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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 総合政策学部 小論文 1995年 過去問

1995年 慶應義塾大学 総合政策学部 小論文 課題文

問題 世界や日本のいたるところで,政治や経済や社会のさまざまな局面で,既存の秩序が崩壊したり揺らいだりしています。この状況を,人は,“変革の時代”とも“転換期”ともいいます。しかし,また,時代の節目の向こうが未だ見えない“不確定性の時代”ともいえます。

 未来を構想し切り拓くには,一見混沖地とした状況を洞察する知的心構えが必要です。以下に示す2つの文章は,そうした状況について。それぞれの見方を提供しています。これから大学で学び,やがて未来にはばたいていくきみたちは,どのような知的心構えを持とうとしているのでしょうか。提示されたそれぞれの文章の論点に言及しながら,きみ自身の考えを1000字以内で述べなさい。

文章A

 ほんのささいなできごとによって,歴史の流れや人の運命が劇的に変わることがある。たとえば,暗殺者のピストルの一発によって革命がおこったり,急遽乗りこむことになった飛行機が思いもかけず墜落したりする。人生は複雑で不確定なものであり,未来を予測するのはむずかしい。だからこそ人々は科学のおこなう予測に魅力を感じず,科学は自分たちの人生とは無関係だと考えてきたのだろう。

 しかし,最近になって,カオスとよばれる科学の新分野が出現し,人々はあれこれと想像をめぐらせている。それは,日常の経験と自然法則とを結びつけ,単純と複雑。あるいは秩序と無秩序のあいだに繊細で美しい関係があることを明らかにしつつある。

 科学者は常に,宇宙を支配する法則を模索してきた。アイザック・ニュートンは、運動法則と重力理論とをもちいて,星が天空をどのように運動するかを説明した。フランスの数学者ピエール・シモン・ド・ラプラスは,19世紀初頭,ニュートンが描きだした精密な宇宙世界のあり方を固く信じ,いかなる粒子であれ,その位置と速

度がわかれば,そのふるまいはすべて予測できると断言した。

 この決定論的概念に最初の打撃がくわえられたのは1920年代のことだった。量子力学が発展し,電子のような極微の粒子が実際にどのようにふるまうかが説明されてからである。量子力学は,確率にもとづいた統計理論である。ニュートンの古典力学では,粒子の位置と運動量とは。むろん同時に測定できる。しかし量子力学においては、この両方を高時に決定することは不可能となる。位置を測定しようとすると,その測定が粒子の運動量に影響をおよぼし。運動量が決められない。運動量を測定しようとすると,その測定自体と粒子の位置とが相互作用し,位置があいまいとなる。これがいわゆるイト確定性原理といわれているもので、固右の白外s士由』の1つである。

 この不確定性原理が存在するにもかかわらず。物理学者たちは,量子力学を使って,物質の基本的性質や宇宙ではたらいている力を説明する強力な理論を構築してきた。そして,宇宙がどのように進化してきたか。また宇宙がいかにして創られたかを説明しようと努力している。

 こうした「還元主義」論者少数の原理法則があって,すべての現象は,その原理法則から推論や計算によってみちびきだされ,説明されるものだという考え方をする人たちは,いったん「究極の理論」を案出すれば,原子や分子がどのようにふるまい,さらにそれらがどのようにして(たとえば生物として)自己増殖するかなど。より複雑な現象を説明できるはずだという。人類を支配する自然法則も銀河を支配する自然法則も同じであり,いずれは株式市況や病気の流行など,人間社会のできごとでさえも予測できるようになるというのである。もちろん,それには多大の時間と労力が必要ではある。

 それにしても,こうしたアプローチは,本当に役に立つのだろうか。現在,予測が不可能なものはいくらでもある。いつ蛇口から水が漏れだしてくるかとか,2週間後はどんな天気かといったことを,科学的な基本法則をもちいて予測するのはいまのところ不可能である。多くの物体間のいろいろな相互作用からなる複雑な系についてはいうまでもないが,せいぜい2,3の力しかかかわらない系についても予測するのは困難である。

 ところが,最近になって,きわめて複雑な状態を予測するのには,そもそも本来的に限界があるらしいことがわかりはじめた。まさに,この予測不能な点の部築を明らかにすることこそ,カオス理論の活躍の場である。カオス理論は,数学とコンピュータとが結合して生まれたものである。それは,物理の基本法則にしたがいながらも無秩序な系一複雑で予測不能な性質をもった1つの世界一の挙動をしめしてくれる。そして,きわめて恒常的に変化している系でも,位置や速度などの初期状態にいかに影響されやすいかが明らかにされる。つまり,初期条件のほんのわずかな変化でも,時間がたつにつれ,それがつぎつぎにフィードバックされて,あとになるほど増幅されるのである。

 このような系では,未来の予測を十分におこなえないことは当然である。しかも,その予測は,初期条件をいかに正確に測定するかにかかってくる。コンピュータで実際にそうした系のモデルをつくる場合でも,組みこむ方程式のなかの数値に対して,はるか小数点以下をちょっと変えただけで,以後の結果がまったくちがってしまうほどである。

 カオス系の微妙なふるまいは,巨大コンピュータによってはじめて明らかにされた。何百万回も,そのようすを追跡できるからである。カオス系の抽象的な幾何学的性質をコンピュータ・グラフィックスによってあらわすと,その全体像にはくり返しのパターンが見られる。その精妙な基本構造がカオス本来の性質を特徴づけ,どの時点で予測ができなくなるのかをしめしてくれる。

 カオス現象の本質的特徴は,誤差が少しでもあると,それがどんどん時間とともに発展し,大きくなることである。このようすを具体的に見るために,まず,非カオス系の例一単振り子の運動一からはじめる。まったく同じようにゆれている2つの同種の振り子の一方に対して,少しだけ運動を乱す。少し歩調の乱れた両者の差一つまり,位相の差一は,振り子がゆれているあいだじゅう,小さいままにとどまる。

 単振り子の運動を予測するには,振り子の位置と速度をある瞬間に測定し,以後のふるまいを,ニュートンの法則を使って計算する。最初の測定に誤差があると,計算を通じて影響があらわれ,予言値に誤差をひきおこす。単振り子に対しては,入力に少し誤差があることは,予言するための計算一出力一に少し誤差があることを意味する。通常,非カオス系では,誤差は時間がたつと大きくなる。誤差が時間に比例して(あるいは,時間の小さいべき乗に比例して)増大する事実は重要で,そのため,誤差をあつかうのは比較的容易である。

 これに対して,カオス系では,今度は,2つの同じ系の初期条件にほんの少し差があると,急激に差異は大きくなっていく。運動が指数関数的に発散していくことは,カオスの品質証明ともなっており,予測問題に焼き直すと,はじめに少しでも誤差があると,時間がたつにつれ,誤差はどんどん大きくエスカレートしていくことになる。しかも,計算をすぐに無効にするほど大きくなり,予言能力はすべて失われる。このように入力に少しの誤差があれば,すぐにふくらんで,計算をめちゃめちゃにする。

 カオスと非カオスのふるまいのちがいは,球面振り子を例に取るとよくわかる。球面振り子というのは,2方向に自由にゆれる振り子のことでひもの先に球をつけてぶらさげたものと考えてよい。この系を軸につるし,軸を少し動かすなどして周期的運動をあたえて平面内で振らせる。すると,振り子の運動がはじまり,ほんのしばらくして,安定した運動ーしかも。予測可能な運動に落ち着く。このとき球は,強制振動数と同じ振動数で,楕円軌道を描いて動く。しかし,ここで強制振動数のほうを少し変えると,この規則正しい運動はカオスへと移っていく。球はあちこちゆれまわり,時計まわりに動いたと思えば反時計まわりに動いたりする。明らかにランダムな動きをする。

 決定論による予言が可能なのは,無限に精密な理想的極限のときのみである。たとえば,振り子のふるまいは,初期条件によって一通りに定まるが初期データには,振り子の位置もふくまれるので。正確に予言するためには,定点から振り子の中心までの正確な距離に対応する実数が必要となる。これを正確無比に定めることは,不可能なのだ。

 非カオス系では,誤差はゆっくりと拡大していくので。この制約がさほど重大とはならない。しかしカオス系では,誤差の拡大は加速する。たとえば,5桁目の数に誤差があって,時間だけ経過したあとの系のふるまいの予測に影響がでるとする。もっと精密な分析をすれば、誤差は10桁目の数にまで減少させることは可能だろう。しかし、誤差が指数関数的に時間とともに発展するために、そのように精度をよくしても2tだけたつと同じ誤差がでる。つまり、初期状態に対して10万倍(5桁)も精度をあげても、予言できる時間が2倍のびるにすぎない。アマゾンのジャングルで蝶が翅をばたばたさせて、はるかはなれたテキサスで竜巻をおこすといういい方をよくするが、これはカオスが初期条件に鋭敏に反応することを指すのである。

 決定論的カオスが存在するのは、たしかに驚くべきことである。しかし、自然界は、実のところ決定論的ではないことを忘れてはならない。量子現象に関連した非決定論は、カオス系にせよ、非カオス系にせよ、すべての系の力学に原子レベルではいりこんでいる。量子論的不確定性は、カオスと結びついて、宇宙の予想不能性を助長するようにも思われる。

 「時計じかけの宇宙」というラプラスの観念について、どのような結論を下せばよいだろうか。物理世界は、カオスと非カオスの系を広範囲にわたりふくむ。カオス系に対しては、予言可能性はきわめて限定され、そのような系が1つでもあると、全宇宙のふるまいを計算する力も制限される。宇宙のごく一部分の未来のふるまいさえも、数値計算できないように思われ、宇宙全体などはおよびもつかない。もっと文学的表現をすると。「宇宙はそれ自身、最高速のシミュレーター(模擬訓練装置)である」。

 この結論の意味は深遠で、自然界が厳密に決定論的であることを認めても、宇宙の将来はある意味で「開かれて」いることをしめす。人々のなかには、この開かれていることを、人間の自由意思の実現のよりどころと解釈したものもいる。あるいは、自然界に創造力の要素があると主張する人もいる。つまり、真に新しいこと、宇宙の初期段階では想像できない何ものかを生みだすというのである。

 各自の立場がどのようなものであろうとも。カオス研究が下した結論はつぎのようなものである。宇宙の未来が定まっていて、もはや望みが

ないなどということはありえない。偉大なる宇宙の本の最終章は、いまだ書かれていないのである。

[ニーナ・ホール編(宮崎忠訳)「カオスの素顔」より抜粋・調整]

文章B

 人は,状況に応じて行動し,状況に働きかけ,その結果をフィードバックさせてまた行動する。しかし,人の行動の大部分は,人と環境との物理的相互作用として説明しただけでは不充分である。なぜならば,人の行動の大部分は,外部の状況に対する直接的・反射的な反応ではなく,《意味づけ》という内的営みを経由するからである。人はさまざまな刺激を受容し,状況を知覚し,感じ,考え,評価・判断し,行動する。この刺激の受容と行動を媒介する内的営みのことを,ここでは《意味づけ》と呼ぶ。すなわち,人は,状況を意味づけし,行動し。また,その結果を意味づけし。さらに,行動する。

 したがって,人の行動やその複合である社会現象を理解するには,まず行動主体が状況をどう意味づけしたか。すなわち。状況の《意味づけする者にとっての意味》を理解する必要がある。もちろん,事態の推移全体の理解にとって,主体の意味づけた意味を理解することが全てではない。主体の意味づけた意味は,まちがっているかもしれないし,不充分かもしれない。その場合,「彼/彼女は~と思って~したが,~の事情で~の事態となった」といった説明がなされることになる。しかし,いずれにせよ,人の行動や社会現象の理解にとって,この説明の前半部分に該当する。主体もしくは主体たちの《意味づけ》や《意味づけの仕方》を理解することが不可欠である。

 さて,そうなると人の行動や社会現象を理解しようとする学問的営みはきわめて複雑で困難な営為となる。なぜならば,後述するような《意味づけの不確定性》を直視する必要に迫られるからである。もちろん,あらゆる局面で不確定性が問題化するわけではない。人の意味づけがきわめて安定しているような局面では、人間の《意味づけの仕方》を不確定性を含まない固定的なシステムであると想定して,分析を進めることができる。しかし,意味づけの仕方の変化を含むような意味の変化が問われる局面では,不確定性の問題を避けて通れない。意味づけの仕方とは,ようするに,ものの見方・感じ方・考え方のことである。平穏な日常では,人々は安定した常奪的な意味づけの仕方を援用し生活している。しかし。それでは対処しきれない事態に遭遇したり、あるいは、さらに魅力的な意味づけの可能性に気づいたりすると、人々は、意味づけの仕方を含めて意味を再編成する。人々のものの見方・感じ方・考え方の変化こそが問われるような諸問題を取り扱う場合、意味づけの不確定性を回避するわけにはいかない。

 では、《意味づけ》とはどんな営みなのだろうか。また、その営みにともなう不確定性とはどのような性質の不確定性なのだろうか。そして、不確定性が問題化するのは、どのような状況なのだろうか。順次考えていこう。われわれは、コトバだけでなく視覚イメージや音像イメージなども使って意味づけする。しかし、少し複雑な意味づけになると、さまざまなイメージや概念を関連づけ取りまとめるのにコトバを使う。また、そうやって意味づけた意味をコトバによって語る。こうした人間の意味づけの営みの特徴は、コトバの使用に凝縮された形で反映されている。そこで、意味づけとコトバの関係を具体的にみることにしよう。

 意味づけの営みを主体内部で進行するプロセスとしてとらえれば、それは、刺激の受容によって記憶が励起し(励起とは、元来は量子力学的な系が外部からエネルギーをえて初めより高いエネルギーの状態に移行すること;ここでは記憶がよびさまされ次の動きへの準備状態に移行することの意)。互いの引き込み合いによって記憶相互の関連配置を形成するプロセスである。

 刺激は、例えば、光や音やコトバである。鳥が飛ぶ光景を見て、「鳥」や「飛ぶ」の概念を励起させ、動作主(鳥)と動作(飛ぶ)として配置をまとめ、「ア、トリガトンデル」と言う。次に、コトバを受容した場合を取り上げて、記憶の引き込み合いについて検討しよう。例えば、「イク」。「ボク」、「ヨウチエン」の3つのコトバが読み手に引き起こす作用を考えよう。それぞれのコトバが単独で励起させる記憶と、「ボクハヨウチエンニイク」と配列されたときの、「ボク」、「ヨウチエン」、「イク」のそれぞれがまとめている記憶とがちがうことに気づくであろう。単独の「ボク」は「男子一人称のカジュアルな表現」を思い出させるくらいで、おそらく。「幼児」の概念を含まなかったはずである。ましてや、「黄色の帽子をかぶった園児」の姿は浮かばなかったであろう。しかし、「ボクハヨウチエンニイク」が「僕は幼稚園に行く」と意味づけられたとき、「ボク」が単独で励起する「男子一人称のカジュアルな表現」の方は,殆ど意味的重要性を失っている。意味づけの初期では,この概念が「黄色の帽子をかぶった園児」のイメージを引き込む契機として重要な働きをするが,意味づけられた意味での重要性は低下している。同じようなことは,「ヨウチエン」や「イク」にも生じる。

 コトバたちがとりまとめる記憶は,互いの共振を増幅したりあるいは抑制したりして,つまり,互いに引き込み合いながら,その過程で濃淡や内容さえも変化させつつ。関連配置を形成し意味をつくる。「ボクハヨウチエンニイク」に生き生きした意味づけを与えるのは,私や読者がもつこれらさまざまなイメージや概念などの記憶である。仮に,「男子一人称のカジュアルな表現」が「ボク」の《字義どおりの意味》だとしても,それら字義どおりの意味を幾ら連ねても生き生きした意味づけを生むことはない。《意味づけ》のプロセスで,コトバは記憶の流れの渦を引き起こし,流れを整え,次第に記憶の関連配置を形成していく。《意味づけ》の営みは、「外的世界や身体内部からの諸刺激によって励起されるさまざまな記憶が互いに引き込み合い関連配置を形成する」プロセスである。

 人が生きる過程で蓄積し続ける経験の記憶は膨大である。しかも,直接の体験や言語活動による間接的な経験を通じた学習によって,記憶は相互に関連づけられ,その相互関連もまた記憶として蓄積され続ける。したがって,コトバの記憶を含めて,さまざまな記憶は相互に複雑に連鎖し合っている。外界や内部から刺激が受容されると,この連鎖のチャネルを通じてさまざまな記憶が励起し,互いに引き込み合って,次第に相互の関連配置を形成する。認知科学者たちは。これが脳を中心とするニューロン・ネットワークで起こっていることだ。と考えている。

 しかし,この意味づけプロセスは記憶に由来する不確定性をはらんでいる。その不確定性には四つのものが考えられる。すなわち,多様性,多義性,履歴変容性,そして,不可知性である。人がそれまでに蓄積した記憶は,個性化した集合だから。同じ刺激が励起する記憶は人さまざまである。そのため,意味は人々の間で多様になる。また,あることの意味づけにおいて励起する記憶は。そのことの刺激と状況の刺激の両方に依存する。そのため,一見同じに見えることの意味も,状況に応じて多義的となる。さらに,記憶は生きていく過程で不可逆的に蓄積され続ける。そのため,励起する記憶は履歴に依存して変わり,意味は時間軸上で確定しない。そして,記憶には,それと気づかれない“暗黙知”(泳ぎ方,自転車の乗り方。コトバの使い方などには,殆ど意識されることのない身体的知識が含まれている;M・ポランニーはこの種の知識を暗黙知と呼んだ)や潜在記憶が存在する。暗黙知や潜在記憶は生の営みにとって,けっして,環末な意義しかもちえない記憶ではない。しかも,偶然や注意深い研究によってその働きが明るみにでることがあっても,大部分は未知のままだと考えられる。そうだとすれば,励起して関連配置を形成する記憶には,重要かもしれないが気づかれない記憶が含まれていることになる。そのため,人は意味づけた意味の全貌を知り尽くすことができない。したがって,意味は不可知性

を秘めている。

 これらの不確定性によって,われわれは,自分および他者の生の意味を確定することができない。《意味づけの不確定性》は,生の意味を確定しえない実存的な不確定性と共通な根源的不確定性である。だがしかし,《意味づけの不確定性》はデタラメと同義ではない。生物的資質によって,あるいは,経験の反復によって構造化され,容易に改変されることがない安定的構造の部分的記憶関連配置もまた多数存在する。たいていの場合,これらは意味づけプロセスの記憶の引き込み合いの中でも,分解・再編成されることなく一塊となって流動し配置形成に参与する。イメージや概念,あるいは,これらの記憶を関連づける意味づけシェーマ(図式)の中にこうした安定的部分構造の記憶の塊がある。これら部分構造が要請する秩序性を充足させつつ。記憶は互いの関連配置を形成する。そのため,意味づけはとめどなく流動化し拡散することを免れ,まがりなりにも,意味が形成されるのである。だからこそ,われわれは人格的統一性を保持することができる。また,これら部分的秩序性には,個性化したものと,人々の間に共有されているものとがある。前者の集まりが個人の個性をなす。後者は,ヒトとしての資質同型性や文化の共有による経験の同型性によって形成される。しかしながら,意味づけ全体がすっかり安定化して構造化され尽くすことはないということを強調しておかなければならない。秩序性といっても,散在する部分的秩序性であって,意味を確定するまで全体を覆い尽くしているわけではない。

 意味づけは、不確定性と秩序性が共起しつつ進行するプロセスである。実のところ、先の「ボクハヨウチエンニイク」に対して意味づけられた意味にも、不確定性が潜んでいる。「黄色い帽子を被った元気な幼い男の子が、これから幼稚園に行くんだ、といっている」といった意味づけは、そうした不確定性の中から浮上した一つの意味づけにすぎない。例えば、近所の幼稚園は赤い帽子を採用しているかもしれない。そうすると。その地域の住民は、「赤い帽子を被った園児」を思い浮かべるかもしれない。人によって、時と場合によって、意味は異なりうるし、深く省みれば思わぬ意味を込めていることもあるのである。しかし、また、意味づけのもつ秩序性によって、「男の子」が「女の子」に取り替わることはほとんどないし、「幼稚園が僕の所へ行く」と意味づけることもまず起こらない。

 意味づけにおける不確定性と秩序性の協働は、人間のコミュニケーションを理解する上で、きわめて重要である。人間的コミュニケーションとは。たんなるコトバなどの記号のやりとりではない。記号を媒介とした《意味づけ同士の相互作用》である。個性化した記憶によって生じる意味の多様性は、人々の間に意味のズレを発生させる。もし意味が確定していればズレを調整しようがないのだから。コミュニケーションそのものが成立しない。また、もし共有された秩序性がまったく存在しないならば、調整そのものがありえない。不確定性と秩序性の協働こそが人間的コミュニケーションの基盤であり、本質的特性である。《意味づけの不確定性》は、社会秩序の生成・崩壊などの現象を理解しようとする場合、とりわけ、重要な問題となる。コミュニ

ケーションの視点から見れば、社会秩序は、互いの意味づけた意味同士の関係が相互に矛盾しないであろうという期待によって成り立っている。すなわち、広い意味での合意によって成り立っている。

 しかし、合意は、意味づけの不確定性の存在によって、成立・非成立。合意の意味内容。持続。実行などに関してもまた不確定になる。例えば,合意の意味内容についていうと、関係者たちが意味づけた意味は、行動の判断だけが一致している場合もあれば、その理由まで一致していることもある。さらには、背後の価値観まで一致していることもある。一致の領域が広いほど合意らしい合意といえるかもしれない。しかし考えてみると破られることが絶対ありえない合意などは,果たして合意だろうか。文書や声明によってまごうかたなき一致だと思われる場合でさえ,原理的に不確定性を免れていない。だから。合意が破綻すると「この語句はどう解釈すべきだったのか」などと不一致が問題化する。成立したとき,完全一致の合意だと信じ込まれたとしても,すでにそこには気づかれない不一致が内包されているし,変容可能性も潜在している。合意は,不確定性を秘めているから合意である。確証不可能だからこそ,ときに,人は言葉で確認したり,挙手や文書やサインで合意の証明を擬制する。しかし,意味同士の関係である以上,合意は不確定性を免れない。

 人間の意味づけとコミュニケーションは,確かに,不確定性をはらんでいる。しかし,われわれは,この不確定性がもつ既存秩序に対する携乱的側面だけでなく,生産的で創造的な側面にも注目すべきである。一見どうにも解決不能に見える対立・紛争が,思わぬ合意の成立で解決されることがありうる。争うほかはないと思われた状況の意味づけが,ときに,相互承認可能な意味づけに再編成されることがありうるからである。また,意味づけの不確定性は,新しい意味や新しい意味づけの仕方への可能性を開く。そうした意味で。不確定性は,新しい社会秩序や社会関係,あるいは新しい文化の創造性の基盤でもある。この点で,とりわけ注目されるのは,他者との会話である。他者の異質なコトバの配列は,自己の常奪的な《意味づけの仕方》に揺さぶりをかける。例えば,敵対的で悪意に満ちた言説は,かえって,警戒心を強め意味づけを反発に向かわせ,対立・紛争を招来する。その一方で,根源的不確定性を自覚した者同士の謙虚で闘達な会話は,創造性を活性化する。

 なにごとにも意味づけする人間にとって,実のところ,あらゆる社会的相互作用は,行動の相互作用であるとともに,行動を媒介とした意味づけの相互作用でもあるという二重性をもっている。したがって,どのような不確定性および秩序性があり,それらがどのように絡み合っているのか。すなわち,意味づけとコミュニケーションにおける不確定性と秩序性の協働の実相に肉迫することは。社会の学問にとって大きな意義ある課題である。その場合,意味づけの抱える根源的不確定性にどのような姿勢をとりどのような方法で接近するのかが問われることだろう。ともすれば,意味を確定することが使命であると考えられがちであった従来の学問観もまた問い直されるにちがいない。

〔合意形成研究会編『カオスの時代の合意学』から作成〕

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