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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 総合政策学部 小論文 2007年 過去問

2007年 慶應義塾大学 総合政策学部 小論文 課題文

問題

 資料1,資料2,資料3は,「議論の本位」とは何を意味するのかについて述べた文章です。また資料4,資料5,資料6は「少子化」(A)について,資料7,資料8,資料9は「格差社会」(B)について、それぞれ3人の論者が自分の主張を披濫歴した文章です。これらの文章を読んで次の問いに答えなさい。

問1

 まず「少子化」(A),あるいは「格差社会」(B),どちらかのテーマを選択し,選択したテーマの記号(AあるいはB)を,解答欄冒頭に与えられたカッコ内に記しなさい。

 次に,選択したテーマを論ずる3つの文章(「少子化」(A)を選択した場合には,資料4,資料5,資料6,「格差社会」(B)を選択した場合には,資料7,資料8,資料9)の内容を分析し,当該テーマを論ずる際に定めるべき「議論の本位」は何かまた「議論の本位」を定めたうえで(あるいは定めるために),検討すべき主たる「議論の箇条」は何かあなたの考えを1000字以内で記しなさい。

問2

 問1で考察した「議論の本位」と「議論の箇条」を踏まえ選択したテーマを論ずる3つの文章のうちどの文章の主張にあなたは賛成するか(あるいはいずれの主張にも賛成しないか),その理由を含め500字以内で記しなさい。

 なお「議論の箇条」を,「争点」あるいは「論点」と読みかえてもかまいません。

資料1

 軽重,長短善悪是非等の字は相対したる考より生じたるものなり。軽あらざれば重あるべからず善あらざれば悪あるべからず。故に軽とは重よりも軽し,善とは悪よりも善しということにて比と彼と相対せざれば軽重善悪を論ずべからず。かくの如く相対して重と定り善と定りたるものを議論の本位と名く。(中略)

 都(すべ)て事物を誰索するには枝末を払てその本源に遡り,止る所の本位を求めざるべからず。かくの如くすれば議論の箇条は次第に減じて、その本位は益(ますます)確実なるべし。(中略)議論の本位を定めざればその利害得失を談ずべからず。城郭は守る者のために利なれども,攻る者のためには害なり。敵の得は味方の失なり。往者の便利は来者の不便なり。故にこれらの利害得失を談ずるには先ずそのためにする所を定め,守る者のためか攻る者のためか敵のためか味方のためか、何れにてもその主とする所の本を定めざるべからず。(中略)

 事物の利害を論ずるに,その極度と極度を持出して議論の始より相分れ双方互に近づくべからざることあり。(中略)

 手近くこれを警(たと)えていわん。ここに酒客(しゅかく)と下戸(げこ)と二人ありて酒客は餅を嫌い下戸は酒を嫌い,等しくその害を述てその用を止めんということあらん。然るに下戸は酒客の説を排していわく,餅を有害のものといわば我国数百年来の習例を廃して,正月の元旦に茶漬を喰い,餅屋の家業を止めて国中に餅米を作ることを禁ずべきや行わるべからざるなりと。酒客はまた下戸を駿(ばく)していわく,酒を有害のものとせば明日より天下の酒屋を製(こぼ)ち酔配打するものは厳刑に処し,薬品の酒精には甘酒を代用と為し、婚礼の儀式には水益を為すべきや行わるべからざるなりと。(中略)

 方今日本にて議論家の種類を分てば,古風家と改革家と二流あるのみ。改革家は疑頭敏(えいびん)にして進て取るものなり,古風家は実着にして退て守るものなり。退て守る者は頑幅(がんろう)に陥るの弊あり,進て取る者は軽率に流るるの患あり。然りといえども,実着は必ずしも頑陣に伴わざるべからざるの理なし願敏は必ずしも軽率に流れざるべからざるの理なし。試に見よ,世間の人酒を飲て酔わざる者あり,餅を喰うて食傷せざる者あり。酒と餅とは必ずしも酔醒打と食傷との原因にあらずその然ると然らざるとはただこれを節する如何にあるのみ。然ば則ち古風家も必ず改革家を悪むべからず、改革家も必ず古風家を侮るべからず。(中略)

 昔、封建の時に、大名の家来、江戸の藩邸に住居する者と国邑(こくゆう)にある者と、その議論常に離鰭(そご)して、同藩の家中殆ど讐敵(しゆうてき)の如くなりしことあり。(中略)

 これらの弊害は、固より人の智見の進むに従て自から除くべきものとはいえども、これを除くに最も有力なるものは人と人との交際なり。その交際は、あるいは商売にてもまたは学問にても、甚しきは遊芸、酒宴、あるいは公事、訴訟、喧嘩、戦争にても、ただ人と人と相接してその心に思う所を言行に発露するの機会となる者あれば、大に双方の人情を和わらげ、いわゆる両眼を開て他の所長を見るを得べし。(中略)

 学者宜しく世論の喧(かまびす)しきを悼(はばか)らず、異端妄説(いたんもうせつ)の議(そしり)を恐るることなく、勇を振て我思う所の説を吐くべし。あるいはまた他人の説を聞て我持論に適せざることあるも、よくその意のある所を察して、容るべきものはこれを容れ、容るべからざるものは暫(しばら)くその向う所に任して、他日双方帰する所を一にするの時を待つべし。即これ議論の本位を同うするの日なり。(福澤諭吉「文明論之概略』岩波文庫版(1995)、巻之一第一章「議論の本位を定る事」から抜粋)

資料2

 『文明論之概略』の最初にすえられ、全編にかかわる方法を示した第一章のテーマは「議論の本位を定る事」である。この「議論の本位を定る事」が何を意味するのか、福沢は十分には説明していないし、最後まであいまいさがつきまとう。ただ、その中心が「事物の利害得失」を判断する「議論」において、正しく問題設定をするという営みにあることは確かだろう。「議論の本位を定る事」は、この正しい問題設定について、問題を正しく設定するという面と、それについて意見を異にする者の「議論」に合意を作り出すという面と、両面を含んでいるようである。(松沢弘陽、福澤諭吉「文明論之概略』岩波文庫版(1995)、「解説」から抜粋)

資料3

福沢は、事物を論ずるには本位を決定せよ、本位を決定しなければ事物の利害得失を論ずることはできない、と言う。従って、福沢の言う議論とは「本位」を定めて、「事物」の「利害得失」を論ずること、となる。「事物の利害得失を論ずる」とは具体的にどのようにすることかを想像することは難しくない。あるもの(事物)を得だ、損だと論ずることである。あるものの損得を論ずる際には、観点を定める必要がある。この観点が「ため」と表現される本位である。「何々のため」と表現される本位「何々」は利害論において利害の属する主体を示す。例えば、後に見るように、城郭は「守る者」のためには利、「攻る者」のために害とする時、「守る者」「攻る者」はそれぞれ利害の属する主体としての本位である。しかし、本位は「何々を目的とする」と表現される場合もある。この場合の「何々」は到達基準あるいは目標を表わすか、あるいは、目的・手段論における「目的」を表わすかのいずれかである。

(平井一弘「福沢諭吉の議論「論」と議論」青磁書房(2000)、第一章第三節「福沢諭吉の「議論の本位」」から抜粋)

資料4

 我が国の昨年の総人口は、戦後初めて減少に転じる見込みであり、予想よりも早く「人口減少社会」を迎えている。

 少子化の急速な進行は、税や社会保障における負担の増大、地域社会の活力の低下、経済成長の鈍化などの深刻な影響を国民社会に及ぼすことが懸念されることから、国の基本にかかわる重要な問題と認識している。(中略)

 少子化の流れを変えるには、一方で、「待機児童ゼロ作戦」の推進など保育関係事業を強化する必要があるとともに、他方で、より幅広い観点から少子化対策を進めていく必要がある。そのような考えのもとに、現在「子ども・子育て応援プラン」を本年度から実施している。この応援プランの特徴は、幅広い観点から少子化対策をとらえているところにあり、仕事と子育ての両立支援や、保護者が働いているか、いないかにかかわらず、子育て期の家庭への支援を推進している。さらに、若者の経済的な不安定感が未婚化、晩婚化につながっているという指摘が多いので若者の経済的な自立支援を推進し,また子育て世代の経済的負担の軽減を図っているところである。政府としては昨年秋から少子化社会対策推進会議において,働き方の見直しや家庭・地域の子育て支援,経済的支援など「子ども・子育て応援プラン」の課題を中心に,更なる少子化対策について検討を進めている。本年6月頃を目途に議論を取りまとめ,少子化対策の一層の充実を図ることとしている。

 検討に際しては,出生率が高めに推移している,あるいは少子化の流れを変えることができた欧州各国の政策を参考にするほか世論調査の結果や地方や現場の声なども参考にしていきたいと考えている。少子化対策の推進においては地方自治体及びそのトップの役割が極めて大きい。このため,私が直接,各県の知事等と,国や地方自治体の取り組み等について意見交換を行うことが,少子化対策の戦略的な推進を図るための政策対話プロセスと考え,「少子化担当大臣と地方自治体トップのブロック会合」を開催している。(中略)

 また,仕事と家庭・子育ての両立支援や男性も含めた働き方の見直しを図るためには,経営者や勤労者の意識改革が不可欠であり,経済界・労働界など各界の協力を得ながら,国民的な運動を展開していきたい。(後略)(猪口邦子『毎日新聞』(朝刊)2006年2月4日,論点「どうする少子化」から)

資料5

 政府の少子化対策は,その意図とは裏腹に出生数を減らしているのではないか。

 人口が減るのは,「少子高齢化」のためではなく,出生数を死亡数が追い越す「少産多死化」のためだが,この背景には「人口容量(キャリング・キャパシティー)」の飽和化がある。容量が一杯になると,原生動物から哺乳類までほとんどの動物は生殖抑制,子殺し,共食いなどで個体数抑制行動を示し,容量に確かな余裕が出るまで続ける。さすがに現代人はそこまでしないが,動物である以上,生殖能力や生存能力の低下とともに,避妊,中絶,結婚減少など人為的な抑制を行う。

 人間の人口容量は国土の自然・社会環境をいかなる文明で利用するかで決まる。歴史を振り返ると、日本列島の人口容量は、旧石器文明で3万人、縄文文明で30万人、粗放農業文明で700万人、集約農業文明で3300万人程度であったと推定される。この壁にぶつかる度に、日本の人口は停滞もしくは減少を繰り返してきた。

 人口容量が拡大している時は、一人当たりの容量である「生活水準(経済、環境、自由度などを統合した水準)」が伸びても、なお全体の人口容量にゆとりがあるから、親世代は自らの水準を落とさないで、子どもを増やせる。が、全体の容量が限界に近づくと、許容人口は生活水準が高ければ少なく、水準が低ければ多くなる。

 そこで、親世代は自らの水準を下げて子どもを増やすか、水準を維持して子どもをあきらめるか、の選択を迫られる。が、すでに一定の豊かさを経験している親世代は、それを落とすことを嫌うから、事前に晩婚や非婚を選んだり、結婚後も避妊や中絶を行って出生数を減らしていく。

 現代日本は工業製品を輸出して食糧・資源を輸入する“加工貿易”文明によって1億2800万人の人口容量を作り出してきたが、これが今、頭打ちになった。そこで、多くの日本人は無意識のうちに人口抑制行動を開始し、過去の減少期と同様、出生数を減らし始めている。つまり、「晩婚化・非婚化」や「子育てと仕事の両立が難しい」という理由の背後には,「飽和した人口容量の下で自らの生活水準を維持しよう」という、隠れた動機が働いているのだ。

 ところが、エンゼルプラン以来の少子化対策は生活水準を上げてしまう。人口容量が伸び悩んでいる時、水準をあげれば、許容量はますます縮小し、その分、出生数を減らし死亡数を増やして、人口を減らす。ミクロの増加がマクロの減少を招くのだ。

 「子育てと仕事の両立を進めるな」と言っているのではない。「この種の政策で出生数の回復は無理」と言っているのだ。政府がお金をかければ一時的に出生数は増える。が、少し手を抜けば90年代のスウェーデンのようにたちまち減少する。本格的に出生数を回復させるには人口容量の拡大しかないが、それには文明次元の転換が必要だから、少なくとも30ー40年はかかるだろう。

(古田隆彦「毎日新聞」(朝刊)2006年2月4日、論点「どうする少子化」から)

資料6

 出生率の低下に歯止めがかからないなかで,さまざまな少子化対策会議だけが踊っている。しかし,少子化の根本的な要因を明確にしそれを是正することなしに,各省の施策を寄せ集めるだけでは,効果は期待できない。

 少子化は過去の社会制度の矛盾から生じたひとつの現象である。男性が仕事、女性が家事・子育てという役割分担を不変のままで働く女性が増えれば,子供が犠牲になるのは当然だ。他方,すでに始まっている人口減少の下で男性だけが働く仕組みを固守すれば日本経済は維持できない。夫婦が共に働き,共に子育てができる,普通の社会に変えていくことが出生率の低下に歯止めをかけるための基本的な方向である。

 これが実現できない理由は他の構造改革と同様に,既得権の壁に阻まれるためである。例えば年功賃金・長期雇用保障は,家族ぐるみの雇用契約であり、妻が家庭を守るという前提で企業は世帯主に慢性的な残業や頻繁な配置転換を求める。現状の雇用慣行の下で女性が育児休業以外は男性と同じ働き方を強いられれば子供を育てる者がいなくなるのは当然だ。

 仮に,欧米のように男女にかかわりなく,流動的な働き方が普及すれば子育て後の再就職等,仕事と子育てとの両立が容易となる。しかし,労働界では働き方の多様化への流れに対しては雇用保障を損なう「悪い働き方」として規制強化を求めている。

 仕事と子育てとの両立を図るためには,質の高い保育サービスの量的な拡充が不可欠である。しかし,現在の保育所は,限られた層の人々を対象とした「福祉」の論理に基づき,公務員主体の高コスト構造と,それに見合わない保育料水準が維持されている。公立保育所を利用できる者には多額の支援が与えられる一方で利用できない人々には補助はなく,潜在的に大きな保育ニーズに応えられる仕組みとなっていない。保育所を,一定の公的助成を受けつつ,利用者の需要に応じて供給が増える「保育サービス」へと転換しなければ多くの働く女性の仕事と子育ての両立支援には十分に役立たない。

 現在の保育所行政は2000年の介護保険設立以前の高齢者介護との共通面が多い。高齢者の介護費用は,特定の家族だけでなく,広く社会全体で負担されている。また,介護サービスは自治体や社会福祉法人だけでなく,企業も含めた多様な事業者間の競争の下で利用者が自由に選択できるサービスとなった。これと全く同じ改革を,立ち遅れている保育の世界にも導入することが,少子化対策の基本となる。高齢者に偏った社会保障費を子育てにシフトするとともに,子育て支援策の内容を,利用者主体へと改革することが必要だ。(後略)

(八代尚宏『毎日新聞』(朝刊)2006年2月4日論点「どうする少子化」から)

資料7

 いまから60年以上前の戦前日本社会にタイム・トリップしてみよう。洋服と革靴で街を闘歩している人がいるかとおもえばつぎはぎだらけの和服とちびた下駄の人もいる。(旧制)高校や大学で青春を謳歌している若者がいるかとおもえば小学校を卒業してすぐに店員や工員になり,長時間労働にしたがわなければならない者もいる。大の字がつく格差社会であった。にもかかわらず,人々は生きぬいた。

 努力によって立身出世できるという希望があったからである。といっても多くの人にとっては,小自営業主や職長,係長などのささやかな上昇移動だった。しかし,膨大な貧困層が背後にあった時代には,小さな上昇移動でも満足感は大きかった。比較は上流ではなく,最下流にあったからである。また立身出世できなくとも「堅気」や「苦労人」という理想的人間像があった。貧しくても,御天道様に申し訳がたたないことはしていないという誇りである。これが大格差社会のなかの庶民の務分持と癒やしになった。

 戦後は高度成長で大衆の欲望がはてしなく解放された。人々は過去の自分の貧しい生活と比べたから大きな飛翔感をえられた。ピアノをもち娘を女学校にまでいかせたのはかつては中流上層以上だけだったのにわが家もあの人たちのようになれたとおもえたのである。中流上層はもっと高い生活ステージに移行していたにもかかわらず。客観的格差が隠蔽されることで一億総中流意識が生まれた。

 しかし人並み(中流)への背伸び圧力によって,戦前にあった庶民の自足的な誇り文化は失われた。エリート文化もノン・エリート文化もなべてのっぺりしたサラリーマン文化に吸収されてしまった。

 いま格差が叫ばれるのは,格差がさらに拡大するという懸念(予期)もさることながら,現在の中核的世代の記憶にもよる。戦前はいうまでもなく,戦後の貧しい時代も知らなく,高度成長やバブル時代の無格差幻想社会を比較にするから,客観的格差以上に格差感が大きくなる。格差社会というよりも格差感社会である。

 しかし,ライブドア事件などにみられるように,昨日の勝ち組は今日の負け組。無常きわまりない。であればこそ,勝ち組は勝ち組,わたしはわたしという自足的な新ノン・エリート文化が生まれつつあることに着目すべきである。勉強が不得意でも,豊かではなくとも自らを卑下する人は少なくなっている。清貧という言葉さえも蘇っている。

 格差を是正していくことは,大切であるが,格差そのものはなくならない。だからこそ格差への対処文化の存在が大事なのである。一国の盛衰も品格も一握りのエリートによってのみ決まるわけではない。ノン・エリートたちの地味な日々の営みの質による。自分の居場所に誇りをもつ務今持あるノン・エリート文化の芽生えは,格差感社会の副産物ではあるが,新しい時代のはじまりの可能性を秘めている。

(竹内洋『毎日新聞』(朝刊)2006年3月4日,論点「格差社会」から)

資料8

 日本の所得格差が拡大しているか否かは,統計的には明らかである。どの統計でも80年代半ばから傾向的に上昇している。問題はその理由だ。筆者はそのトレンドを説明するのは,人口の高齢化だと考えている。日本の所得格差は若年層よりも高齢層のほうが大きい。高齢化で格差がもともと大きいグループの比率が高まっているので、全体の所得格差が拡大しているのだ。

 言い換えると,もともと日本社会に存在した高齢層における格差が高齢化によって顕在化したのであって実質的な格差が拡大したのではない。これに加えて,単身世帯の増加の影響もある。一方,若年層における所得格差の拡大がみられることも統計的に示されている。この部分は長期にわたる不況が原因であろう。

 それではなぜ、これほどまで格差拡大感が強まっているのであろうか。第一の理由は、現在の所得の格差ではなく、将来における所得格差拡大予想や資産格差の拡大が現時点での生活水準の格差をもたらしていることだろう。実際、消費支出の格差は、勤労層を中心に拡大傾向にある。一般に、景気拡大期には、所得が上昇する前に株や地価のような資産価格が上昇する。資産価格の上昇による資産格差の拡大が発生するのである。これが現在の格差拡大感の一因かもしれない。将来の所得格差拡大で懸念されているのは、若年層におけるフリーターの増加である。景気が回復しても、長期間フリーターであったものが正社員になりにくい状況が続けば、現在の20代の格差はこのまま拡大する可能性もある。

 第二に、デフレの影響である。成果主義的賃金が拡がり、デフレの下で賃金格差が生じると額面の賃金が低下する人も多くなる。名目所得の低下は心理的なショックが大きい。

 第三に、税制改革の影響である。90年代の税制改革で所得税の累進度が緩和され、相続税率も下げられたため、所得税や相続税のもつ所得再分配効果が低下したことが税引き後所得の格差拡大に貢献している。

 第四に、情報の歪みがある。ヒルズ族や下流社会に関する報道が格差拡大感をもたせたのではないか。ヒルズ族は目立つが、日本全体の所得格差にどれほどの影響を与えるかということとは別である。

 最近OECDは日本の貧困率が、15.3%という高い数字であると発表した。驚く人が多いだろう。しかし、これは相対的な貧困率で、最低限の生活に困るという絶対的な貧困率ではないし、実際の生活水準で定義したものでもない。むしろ、日本で注目すべきは、絶対レベルの貧困に陥らないようなセーフティーネットの整備である。貧困から立ち直れる仕組みの整備も重要だ。所得格差の拡大の解消策としては、規制緩和路線の再検討ではなく、所得再分配制度の拡充や教育・訓練を議論すべきである。人生のスタート時点の格差を小さくすることが何よりも重要で、特に教育の役割は大きい。

(大竹文雄「毎日新聞」(朝刊)2006年3月4日、論点「格差社会」から)

資料9

 小泉純一郎首相は今の国会で、「格差は広がっていない」「格差があることは悪いことではない」と発言した。この言葉は、私の経験や実感といくぶんずれている。

 私は元々、日本文学の研究者になりたかった。25歳の時に私生活で困難なことがあり、その道を諦めた。(中略)数年間、いくつかのアルバイトや日雇い労働を転々と続けた。月収は手取りでせいぜい十数万円。ただ年齢的な焦りがつのった。(中略)

 その後たまたま今の職場に出会えて、障害者とその家族の生活にじかに触れるようになった。過酷な状況を生きる人々は少なからずいた。数十年自宅の外に出ず、家族以外と会わずに暮らして来た人。家の中で暴れるわが子と日々取っ組み合い、各施設を転々と放浪する母親。そういう人々はごく身近に、当たり前に生きていると体で思い知った。

 「「格差拡大」と騒いでも、外国の本当に貧しい人に比べれば、日本の若者は甘やかされている」という根強い意見もある。確かに、若年労働層はその意味での貧困に直面しているとはいえない。先に挙げた障害者やその家族と比べても、「甘い」生活を送っているかもしれない。

 しかし、だからといって「好きでフリーターをやってる」なんて簡単な話でもない。もろもろの統計データ(内閣府「若年層の意識実態調査」2003年など)からは、フリーター層の労働意欲・正職員志向などは特に低くはないことが分かる。

 それに、今の非正規雇用層と正規雇用層との生活の差を、一人ひとりの「能力不足」「努力不足」だけで片付けられるとも思えない。今も不安定な非正規の仕事でもがく友人・知人が、まわりにいくらでもいる。(中略)たまたま今の仕事と出会った自分が、その人たちより特別優れている、努力してきたとは感じられない。いくつもの幸運に恵まれただけだ。

 だいたい、今は定職がある私だって数年後どうなるかはわからない。野宿者支援に長年携わっている知人から、最近は若年層や女性の野宿者が増えつつある、という話もよく聞くくらいだ。親を失うなどのきっかけでフリーターが野宿生活に入る可能性だって否定できないと思う。

 しかもフリーター層の多くは表面上、自分を取り巻く現実に気づけないでいる。「格差の話なんてイタイよね」、などと人前では陽気にふるまいながら,内心では「このままでいいはずがない」と自己嫌悪をつのらせていく。

 「格差は社会全体が許容しえないほどに拡大しているかどうか」といった議論もあるようだ。だが,社会が許容しようが,本人にとって「許容しえない」状況に置かれかねない人々はいる。そうした当事者が現実に向き合って声を上げ,その声を交えて議論すべきことがたくさんある。まずはそこからだと思う。

(杉田俊介『毎日新聞』(朝刊)2006年3月4日,論点「格差社会」から)

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