 そのとき、東日本大震災が起こった。宮城に住んでいた私はもろに被災し、水道は不通、電気も繋がらず、残されたのは石油ストーブのみという状況に追い込まれた。いつまでも雪が振り続ける、寒い冬だった。

 震災があったせいで、大学に対する手続き全般の締め切りが大幅に延期された。その期間を使って私は、なんとかして現状を抜け出す方法がないか考え始めた。できないなりに勉強した結果、少なくとも以前よりは点数が伸びているという事実があったため、可能であればもう一年勉強に費やしてもっとよい大学に入りたいと考えていた。

『毎日学習会』との出会い

 しかし、そのためには親を説得する必要があった。親にしてみればどんな大学でも入ってくれたほうがありがたい、なんとかそこで過ごしてほしいと思っていただろう。それは裏返せば小学4年生から培われてきた息子に対する信頼感の欠如であった。 私が住んでいた地域は都心であったため、比較的早く電気が復旧した。すぐさまパソコンをつけると、私は予備校を検索し始めた。しかし、普通の学校にすら行けていなかった人間が、果たして予備校に行くことができるのか? そうしたときにたまたま見つけたのが林先生のSkype個別指導塾であった。

 自分の現状、なんとかしたいという旨を綴り、メールを送ると、すぐに返事が返ってきた。

「大丈夫です。Skypeはやっていますか?今からでも話しましょう!」

 今から思えば、私の人生が大きく変わる瞬間であった。林先生に出会っていなければ、例え予備校に通ったとしても今の大学には受かっていなかっただろう。 なんとかして親を説得し、勉強が始まった。一番初めに行ったのは、目標とする大学と学部の設定である。

 なぜか?目標とする地点が無ければ、そこにどのように到達すればいいのかわからないからである。それと同時に、いつまでに到達するのかという期間も設定した。私の場合だと、慶應義塾大学経済学部、1年間、という設定であった。

 大学と学部の決定の仕方は、正直なところそれほど考えたわけではなかった。

「今の状態を抜け出したいです。可能なら、偏差値60以上のところまで行けたら、抜け出せたと思えるような気がします」

林「なるほど。じゃあ慶應目指そっか!」

「は、はい」

慶應に行きたい

 この時の私には、自らの口から「慶應に行きたい」というようなことを言うだけの自信がなかった。しかし林先生自身が宮城出身で慶應に受かっているということもあって、なんとかして自分を奮い立たせ、勉強を始めた。

 まず始めにやったのは、リンガメタリカの英文読解である。一日5ページというペースで読解を進めた。まず何がSで何がVなのか、文章はどこで切れるのか、この単語の意味は何なのか、徹底的に分解して読み込んだ。センター英語との差の激しさから、朝の4時までかかる日もあった。1日16時間は読解に費やしていたと思う。そして読んだ内容を元に朝の8時から2時間授業をする、という生活が1ヶ月続いた。

毎日学習会で身についた英語の基礎

 これによって、私は知らない間に読解力の基礎がしっかり身についていたのである。英文を読めない理由は、単純に英単語がわからないだけでなく、文章という意味のまとまりがどのように構成されているかわからないからである。それを一つ一つ分解していったことによって、文章の構造を理解するための基礎が培われた。

 次に行ったのが、頻出英文法・語法問題1000である。これは各大学入試の問題から4択問題などの文法問題を集めたものであり、単元ごとに区切られているため自分の弱い文法のみを集中的に勉強できる良書であった。これを始めから終わりまで何周もすることによって、文法問題に関する基礎を身につけた。その際に自分が間違えた部分に印をつけ、新しい問題を解くのにプラスして間違えた問題を解き、改善していった。

 文法問題と同時並行で行っていたのが、リンガメタリカの音読である。音読は英文読解において私が最もおすすめする勉強方法である。人が何かを記憶する際には、五感で知覚し、その内容が短期記憶になり、さらには長期記憶へと移っていく。その一番始めの知覚の段階でより多くの情報が得られたものほど、しっかりと長期記憶へと定着していくのである。その点音読は、眼で文章を見て、その内容を口に出して、さらに耳で聞くという勉強法であるため、一般的な受験生がやりがちなただ書きなぐるだけの単語暗記の何十倍も効率が良いのである。

 他の受験生が3ヶ月かけて覚える単語を、私は1ヶ月の音読によって全て暗記することが出来た。ここまでやって実際に経済の過去問を解いたところ、7割程度の正解率を叩きだした。

 小論文に関しては、リンガメタリカをやる際にさまざまなことについて議論していたため、思考の土台はできており、後はそれをどのように文章化するかという段階であった。対策として行ったのは、思考のフレームワークの徹底的な叩き込みである。何が理想なのか、それに対して現状はどのようになっているのか、ではそのギャップをどのように埋めていくのか、その際のコストベネフィットは、などなど、問題解決の際のフレームワークを身につけていった。

困難だった数学の学習

 一方で数学はといえば、正直なところあまり伸びなかった。これはそもそもの勉強量が全く足りていなかったからだと考えられる。科目として数学が嫌いだったわけではないのだが、英語自体は受験以前も触れる機会があったのに対して、数学は全く機会がなく、考えるための土台すらできていなかった。

慶應SFCへの進路変更

 そのため、夏の模試が終わった時点で、目標としていた慶應経済ではなく、慶應SFCへと学部を変えて目指すことにした。SFCは英語と小論文の2科目であり、その2科目とも経済のために勉強していたので、今やっている勉強の延長で目指すことが可能だったのである。 参考書をひと通り終えた後は、ひたすら過去問を解き続けた。

 特にSFCは英語も小論文もかなり難しく、一筋縄ではいかなかったが、それでもそれまで培ってきた基礎力を元に少しずつ応用問題に取り組んでいった。テスト直前には林社長のオフィスでの勉強合宿に参加し、最後の追い込みをかけた。

慶應SFC不合格

 結論から言えば、私はSFCに落ちてしまった。環境情報学部の英語で8割を記録したものの、小論文で点数を取ることが出来なかったのである。環境情報学部の小論文は総合政策学部よりも発想力を持った上でしっかりと論理を組み立てる力が問われるものであり、私の苦手とするところであった。

 落ちた時の私は、糸が切れた操り人形のようになっていた。本当に体が動かず、何も考えられない状態であった。林社長同伴で地元の仙台へ戻る際にも、両親に対してどのような顔をして会えばいいのか全くわからなかった。

 林社長が両親に対し結果について謝った時、私は違うと思った。勉強していたのは私であり、落ちたのも私であり、責任も私にあった。ただ、そのためのお金を出してくれていたのは両親であったため、謝らなければいけない立場だったのである。

 落ちたことに加えて更に辛かったのは、1年間の努力を親に認めてもらえなかったことであった。センター英語200点中100点しか取れない状態から、SFCの英語で8割を取るまでになったこと、自分が考えていることをしっかりと整理して人に伝える力がついたこと、それらを身につけるために砂をかむような勉強を続けてきたことを理解してもらえなかったのである。

浪人二年目

 その事実が私の心を酷く傷つけ、もう一年勉強に費やすということが決まった後も、私の心を蝕み続けた。 正直言って浪人2年目の記憶はとても薄い。限界まで体力も精神力も絞り出して勉強を続けた結果の不合格、最も近い親にも認められないという結果が私に与えた影響は非常に大きく、受験をする前の生活に戻ってしまっていたのである。

 11月に勉強を再開するまで、何もしない日々が続いた。 勉強を再開しても、自分が合格しているイメージを持てなかった。しかし、一度全力を出して負けたことによって、その時は自分の実力というものを直視することができるようになっていた。ただ感情の起伏を極力抑えながら、ただ淡々と日々の勉強を続けるという姿勢を持つことが出来たのである。勉強の内容に関しては特筆すべきことはない。実際のテストの時点にどのような能力が必要なのかということを整理しながら、日々の勉強をこなしていった。

 結果として私はなんとかSFCへと合格し、この体験記を書いている。私の表現力の問題もあるが、文章にしてみると非常にあっけないものである。浪人中には何度も精神が落ち込み、自分には価値がない、もう死んでしまおうかと何度思ったかわからないが、今にして思えばなんとかしてしがみつき続けたことが合格に繋がっているのだと感じている。常に高いパフォーマンスを出し続けられることは理想ではあるが、実際問題とても調子の悪い時、結果が出ない時は必ずやってくる。そうしたときに重要なのは、結果を淡々と受け止めつつ、いつも通りのことをただやっていく継続力なのだと、もうすぐ大学3年になる今になって実感している。

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