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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 総合政策学部 小論文 1999年 過去問

1999年 慶應義塾大学 総合政策学部 小論文 課題文

問題 「公」と「私」のあり方について相対立する立場をとっているという 視点から以下の2つの論文 (AおよびB) を読んだうえで, どちらかの立 場に立って。相手方の立場を批判しなさい (1000字以内)。 解答にあたっては, まず自分がどちらの立場でどちらを批判するか, 解 答用紙のAまたはBを○印で囲むことによって明らかにしなさい。

 また, 批判を展開するにあたっては, 論文からの直接的な引用ではなく。 あくまで自分自身の表現で記すようにしなさい。

資料A

■子どもはごまかせない

 クリントンの税制案は, お決まりの言いまわしで修飾されていた。いわ く, 「金持ちは富みすぎ,貧しい人は貧しすぎる」, 「彼らは不相応な報酬を 得ている」, 「それこそ公平というもの」云々。

 政治家がこのような言いまわしを使うのは, それを望む選挙民がいるか らにほかならない。おそらく, 政治家にそのような言い方をしてもらうこ とで。隣人の働きをあてにするうしろめたさが少しは軽くなるからではな いか。自分が貧欲な人間と見られるよりは, 隣人はしぼり取られて当然と 見せかけておくほうが, たしかに気は楽だ。

 ここでのキーワードは「見せかけ」である。つまり, 所得再分配といえ ば聞こえはいいが、実際には, そのようなレトリックを本気で信じる人な どいないということである。所得再分配は, ときにより, ある人たちをご まかすためのレトリックとして使うことはできる。人によっては, それで いい場合があるからだ。しかし, それをいついかなる場合でも信じるとい う人はいないし, ときにそれでよしとする人も, じつは心底から信じてい

るわけではない。本気で信じるには、所得再分配はあまりにもおかしな話 なのだ。

 なぜここまで断言できるかというと、娘を持った経験からである。娘を 公園で遊ばせていて、私はなるほどと思った。公園では親たちが自分の子どもにいろいろなことを言って聞かせている。だが、ほかの子がおもちや をたくさん持っているからといって、それを取り上げて遊びなさいと言っ ているのを聞いたことはない。一人の子どもがほかの子どもたちよりおも ちゃをたくさん持っていたら。「政府」をつくって、それを取り上げること を投票で決めようなどと言った親もいない。

 もちろん。親は子どもにたいして、譲りあいが大切なことを言って聞か せ、利己的な行動は恥ずかしいという感覚を持たせようとする。ほかの子 が自分勝手なことをしたら、うちの子も腕ずくでというのは論外で、普通 はなんらかの対応をするように教える。たとえば、おだてる。交渉をする。 仲間はずれにするのもよい。だが、どう間違っても盗んではいけない。と。 まして、あなたの盗みの肩を持つような道徳的権威をそなえた合法政府と いったものは存在しない。いかなる憲法。いかなる議会。いかなる民主的 な手段も、またこのほかのいかなる制度といえども。そのような道徳的権 威をそなえた政府をつくることはできない。なぜなら、そのようなものは この世に存在しないからである。

 これらは私たちがどのように見せかけようとも、倫理的に複雑な問題で はない。政治家・評論家は見せかけをおおげさにして商売のタネにしてい るのだが、子どもを相手にしたとき、見せかけはもののみごとに崩れてし まう。おとなであれば、公園での良いおこないと悪いおこないを見わける ことはむずかしくない。 おとなが子どもに何か教えようとすると、はからずも私たちの心のなか の真実が明るみに出る。政治家・評論家がほんとうはどう考えているのか を知りたければ、講演や書いたものを鵜香みにするのではなく、彼らが家 に帰って子どもに何と言っているかを知る必要がある。また、ある政治家 の行為が良いのか悪いのかを見きわめたければ、あなたの家族がその行為 をどう受け止めているかを聞いてみるのがよい。

■人生とケーキの大きさ

 数年前, 娘のケーリーと彼女の友だちのアリックスも連れて夕食に出か けたことがある。2人ともたしか6歳のときだったと思う。デザートとし て, いまアイスクリームを注文するか。あとで風船ガムを買ってもらうか。 ということになった。アリックスはアイスクリーム, ケーリーは風船ガム を選択した(これから親になる人に。デザートを安くあげたければ。風船 ガムもまたデザートであることを早期教育によって認識させよう)。

 アリックスがアイスクリームを食べ終わるのを待って, ケーリーのガム を買いに出た。ケーリーは念願のガムにありついたが, アリックスには当 然のことガムはない。アリックスは, そんなのずるい。と言って泣き出し た。第三者のおとなから見れば, アリックスに正当性がないのは明らかだ った。彼女にはケーリーとまったく同じ選択の機会が与えられ。先に楽し みを味わったにすぎない。

 これと同じ問題はおとなの世界でも起きる。ポールとピーターは青年時 代に同じ機会を与えられていた。ポールは無難な人生を選択し, 1週間に 40時間だけ働き。決まった給料をもらっていた。ピーターは青春を新事業 にかけ, リスキーな報酬を求めて1日中働いた。中年までにピーターは金 持ちになったが, ポールはそうならなかった。ポールはこんなつもりでは なかったと泣くことになり, この不平等は社会の制度がいけないからだと ぼやいた。

 ピーターの選択のほうが本来的にポールの選択より称賛に値する, と言 いたいのではない。まして, ガムのほうが本来的にアイスクリームよりお いしい。 などと言うつもりもない。私が大いに問題にしたいのは, 自分の 選択の結果にたいするポールの言い分についてである。そのような言い分 をテストするいちばんいい方法は。これが子どもどうしのいさかいであれ ば。ポールのような言い分をもっともとするおとながいるだろうか。と問 うてみることだ。ポールのぼやきはこの点で失格である。

 では、選択の結果ではなく, 機会の結果として収入に差がついた場合に はどう考えればよいか。ここでもまた。親として自分が子どもにどう言っ ているかを思い返してみてほしい。2人以上の子どもに同時にケーキを出 した場合。かならず「ずるいよ, こっちのほうが小さい」という声が上がるだろう。そのとき, もしあなたに忍耐心があるなら。「妹のケーキの大き さなんか気にしないで。自分のケーキをおいしく食べたほうがいいよ。そ のほうが, いつも人と比べっこをしないと気がすまない子どもより, 何倍 もしあわせな人生を送れるから」と言い聞かせるかもしれない。

■森の三人

 子どもとエコノミストは。公平性は対称性の問題だということで意見を 同じくしている。このことを心にとめておいて, ひとつ富話を始めよう。

 マニー。モー。ジャックはおのおの、森の中の10エーカーの土地に住んでいる。3人とも山荘を建てたいと思っている。マニーとモーは森の生活 に慣れていて。伎採や木材の加工などはお手のものだった。しかし。ジャ ックは斧など持ったこともない。だれかに助けてもらわないと山荘ができ ず。路頭に迷うしかない。 マニーとモーはジャックの山荘造りに手を貸す義務があるだろうか。あ ると考える人も, ないと考える人もいるだろう。私がどう考えるかはひと まずおいて。対称性の問題に焦点を絞っておきたい。右に述べただけの説 明から。モーよりマニーのほうがジャックの山荘造りに手を貸す義務が大 きいかといえば, もちろんそんなことはない。マニーとモーはいろいろな 点で違っている (名前からして違う) が この問題に関するかぎり違いはどこにもない。あらゆる点で同じなのだから。ジャックにたいする義務も 両者同じはずだ。

 そこで, もう一つ情報を示しておこう。マニーは自分の土地を調べた結 果, 5エーカーを整地して, 15部屋の豪邸を建てることにした。これにた いして, ソロー(19世紀アメリカの思想家)の「森の生活」を読みなおし たモーは, 1部屋だけの山小屋を建て, 自然に親しむほうがいいと決めた。

 話がだいぶ違ってきたところで, もう一度同じ質問を。モーよりマニー のほうがジャックの山荘造りに手を貸す義務があるだろか。いや, これで もまだ, この議論をするのはむずかしいと思う。マニーとモーでは家の趣 味が違うことがわかったが, この違いは。実際には名前の違い以上に大き な意味あいはないからだ。したがって。対称性の原理に照らせば, ジャッ クにたいする両人の義務は同一であることに変わりない。

 しかしマニー。モー, ジャックの3人がアメリカに住んでいたら, 対称 性の原理を頭から愚弄する税制に従わねばならない。マニーはモーより一 生懸命に働いてより多くの物質的な富を手に入れているために, ジャック の生活維持にモー以上の寄与をすることを求められるのだ(この場合, も ちろんマニーはジャックのところに出向いて斧をふるう必要はない。しか し, 稼ぎの一部をジャックにたいして所得移転させているわけだから。実 際に斧をふるったのに等しい)。

 累進課税制度は、豪邸のマニーにたいして山小屋のモーをはるかに上ま わる税負担を求める制度であるが, それがしばしば。基本的な公平性の表 明とみなされるのは大きな皮肉だ。累進課税はほんとうは公平性と正反対 のものの表明である。

 たとえば, 「きみたちがブランコに乗っていたあいだ。ジョニーは砂場で 遊んでいたんだから。大きなケーキを取っても不公平じゃない」と, 脈絡 のないことを言って子どもをばかにしようとはだれも思わないだろう。時 間をどう使うかということとケーキをどう切るかということに, 事実上な んの関連性もないことくらい。子どもはわかっている。しかしマニーはあ などられたもので。「あなたは家を建てたのに,モーは野花を摘んでいたの だから。モーの税金が少ないのは不公平ではない」と, ひどいことを言わ れている。

 どうしてもと言うなら, マニーからお金を巻きあげるがよい。しかし 子どもに言うのをはばかられる脈絡のない理屈を鵜呑みにさせ, 俯辱に輪 をかけるのはよくない。

(スティーヴン・ランズバーグ著(斎藤秀正訳) 『フェアプレイの経済学」 より抜粋・編集)

論文B

■政党の変化・イギリス社会の変化

 戦後の福祉国家建設という大事業をとげた労働党が体質的に違ってきたのは, イギリスの社会の変貌を反映して当然である。国民の大多数が あまり頭を使わない筋肉労働にたずさわっていた工業社会が, 「オール中流」の脱工業社会となった。「三分七分社会から七分三分社会への移行」ともい える。つまり, 1940年代のイギリスは。資産も大してなく, 職業の安定性 も保障されていない「労働階級のもの」と自己規定する国民の7割ほどが 不合理な, 不平等な社会構造の根本的な改造を求める労働「運動」の潜在 的支持層をなした社会であった。それがいまや国民の6, 7割が。 まあま あ満足している社会となった。持ち家に住み, マイカーを乗り回し, 自分 の収入最大化という人生設計を脅かす税制変更に敏感に反発する中間層と なった。その代わり, 失業したり。不安定な低賃金の仕事に就いていたり という恵まれない人生を送る残りの3, 4割の人々の多くが。投票にも行 かない。「運動」の主体にもなりっこない。二流国民のレッテルを貼られて も諦めてしまう。敗者・弱者となった。おまけに, その七分三分の差。貧 富の差は拡大する一方である。封建時代の遺産であった。伝統的な貧富の 差。つまり財産の偏った分配に基づく貧富の差はー日本の戦後のインフ レ-+農地改革ほど決定的にでなくても一過去の一世紀の税制の累進的 効果としてかなり是正されてきたが。いま拡大中の所得の不平等は, 労働 所得 (給料・賃金) の分布の拡大に起因する。 ますます高度な細かい技個 を要求する。 ますます競争的になった労働市場で。うまく浮かびあがる人 と沈んでいく人との違い。知能的にも情緒的にも競争的情況に適応できる 人とできない人との違い。学校で「よくできる子」と「できない子」との 違いである。

 そして, 技術の進歩が必然的に先進国全体にもたらすこのような分化現象に, イギリスで拍車をかけたのは。サッチャー首相就任の1979年以来の 新自由主義である。公益より私益を重んじる諸政策ー小政府主義・公営 事業の民営化・役所の従来の年功 (年および功) 的昇進制度の代わりに,「成績規準給料」の導入・投機的貯金の趣味を国民全体に普及させた金融 界の全面的規制緩和, 社会保障制度の削減とそれにともなう生活保護の拡 大・雇用者保護の諸規制の撤廃。 などが社会的連帯意識を創み。アングロ・ サクソン文化に深く広く根を張っている個人主義をさらに助長する効果を もった。しかも, それは, 社会に対する義務を各々が自分の良心に鑑みて 解釈する。責任を強調するような個人主義というよりも。むしろ単なる利 己心に近い個人主義である。

 そして, 社会の個人化分解というこの大きな越勢に対してブレア首相の 労働党政府は, 逆行させるどころか塞きとめようともしない。

 その端的な例が, 基礎養老年金の扱いである。国民の権利として払われ るこの年金は, もともと。一応まともな生活ができるように, 平均賃金の 何パーセントというふうに, 社会が裕福になるにしたがって自然に高くな る仕組みだった。それをサッチャー政府は, 賃金でなく物価指数にリンク するような制度に変えた。つまり。一般国民の生活水準は毎年1, 2パー セント上がっていくのに, 老人の実質年金は, 1982年の水準に凍結された のだ。老後生活の保障は個人の責任であるという自律の思想と, (大半が私 的年金制度に入っている) 例の7割国民の課税負担を軽減するという選挙 戦術との, 合同の産物である。

 これは, 「旧」労働党が大いに攻撃した措置だった。年金は, 共通の市民 権を享受する国民の連帯意識の重要な象徴であるとともに, 不平等是正を はかる基本的な再分配政策であるとして, その基本理念を放棄することは けしからぬ。と。ところが, 今年の春, 選挙公約を練るにあたって, 年金 の賃金リンク復活を主張する「旧」労働党の長老たちの烈しい攻勢にもか かわらず。それは公約にはならなかった。年金制度の根本的な見直しを約 束はしたのだが, かえって個人積立て原理の強化という, 個人主義への傾 向に

迎合する線にそった改正になりそうである。

 もう一つの例をあげよう。イギリスは日本と同様, もともと小中学校に関しては学区制だった。そして学区の境界線の引き方によって, オール中 流階級の学校とオール労働階級の学校との差別がなるべく生じないような 配慮をしてきた。「越境入学」も原則として抑えていた。 その「国民統合・機会均等・階級隔離防止」の原理よりも, サッチャー 時代の教育行政は, 「消費者主権」および「競争による効率性の追求」の原 理のほうが大事だと決めつけた。親に, 子供の行く学校を選択する権利を 与えた。そして, 消費者としての親が, 教育というサービス商品を選択す るさいの基準となる資料として, 各学校の全国共通テストの成績を発表す ることにした。 案の定。教育熱心な親たちは, 評判のいい学校に群がってくる。当然定 員をオーバーする。結局, 親が学校を選ぶというより, 学校が (面接などをして)親を選ぶことになる。選ぶ基準は非常にあいまいだが。「家庭環境」 がよいことと。学力が相当ものをいうことは明らかだ。したがって, 中流 階級の子弟の多い成績のよい学校と。生活保護世帯など恵まれていない家 庭の子弟が集中する成績のわるい学校との差別化が, ますます進行してい く。

 イギリス経済の競争力増進のための人材育成を至上命令と考えがちな保 守党政府の人たちにとって, この教育制度内部の差別化は, 社会における 階級差別, 階級対立の激化をもたらす結果になったとしても, それは残念 だが払うべきコストとされていた。新労働党政府の中にもそう考える人々 もいるだろうが。教育行政にたずさわっている人たちは。平等という価値 に, 社会連帯の価値に, まだ未練を感じる人が多い。しかし, もとの学区 制に戻ることはもはや政治的に不可能になっている。「親の選択権」がすで に, 触れるべからざる神聖な市民権の一つとなっているからだ。 せいぜい。 定員オーバーの場合に, 面接を禁止し。学力を考慮に入れることを禁止す る程度の措置 (至って回避しやすい措置) しか考えていないそうだ。

 「選択」は, いうまでもなく, 消費者主権という新自由主義の基本的概念 である。政府を選択する権利を基本とする。国民主権の民主主義との類似 性がそこにある。考えてみれば, 英米において。過去15年間を通じて。そ の「選択」の価値がより尊重されてきたさまざまな要因の一つに, ビジネ ス・スクールで教える。アメリカ人の解釈による「日本的経営」もあるこ とは妙な皮肉である。QCサークルとかボトム・アップ経営などが, 主とし てヒェラルヒー否定という意味に解釈されて, 市民運動・少数集団運動の 反体制的攻勢に武器を与えた。アメリカで大いに流行り, 最近, イギリス でも流行りだした言葉はEMPOWERMENTであるー無力なものの 「有力化」というか一草の根の人々。現場の人々,声なき人々に発言権・ 選択権を与えるという意味の。反権威主義の中心スローガンである。その反体制・反ヒエラルヒー気運に「日本的経営」が貢献したというのは, 面 白い逆説だ。日本の会社ほどヒエラルヒー(あまり権威主義的なヒエラル ヒーでなくとも) を重んじる組織は, 世にも稀であるのに。

■日本における新自由主義の勃興

 そのヒエラルヒー尊重の日本的経営も, 「能力主義」「悪平等是正| など によってひっくり返されるのだろうか。もっと広く言えば。今日この頃の 日本の新自由主義が一その一つの重要な要素である「官僚支配打破」の 気運が 日本社会全体のこれまでのヒエラルヒー的秩序を根本的に変 えることに成功するだろうか。

 なかなか成功しないと思うし, また成功するのが望ましいとも思わない。 私はサッチャー流の新自由主義が好きではないし, 同友会(経済同友会) の「市場主義宣言」などに明断に描かれている日本版の新自由主義にも同 様に反発を感じる。

 もちろん。 たてつづけの腐敗事件や住専問題対策の計算違いなど。官僚 批判・反官感情をあおる大きな事件が時々ーまあ, 5年に1回ぐらいか ーあって結構だと思う。また, 官僚の天下り先をつねに呼今味して, 有用な社会的機能を果たさない特殊法人などは早く潰していく厳しい監視制度 が必要だと思う。知能と権力にエリート意識がもたらす自信を加えたコン ビは危険であり。役人は横柄になりがちで, 公の権力を私益の追求に使っ たりする誘惑が強いから。メディアの容赦ない監視は当然重要だと思う。

 しかし, 嫉妬や偏見を多く混じえた官僚批判が横行して, 役人の人気が 地に落ちすぎた結果。一流大学の秀才が官庁に背を向けて, 銀行の高い給 料をめざしていっせいに流れていくようになったら。それこそ大変だ。

 もちろん。日本の役人の中には小人がいる。前の時代には必要でも, い まや機能を失ってしまった許認可などの規制に, 自分の権力を失うまいと しがみつく無能な役人もいる。しかし「頭はかたいかもしれないが, おお むね良心的に公益を考えている」という日本の官僚のイメージが徹底的に 壊されてしまったなら。公益を考えうる人。公益の判断ができる人の採用・ 育成が実質的には不可能になるだろう。

 アメリカ (日本の新自由主義者の理想社会であるアメリカ) では, 官僚 の質も威信も大してよくないから日本もそうなったっていいんじゃないか。 公益は政治家がはかるべきで官僚は政治家の命令を実行するだけでいい ーと言う人(とくに政治家) もいるだろうが, アメリカを理想社会とみ なす軽率な権力崇拝は別として, 内閣大臣のポスト配分が, 当選回数や派閥のバランスによって決定される日本の政治家に、公益の判断を百パーセ ント委ねてよいだろうか。

■官僚支配から市場支配へ

 もっとも。日本の新自由主義者の主張は、官僚から政治家への実質的な 権力の移転ではなく、経済生活全体にわたって「公益」の保障を、人から。 自由市場における競争という。人間の裁量を必要としない非人格的な勢力 に委ねることである。公益の確保において国家というものを必要とするの は治安・外交・安全保障のような分野だけであって、あとは、せいぜい市 場の秩序・競争の公平さを確保するだけでいい。もっとも。熱心な新自由 主義の宣教師なら。医療・教育までも、利益追求の民間業者の競争にまか せたほうがもっと効率的で望ましいと言うにちがいない。

 同友会の「市場主義宣言」の著者たちはそこまではいかないが、規制緩 和を推進するその熱心さと、競争の美徳をほめる信仰の深さは疑う余地が ない。「市場は、競争を通じて効率的な資源配分を実現する。きわめて優れ た仕組みである」と。

 そして同友会の著者たちは、市場原理の貫徹によって、英米と同じく。 市場で浮かびあがる人と沈む人。強者と弱者の差・貧富の差が必然的に拡 大することを率直に認めている。同じ「市場主義宣言」でいう。 「効率と公平、機会均等と結果平等は本来的にトレード・オフの関係にあ る。我が国においては護送船団方式などの下で競争を制限することによっ て、これらを同時達成しようとしてきた。その結果、市場機能の発揮が抑 制され、高価格・高コスト構造が定着した… (それ) を是正することは急 務である」

 しかし、競争と効率の関係はそう簡単なものではない。護送船団方式の 典型である保険業を例にとれば、イギリスの経験が示すように。料金の規 制を廃止し、申し合わせを禁止して競争の激化をはかれば、競争の武器で ある広告への費用。競争心の烈しさによるインチキ売込みの悪弊。それを 是正する新しい規制を施行する費用。その結果おこる法廷での訴訟の費用 がかさむ。それに、価格競争を生き抜くための危険なマージン削減が保険 会社を倒産に導く確率の上昇。そして倒産の場合の保険加入者保護のための保障制度の費用などを加えると, 規制をはずした場合の諸費用を考慮に入れると, 競争規制の緩和が, はたして国民に, より安全な保険をより安 く与えるという意味で「効率」をあげるかどうか、はなはだ疑問である。

■公を私する人たち

公は私。儒者が「公を私するものが国を亡ぼす」と唱えたとき, インチ キな業者に香港旅行を接待してもらったりする大蔵省の某局長のようなケ ースを念頭においていた。いまの日本の「公を私する」風潮はちょっと違 う。それは。公益を私益に分解する制度的変化になったのだ。国民の共有 財産を個人に払い下げたり, 公営の事業を私的な営利事業に変えたりする ばかりでなく。同じく人生のもろもろの危険にさらされている国民共有の 保健・保険制度を, 弱者への隠れた再分配作用の要素が多すぎるという理 由で。自立自助と称してなるべく営利事業化し。よって小政府・弱政府の 実現をはかるーというのが今様の「公を私する」発想である。もっと も。 そういう動きを推進する人たちは「公と私」と言わずに, 「官と民」と 言う。そして、天皇制の悪しき時代への批判であった格言をひっくり返し て, 「民尊官卑」を基本原理とする。「民尊官卑」は, すなわち「私尊公卑」 ということにもなるのだが, 自分たちの主張の土台をなすのが利己心であ ることを認めようとはしない。

 天皇制時代の「官」と, 民主主義時代の「官」は違うはずだ。公益は打 ち捨てるべき概念ではない。その公益の認識を支える社会の連帯意識も きわめて大切だ。貧富の差が拡大していく社会では。その連帯意識は蒸発 してしまう。市場主義者の唯一の善ー経済効率ーより重要な価値もあ るはずだ。

(ロナルド・ドーア 「橋本 「行革」と新自由主義への疑問」『中央公論」。 1997年11月号より抜粋・編集)

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