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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 総合政策学部 小論文 2006年 過去問

2006年 慶應義塾大学 総合政策学部 小論文 課題文

問題 世論とは。何だろうか。それは今日どのようにして形成されるのであろうか。この点について次の二つの問いに答えよ。

問1 資料1,資料2,資料3を参考にして,最近,君が「これが世論である」と考えた「世論の事例」をあげて,君の考える世論の定義を述べながら,世論の形成過程について1000字以内で論じなさい。

問2 資料4の中で取り上げられた。「ネットと新聞の賭け」について。2007年に君はどちらが勝つと予想するか。自分の立場を明示して,その理由を500字以内で論じなさい。

資料1

1.オートポイエーシスとしての社会

 現代社会システム論では,社会はオートポイエーシス・システム(再帰的自己創出システム)の一つとして概念化される。

 オートポイエーシス・システムとは,生物学者であるマトゥラナとヴァレラが有機体システムを理解するために提示したシステム構造のモデルである。要約すれば,オートポイエティックなシステムとは,そのサブシステムがそれぞれに外部とのコミュニケーションによって絶え間なく自己自身や他との関係性を変化させ,同時にサブシステムのネットワークの総体としての全体を絶えず状況適合的に変化させていくような性質をもったシステムのことである。

 われわれの「社会」がこのような再帰的自己創出性を備えていることは直感的にも理解できるだろう。社会は,これを構成する個人,グループ組織などが,それぞれの過去に依拠しつつ,複層的に相互作用し合い,自己変容するとともに,全体を変容させていく。

 ただし,生物学者が対象とする有機体システムと,「社会」というシステムとでは,後者においては,行為主体の意図的なコミュニケーション/行為と「自己意識」が要素間の相互作用に大きな影響を及ぼすという点で大きく異なることに留意しなければならない。そしてこの点において。再帰的自己創出の概念は社会変動論に接続する。すなわち。社会システムにおいては,再帰的な自己創出というプロセスが。行為主体の意図的な行為による変動(政策。企業戦略。社会運動など)と非意図的な変動とによって構成される。前者を「意図的社会変動」。後者を「非意図的社会変動」ととりあえず呼んでおこう。意図的社会変動も非意図的社会変動も,それ自体,再帰的自己創出の性質をもつことは言うまでもない。

2.「世論」とは何か

 この意図的社会変動,特に「政策」とその社会に生きる人びとを接続するのが,「世論」と呼ばれるものであると,とりあえず考えておこう。

 「世論」という言葉は,いかにも人口に膳炎(かいしゃ)している。にもかかわらず。その指し示す対象は曖昧である。ある人は大新聞の見出しやテレビニュースのヘッドラインであると言い,ある人は世論調査の結果だと言い,ある人は選挙結果だと言い,またある人はもっと漠然と世の中の多数派意見だと言う。そうではなく,見識ある人びとの意見であると思う人もいるし。社会の「一般意志」だと考える人もいる。そして政治家たちはしばしば「世論に従う」ことをもって自己の主張を根拠づける。

3.規範概念としての「世論」

 「世論」をめぐるこのような曖昧さについて,岡田直之は,「世論」観念が規範概念と記述概念という二重性を負っているためであると説明する。すなわち,今日では多くの国々の政体が「民主主義」に立脚していると主張している。特に冷戦終結以降,「パックス・デモクラティア」の可能性を期待する論者もいる。

 民主主義(democracy)とは,端的には,denOS(民衆)がkratia(権力)を所有し,権力を自ら行使する,すなわち社会的意思決定(合意形成)を行う社会体制を言う。これに加えてアリストテレスは,「人間が何らかの点において平等であるとすれば,絶対的に平等であるとする考え方から生じたのが民主主義である」と言い,リンカーンは「私は奴隷になるつもりはないと同様,主人になるつもりもない。これが私の考える民主主義である」と述べている。つまり,民主主義とは,社会構成員が,全員平等な個人として,その意思を政策決定に反映させる権利をもつことを規範理念とする社会であると言える。

 したがって,この規範理念に準拠する社会では,「民衆」の意思決定のみが,その政体の正統性の根拠となる。このような理念は,一点,非の打ちどころがないように考えられる。マルクスも「民主主義は人類の憲法である」と言っている。そして,民主主義政治の正統性を担保する民衆の意思決定もしくは集合的意見が「世論というわけである。ブルデューはこのような了解について(皮肉に),「政治家はかつて『神はわれとともにあり」と言ったものだが,今日の政治家は『世論はわれとともにあり」と公言している」と述べている。

4.記述概念としての「世論」

 しかしながら,このような「世論」観念を規範概念として遠望することが可能であったとしても,それがどこにどのように表出されるのかについては,絶対的な解釈が存在しない。そのため,人によって「世論とは何か」に対する答えが異なる。あるいはブルデューのように「世論は存在しない」と断じたりすることになる。

 ブルデューのこの言葉は,世論調査が政策決定の根拠とされることについての批判として述べられたものである。シャンパーニュの要約を借りれば,「ブルデューによれば,その意見調査とは,社会的に非常に異質な諸個人からなるサンプルに,政治的必要から世論調査機関が判で押したように同一の質問を発し,得られた回答を足し合わせるということからしてすべての個人は一個の意見をもち,尋ねられた設問をすべてその通りに受け止めるもので(あるいは少なくとも受け止める能力をもち),さらにあらゆる意見は社会的見地から見て価値がある,と想定してしまっている。だが,そうしたことは経験的に検証されることからほど遠い」にもかかわらず,世論調査が「世論」として採用されるのは,「世論調査」という形式によって「世論」を導出することが自己の正統性の根拠づけに有利であると考える政治家たちがいるからだ,とブルデューは批判するわけである。

 このように,「世論」は,「それは『世論」ではない」という形で語られることが多い。記述概念としての「世論」は批判概念であると岡田が言うのは。このような事態を指す。

5.規範一記述の反響としての「世論」

 とはいえ,岡田も指摘するように,規範概念としての「世論」と記述概念としての「世論」を修後別して語ることはできない。なぜなら,規範概念としての「世論」が前提とされなければ,批判概念としての「世論」は存在せず。批判概念としての「世論」が存在しなければ,規範概念としての「世論」を検証することはできないからだ。「世論」をめぐるこのような循環的な事態は,かつてハイデガーが「芸術」について語った次のような言葉と深いところで共振する。

 芸術とは何であるかということは,作品から取り出されるべきである。作品とは何であるかということを,われわれはただ芸術の本質のみから経験することができる。誰もが容易に気づくことだが,われわれは堂々めぐりをしている。

 ハイデガーに倣って。われわれは次のように言うことができるだろう。「世論」とは何であるかということは。現象(の記述)から取り出されるべきである。現象とは何であるかということを,われわれはただ「世論という規範からのみ了解することができる。誰もが容易に気づくことだが。

 われわれは堂々めぐりをしている。だが。われわれは堂々めぐりを遂行しなければならない。このことは窮余の措置ではないし,また欠陥でもない。この道に足を踏み入れることは強さなのであり,そして思索が手仕事であるとすれば,この道にとどまることは思索の祝祭なのである。

 本稿では。このような動的観念としての「世論」を,以下,く世論>と表記することとする。

6.個人とく世論

 「世論」について。リップマンは次のように述べている。

 外界のさまざまの現象がほかの人間たちの行動に関わりをもたずにはおかない場合,そうしたほかの人間たちの行動がわれわれの行動と交差したり,われわれに依存したり,あるいはわれわれの興味を惹いたりするかぎりそうした外界の現象をわれわれは大まかに公的な事柄と呼ぶ。このような人びとの脳裏にあるもろもろのイメージ,つまり,頭の中に思い描く自分自身,他人,自分自身の要求,目的,関係のイメージが彼らの世論というわけである。人の集団によって,あるいは集団の名のもとに活動する個人が頭の中に描くイメージを大文字の「世論」とする。

 <世論>が,特定の争点に関する,少なくとも何らかの可視化された集合的意見であるとするならばそれは個々の人間の意見の集積として現象すると考えられる。その過程はどのようにモデル化されるだろうか。バウアーや竹内都郎らのモデルを参考にしつつ,以下のようにモデル化できるだろう。

1.メディアや対人コミュニケーションの中で,さまざまな世界観,価値観,利害,能力などをもった個人は,それら先行する条件のもとで特定の争点を認知する。

2.個人は,認知した争点について,メディアや対人コミュニケーションから継続的に得られる情報を参照しつつ,自らの意見を形成する。

3.当該の争点について意見を形成した個人は,その意見を共有する他者と集団を組む場合もあるし,そうではない場合もある。

4.集合的意見を形成した集団は,異なる集合的意見をもつ集団と論争したり,まだ集団に属していない人びとを説得する行動をとる。

5.何らかの手段(世論調査,選挙,討議など)により,社会全体の「意見」を集計し,その結果を「世論」として採択する。

6.政策決定者による決定がなされる。

 しかし,この過程には,多くの認知的あるいは原理的誤りが混入しうる。世論調査や選挙の正当性について多くの批判が存在する。また,この過程には,さまざまな事実誤認や戦略的操作の入り込む余地がある。そして,そのような事実誤認や戦略的操作は、個人的意見の形成から集合的意見の形成に至る際の間主観性形成の問題であり,かつては対人コミュニケーションを通じてなされていた間主観性形成も,今日では,メディアを媒介とした間主観性過程に比重が傾いていることも考慮しなければならないだろう。クロスリーはその著書『間主観性と公共性」において、次のように主張している。

 間主観性は、それによって我々の社会が可能となるものであり、それによってはじめて我々が我々となるものである。さらに間主観性は、それ以上には還元不可能な一種独特なものであり。我々のアイデンテイティの生成原理、我々の主体的行為の生成原理。そして我々が生きる社会の生成原理である。そしてそれは、我々がそこから外に出ることができないものである。・・・・・・我々は間一主体である。我々の行為や思考は我々にしか還元できない。それらは、多くの参加者をもち。他者のあらゆる身振りのなかで表現される行為に対する呼びかけに応えるゲームの一手である。そしてそれらの意義はまさに、そうしたゲームにおける位置によって構成されるのである。

 とすれば、先のモデルで「さまざまな世界観、価値観、利害、能力などをもった個人は、それら先行する条件のもとで」とした先行する条件もまた間主観性の今日的様態に関わるのであり、現代では、メデイア・コミュニケーションの内部でメディア・コミュニケーションを介した間主観性の形成ーく世論〉の発現がなされているといっても過言ではないかもしれない。

7.メディアとアジェンダ設定

 このようなく世論〉の作動にメディアが一定の役割を演じるのはある意味当然である。それは、社会に関する情報取得と間主観性形成に深く関与するからである。とはいえ、初期のマスコミ研究に見られた。マスメデイアが発するメッセージが直接に受け手の行動を決定するといった「弾丸理論」や「皮下注射理論」はすでに過去のものとなった。近年のマスメディア研究においては、より限定的な「アジェンダ設定」に関する議論が中心となっている。

 われわれが政治的に関わりあわなければならない世界は手の届かないところ、見えないところ、知の及ばないところにある。だから。探索し報告を受け、想像をめぐらさなければならない。人間は、アリストテレスのいうような、ひと目であらゆる存在を思いめぐらすことのできる神ではない。

 とリップマンは言う。つまり、よほど自分自身の日常と結びついた事柄でなければ、社会全体としていま何が優先順位の高い争点であるのか。個人が認知することはほとんど不可能である。

 このような。アジェンダ設定に関して、マクウェールは、図1ー1のような風モデルを提示している。ある争点が争点として認知されるのは、エリート(知識人。専門家など)。メディア。公衆の相互作用においてであるというモデルである。

先にも述べたように、マスメディアの影響力を過剰評価するのは現実的ではない。新聞はテレビ番組欄とせいぜい社会面しか見ないと公言する人は多い。また、テレビは主として「ながら視聴」であり、内容を深く考えながら見ることは少ないという見解にもうなづける。

 しかし、目立つ見出しやへッドラインは無意識にも浸透するし、それが反復されれば、記憶にも残り、日常的な対人コミュニケーションの場においてもそれが話題とされることは多くなる。

 また、爪モデルで一つのノードとなっているエリートも。一般の人びとは、マスメディアを介してその意見を聞くことがほとんどである。意図的にせよ非意図的にせよ、マスメディアに招かれるエリートの選択はマスメディアにかなりの部分依存している。そうした意味で、マスメディアのアジェンダ設定機能は、想像以上に大きいかもしれない。

 たとえば、オウム真理教の場合にも、その組織の内情について疑念がささやかれていたにもかかわらず、メディアはむしろ一種のエンターテインメントとしてこの教団を登場させ、その結果、犯罪的行為の発覚が遅れたとも言われている。

 また、2002年からの膨大な北朝鮮拉致被害者報道は、それ以前にはむしろメディアは報道をためらっていたという指摘もあり。現状のマスメディアの報道はその影響力に見合った正当なアジェンダ設定を行っているのか。疑問の残るところである。

 木村洋二らのグループは、大手各紙の拉致報道に関する記事面積と。購読者の関心や意見の間に相互関係があるとの実証研究を報告している。ただし、購読者はそもそもその新聞の志向性を考慮して購読しているとも考えられるので、相互関係の双方向性についても考慮する必要はある。

8.メディアのステレオタイプ

 たとえマスメディアに対して人びとが集中的に購読や視聴を行わなかったとしても、アジェンダ設定の場合と同様、マスメディアが人びとに影響を及ぼすことができる可能性はさまざまにある。

 たとえば、ある争点に関してさまざまな条件を考慮しつつ慎重に練られた議論は受け手の目や耳を素通りするかもしれない。しかし、単純化され。反復される「主張/意見」は、人びとの記憶に残りやすい。マコームズほかは、人びとがメディアを利用する場合、それによって知識を得、意見を形成したいという動機があると指摘している。その場合、メディアの告げる、わかりやすい「意見」を無意識のうちに自分のものとしてしまうパロティングが生じる可能性は高い。パロティングとは、自分がよく知らない事柄について意見を求められたとき、接したことのあるメディアの意見を自分の意見としてオウムのように繰り返す傾向を言う。また、反復的に聞かされる「意見」は、それが多数意見であるとの認知を受け手に与え、ノェレ・ノイマンの言う「沈黙の蝶旋(らせん)」現象が生じることも考えられる。「沈黙の蝶旋」とは、人びとは一般に、自分の意見が多数派の意見や支配的意見であると確信するならばその意見を公言するが、そうでない場合は孤立を恐れて沈黙してしまいがちである。その結果、多数派意見あるいは支配的意見として提示された意見は事実としてますます支配的意見になる。という仮説である。

 こうした議論は,リップマンが「人びとが勝手に頭に思い描くイメージがマスメディアなどを介して結晶化するとき,ステレオタイプとしての『世論』が現れる」とした議論と,呼応するものである。リップマンは言う。

 ステレオタイプの体系は,秩序正しい,ともかくも矛盾のない世界像であり,われわれの習慣,趣味,能力,慰め,希望はそれに適応してきた。それはこの世界を完全に描ききってはいないかもしれないが,一つのありうる世界を描いておりわれわれはそれに順応している。そうした世界では,人も物も納得のいく場所を占め,期待通りのことをする。この世界にいれば心安んじ,違和感がない。われわれはその世界の一部なのだ。

9.インターネットの社会的埋め込み

 さてそのような<世論>の立ち現れる<場>,すなわちメディア環境が,近年大きく変化しつつある。1960年代末に産声をあげたインターネットは,すでに社会の神経網として深く埋め込まれている。その利用者も社会全体に及ぶようになって久しい。利用率は年々着実に上昇し,2003年には50%を超えた。携帯電話経由でのインターネット利用は若年層が圧倒的に高いものの,PC経由のインターネットでは,20代から40代までほとんど同じ水準である。

 もちろん,ここで「技術」が社会を決定するという主張をするつもりはない。しかし,「技術」の社会的影響に目を閉ざすのも,同様に適切ではない。社会システム論的に言うならば,全体システムとしての社会は政治,経済,文化,科学技術などさまざまなサブシステムから構成されている。個々のサブシステムは,それぞれが相対的な自律性を保ちつつ,同時に相互依存的に,自らを自己準拠的に変容させていくオートポイエティックなシステムである。われわれの生活世界もまた,そうしたサブシステムの一つなのである。

 したがって,われわれの日常生活のダイナミクスは,必然的に,政治経済,文化など他のサブシステムの動きに影響を与える。技術もまた,生活世界の需要によって影響を受ける(たとえば、グーテンベルクの印刷技術は,近代化を推進した大きな動因の一つとされるが,なぜあの時期に西欧で印刷技術が開発されたかについては,その政治的,文化的背景によって説明されることになるだろう。新技術の登場は,単に技術史の内部に閉じるプロセスではないのである)。そして。技術の展開は他のサブシステムに影響を与え,全体社会は次々と自らの様相を変化させ,それは当然,われわれの日常生活をも変化させていくのである(図1一2を参照)。

しかも,この技術はコミュニケーション/メディア技術であり,われわれの社会に新たなコミュニケーション・チャネルを与える可能性をもつものである。もし,対人コミュニケーションがすべてであった社会にマスコミュニケーション技術が導入されたことによってく世論》形成過程に何らかの変化があったとするならば,インターネットというメディアが,そこにどのような作用を及ぼすのか否かは,社会学的に重要な問いであると言えよう。

(遠藤薫編著『インターネットとく世論》形成一間メディア的言説の連鎖と抗争』東京電機大学出版局(2004)の第1章より抜粋,編集)

資料7

 新聞週間特集ネット時代にこそ新聞,「情報の質」で勝負,複雑な事象的確に分析

 21世紀の世界はグローバル化とIT(情報技術)革命により歴史的な転換期を迎えている。とりわけIT革命はメディアの最前線に変革を迫る。その一方で、情報の洪水のなかで人々は何を指針にすべきか迷っている。混迷する世界を読み解く新聞の責務はますます重くなる。どんな時代になろうと,カギを握るのは「情報の質」であり,それを支えるジャーナリスト精神である。だれでもいつでも必要な情報を世界中から手に入れられる。だれでもいつでも世界中に情報発信できる。そんなインターネット時代は,マスメディアの代表である新聞にとって大きな挑戦である。一極からマスに一方的に情報発信する新聞と。情報発信する側も受け取る側も多元化する分権的なインターネットとは本質的な違いがある。

 若者の活字離れもネット時代の進展と無縁ではないだろう。

 ネット時代は新聞に変身を求める。といって,ネットが新聞に取って代わるわけではない。新聞とネットは共存できるし。電子新聞のような融合も可能だろう。さらには,新聞とネットをともに進化させる相乗効果も期待できる。

 新聞のもつ幅広く信頼ある情報力はネット発展の基礎であり,双方向のネットから得る読者の新たなニーズは新聞の編集強化に生かされる。この相乗効果を高められるかどうかで,総合的な「新聞力」が決まる。新聞とネットのプラスサムの発展をめざすうえで,決定的に重要なのは「情報の質」をいかに高めるかである。ネット時代がもたらす情報の池濫(はんらん)に,人々が戸惑っているのは事実だ。不確実な時代にどんな情報を選別し,どう読み取るか迷っている。

 ネット時代が進展すればするほど。明確な指針を示す新聞の役割は大きくなる。情報の池濫のなかで「情報とは何か」が問われ。誤った情報は海汰される。人々は「情報の質」でメディアを選別するようになるだろう。

 新聞に求められるのは第一に,事実を丹念に掘り起こし,公正に伝える情報発信力である。地味で泥くさくもある。根気のいる作業だ。新聞の原点といえる。小さなベタ記事の積み重ねの先にこそ。大スクープの可能性も潜んでいる。

 第二には,複雑な事象に対する的確な分析力である。多様な情報のなかから真実をえり分け,大局観をもって提示する。わかりやすく彫りの深い解説はこれからの新聞の売り物である。

 第三には,提案力である。言論報道機関が権力に対するチェック機能を果たすのは,民主主義の土台である。混迷するグローバル社会に日本はどんな役割を担うか。日本経済をどう再生するかなど,できるだけ具体的に提案する。建設的な批判精神と将来を見通す構想力が求められる。ネット社会の情報過剰のなかで若者の間にはザッピング(いいとこ取り)文化が定着しているという。読者をひきつける新聞コラムは,このザッピング文化にも沿うだろう。これだけはどうしても読みたいと思うコラムをどれだけ多様に掲載できるかである。

 新聞は本来,一覧性や記録性など。いくつもの強みを備えている。洗練された編集は歴史の証人としての価値判断を提示することになる。

 時代を超えて,ジャーナリストに欠かせないのは歴史観と国際感覚である。中外商業新報社(現日本経済新聞社)の外報部長をつとめた清沢況例は『暗黒日記』で「日本には自分の立場しかない」とし,国際的知識の欠如を嘆いた。戦時下でも他者の目で日本を見据えていた。

 大事なのは謙虚さだ。亡くなった米ABCテレビのキャスター,ピーター・ジェニングス氏はできるだけ控え目に語るのを信条としていた。影響力が過大になるのを避けるためだ。反センセーショナリズムの姿勢が絶大な信頼を生んだ。

 いつの時代も,メディアには明確な規範が求められる。第四の権力としてのおごりではなく,謙虚さこそ必要だ。信頼はそこから生まれる。混迷の時代だからこそ。新聞の責務は高まる。新聞とネットは共存できる。

 情報の洪水の中で,明確な指針を示す新聞の責務は大きい。(

岡部直明(日本経済新聞本社論説主幹)『日本経済新聞』(朝刊)2005年10月9日から抜粋。編集)

資料3

良質な報道こそ利益生む

ブログ脅威でない,正確さ・深掘り強み

 メディアの世界に技術革新が押し寄せている。情報技術(IT)が取材の形態やニュース配信の手法を大きく変え,誰でも容易に情報発信できるブログが既存メディアを脅かす場面も出てきた。インターネット時代のメディアのあり方を米ニュース専門局CNNのジム・ウォルトン社長に聞いた。

 一ブログがCNN報道部門最高責任者。イーソン・ジョーダン氏に辞任を迫った「イーソンゲート事件”」が起きた。

 「ジョーダン氏は公の場で何らかの発言をし,それが巻き起こした騒動がCNNの利益にならないと考えて辞任した。これ以上は本人に聞いて欲しい。ブログが果たした役割は発言の真意を確認することではなく,想像もつかない勢いで論争の輪を広げたことだ。」

ーブログは報道機関の脅威になるのか。

「そうは思わない。ITは誰もに情報発信の道具を与えたが、聞きかじりの話が匿名のままで流布していることも多い。関心の領域はとても広いが。深さがない。読み流すだけならともかく。人々が本当に真相に迫りたければ既存の報道機関を頼りにするはずだ。」

ブランドに磨き

ーブログ時代に生き残るには。

 「ブランドが一段と重要になる。スターバックスのコーヒーがほかより高額でも多くの客が集まるのと同じだ。ブランドを磨くにはとことん正確さにこだわり、実績を重ねるしかない。CNNほど放送前のチェックと放送後の検証に力を入れている報道機関はないと自負している。」

ー客観報道が欠かせないということか。「むしろ我々が実践しているのは主観的な報道だ。これは正確さの追求とは矛盾しない。CNNには「創造的な緊張」という言葉がある。様々な本オ料や異なる意見をテーブルに広げ、どのテーマをいかに取材し、誰に何を聞くのか徹底的に議論する。その過程を通じてCNNとしての主観を打ち出す。」

一密度の高い取材が求められる。

「CNNは記者が撮影した映像をパソコンで編集。超小型アンテナを使って衛星経由で送信するデジタル取材システムをほかの報道機関に先駆けて導入した。記者は一人で行動できる。取材の機動力が大幅に高まり。CNN独自の視点による報道を拡充できる。危険な場所で取材している記者のことを考えて眠れないことも多いが…。」

ー保守的な論調で知られるFOXニュースが攻勢をかけている。

「勢力を伸ばしているが、CATV(ケーブルテレビ)向けニュース専門局という業種全体が、三大ネット局の牙城を壊しながら拡大を続けている。CNNの視聴者を奪っている訳ではない。」

ユビキタス実現

ーCNNが力を入れる分野は。「速報や現地からの生中継に加え,より深掘りした特集番組を充実させる。視聴者は政治家や経営者の意思決定だけでなく,背後にある人間ドラマや影響を受ける人々の表情を深く知りたい。」ネット局の地盤沈下はさらに進むか。

「ニュース番組だけで見ると,ビジネスモデル自体がうまく機能していない。CATV向けにニュース専門局のCNBCなどを持つNBCは別にして,ABCやCBSは限られた放送時間や陣容,予算で深い内容の番組を求める視聴者の声にどう応えるのか。地上波からCATVへという流れに乗れず,広告収入の減少を座視しているだけになりかねない。」

一ニュースのネット配信にどう取り組む。「1980年の創業時から24時間放送を売り物にしてきたCNNは視聴者がいつでもどこでもニュースにアクセスできる『ユビキタス』の実現に全力をあげる。テレビ,ラジオ,ネット,携帯電話といったあらゆる媒体を通じたニュース配信で先行したい。」「ブロードバンド(高速大容量)通信による有料のニュース配信を今秋始める準備を進めている。ニュースの生放送だけでなく,過去の膨大な映像を利用者が検索して視聴できるようにするなどテレビにはできない特徴を盛り込む。」

一米国ではテレビ番組の自動録画サービスが広がってきた。

「視聴者は本当に見たい番組を選別し始めた。これまでは単に視聴率を上げるためなら。こけおどしの番組を流せばよかった。その代わり良質な番組を求める視聴者は二度と戻ってこない。今後5年間に起きる技術革新は過去25年の変化より大きいだろう。その中で良質なジャーナリズムの追求が経済的利益を生むという原則を証明し続けたい。」(ニューヨーク=衛原洋一)

*「イーソンゲート事件」

 今年1月、スイス・ダボスで開かれた世界経済フォーラムでのCNNのイーソン・ジョーダン氏のオフレコ発言がブログを通じて広がり,同氏が辞任に追い込まれた事件。「イラクの駐留米軍が12人のジャーナリストを狙い撃ちして殺した」と発言したとされるが,真相は不明のまま。

 すぐに|イーソンゲート・ドット・コム」というブログが開設され、CNNに同氏の処分を求めるなど猛攻撃をかけた。「ブログが大手メディアの監視役を果たした」との評価がある一方で,未確認情報が独り歩きし既成事実化する危険を指摘する声もあがった。

(篠原洋一「米CNNウォルトン社長に聞く,ネット時代のメディア像」『日経産業新聞』2005年6月22日から抜粋。編集)

資料4

ウェブログ対ニューヨークタイムズ

2007年に1000ドル賭けて影響力測定

 2007年までに,インターネット上の個人のホームページによる市民ジヤーナリズムがニューヨークタイムズのような大手新聞社よりも大きな影響力を持つようになる。こう宣言するのは,米国のウェブログ作成ソフトウェアなどのソフトウェアメーカー。ユーザーランド・ソフトウェア社のデイブ・ワイナー最高経営責任者(CEO)だ。

 当然,既存の報道機関はこうした発言に反発する。特に名指しされたニューヨークタイムズのオンライン部門であるニューヨークタイムズ・デジタルのマーティン・ニセンホルツCEO)は,「そんなことはない」と。これもまたネット上で反論している。それではということで二人はネット上で公開の賭けをすることに決めた。勝負のときは2007年の年末。市民ジャーナリズムの代表格である「ウェブログ」と呼ばれる個人ホームページと,商業ジャーナリズムの代表格であるニューヨークタイムズのネット上での影響力を測定し,負けたほうが勝ったほうに1000ドル支払うというものだ。(中略)

 ウェブログ対ニューヨークタイムズの賭けは次のようなルールで行われる。

 2007年の五大ニュースを示すようなキーワードを一つずつ5回。人気検索サービスのグーグルに入力する。もしその年の五大ニュースの一つが「ニューヨーク株式市場の暴落を引き金に世界的な大恐慌が発生」というものであれば,「大恐慌」というキーワードでどのような情報が検索されるかを調べる。

 グーグルはキーワードに該当する情報を複数見つけた場合には,それぞれの情報に張られたリンクの数を比較し,その数の多いページから順に表示する仕組みになっている。張られているリンクが多いほど重要である可能性が高いからだ。

 この検索サービスでキーワード検索を5回行い,ニューヨークタイムズの記事のページよりウェブログのページの方が3回以上先に表示されればウェブログの勝利ということになる。

 ウェブログの勝利に賭けるワイナー氏は「報道機関は経営不振で情報の質が低下し。多様化する社会に対応できなくなりつつある。一方で、人々はネット上で信頼できる情報を発信するようになった。ジャーナリズムの潮の流れが変わったのだ」と主張する。

 これに対し。ニューヨークタイムズのニセンホルツ氏は「読者が求めているのは,偏見のない正確な報道だ。この点で報道機関はネット上の大衆発信情報より優れている」と反論している。ウェブログ対ニューヨークタイムズ,はたして勝利の女神はどちらに微笑むのだろうか。

(国際社会経済研究所監修,青木日照・湯川鶴章『ネットは新聞を殺すのか一変貌するマスメディア』NTT出版(2003)の第1章より抜粋,編集)

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