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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 総合政策学部 小論文 2002年 過去問

2002年 慶應義塾大学 総合政策学部 小論文 課題文

問題

 われわれの日常生活は。「もの」を作ったり,サービスを提供したりする。さまざまな産業や企業活動の上に成り立っている。精巧な製品や便利なサービスがあるからこそ,快適な生活が送れるのである。しかし,産業やその担い手である企業は,われわれの社会を明るく便利にするだけではなく,いろいろな問題をも起こしている。そういう二面性を前提にした上で,次の7つの資料のうち。少なくとも3つを用いて,将来の産業社会における企業の役割を議論しなさい。(使用した資料番号を明記し。全体で1000字以内)

資料1

 楊枝を一本削ったこともないくせに,というのは細工仕事に不馴れな人に使われる。細工仕事としたらいちばん単純な,だれにでもできることだから。楊枝が喩えられた。このごろは鉛筆を削ることのできない子どものことが言われる。楊枝はナイフがあればだれにでも削れる。けれどもそれは木枯紋次郎の楊枝と同じで売り物にはならない。 

 わたしは歯並びが悪いから楊枝は必需品で,工場の食堂にも自前の楊枝を置いておく。近所のスーパーマーケットで買う。ビニールの筒に60円の値段が貼ってある。新しいのをざっと数えてみたら300本ほど入っていた。同じ太さに削り。先をとがらせ,元の方には滑り止めとでもいうのか。擬宝珠のような飾りもつけてある。そこからちぎって,等警台のように楊枝台に使うものだという話も聞いたが,真偽のほどはわからない。それにしてもそんな細工もほどこして一本が20銭ということになる。製造原価は10銭にもならないだろう。 

 10銭にもならない楊枝を削って,暮らしを立てる人たちがいる。むろん一本ずつ小刀で削るわけではない。楊枝を作る機械をこの眼で見たわけではないけれど,売っている楊枝は機械で作られたものだということは,ひとめでわかる。別にマイクロメーターで測定してみたわけではないけれど。一本一本の太さの誤差は百分の3ミリとか4ミリに作られているだろう。機械で作るとそうなる。機械で作るのだから。工場があるにちがいない。楊枝をつめたビニールの円筒に,ラベルが貼ってある。△△△楊枝製造本舗と小さく印刷してはあるが,所在地までは書いてない。工場は韓国か東南アジアのどこかの国にあるのかも知れない。人件費が安いから。日用雑貨品の多くは,そういう国で作られていると聞く。 

 大きな工場ではないだろう。テレビや船や,あるいは鉄鋼そのものを作るような工場のイメージは浮かばない。それがどこの国であれ,衛生というものに気を使うから,その工場で働く人たちは男なら帽子を,女なら真白な頭巾のようなものをかぶっているだろう。(中略) 

 工場では,一本10銭の楊枝を,どうかして一本8銭で作れないものかと,心を砕いているだろう。もう少し機械のスピードをあげられないかとか,機械のスピードをあげたらそこで働く人間が疲れてしまうとか,機械が痛んでしまうとか。そんなことがしょっちゅう問題になるだろう。 

 楊枝の擬宝珠のような飾りの部分をよく見ると,かすかに焦げ目のような色がついている。切り口は,明らかにうす茶色に変化してさえいる。楊枝を削る刃物との摩擦熱で,焦げるのだろうか。もしそうなら,スピードをあげれば焦げ目はもっと強くなってしまう。切り口が黒く焦げた楊枝は,売りものにならないということもあるだろう。 

 楊枝を一本削ったことはなくとも,楊枝をじっと見つめていると,それを作る人びと,それを作る工場のことは連想される。(小関智弘『春は鉄までが匂った』1979年発行,より抜粋。編集)

資料2

 携帯電話の出現によって,電話が個人的メディアになりつつある。また,電話の回線はパソコン通信のネットを形成している。したがって,電話という装置は現在,大きく変容しつつある。しかし,振り返って見ると,電話は当初からさまざまな可能性を持ったメディアとしてあったことがわかる。

 グラハム・ベルによって電話が発明されたのは1876年。それまでの電信は信号でコミュニケーションしていたのに対し、電話は肉声でのコミュニケーションを可能にした。電話が発明された当初は、電信機の方が将来のメディアとして注目されていた。電話が発明された同年の電信の状況は。アメリカで8500ヶ所の電信局と12万マイルを越える電信線が全国を覆っていたという。いまだに、日本でも電柱を「電信柱」という人もいる。

 当初は、電話で雑談するということは誰も考えなかった。電信と同じように。高速度でしかも手軽に情報のやり取りをするメディアとして使った。ビジネスのメディアと考えられていたのだろう。「おしゃべり」(チャット)。つまり社交のための装置として電話が使われはじめるのは、アメリカでは1920年代あたりからである。アメリカの電話会社AT&T社が電話を新しい社交のメディアとして市場を広げていこうとしたのも、この時代からだった。

 この時代に、現代の若者の長電話と同様のことが主婦たちに広がっていった。電話があるからこそ起こった、新たなコミュニケーションの様式だといえるだろう。

 電話によるチャットという新しいコミュニケーションは、現在のパソコンのチャットへとつながっている。また。電話は顔が見えないがゆえに。声の調子に対する特別の意識としやべり方を生み出した。

 さらに、電話を使って話をする時の。新しい身振りまでつくった。初期におけるこの身振りは、アメリカ映画の中に見ることができる。さらに、興味深いのは、初期の段階では、電話が単純な情報伝達やおしやべりのメディアとしてではなく、いわばブロードキャスティング的なメディアとして使われる可能性を持っていたことである。ベルは、最初に。オルガンの演奏を電話を通して聴衆に聞かせた。1881年、パリで開催された国際電気博覧会で電話を有線放送的なメディアとして使った試みが人気を博した。そして1893年から第一次大戦後まで、ブダペストのテレフォン・ヒルモンドは契約した家庭に音楽やニュースを電話でサービスしたことで知られる。このアイデアは、アメリカのエドワード・ベラミーのSF「顧みれば」(1888年)に描かれた

西暦2000年の未来都市ボストンに登場してくる。

 電話によるいわば,有線放送的なこの使い方は,現在のインターネットによるさまざまな情報サービスと似ているといえるだろう。(柏木博『20世紀をつくった日用品』1998年発行。より抜粋。編集)

資料3

 カップヌードルのかたかな表記のロゴをよく見ると。あることに気付く。「ド」の文字だけが少し小さいのだ。発売当時は。「ヌードル」という言葉があまり認知されていなかった。そこで。「ヌード」と発音されるのを避けるために,デザイナーの大高猛は「ド」だけが小さいロゴを提案したのだった。やがて「ヌードル」の語が日本人に広く認知されるようになったのは,カップヌードルのおかげとも言える。(中略) 

 熱湯を注いで3分待つだけ。初めて食べた時に,ちょっとした驚きと感動を味わった人は少なくないだろう。71年11月。東京・銀座の歩行者天国で初めてカップヌードルを食べた人であれば,その時の印象はなおさら強烈に残っているに違いない。銀座の一角に作られた仮設の売り場には,多くの人がもの珍しそうに集まっていた。売り場に掲げたキャッチフレーズが,「お湯さえあれば,いつでも,どこでも」。そのお湯が足りなくなって客が待たされる一幕もあったほどに大盛況で。最も売れた日には,一日で2万食を売り尽くした。 

 カップヌードルの売り場のすぐ隣には,同年8月に出店したばかりの日本マクドナルドの第1号店。この店舗はテークアウト専門だった。当時の流行だったミニスカートやジーンズをはいた若者たちが,カツプヌードルやハンバーガーを食べながら歩行者天国を闇歩(かっぼ)する。その様子は,食文化の新時代到来を象徴するものだった。 

 歩行者天国での販売開始からさかのぼること約5年半の66年6月。日清食品・安藤百福社長(当時,現会長)は,ハンバーガーの故郷,米国に視察旅行に訪れていた。その主な目的は,インスタントラーメンを“世界商品”に成長させるための市場調査だった。 

 その日は,「チキンラーメン」を売り込むため,現地のスーパーマーケットのバイヤーを訪れていた。百福の待つ応接室に通訳を伴って現れたバイヤーは,プラスティック製のフォークを入れた紙コップを片手に持ち,小脇にはポットを抱えていた。話が一段落し,いざ試食となると,バイヤーはサンプルの袋を開け。めんを取り出すとおもむろに二つに割り,紙コップに突っ込む。そこにポットから湯を注ぎ,フォークで少しほぐすとめんを豪快に口に放り込んだ。 

 百福は。「何て食べ方だ。これでは本当の味が分かってもらえない。食べ方はちゃんと説明したはずなのに」と憤りを感じたものの,それは一転して歓喜に変わった。「コップだ」。以前から百福は,「インスタントラーメンを世界商品とするためには,特に欧米に市場を広げるには,はしとどんぶりに代わるものを考えなければならない」と感じていた。その重要なヒントを,そこに見つけたのだ。 

 矢も盾もたまらず,ホテルに戻った百福はすぐさま,バイヤーと同じように紙コップでチキンラーメンを食べてみた。湯を注いだ時に紙コップが熱くて持ちにくかったり,紙コップの臭いが気になったりと,難点はある。しかし,どんぶりに代わる容器の大きなヒントとなり,さらには「容器入りインスタントラーメン」という新しい商品形態へとイメージは広がった。帰国する飛行機の中でも百福は,新商品のことで頭がいっぱいだった。 

 「容器を密閉するにはどうしたらよいだろうか」。機内食をとりながらも百福はそんなことを思案していた。その時ふと,百福の手が止まり,目は手元に釘付けになった。それはマカデミアナッツのアルミ容器を密閉した。紙とアルミ箔を貼り合わせたふただった。「これでふたも何とかなる」。容器入りインスタントラーメンのイメージは,どんどんと具体的に広がっていつた。 

(日経デザイン編『メイド・イン・ジャパンの時代』1996年発行,より抜粋,編集)

資料4

 ファストフード業界の競争がアメリカ国内でますます激化するにつれ大手各社は将来的成長のために、国外市場に目を転じるようになった。マクドナルド社は近年、同社の国外進出への期待を表現するのに新しいフレーズを使うようになった。「世界的実現」(globalrealization)だ。10年前。マクドナルドはアメリカ以外の国に約3000店舗を持っていたが、今では、国外117以上の国々に、約1万5000店舗をかまえるまでになった。現在、毎日5軒近くの店が開店しており、うち少なくとも4軒は国外だ。同社の最高経営責任者ジャック・グリーンバーグは、今後10年間で店舗数を2倍に増やそうと目論んでいる。同チェーンはケンタッキーフライドチキン同様、利益の大半を国外で稼いでいるのだ。マクドナルドは今や、世界で最も有名なブランドであり、コカコーラ以上に親しまれるようになった。アメリカのファストフード産業の価値観、味、そして業界慣行までが地球上のあらゆる場所へ輸出されており、社会学者ベンジャミン・R・バーバーが「マックワールド」と呼ぶ均質的国際文化を創る一端を担っている。 

 フアストフード・チェーンは、西側諸国の経済発展の象徴となった。彼らはたいてい、ある国が市場を開放したときに最初に乗り込む多国籍企業であり、アメリカ流フランチャイズ方式の前衛集団として機能する。15年前、マクドナルドがトルコに最初に店を開いたとき、この国で事業を行なう国外のフランチャイズ企業はひとつもなかった。それが今や、セブンイレブン。ニュートラスリム。リマックス不動産、メールボックスETC、ジーバート・タイディ・カーなど、何百というフランチャイズ店がトルコに展開している。フランチャイズの成長を支援することは、アメリカの外交政策の一部にさえなっている。国務省は現在、国外フランチャイズのビジネスチャンスについて詳細な研究報告書を発行しており、在外公館において、「ゴールドキー・プログラム」を実施して、アメリカのフランチャイズ企業が国外で提携先を見つけるための支援を行なっている。 

 人類学者ユンシアン・ヤンによれば、北京の消費者の目に映るマクドナルドは、「アメリカーナ文化と、近代化の約束」を象徴しているのだという。1992年には、北京のマクドナルド第1号店に入るために、数千人が何時間も辛抱強く待ったという。その2年後、クウェートにマクドナルドが開店したときなどは、ドライブスルーの窓口に並んだ車の列が、10キロに及んだ。同じころ,サウジアラビアの聖都メッカで,ケンタッキーフライドチキンの店がチェーンの新記録を作った。イスラム教の聖なる月ラマダーン期間中の1週間で,20万ドルの売上げを得たのだ。ブラジルでは,マクドナルドが同国最大の民間雇用主になった。ファストフード・チェーンは今や帝国主義の封土であり。世界の隅々にまで使者を送り込んでいる。イリノイ州オークブルックにあるマクドナルド・ハンバーガー大学の授業は,20カ国語で行なわれている。黄金のアーチから遠すぎる場所など。地球上にはほとんどないように思える。タヒチ観光局は1986年に,自然のままの浜辺を前面に出し,「マクドナルドがなくて。ごめんなさい」というコピーで。広告キャンペーンを展開した。しかし,その10年後,タヒチの首都パペエテに店ができた。ここのハンバーガーやフライドポテトは。何千キロも離れた最寄りの牧場やじゃがいも畑から、太平洋を越えて運ばれてくる。

(エリック・シュローサー『ファストフードが世界を食いつくす』2001年発行。よ

資料5

 トヨタ自動車の創業者豊田喜一郎は,織機王の父豊田佐吉がそうであったように,「国産独立」を信条としていた。昭和初年に,「かつて紡織機械は外国品万能で内地品を見向きもしなかったものを,この数年間に全く輸入を止めて。内地品万能の時代を至らしめたのと同じ経験を繰り返すこと」(『トヨタ自動車30年史』昭和42年)を自動車工業を対象に決意した。それは、常識では考えられない困難で,リスキーな道であったが,彼はその道を選んだ。そこには,国産独立の国家目標に対する貢献を当然の任務と考える社会的責任感が働いていた。 

 しかし,重要なことだが,喜一郎は,自動車の「国産独立」という大事業を政府とのかかわりあいなしに実現しようとした。彼は,昭和11年に自動車製造事業法が制定された直後,次のように語っている。「わたくし自身の道楽心からいうと,自動車工業法(製造事業法)によらなくては,成立しえないような工業は,やりたくありませんが,日本の現状では,やむをえないことでしょう。…当然もうかる事業を,当然な方法でやってゆくよりも,だれもあまりやらない。またやりにくい事業を,ものにしてみるところに人生のおもしろみがあるので,できなくて倒れたら自分の力が足りないのだ。いさぎよく腹を切ったらよいではないか。できるところまでやってみよう。どうせやるなら,他人の一番むずかしいという,大衆乗用車をつくってみようという立場から。やりかかったのです。…この事業を成功させなくてはならぬ責任を負わされると同時に,かならず成功するような法案が,設けられて,前途は明るくなってきただけ,暗夜に道をさぐるたのしみが減ぜられました」(『トヨタ自動車20年史』昭和33年) 

 喜一郎の発言は重要である。そこには,自動車の「国産独立」を求めるひたむきな社会的責任感と。政府の監督保護に頼らなくては成立しないような事業はやりたくない。自分でやれるところまでやってみて,失敗したらいさぎよく責任をとろうという企業家精神とのみごとな結びつきが見られる。また,リスクをおかして自動車の「国産独立」に立ち向かうナショナリズムが,決して滅私奉公などと肩を怒らせたものでなく,「道楽心」「人生のおもしろみ」「暗夜に道をさぐるたのしみ」などという私的な動機によって裏打ちされていることがわかる。(森川英正『技術者一日本近代化の担い手』1975年発行,より抜粋,編集)

資料6

 「自動車一20世紀の恋人」。この言葉はヨーロッパでも大衆車の量産が本格化した1930年代半ばに,イギリスで生まれたものと見られている。 

 人々の自動車のある生活への願望は,きわめて強烈だった。移動の可能性,時間の短縮,そして思いきって遠方へ行けること一これらの魅力は妖しいまでに20世紀の人々をとらえた。そればかりでなく,車を運転することは,自己拡大の手段でもあり,弱き者の自己補完のための道具ともなった。いつもはおとなしいのに,ハンドルを握ると人が変ったようになる一などというケースがこれにあてはまる。 

 さらに工業化社会の非情で仮借ない生活からのがれて,休日には田園地帯へのピクニックに出かけ。自然を体験できることも大きなメリットだった。30年代,ようやく実用化したばかりのカー・ラジオのダンス音楽に耳を傾け,ランチ・バスケット(お弁当)を積み込んでイギリスの田舎道を走らせる一それがこの時代の典型的なレクリエーションとなった。だがそうした自由を享受できる人の数は今日に比べて相対的にきわめて少なかった。(中略) 

 自動車は質の追求(ロールス・ロイス)と量の追求(T型フォード)の2つの流れのもとに発達を続けて来た。そして量の追求は,当然ながら大衆的モータリゼーションの充実へとつながって行く。 

 大衆化により,はじめは少数者だけが味わうことのできた自由な移動という便利さが。一般の人々のものとなる一という善意の期待を,ヘンリー・フォードやアドルフ・ヒトラーをはじめとする多くの人々が抱いたことだろう。 

 だが戦後に入ってしばらくたった60年代から。これが幻想にすぎないことがしだいにわかりはじめてきた。恋人だった自動車の“不実”ぶりが。次々とさらけ出されたからである。 

 大衆化による自動車の数の爆発的な増大が,モータリゼーションの深刻な質の変化をうながした。まず手のつけられない交通渋滞,交通事故,そして安全性問題,さらには大気汚染が,70年代に入ると自動車のマイナス面としてあらためて指摘された。 

 渋滞の中にあって,“移動の自由”は空約束となった。自動車を運転する人の最大の“天敵”が他人の車となり。一人のドライバーの意図は他のすべてのドライバーの意図と対立するようになった。 

 自然体験のためリゾート地に行く。ハイウェイの長蛇のクルマの列は数十キロ,ときには簡単に100キロをこえた。これはフランスのバカンス・シーズン,日本の盆暮の帰郷ラッシュのおりには珍しくなくなった。賭け好きのイギリス人は,幹線道路M5などの車の列の長さで賭けをした。(中略)

 自動車の存在はさまざまな悪循環をかかえている。自然と親しむため,悪路も踏破できる4輪駆動のRVが増大することで,かえって自然が荒されてしまうなどもその一つだが,増えすぎたことで。本来の機能がそこなわれてしまうといった矛盾はあまりにも多い。 

 だが今日の工業化社会において。人々は自動車漬けになって暮らす以外生きる途はなくなっている。山野にかくれての晴耕雨読の生活などは夢のまた夢であるし,山野にあってさえ,生活物資の流通は自動車にたよるほかない。

(折口透『自動車の世紀』1997年発行,より抜粋。編集)

資料7

 過去一世代のうちにアメリカ,ヨーロッパ,日本などで、相当な数の中流の女性が労働市場に参入し,子どもを産んでからも労働力としてとどまるようになった。この女性たちは,すでに下層のサービス業。製造業に雇用されている女性労働者に加わるかたちで参入してきた。1960年には,アメリカ女性で賃金労働に携わっていたのは約30%であり,70%は携わっていなかった。1990年までには60%近くが賃金労働に携わるようになり。携わっていない女性は40%になった。世界の先進経済国では,1990年までに専門労働,技能労働の50%近くが女性によって占められ,その多数がフルタイムで雇用されるにいたった。

 中流階層の女性を労働市場へ向かわせたのは,生活の必要と個人的な欲求である。中流の生活水準を維持するためには,いまや大人二人分の賃金収入が必要なのである。これら女性労働者にはそれまでよりもっとフレキシブルな勤務時間が必要だった。あらゆる階層で,多くの女性はパートタイムで働き,フルタイムで親としての役目を果たしている。

 こうして中流階層の女性が労働力として多数加わったことで,フルタイム労働者にたいしてもパートタイム労働者にたいしても,フレキシブルな勤務時間管理の刷新にいよいよ工夫がこらされた。これらの変化はいまや男女の別を越え,男性もまた変則的な時間で働く機会を増やしている。今日,フレックスタイム方式は何通りかある。アメリカ企業の約70%が多かれ少なかれ採用している最も単純な方式は,出勤日は固定されているが、何時から何時まで勤務するかを本人が決めるという制度である。これと対極にあるのが,約20%の企業が認めている「圧縮」勤務制で、従業員は1週間の規定労働時間をたとえば4日間で消化する。在宅勤務を選択できるようにしている企業は約16%を占める。とくにサービス,営業,技能労働などの分野で,多くはイントラネット情報通信網の発達により実現可能になった。アメリカの白人中間層の労働者は,男性も女性も,工場労働者やヒスパニック系労働者以上にフレキシブル勤務制を利用できる環境にある。フレックスタイムは一つの特典的な勤務形態であって,夕刻から夜間にかけての勤務はこの特典からもれた階層にまわされている。

(リチャード・セネット『それでも新資本主義についていくか』1999年発行。より抜粋。編集)

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