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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 総合政策学部 小論文 2008年 過去問

2008年 慶應義塾大学 総合政策学部 小論文 課題文

問題 近年、日本で初等・中等教育のあり方が論議の的となっていますが、そもそも教育とは何なのでしようか。教育という営みの本質をめぐっては古典としての価値を有する文章が数多く存在します。

 資料1は、イマヌエル・カント(1724-1804)が18世紀後半にケーニヒスベルク大学でおこなった、「教育学」の講義のための覚え書きからの抜粋です。

 資料2は、ジョン・デューイ(1859-1952)が1915年に上棒した著作からの抜粋で、もともとは彼が1899年におこなった講演の記録です。資料3は、ハンナ・アーレント(1906-1975)が1968年に上棒した著作からの抜粋です。この部分が初めて発表されたのは1958年でした。

 一方、今から約30年前、詩人の谷川俊太郎をはじめとする人びとが当時の文部省学習指導要領から離れた見地に立ち、実験的に小学校一年生用の国語の教科書を作成したことがありました。

 資料4は、その実験的教科書「にほんご」(福音館書店)の中の、「といかける・こたえる」をテーマとするページに掲載された詩です。資料1から資料4までを読んで、以下の問いに答えなさい。

問1 教育する者(親・教師)と学習する者(子供・生徒)の関係について、資料1、資料2、資料3のそれぞれから読み取れるカント、デューイ、アーレントの考え方は、どのような点で共通し、どのような点で食い違ったり、対立したりしていますか。900字以内で記しなさい。

問2 教育する者(親・教師)と学習する者(子供・生徒)の関係をめぐって、資料1、資料2、資料3を参照しつつ、資料4についてのあなたの考えを600字以内で記しなさい。

資料1

 人間とは教育されなければならない唯一の被造物である。そして教育とは,「養育」,「訓育」,および「人間形成をともなった知育」である。われわれはそのように理解する。したがって,人間はまず最初は乳児であり,次に教え子となり,そして生徒となるわけである。(中略)

 訓育は,動物性を人間性に転換してゆく。動物は本能によって直ちにそのすべてを実現している。それに対して人間は,人間固有の理性を必要とする。なぜなら,人間は本能を動物のようには持っていないので,みずから行動プランを立てなければならないからである。しかしながら人間は生まれ落ちてすぐに行動プランなど立てられない。まったく未開で未発達のままこの世界にやって来るのだから,他の人が代わりにプランを立ててやらなくてはならない。(中略)

 訓育とは,ある人間が動物的衝動によってみずからの本分である人間性から逸脱することがないように,予防することである。たとえば,人間が激情に駆られたり思慮を欠いたりして危険をおかすことがないよう,人間に制約を課すことになる。したがって,訓育は消極的なものであって,つまりは人間から野性的な粗暴さを取り除く行為にすぎない。それに対して知育こそ教育の積極的な部分だといえる。訓育は子どもの頃から早期に行わなければならない。そこで子どもはまず最初に学校に送られるが,それは必ずしも学校で何か知識を学んでほしいからではなく,むしろ静かに着席するとか,指示されたことをきちんと守るとかいった習慣を身につけさせよう,将来子どもが思い付いたことを何もかもむやみにすぐ実行するようになることを避けよう,といった意図によるのである。(中略)

 人間は教育を受けて初めて人間になることができる。人間とは,教育が素材の状態にある「人間」から作り出すものにほかならない。犬や馬を疑けることが可能なように,人間もまた射けることができる。しかしながら射けることだけではまだ十分ではないのであって,とりわけ重要なのは子どもがみずから思考することを学ぶことである。(中略)

 教育の最も重要な問題のひとつは,法的強制に服従することと自己自身の自由を使用する能力とをいかにして統合できるのかということである。というのも,強制は必要不可欠だからだ!私は,強制を行いつつ同時に,自由を使用する能力をどのように開発してゆくことができるのだろうか。私は,私の生徒を慣らせて自由を束縛されることに耐えられるようにしてやると同時に,ほかでもないその生徒に,みずからの自由を正しく使用するように指導しなければならない。そうしたことが行われなければ,すべての教育活動は単なる機械論にすぎず,教育を終えた者でもみずからの自由を使用できるようにならない。他者に依存しないように自立し自制してみずから生計を立てることの困難さを認識するようになるためには,生徒は早い時期から社会の避けがたい抵抗を感じ取る必要がある。

 この場合に留意されなければならないことの一つとして,次のことがある。すなわち子どもに強制を加えても,それは子どもが,自分自身の自由を使用できるように指導するためであるということ,また子どもを教化するのは,子どもがやがては自由になることができ.換言すれば,他者の配慮に依存しなくてもよいようになるためであるということを,子ども自身に対して明確に示す必要がある。(中略)

 学校は強制的な教化の場である。あらゆることを遊びと見なすように子どもを習慣づけてしまうのは,きわめて有害である。子どもは休息する時間を持たなければならないが,子どもにとっては作業をする時間も必要である。子どもは何のためにそうした強制が有益なのかをすぐには洞察できないにしても,将来的にはその強制が非常に有益であることに気が付くであろう。「これは何のためになるのか,そしてまたそれは何のためなのか」という子どもの問いかけにつねに一つひとつ答えようとするならば,子どもの無遠慮な好奇心をいちじるしく助長するだけであろう。教育は強制的でなければならないが,しかしそうであるからといって奴隷的であってはならないのである。

(イマヌエル・カント「教育学」加藤泰史訳(『カント全集17論学・教育学』岩波書店(2001)所収)から抜粋,編集)

資料2

 私はここまでの話で,旧教育の類型的な諸点,すなわち,旧教育は子どもたちの態度を受動的にすること,子どもたちを機械的に集団化すること。カリキュラムと教育方法が画一的であることを,いくぶん誇張したかもしれないが,明らかにしてきた。旧教育は,これを要約すれば,重力の中心が子どもたち以外のところにあるという一言につきる。重力の中心が教師,教科書,その他どこであれ,とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。そうである以上,子どもの生活はあまり問題にならない。子どもの学習については多くのことが語られるかもしれない。しかし学校は,子どもが生活する場所ではないとされる。ところが今,大きな変革がわれわれの教育に到来しつつある。重力の中心が移動するのである。コペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときにも比することのできる変革であり,革命である。このたびは子どもが太陽となり。その周囲を教育の諸々の営みが回転する。子どもが中心で,その中心のまわりに諸々の営みが組織されるのである。

 理想的な家庭,すなわち,両親が聡明で,子どものために最も善いものを見分け,必要なものを与える能力をもっているような家庭が,ここにあるとしよう。そんな家庭では,子どもは,家族のあいだの世間話やその家族のしきたりをとおして,物事を学ぶにちがいない。子どもはいろいろと発言するだろう。親子のあいだで質問が交わされ,さまざまなことが話題となり,かくして子どもは不断に学習する。子どもは自分の経験を語り,自分が考え違いをしていれば訂正する。さらに,子どもは家庭のいろいろな仕事に参加することで,勤勉,秩序,および他人の権利と思想を尊重する習慣を養い,さらには,自己の活動を家庭全体の利害に従属させるという基本的な習慣も身につける。理想的な家庭であるからには,当然仕事部屋があって,子どもはそこで構成的な本能を働かせることができるにちがいない。小さな実験室もあって,その実験室で子どものさまざまな疑問が解答へと導かれるであろう。子どもの生活は戸外に向かって拡大し,庭園にまで,近くの田園や,森林にまで至る。子どもは,遠足に出かけ,歩き,語る。そのとき,戸外の広い世界が彼の前に開かれるであろう。

 もしわれわれが,いま述べたすべての事柄を組織化し,一般化してみるならばそこに理想的な学校ができあがる。この理想的な学校の創設に,神秘的なところなど一つもないし,教育学や教育理論の上での新奇な発見もない。それは単にたいていの家庭で何らかの理由から比較的貧弱に,偶然的におこなわれていることを,組織的に,かつ大規模で,よく考えられた,ちゃんとした方法でおこなうという課題にすぎない。まず第一に,理想的な家庭が拡大されねばならぬ。子どもの生活を最大限自由で,最大限豊かな社会生活たらしめるために,子どもはもっと大勢の大人と,そしてもっと大勢の子どもと接触させられねばならぬ。また,家庭という環境の中の仕事や関係は子どもの成長のために特に選ばれたものではない。それらの主たる目的は他にあって,子どもがそれらから獲得しうるものは付随的なものである。ここからして,学校が必要だということがわかる。学校においてこそ,子どもの生活がすべてを支配する目的となるのである。子どもの成長を促進するあらゆる手段がそこに集中される。学習はどうなのかと,人は問うだろう。たしかに学習はおこなわれる。しかし,生活することが第一だ。学習は生活をとおして,また生活との関連においておこなわれる。このように子どもの生活をすべての中心として組織化するならば子どもは,何はさておき,たくさんの机が整然と並べられた教室に着席し黙って教師の話を聴く存在である,ということにはならない。否,まったくその反対である。(中略)

 子どもはすでに走りまわり,ものをひっくり返し,あらゆる種類の活動を始めている。子どもはすでに激しく活動的であるのだから,教育とは子どもの諸々の活動をとらえ,それらの活動に方向づけを与えることなのである。指導によって,つまり,組織的に取り扱われることによって,子どもの諸々の活動は,散漫であったり,単に衝動的な発現のままに任せられていたりすることをやめて,諸々の価値ある結果へと向かうのである。(ジョン・デューイ『学校と社会』宮原誠一訳,岩波文庫(1957)から抜粋,編集)

資料3

 新しい学習理論は遊びを重視し,遊びと仕事(勉学)との区別をできるかぎり消し去ることに特別の重要性を与え,それによって教育の危機を招いた。遊びは,子供が世界のなかで行動するにあたって,最も生き生きとし,かつ最も本人にふさわしいあり方であり,また子供としての存在から自発的に展開される唯一の活動形態であると見なされた。旧来の学習は子供に受け身の態度を強い,子供本来の遊びのイニシアティヴを断念させてしまう,と批判された。(中略)

 人間が認識し,かつ理解できるのは自分自身が実行したことだけだとするプラグマティズムの基本前提を,教育,つまり子供の学び方に適用すると,子供の世界が絶対化されてしまう。子供の独立を尊重するという口実の下に,子供は大人の世界から締め出され,人工的に子供自身の世界に閉じ込められる。こうして子供を閉じ込めることがなぜ人工的であるかといえばとりわけ,教えることと学ぶことのうちに存在する大人と子供の間の自然な関係を断ち切るからであり、同時に、子供が人間に成長しつつある存在であること,子供時代が過渡的段階、成人性への準備段階であることをごまかすからである。(中略)

 子供がまだ世界を知らないならば,子供は徐々に世界へと導かれねばならない。子供が新参であるならば,その新参者が現にあるがままの世界に入って真価を発揮できるように配慮されねばならない。いずれにしても教育者は若者に対して,既存の世界を代表する立場にある。この責任は教育者に恋意的に押しつけられたものではない。この責任は,若者は絶えず変化する世界へと大人によって導かれるという事実に含意されている。世界への共同責任を負うことを拒否する人は,子供を持つべきではなく、子供の教育に参加することは許されない。

 教育において,世界へのこの責任は権威という形をとる。教育者の権威と教師の資格は,同一の事柄ではない。教師の資格は,世界を知り,それを他人に教えることができる点にあるのに対し,教師の権威は彼がその世界について責任を負う点に基づく。子供と向かい合うとき,教師は大人の住民全体の代表であるかのごとく,子供に事を細部にわたって示し,言うのである。これがわれわれの世界だ,と。(中略)

 近代社会における教育の困難は,その本来の性質からして権威や伝統なしには成立し得ない教育という営みを,権威を骨組みとするのでもなければ,伝統を支えとするのでもない社会の中で実施しなければならないという事実にある。このことは,教師や教育者ばかりでなく,われわれも子供や若者とともに一つの同じ世界に生きているのである以上,われわれ全員が,彼らに対しては,大人の間で取っている態度とは根本的に異なる態度を取らねばならないということを意味している。われわれは,権威を体現し,過去を担う保守的態度を教育の領域にのみ適用すべく,教育の領域を他の領域,とりわけ公的・政治的生活の領域から明確に分離しなければならない。

 実際面においてここからはっきり理解できるのは,まず第一に,学校の機能は子供に世界がどのようなものであるかを教えることであって,生きる技法を指導することではないということである。世界が子供に先立って存在する以上、つまり、子供にとってつねに所与として存在する以上、いかにわれわれの生が現在に関わるものであっても、学習は当然、過去へと向かわざるを得ない。第二に、子供と大人の間に一線を画するのは、大人を教育するのは無理であり、子供を大人のように扱うこともできない、ということを意味しよう。とはいえ、まるで子供が大人と同じ世界に生活しておらず、子供時代がそれ自体の法則によって自立する段階であるかのように、区別の一線を、大人の共同体から子供を隔離する壁にしてしまってはならない。(中略)

 教育をどう営むかによって、われわれが子供たちを十分に愛しているかどうか、すなわち、子供たちをわれわれの世界から追放して本人たちの好き放題にさせるようなことをせず、そしてまた、何か新しいこと、われわれが予見し得ないことを企てるチャンスを子供たちの手から奪うこともなく、あらかじめ子供たちに、共通世界を刷新する任務への準備をさせることができるかどうかが決まる。

(ハンナ・アーレント「過去と未来の間ー政治思想への8試論ー」引田隆也・斎藤純一共訳、みすず書房(1994)から抜粋、編集)

資料4

出典:安野光雅・大岡信・谷川俊太郎・松居直編『にほんご」福音館書店(1979)から<といかける・こたえる>pp.22-23ー編集の都合上省略。

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