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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 総合政策学部 小論文 2000年 過去問

2000年 慶應義塾大学 総合政策学部 小論文 課題文

問題 次の5つの資料は、技術革新が経済、社会、国家などに及ぼす影響を様々 な観点から述べたものです。これらの資料の論点に適宜言及しつつ。今日 の技術革新がもたらしている大きな影響について論じ、そうした状況の下での国家の役割について検討しなさい (合計で1000字以内)。

資料1 産業革命以後の技術の変化

 日本の資本主義システムの未来という問題を、次のような基本的視角で とらえてみるとどうだろうか。それは、世界経済にテクノロジー・パラダ イム上の大きな変動が起こっているとき。新しいテクノロジー・パラダイ ムに適応していく姿が、それぞれ異なった資本主義のシステムを持ってい る国々の間で大きく違っている。という視点である。

 システムは、固定しているわけではない。永遠に完壁なシステムなど。 どこにもない。常に挑戦を受け、変革を余儀なくされる。しかも変革は, 他のシステムから学びつつ行われる。世界的な挑戦に、より的確に適応し 得たシステムのみに資本主義の未来がある。新しいテクノロジー・パラダ イムが訪れているとき、それをうまくつかむことができるかどうかは、実 は、単に技術の問題だけではない。企業システムや、さらにはその国の経 済社会システム(教育や、政府と企業の関係を含む)を変革しなくては 波のように押し寄せてくる新しいパラダイムを乗り切ることはできない。

 イギリスが成し遂げた産業革命は、蒸気エネルギーと繊維産業を組み合 わせ。みごとに当時の新しいテクノロジー・パラダイムに乗った。農民を 農場から切り離して労働力しか売る商品を持っていない工場労働者にする という。経済社会システムの変革をやったからこそ、それは可能だったの である。しかも繊維製品という。万人が必要とする生産物を商品化し、工場生産に乗せたことで。生産性は急上昇した。

 1870年代以降のドイツは違っていた。資本主義的に商品化したのは,機 械であり, 化学であり, 鉄であった。 こうした生産物の特性のため, ドイ ツは, 科学者やエンジニアの養成の面ではイギリスよりはるかに優れてい た。また, 資本集約的な鉄の生産のためには, 綿織物産業中心のイギリス の短期融資・商業銀行中心の銀行制度では間に合わない。長期の信用が可 睦な金融制度を作り上げる必要があった。つまりドイツは, 工作機械, 化 学。鉄中心の新しいテクノロジー・パラダイムの波に, イギリスに先駆け て乗り切るシステムを作り上げ, 成功したのである。

 1920年代の新しいテクノロジー・パラダイムの核は, 何といっても, 米 国の自動車産業である。電力が工場の動力を支配するようになった。文字 通りの大量生産方式を導入した。労働者は、チャップリンの映画「モダン・ タイムズ」の描く単純労働者と化する。しかし, 欧州では貴族しか乗って いなかった自動車を, フォードのT型車に代表されるように, 中間階層が 購入できる廉価で生産することに成功した。これはモータリゼーション(自 動車社会) を生み。それが郊外からの通勤を可能にして郊外化を生み, 郊 外の広い住宅には家電製品が普及した。米国は, 自動車, 住宅, 家電製品。 つまりアメリカ的生活様式を資本主義的生産の枠組みの中にしっかりとらえたのである。第2次大戦後は, 欧州も日本も, 二つの大戦の間に米国 で花開いたこのテクノロジー・パラダイムを導入し, 生活様式もアメリカ 化しながら, 米国にキャッチアップしていった。

 日本独自の立場からみると, テクノロジー・パラダイムは戦後, 次のよ うに変ぼうしてきた。時代を代表するテクノロジー・パラダイムには, 上 述したイギリス, ドイツ。米国の例からもわかるように, その中核に座る ような産業がある。ときには, これを「産業のコメ (米)」と呼ぶこともで きる。テクノロジー・パラダイムが変わるごとに, 産業のコメは新しくな る。新しい産業のコメには, いつも二つの大きな特徴がある。一つは, そ の価格が急速に下がること。だから産業全般に利用され, 普及する。二つ は, その品質が急上昇することである。

 日本で1950-60年代の産業のコメは, 鉄鋼だった。鉄鋼は, 上記の二つ の大きな特徴を強く持っていた。さらには, 石油化学製品も含めることができよう。そういう意味での重化学工業の時代だった。次の1970-80年代 はどうか。新しい産業のコメは、マイクロエレクトロニクスであった。半 導体の価格の急落とその質と能力の急上昇は言をまたない。日本の産業は この産業のコメをつかみ。NC工作機械や産業用ロボットで世界の生産の 7~8割を制するようになった。また光ファイバーに代表されるような技 術融合も世界に冠たるものだ。

 このように、世界経済では、何十年単位でテクノロジー・パラダイムが 変化する。その中核に座るリーディング(先導)産業も変わり。したがっ て新しい技術、新しい中核・先導産業が必要とする人的資本の技能の内容。 それを養成し管理する企業の雇用システムも変わる。また、新技術・新産 業の特性に適った新しい金融のあり方が必要になる。

 そうして今日の90年代、新しい技術と中核・先導産業は、情報技術を創 る産業であり。創られた情報技術を応用する産業である。 (吉富勝著「日本経済の真実」1998年、より抜粋。編集)

資料2 電子商取引

 インターネットを利用してその上で行う商取引。すなわち電子商取引(エ レクトロニック・コマース)は、新しい商取引の方法である。開始後わず か3年しか経過していないが、それは経済活動と社会環境を根本から変革 する可能性を持っている。その影響は、すでに通信、金融、小売といった 重要な業種に現れており、今後は教育、保健、政府などの領域にもその広 がりが予想される。そうした影響が最も大きく現れるのは、通常最も注目 を浴びている側面(例えば個人の好みにマッチした製品の提供。仲介業者 の排除等)に関してではなく、むし

ろ。あまり目立たないものの日常的な 商取引についての側面(事務用品の注文、代金支払等)。つまり企業同士の 相互取引についての側面に関してであろう。

 電子商取引を今日このように展開させることができたのは、規制緩和と技術革新が結合したからである。インターネットの前身が現れたのは1960 年代後半であるが、インターネットを利用した電子商取引が現実のものと なったのは、1990年代初めにWWW(ワールド・ワイド・ウェブ)とプラ ウザー (イ

ンターネット上で情報検索を行うためのソフトウエア)が登場したことに伴うものである。それと同時に, 遠隔通信業の自由化。さらに は情報通信において通信量と通信能力を飛躍的に拡大する技術革新がみら れたからでもある。

 その結果, 電子商取引を開始しようとする場合の障害は, 売り手と買い 手の双方にとって次第に小さなものとなっている。電子商取引の形態は, その初期においては, たいていの場合, 個別的に作成され複雑で費用のか かるものであり, したがって大企業が中心であった。しかし今日では, 2 ~3千ドルを投入すれば, 誰でも商売を開始して世界中の何百万人という 顧客を相手にすることができる。これまでは, お互いによくわかっている 者同士の間での企業対企業の取引であったものが, いまや顔を合わせるこ ともない非常に多くの個人を相手とする入り組んだ商取引になっている。 この意味において, インターネットが電子商取引に対して果した役割は, ちょうどヘンリー・フォードが自動車に対して果したこと, すなわち少数 の者にとっての賛沢品だったものを多くの者にとって比較的単純かつ安価 なものとしたことと似通っている。

 現在では, いつでも, どこにいても情報通信と商取引を行うことができ る環境になっている。これは甚大な影響を持つことが予想され, 特に経済的および地理的な面での境界線を侵食する(従来の境界線の意味を乏しく する)可能性が大きい。

 電子商取引の成長が予想されるのは, 取引に伴う各種の費用 (注文状の 発送の手数など) の低下。そして製品ないし顧客サービスの品質向上がと もに期待できるからである。このうち。取引に伴う費用低下が企業対企業 の取引において大きな影響を持つのは, とりわけ中小企業についてである 可能性が大きい。なぜなら。大企業はすでに電子的データ交換のシステム を利用しているからである。インターネットに容易にアクセスすることが できるようになったことは。中小企業にとって電子商取引を現実性の高い ものにしており, またそのことによって電子商取引が広がる可能性が大き い。

 このように, 中小企業が競争に参入することに加え, 企業は世界市場を 相手に活動をすることができるようになるため, 企業間における競争は間 違いなく激化することになろう。そして, 企業の経営戦略や国内外の市場における競争上の優位性も変化するだろう。

 電子商取引の最も大きな影響が現れそうなのは、情報の送信に関連する 業種(郵便、通信、ラジオ、テレビ等)や情報を生産する業種 (金融、娯 楽、旅行代理店。株式売買仲介業等)である。電子的に引渡しができる製 品。例えばソフトウエア、旅行サービス。娯楽、金融などは、企業対企業 の取引だけでなく、企業対消費者の取引においても、電子商取引にとって 有望な商品である。

 電子商取引は、既存の規制や対応の仕方、例えば商法。税法、消費者保 護などの適用に関して種々の問題を提起している。特に小売業の規制は, 従来。物理的な店舗が存在することを前提に設けられたものであり、例え ば店舗の規模。営業時間、販売価格の設定や販売促進についての規制、あ る種の商品 (例えば酒類)についての取り扱い許可制などが、果して電子商取引に適用できるかどうかに疑問が投げかけられている。多くの場合。 これらの規制は、電子商取引の実態に照らして再検討する必要が生じてい る。また、電子商取引については、首尾一貫した統計が現在のところ存在 しないばかりか、その規模。増加度合い。取引内容などに関する航計も欠 如している。政策を議論する場合には、これらは不可欠である。

(OECD The Economic and Social Impact of Electronic Commerce, 1999年、より抜粋。翻訳ならびに編集)

資料3 技術の変化と国家の役割

 ここでは、政治と権力に関する根本的な問題にどのような状況が生じ。 またその再考が必要になっているかを考えたい。以下で提示する議論のポ イントは、次の点にある。すなわち。社会や経済に関する最終的な政治的 権限は本来は国家に帰属すると考えられているにもかかわらず、第二次大 戦後においては、世界市場という非人格的な力が強く作用するようになっ ていること。つまり政府間の協力的な決定よりも、むしろ金融。産業、貿 易などの分野における民間企業の力が強まっているという視点である。

 かつては、国家が市場を支配する立場にあったが、いまはこれが逆転し、市場こそが多くの重要な問題に関して国家よりも上に立つ状況になってい る。国家の権限が衰退しつつあることは。その権限が企業や国家以外の各種機関。さらには地方組織へと次第に拡散していることにみてとれる。 このように国家と市場の力関係が変化した種機関。さらには地方組織へと次第に拡散していることにみてとれる。

 このように国家と市場の力関係が変化した最大の原因は, 技術の変化ス ピードが加速しているためである。社会科学者は, 技術変化の重要性をと もすれば見逃しがちであるが, 過去100年間における技術の変化はそれま での人類史上に例をみないほど急速なものであり, 近年はその動きがさら に加速している。まず電報, 電話, テレビなどが現われ, これに続いて通 信衛星や光ファイバーが登場してコンピュータとコンピュータが結合され てそれがネットワーク化され。そのことによって遠隔地の市場とも1日24 時間連結することが可能になっている。これは, 現代日常的にみられるこ とであり, 誰でも知っている単純な事実であるが, 大変重要な意味を持つ。 なぜなら。それを考慮にいれるならば。国家の権力の変化。 および市場の 力の変化がともに生じた理由を明快に理解できるからである。それは, 一 度限りの変化ではなく, 継続的に作用する要因であるので, そのダイナミ ズムが重要になる。

 技術革新がもたらした影響に関する一つの重要な事例は, 企業の行動様 式が変化し, その結果。いわゆる多国籍企業ないし超国家企業の重要性が 増していることである。企業は, 外国の市場に接近しその国の国内で生産 活動を行うために (そのためには技術や経営方式を提供することになる), 国境を越えて外国企業と提携することになる。発展途上国やかつての社会 主義国では, 多国籍企業の進出に対して従来は消極的な態度をとっていた が。 そうした姿勢は次第に変化している。その大きな理由は, このように 海外企業が進出してくることによって国内の雇用が増大し, また輸出の増 大によって所得も増えることが期待できるからである。

 民間企業の戦略がこのように生産活動の方向をはじめ, 貿易, 国際投資 を左右するようになると, その結果, 国家の財力と権限, つまり相対的に みた国家権力の強弱に影響を与えるようになる。この点は, 2人の英国人 ジャーナリストがうまい取り上げ方をしている。彼らによれば「超国家企 業は, 国家の場合と同様。多くの忠誠と義務を取り合わせた一つの存在に なった」というわけである。さらに彼らは。企業の経営方針決定や交渉に おける政治的な性格。そして企業が持つ社会や政治を変革する力について 次のように述べている。「巨大な超国家企業のトップは。現代では国家の君主に等しく, 彼は敵対関係の多い世界において交渉によって自分の道を切 り開かなければならない戦略家である。これらほとんどの企業では, ブラ ッセルやワシントンに『対外関係部」などといった企業内組織を持つこと によって政治的な役割を拡大してきている。超国家企業の目的は。単に利 潤に関することだけではない。そこには, 企業自体の存続を含めてより長 期的な配慮も含まれている」と。

 このような状況の下において。国家が現在あるいは将来において考慮す る必要がある課題のひとつは, 企業の競争政策に関してである。確かに, 国際貿易についてはルールや紛争処理に関して各国共通の何らかの枠組み を持つことが必要である。という意見はいまや経済関係の国際機関におい ては標準的な考え方になっている。ただ。それを補完するうえで同時に必 要とされること (少なくとも論理上必要なこと) は, 企業間の競争につい ても, 現在よりも首尾一貫性の高い国際的なルールの体系を作ることであ ろう。もし。ある国で1企業による独占(または巨大企業数社による寡占) が容認される一方, 別の国ではそのような経済力の集中を禁止するという 状況の下では, 市場や市場における商取引はこうしたルール上の差異によ ってゆがめられてしまうことになるからである。

(SusanStrange,7c Ry 2/ y Sy:737ysy Py y My yy, 1996年, より抜粋。翻訳ならびに編集)

資料4 グローバリゼーション

 モノ, 資本, 技術が国際的にますます自由に移動するようになったため。 経済のあり方が全く変わってしまった こうした見方は,広く一般にな されている。こうした通念によると。国家はもはや自分自身の将来を決め る力を持たなくなっており, 政府は国際的なマーケット (市場) に振り回 されている, ということになる。

 経済のこのような変化は, 裕福な国にも貧しい国にも利益をもたらす。 としてこれを歓迎する向きも確かにある。しかし, 他方では, 多くの人々 (ジャーナリスト, 労働組合の幹部。アメリカ二大政党の政治家。さらに は企業経営者など) はこれを嘆いている。つまり, 近年生じている経済の 不安定化。失業の増大, 賃金の低下はグローバリゼーションによるものだとしてこれを非難している。

 しかし, どちらの見解も, グローバリゼーション(取引の世界的一体化) を正しくとらえてはいない。なぜなら。いずれの立場も「世界市場は全能 である」と当然のごとく考えており, 国家の自立性が失われつつあるとい う見方には大きな誇張が含まれることを理解していないからである。

 グローバリゼーションが進行している, というとらえ方には確かに魅力 的な点がある。例えば, この半世紀の間をみると。世界貿易は世界全体の生産の増加テンポを上回る増加をしてきたし, また現在では, 資本の国境 を越えた移動はこれまでにない速さで起こっている。一方。新興工業国 (NIEs)の輸出が急速に増大しているため。先進諸国ではそれらの国から の輸入増大により非熟練労働者が圧迫を受けている。ただし, 他方ではこ れが第三世界において何千万人もの雇用機会を与えていることを理解する 必要がある。世界経済の統合化は, 確かに進行しつつある。

 そもそも。なぜ, グローバル化した市場の重要性という言い方が好まれ るのであろうか。ひとつには, そう言っておけば, いかにも物ごとが分か った人だというように聞こえるからである。そして, ジャーナリズムで取 り上げられるような各種の会議やセミナーで報告者となる場合, グローバ ル化に関してもったいぶった話をすれば, 注目を浴びやすいからでもある。 だが, それよりも深い理由がある。それは, 本当の原因や対応策は国内的 な性格のものである場合でも。外国から押し寄せる不思議な力が作用して いるのだ。 ということを主張してみたくなることである。これは, 政治的 立場がどのようなものであるかを問わない。例えば, 海外の遠い国に住み。 また聞き慣れない名前を持った人々の行動がアメリカ経済に影響を与える。 といえば人々の漠然とした不安をうまく利用できる。あるいは, 環境保護 に関する規制はコストがかさみ海外企業との競争上不利になるので受け入 れられない。 といえば企業は社会的責任を回避するうえでグローバル化と いう良い口実ができたことになる。

 ところで, 経済のグローバル化の実態がどの程度であるかは別として。 ばかばかしいほどグローバル化を強調する議論は, 本当に害を伴うものだ ろうか。答えはイエスである。そのひとつの理由は, 一般国民が, 自国の 経済問題の原因は国際貿易によって海外からもたらされるものだという観念を植えつけられる結果、保護貿易主義 (政府による貿易取引への介入) に陥る可能性があるからである。そうなれば、経済のグローバル化によっ てアメリカと海外諸国の両方にもたらされた望ましい成果が消え去ってし まうことになる。しかし、上記のような行き過ぎたグローバル化罪悪論は, もっと深い意味でのリスクを持っている。それは、国民に宿命論を植えつ ける点である。つまり、直面する問題はあまりに大きいのでとても対応で きない。という気持にさせてしまう危険があることだ。そうした宿命論は すでに西ヨーロッパではかなり浸透している。そこでは、人々は政策の失 敗をしでかした国内の指導者達に厳しい目を向ける代わりに、グローバル 1巳した市場がもたらす「経済的恐怖」を漢然と問題にするようになってい る。

 アメリカの経済政策や社会政策に立ちはだかる重要な問題のうち、外国 に原因があるものは何もない。アメリカは、国内の貧しい人たちや不運な 人たちに対して現在よりもはるかに手厚い助けを差しのべるだけの力を国 内的に持っている。もしアメリカの政策が近年次第にみすぼらしいものに なったとするならば、それはまさに政治的な選択の結果であり。正体不明 の力がそれを押しつけたからではない。グローバル化した市場がアメリカ にそれを押しつけたのだ、ということを口実にして責任逃れをすることは できないのである。

(Paul Krugman The Accidental Theorists、1998年、より抜粋。翻訳 ならびに編集)

資料5

 国家の将来 世界経済のグローバリゼーションが話題になりはじめてからおよそ35 年、この間ずっと、近代国民国家はいずれ役割を終えるだろうという予測 が各方面からなされてきた。事実、イマニュエル・カントの1795年の論文 「恒久平和論」を皮切りに、カール・マルクスの「国家の死滅」。さらには 1950-60年代におけるバートランド・ラッセルのさまざまな演説にいたる まで、選りすぐりの知性を持つ人々はほぼ200年も前から国民国家の衰退 を予言しつづけてきた。

 こうした予言の最新版は、ウィリアム・リーズ=モッグ卿とジェームズ・デール・ダヴィッドソンの共著『主権を持つ個人」である。著者のリーズ =モッグは「ロンドン・タイムス」元編集長で現在はBBC (英国放送協会) 副会長, ダヴィッドソンは全英納税者同盟の会長である。著者たちは, 所 得の最低層に属する人々を例外とすれば, インターネットを通じて, 人々 が簡単にリスクもなく課税逃れできるようになったため, 主権は必然的に 個人の側に移ってゆき, その結果。国民国家は歳入不足で死に絶える, と いう。

 とはいえ, 国民国家はさまざまな欠陥にもかかわらず。驚異的な復元力 をこれまで発揮してきた。たしかに, 旧チェコスロバキアと旧ユーゴスラ ビアという国家は秩序変革の犠牲となったが, 一方で国民国家としてその 体をなしていなかったトルコは, 現在は立派な国家として機能している。 また。外国勢力に征服されていた期間以外, 統一が長続きしたことのない インドも。国家としてのまとまりをみせている。さらに, 19世紀の植民地 帝国支配を脱して独立した諸国は, すべて国民国家の形態をとっているし, 歴代ツァーリによる支配。そしてその後継となった共産主義体制によって さらに統合を強化されたユーラシアの帝国(ロシア/ソビエト) から独立 したすべての諸国も同様である。

 少なくとも今日にいたるまで。国内の政治的統合を果し, 世界の政治コ ミュニティの一員となるための政治体制としては国民国家に匹敵するもの は存在しない。したがって, 国民国家は, 経済のグローバル化とそれに伴 う「情報革命」を前にしても生き残っていく可能性が高い。もっとも, 今 後国民国家は大きな変ぼうを遂げるだろうし, とくに, 国内の金融・財政政策, 対外経済政策, 企業の国際的活動の管理, そしておそらくは戦争の 手法をめぐって著しい変ぼうを遂げていくだろう。

 (ピーター・F・ドラッカー「グローバル・エコノミーと国民国家」『中 央公論』1997年11月号, より抜粋。ただし, 一部訳文を改変)

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