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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 総合政策学部 小論文 1992年 過去問

1992年 慶應義塾大学 総合政策学部 小論文 課題文

問題 つぎの3つの文章は、いずれも時代および社会・文化によって「時間」の観念がいかに相対的で、多様であるかを語っています。

 それぞれの文章の論点に言及しながら、きみたちがやがて生きていく21世紀の社会と文化の特徴を想定し、そのなかにおける「時間」の意味と役割について、きみ自身の考えを、1000字以内で述べなさい。

(解答欄は、横書き30字×34行ー最終行は10字)

1

 何年にもわたってほかの文化を経験すると、複合社会では、少なくとも2つの異なった方法で時間を構成することがわかった。つまり、北ヨーロッパのように、ものごとをばらばらの項目のように扱い。一度にひとつのことをするというスケジュールによる方法と、いくつかのことを一度に行う地中海型の方法である。この2つのやり方は、論理的にも経験的にもまったく別のものである。水と油のように、両者はまじわることはない。

 両者にはそれぞれ長所、短所がある。私は、一度に多くのことをすることを。ポリクロニック・タイム(多元的時間ーPolychronicTimeー)と名づけ、北ヨーロッパのように、一度にひとつのことしかしないやり方をモノクロニック・タイム(単一時間一MonochronicTimeー)と名づけた。ポリクロニックな時間は、現在のスケジュールを守るというよりも,人間のかかわり合いと,相互交流に力点を置く。ひとと会う約束はそれほど重大なものとは考えられず。その結果しばしば破られる。ポリクロニックな時間は,モノクロニックな時間よりも実体のないものとして扱われる。ポリクロニックな民族にとっては,時間の「浪費」はめったに経験されず。時間は直線的な帯あるいは道としてよりも,むしろ点として考えられがちである。しかも,その点はしばしば神聖な点である。

 ラテン・アメリカや中東に行くと,北米人はしばしば心理的ストレスを感じる。地中海やアラブ諸国の市場,店,スーク(アラブ諸国の市場)などポリクロニックな環境の中にいると,一度にすべての客の相手をしようとするたった一人の店員がいて,客はその店員の注意を,何とか自分に向けようと群がる客に囲まれることになる。次は誰の番なのかさっぱりわからない。どの客が最も長い時間待っていたのかを示す行列も番号札もない。これは北ヨーロッパ人やアメリカ人にとって,混乱と喧喋以外の何物でもない。

 これと同じパターンは、地中海沿岸諸国の政府の官僚体制にも見られる。政府高官が使うオフィスの典型的なレイアウトは,私的な部屋の外側に,広い来客用のコーナーがあるばあいが多い。そこにはいくつかのグループが待っており,政府の役人たちと会うことができる。こういう役人たちは,グループからグループへと,次々に話の相手を変えながら,半ば公的なこの場所でほとんどの仕事をする。半ば私的なこういう取引は時間をそれほどとらず,相手は話し合いたいと思っていた大臣や,その他の重要人物に会えるという利点がある。一度このパターンに慣れてしまうと,密室のオフィスでの,他人をまじえない会談にはない利点が多いことがよくわかる。

 これと対照的に,欧米人はモノクロニックな時間の完全な支配を免れることはまずできない。時間は生活様式の中に完全に組み込まれているので。われわれの行動のすべてを一多くの微妙な方法で結ばれる他人とのかかわりを含めて一時間がどれだけ決定し,統御しているかさえ気づかないほどである。実際、社会生活と仕事,さらには性生活さえも,通常はスケジュールに支配されている。スケジュールを立てることによって、われわれは時間を分断する。これによって,一度にひとつのことだけに集中することが可能になる。だが,同時にそれは物事を全体的に見ることを妨げる。スケジュールの設定は,まさにその本質から。知覚されるべきものとされないもの,あるいは処理すべきものと放置しておくものを選択することであり,また,一定時間内に限られた数のことのみを取り込むことである。かくて。何が計画に取り込まれ。何が除外されるかということが,そのまま人間と諸機能の双方についての優先順位を設定するシステムになる。つまり,重要なことが最初に取り上げられ、最も長い時間が当てられる。重要でないことは最後にまわされるか。時間がないときは無視される。

 モノクロニックな時間はまた実質的なものである。われわれは時間について,節約する,使う,浪費する,失う,工面する,のろのろ進む,つぶす。残り少ない,などという。こういう比喩的表現が何を意味するのか。まじめに考えてみるべきである。モノクロニックな時間によるスケジュールは,生活に秩序を与える分類体系として用いられる。その規則は,誕生と死以外のすべてのことに当てはまる。スケジュールか,モノクロニックな時間体系のようなものがなければ,われわれの産業文明が発達できたかどうか疑わしい。モノクロニックな時間は,そのほかの結果をももたらしている。たとえば,ひとりまたは二人の人間を集団から切り離して,特定のひと,あるいは二,三人のひととの関係を密接なものにする。この意味でのモノクロニックな時間は,プライバシーを確保する個室のようなものである。ただこのばあい,スケジュールによって,与えられた15分なり。1時間,1日,1週間が過ぎたら,その「個室」を次のひとにあけ渡さなくてはならない。次のひとの時間にまでくいこんで,順番を守らないことは,極端な自己中心主義,ナルシシズムのしるしであるだけではなく,まったくの不作法でもある。

 モノクロニックな時間は専制的であり,課せられた時間である。つまりそれは蓄補されたものである。それは徹底的に習得され、完全にわれわれの文化に組み込まれているために,生活を構成する唯一の自然で道理にかなった方法であるかのように扱われる。しかし,モノクロニックな時間は人間固有のリズムや、創造的活動に内在するものではなく、自然のなかに存在するものでもない。

 社会組織を考えるばあい。理論的に言って,ポリクロニックな時間体系は,より大きな集中的管理を必要とし,構造はむしろ浅く単純であるのを特徴とする。というのも,トップに立つ人間は、何が起こっているかを常に把握している多くの部下と,絶えずかかわりをもっているからである。たとえばアラブでは,農民はいつでも首長に会うことができる。ひとと首長,ひとと神のあいだには,いかなる中間者もいない。絶えず情報を得ていたいというひとびとの要求と,情報の流れは互いに補い合っている。

 ポリクロニックな民族は互いの問題に非常に深くかかわり合っているので。常に接触を保ちつづけていなければ不安を感じる。したがって,どんな脈絡のない情報の断片も集められ,記憶される。お互いについての彼らの知識はまさに驚くべきものがある。ひとが互いにかかわり合うということこそ,かれらの存在の核心にほかならない。これは官僚機構にもあてはまる。たとえば,官僚機構の代表やさまざまな官僚レベルでの根回しには,膨大な量の書類は必要としない。ポリクロニックな官僚機構の主な欠点は,仕事が多くなるにつれて,小さな官僚機構が増えることと,外部との交渉に困難が生じることである。事実,ラテン・アメリカもしくは地中海諸国を旅行するか。そこに滞在する局外者なら,官僚機構の非常なまだるっこしさを経験しているだろう。ポリクロニックな諸国では,内部の人間であるか。“コネ”をもっていない限り,事は運ばない。すべての官僚機構は排他的になりがちだが,ポリクロニックなタイプの官僚機構では特にその傾向が強い。

 さらに,行政・管理の機能についても,この2つの時間体系には,興味ある違いがある。中東やラテン・アメリカのポリクロニックな諸民族の行政・管理は,職務の分析から成り立っている。つまり行政とは,それぞれの部下の仕事の内容を把握することであり,そしてそれらの仕事の組織図をつくり,名称を決め,図上で任務の施行をチェックすることもある。これによって,それぞれの人間を完全に管理できると考えられている。しかし、実際のそれぞれの作業が,どのように,いつ施行されるかについてのスケジュールは担当者に一任される。部下の仕事のスケジュールにまで口を出すことは,部下の個性を圧倒的に侵害することであり,自我を侵害することだとみなされているからだ。

 これに対して,モノクロニックな時間のひとびとは,作業をスケジュール化し,仕事の各部分の分析は個人にまかせる。ポリクロニックなタイプの分析は,たとえその本質が技術的であっても,部下に対しては,仕事はひとつのシステムであると同時に,もっと大きなシステムに含まれていることを常に叩き込む。モノクロニックなタイプのひとびとは,コンパートメント化のために,自分たちの活動を,より大きな全体の一部であるというコンテクストのなかで考えることが少ない。これは,彼らが「組織」を意識しないということではなく,仕事そのもの。あるいは組織の目標を,より大きなコンテクストのなかでみることがめったにない。ということにすぎない。

 モノクロニックな時間もポリクロニックな時間も。いずれも長所と短所がある。ポリクロニックな時間の管理者は,いったん時間を分析したあとでは一分析できる速度には限界があるが一的確な情報によって,驚くほどの部下を掌握できる。しかし,ポリクロニックなモデルで運営されている組織は,規模において限界があり,トップの有能な人間に依存しており,外部者の問題処理は,遅いうえに不手際である。トップに有能な人間がいないばあいのポリクロニックなタイプの官僚機構は、ひどいことになる。モノクロニックなタイプの組織はこれとは反対の方向に進む。

 モノクロニックな組織は、ポリクロニックのそれよりもずっと大きくなることが可能であり,実際にそうなっている。しかし,モノクロニックなタイプの組織は,部署をふやす代わりに統合する。モノクロニックな組織では,その成員の人間性無視がきわ立っている。一方,ポリクロニックなタイプの弱点は,突発的な出来事が起きたばあい。トップの人間に依存しすぎることであり,また,トップの人間がすべてをコントロールしなければ成り立たないことである。モノクロニックなタイプの官僚機構は,大きくなるにつれて閉鎖的になり,それ自身の構造は見えにくくなる。その結果。硬直化が起こり,組織本来の目標を見失いがちになる。

E.T.ホール(宇波彰訳)『文化としての時間」より抜粋・調整

2

 われわれは、時間の移ろいという基盤にしっかりと埋め込まれて生きている。それは,およそ考えうるすべての判断基準,変化を見せない内在物。日々と季節の宇宙的な循環,個々の戦いと自然災害,誕生に続く成長から老衰,死,腐敗へとまっしぐらに向かっているように見える生命の定向性などによって特徴づけられている基盤である。文化の違いによってさまざまな解釈がかまびすしくなされている錯線状態の中にあって,ユダヤ・キリスト教文化は,歴史の本質に関する根本的な二分法の両極をこねくりまわしつつバランスをとることで。時間を理解しようと奮闘してきた。そうした伝統文化の中でわれわれは,いずれの極にも注目してきた。それぞれが、いかに歴史を理解するかという論理と心理において避けがたいテーマを担っているわけであるから,それは必然のことだった。そのテーマとは時間の一瞬一瞬を画するための独自性と,明瞭さをもたらす基盤を確立するための合法性を同時に満たさねばならないというものである。

 その二分法の一端で、私が「時間の矢」と呼んでいる側では,歴史とは反復しない事象の一方向性の連鎖である。各一瞬は時間の流れの中で独自の地位を占めており,すべての瞬間を正しい順序でつなげると,関連した出来事が一方向に流れ,ひとつの物語が語られる。

 二分法の一端で,私が「時間の環」と呼んでいる側では,事象は,偶発的な歴史に因果的な衝撃を及ぼす個別の出来事としては何の意味ももたない。根本的な状態は,時間に内在し,常に存在するが決して変わらない。見かけ上の運動は反復する環の一部であり,さまざまな過去が,未来で再び現実のものとして繰り返される。そこでは,時間は方向性をもっていない。

 時間の矢とは、聖書で語られる歴史についての最上の隠喩である。神は,一度だけ地球を創造し,たった一般の方舟に乗って一回だけの洪水を乗り切るようにとノアに命じ,今しかないという瞬間にモーゼに十戒を伝え,われわれのために十字架上で死に,その3日後に復活させるために御子を限定された時代の特定の場所に送った。多くの学者は,時間の矢は,ユダヤ思想がもたらした概念のうちではもっとも重要かつ特有のものであると断定してきた。なぜなら,時代の後先に関係なく,ユダヤ思想以外の思想体系の大半は,直線的な歴史の連鎖よりも時間の環の内在性を重視しているからだという。

 しかし聖書にも、時間の環という底流がある。ことに、「伝道の書」ではそれが顕著に表れている。そこでは、自然界の状態に内在するものと、富と力の虚しさとを例示するための隠喩として太陽と水の循環が引き合いにだされている。富める者は巡る世界の中では堕落することしかできない。なんと虚しいことかと。伝道者は語る。

 ユダヤ・キリスト教文化の一大記録文書である聖書には両者の見解が顕著に共存しているが、今日の教育ある西洋人の大半にとっては、時間の矢という見解のほうが馴染み深くもあり、「標準的」であることは疑いようがない。時間の矢という隠喩は聖書そのものを支配しており、その後、支配力を増す一方だった。17世紀以後の科学革命と技術革命に付き従っていた進歩観が、その隠喩を特別に後押ししたからである。リチャード・モリスは次のように書いている。

 古代の人々は、時間の特質は循環的であると信じていた。…一方われわれは、過去から未来に向かってまっすぐに伸びているのが時間であるという考え方になれている。…時間は直線的であるという考え方は。西洋思想に深い影響を及ぼしてきた。この概念がなかったとしたら。進歩という観念を思いついたり、宇宙や生物の進化について語ることは難しかったであろう。

 時間の矢とはわれわれがふつうに抱いている見解であると言う場合、不可逆的な連鎖の中の個々の一瞬は明瞭さ自体の前提条件であると言う場合。それは文化と時間の双方に縛られた、事物の本質に関する考え方について論じているのだということを注意していただきたい。近代における矢と環をめぐる最大の著作『永遠回帰の神話」の中でミルチャ・エリアーデが論じているように、歴史を通じてたいていの人々は時間は循環するという見方にしがみつき、時間は飛び去る矢だとする見方は理解しがたいものであるとか。最大級の恐怖をもたらす元凶とみなしていた。ほとんどの文化は,歴史が恒久的な安定を具現化しないという考え方や、(戦争という行為に走る)人間や(大火や飢餓がもたらす結果としての)自然現象は時間の本質を反映するものであって、祈りや儀式で追い払ったり慰めの得られる異常ではないのかもしれないという考え方に恐れおののいてきた。時間の矢という概念は、ひとつの文化が生んだ特異な産物であり、今や世界中に広がり、少なくとも数字的、即物的な意味ではきわだった「成功」を収めている。「歴史における<不可逆的>なるものと<新奇>なるものへの関心は人間の生活では最近の発見である。それとは逆に、古代の人間は…歴史が課す、あらゆる種類の新奇さと不可逆性から、力のかぎり我が身を守った」。

 時間の矢と時間の環という概念は、文化に縛られているだけでなく、錯線したさまざまな態度をまとめてほおり込んでおくためのがらくた入れとして単純化されてもいることは、私も知っている。特に、エリアーデが示しているように、この二分法のそれぞれの極は、本質的にはまちがいなく関連があるが、重大な違いをふくむ少なくとも2つの概念が合体されている。時間の環という概念は、変化しない真の永続性や内的構造をさすこともあれば、分離可能な事象がきっちりと繰り返される周期性をさすこともある。それと同様に、創造と終末という固定された2つの時点間をつなぐただ一度ずつの出来事の連鎖が、時間の矢という概念に対する古代へブライ人の見解なのだが、これは、内的な方向性という、はるか後世の概念とまるで異なるものである。独自性と方向性という概念も、時間の矢をめぐるわれわれ現代人の観念に折り重ねられてはいる。しかし、それがなされたのは、それぞれ異なる時代の。しかも本質的に異なる文脈においてであった。

 時間の矢と時間の環は、望みしだいで「すばらしい」二分法となる。なぜなら、両極を占めるどちらの概念も、その本質からいって、歴史を理解したいと望む西洋人なら、どちらにも心底から取り組まねばならないほど知的(そして実際の)生活の中心をなすテーマとなりうるものであるからである。時間の矢とは、不可逆的で個別的な出来事を理解することであり。時間の環とは、時間を超越した順序と法則めいた構造を理解することであるからでもある。われわれには、そのどちらの概念も必要なのである。

S.J.グールド(渡辺政隆訳)

「時間の矢、時間の環」より抜粋・調整

3

 わずか20年間に、コンピューターはわれわれの文化のあらゆる側面に侵入し、われわれの生活様式を変化させてしまった。1990年までに、全米の労働者の50%近くが電子端末装置を使用するようになるだろう。さらにオフィスや工場や学校の約3,800万の作業端末がオンライン化されているだろう。そして2000年までには約3,400万戸の家庭がホーム・コンピューターを所有するようになり、その他700万台のポータブル端末機が使用されるようになるものと見られている。コンピューターは急速にごくありふれた物と化し、現代生活のありとあらゆるすみずみにまで入りこんでいる。コンピューターはわれわれの働き方、遊び方、通信や交際の仕方を変え。環境そのもの。さらには環境と人間の関係を変えている。しかし一番重要なのは、それが時間とわれわれの間の関係を変えていることである。

 コンピューターは新しい時間の展望をもたらし、それと同時に新しい未来観を生じさせる。われわれは時計を使って時を計る習慣に慣れきっているから、われわれの心は、今までとはまったくことなる計時法を使用するという考え方には当然、非常に反接する。まだコンピューターが出現してから間もない現在では、時計からコンピューターへの計時法変化の影響を完全に把握すること、いやそれを想像することさえ困難であるが、この新しい計時器のユニークな特徴をよく検討してみれば、これから先時間の意識に生じるはずの変化を知る手がかりを得ることができよう。

 まず第1に、時計は人間の知覚力との関係で時間を計る。1時間、1分。1秒、あるいは10分の1秒でも、人間は体で感じることができる。しかしコンピューターは、ナノ秒を基本的計時時間単位とする時間的枠組みの中で作動する。ナノ秒とは、10億分の1秒である。理論的には1ナノ秒を考える。あるいはナノ秒単位の継続時間(デュレーション)を扱うことも可能であるが、ナノ秒を体感することは不可能である。これは人間が時間と関係する仕方の上できわめて著しい転回点である。いまだかつて時間が人間の意識の領域を越える速度にもとづいて組織化されたことはなかった。

 われわれが第5世代コンピューターや第6世代コンピューターの時代に入ると、この新しい時間観念はいろいろな問題をひき起こすことになるだろう。21世紀のコンピューターは広範囲の活動について、たぶんナノ秒単位で意思決定を行なうことができるだろう。社会の意思決定の多くが人間の意識下で行なわれるようになると、時計で計られる社会の時間は役に立たなくなる。コンピューターで処理される案件は、われわれが絶対に体験しまった。1990年までには、全米することのできない時間の領域に属するのだ。新しい“コンピュータイム”は時間の窮極的な抽象化を示すものであり、時間が人間の体験と自然のリズムから完全に切り離されたことを物語る。

 多くの人が、テレビゲームをする時に初めて、コンピュータイムと時計の時間との違いを経験する。社会学者シェリー・タークルはテレビゲームをする人たちにインタビューしてみて、コンピューター・プログラムされたゲームの魅力として、時間的切迫感、緊張感をあげる人びとが多いことを発見した。テレビゲームの名手とは、時計の時間と自分自身の主観的な時間を抹殺して、テレビゲームの時間の世界に没入できる人だ。テレビゲーム狂といわれる人びとは、コンソールの前に何時間もすわりっぱなしで。時計の時間の経過をまったく感じないのが常である。最近コンピューター関連疾患専門の心理学者が増加しているが、そのひとりのクレイグ・ブロードによれば、「コンピューター技術者といっしよに暮らしている人びとは異口同音に、時間に関する衝突が両者の不和の主な原因だとこぼす」という。

 長時間コンピューターを使用する人びとには、2つの時間世界を絶えず往来することから病気になる例が多い。彼らが新しいコンピューターの時間世界に深入りすればするほど、在来の時計文化の時間基準に再順応することがむずかしくなる。彼らは2つのまったく異種の時間的定位(タイム・オリエンテーション)の間にはさまって、新型の時間精神分裂症患者になる。

 心理学者と社会学者は新しいコンピューターの時間概念が個人と社会全体との双方におよぼす効果の研究を開始した。彼らの所見はまだ暫定的なものであるが、しかしそれによると、時間的定位の変化をめぐる戦いが21世紀の主要な社会問題になるかもしれないということがわかる。

ジェレミー・リフキン(松田 銃訳)

「タイムウォーズ」より抜粋・調整

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