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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 環境情報学部 小論文 2011年 過去問

2011年 慶應義塾大学 環境情報学部 小論文 課題文

 いま現実に存在する問題を、科学技術を用いて科学的に計量する新たな方法を提案してください。

 計量する問題は、科学技術上の問題でも、社会問題でもかまいません。地球規模の問題でも、身近な問題でもかまいません。

 科学技術を駆使して現実の問題に取り組むためには、問題を計量し、データを得ることが欠かせませせん。得られたデータを通して問題を正確に把握し、それを踏まえて解決方法を考案していくことになります。

 また、測定するデータに基づき、問題の要点を把握するのに役立つ新しい単位を考案してください。

 以上について、問1~4に答えてください。

問1 【解決したい問題】あなたが解決しようとする、現実に存在している問題を200字以内で説明してください。なぜそれが問題なのかについても述べてください。

問2 【問題を計量する方法】問題を科学的に計量するために、どんなデータをどんな方法で測定するのかを400字以内で説明してください。すでに存在する科学技術を使うだけでなく、将来に開発を期待する未来の科学技術を用いてもかまいません。

 闇雲に大量のデータを得るだけでは、問題の本質を理解することはできません。問題を正確に把握するために、何を知る必要があり、どうすればそれを計量することができるのか、考え抜いてください。場合には、その中で最も重要と思われる測定について述べてください。

科学的な測定には、誰が何度測っても(許容できる誤差の範囲内で)同じデータを得られることが求められます。これを再現性のある方法と言います。提案する測定方法に再現性が備わっているかも考慮してください(再現性に欠けるおそれのある方法の一例が資料7にあります)。

問題解決のために2つ以上の計測を実施する必要があると考えられる場合には、その中で最も重要だと思われる測定について述べて下さい。

問3 【新しい単位】あなたの考案した単位を200字以内で説明してください。単一のデータがそのまま単位になってもいいですし,いくつかのデータを組み合わせて算出する単位でもかまいません。ただし,問2で答えたデータを必ず用いてください(資料5~7参照)。

 単位の意義については問4で尋ねるので,問3では,新しい単位で表される数値が何を意味し,どんなデータをどのように組み合わせて計算するかに絞って記述してください。

 資料5(炭素フラックス)を例にとれば「大気,海洋,森林等の炭素を貯蔵する各炭素プール間の炭素の移動量を表す。単位面積当り,単位時間当りの移動炭素重量として算出される」などとなります。

問4 【新しい単位によって明らかになる問題の性質】この単位によって問題のどんな性質が明らかになるのかを600字以内で説明してください。単位で表される数値が大きい(小さい)とき,増加(減少)傾向にあるとき,めまぐるしく増減を繰り返しているとき,あるいは変化が見られないとき,それは問題のどんな性質を反映しているのでしよう。あなたの提案する単位が問題を理解する上でいかに役立つかをアピールしてください。

 資料5を例にとれば「森林伐採により森林によるCO』吸収量が減少すれば大気から森林への炭素フラックスの減少として表れる」などとなるでしょう。

 答案作成の参考に7点の資料を用意しました。以下に,それぞれの資料の内容について簡単にまとめます。

資料1,2 科学はそもそもは哲学の一領域でした。哲学のなかでも自然に関する知識を求めた自然哲学という営みが,後に科学へと変容していきます。では技術はどう位置づけられるでしょうか。また,なぜ科学と技術を組み合わせて「科学技術」とひとまとめに呼ぶようになったのでしょう。資料1,2はこれらを説明しています。いずれも,科学と技術(テクノロジー)は元来異なるものであり,ある時点で両者の融合が始まり,互いを加速して,今では分かちがたい「科学技術」になったと説明していますが科学と技術の融合がいつ始まったのかについては,主張が異なります。資料1は日本の科学史研究者によるものです。資料2はフランスの数学者によるものです。「科学技術」とは何なのかを確認する上での参考にしてください。

資料3 近代的な科学的世界観について説明した上で科学的にものごとを解明していく際に,対象を計量し,データとして扱うことがいかに重要であるかに触れています。一方で計量できない対象が科学から排除され置き去りにされている事実も指摘しています。いま科学が対象から除外しているものごとを,どうやって科学の枠のなかに引き込むかという視点は今後の科学技術の発展のためにたいへん重要です。

資料4 現代の先端科学が置き去りにしてきたものごとへの違和感を端的に指摘しています。著者は,日本を代表する理論物理学者のひとりです。資料3同様,複雑華麗に展開している現在の科学にも欠点があることを指摘しています。欠点を埋め合わせることができれば,科学技術の大きな進展が起こるかもしれません。

資料5~7 既に存在する単位の例を挙げています。科学技術を用いたもの(資料5),科学技術の基盤になっているもの(資料6),科学技術に拠らないために弱点を持つもの(資料7)をそれぞれ示します。新たな単位を考案する上での参考にしてください。

資料1 出典:村上陽一郎「科学・技術の二○○年をたどりなおす」NTT出版,2008年3月(一部編集・改変)

 古代ギリシアでは「哲学」<philosophia>という学問が成立した。「知<sophia>を愛する<philo>」という意味を持つこの概念は,基本的には「技術」から切り離された「知識」という性格を備えていた。技術のなかにも知識があることは,古代ギリシア人といえども否定しない。煮込みのどの段階で塩を加えるかという知識は,料理技術にとって極めて重要なものである。しかし,そうした知識は「哲学」の対象ではない。純粋に「知識としての知識」こそ真正の哲学である。古代ギリシア人がこうした考え方を持つことができた背景には技術の大半は大量に社会のなかに存在した奴隷たちの手に委ねられていたという点があるだろう。都市(国家)に生きる「自由な市民」たちの間でのみ,こうした技術から切り離された知的営為が可能だった、と考えられる。

 古代ギリシアの哲学という概念は、人類史上初めて、知識を技術から切り分ける試みであった。7世紀ころに初めて成立した「ヨーロッパ」においても、この哲学の伝統は、細々ながら受け継がれた。特にそこにキリスト教的な要素が加味された結果、現実の世界の世俗的な問題解決とは直接繋がらないような知識体系という概念は、より確固たる形で確立されたと見てよいだろう。

 何事かを説明したり記述したりするときに、神を引き合いに出すことをきっばりと止めよう、という主張がョーロッパに登場したのは18世紀啓蒙主義の時代であった。この時代精神にあっては、「驚く」べき「塚」のなかには、宗教的迷妄が含まれていた。人間の理性だけが、信頼するに足るものであって、神もまた、人間理性の範囲のなかで必要とあらば、その存在を許されることになった。

 そうした状況のなかで、ヨーロッパ社会に初めて「科学者」と呼ばれる人々が現れた。哲学者ではなく、自然という領域だけを相手に、専門的に探究する、という新しい人間存在が、少しずつ社会のなかで目立ち始め、そういう人々を指す言葉が、必要とされるに到った結果、「科学者」に相当する単語が、どの言語圏でも造られた。哲学が持つ知識の性格は、キリスト教的な神学の影響から自由になった

 19世紀以降のヨーロッパの学問にも、基本的には継承された。だから19世紀に成立した「科学」もまた、純粋な知的体系としての性格づけは変わらなかった。

 技術は、恐らく人間の歴史と同じほど古いものだと考えられる。人間が生きていくために、自分の頭脳と手を使って行うことが、すべて技術であると言えるからである。技術は社会の進展とともに多様化する。農耕社会になると、穀物の調理に関わる技術が飛躍的に発展するが、そればかりではない。そもそも穀物の貯蔵が問題になる。貯蔵庫を管理する(敵の襲撃から守り、貯蔵庫へのアクセス権を決め、適切な方法で分配する、など)ために、社会のなかに権力機構が生じる。それに伴って、社会を運営する技術も必要になる。つまり、生活技術のほかに、「社会技術」(それを「政治」という言葉で表現することになるが)も重要なものとして浮かび上がる。

 なかでも決定的な意味を持ったのは天文学と占星術であった。歴史的にはこの両者は明確な区別をされずに使われてきた。農耕社会の権力機構にとって最も重要な課題は,暦(農事暦)を造ることである。これは祭りの制定であり、それはすなわち厳に通じる。医療もまた,そのような技術のなかに数えられるだろう。もちろん医療技術者としての薬師は権力機構の外にも存在したが、同時に社会の中枢と結びつく存在でもあった。

 そうした政治に関わる技術のなかには,徴税技術のような法制度に絡むものもあった。宗教儀礼を司る技術もまた,権力機構と結びつくことが多かったのは,祭政一致社会の特色でもある。しかし,世俗的な生活技術に関してはどの地域でも,職人層が親方・徒弟制度という一種の社会制度を作り出して,技術の伝承を図るのが通例であった。こうした技術は,特に許された弟子にのみ伝えられるのだから,その点で伝えられる側には技術に関しての守秘義務があった,と言える。この種の守秘義務は,近現代社会には存在しないものだろう。ここには技術の職人層のなかでの閉鎖的な占有状態があった。ただ,大切な点を付け加えて置くと,技術に関しては,このような状態にあっても,必ず,その外部に,技術やその成果を「買って」くれる利用者,つまりクライアントがあったことだ。これは技術を語るときに,見落とすことのできないポイントである。

 さて,こうした事態の近代化は,やはり19世紀に起こった。というのもこの時期ヨーロッパやアメリカにおいて,技術の公共化が始まったからである。具体的には,技術を伝える公共的な学校制度が生まれたのだ。最初期のそれは,フランス革命の終期に設立されたエコール・ポリテクニークである(1794年)。

 この学校は,国家経営の技術やノーハウを知らない人民が,革命によって政府を樹立したのはいいが,国家経営に途方にくれた末に,泥棒を見て縄を編うの例え通りあわてて設立したものであった。軍需省に属し、軍事的,公共的技術を,学校で教える代わりに,学生は,卒業すれば,政府のなかで働くことを義務づけられた。-つまり,これは,職人層や,一部の宮廷貴族の間に閉じ込められてきた技術が社会共通の財産として,誰にでも習得できる形に整えられ,かつ習得のための教育制度が生まれたことを意味する。人民革命の起きなかったヨーロッパの他の地域やアメリカにも,この制度は波及していくことになる。

 もう一つ注目すべきことは,時代はちょうど産業革命が進行中だったがこれらの学校は,産業革命をリードするような起業家たちとは無縁だったことだ。たとえばエディソン,カーネギーといった基幹産業の設立者たちは,親方・徒弟制度のなかにいた職人でもなく,またようやく社会のなかに整備されるようになりはじめた技術学校で学んだ人間でもなく,ましてや大学で学問を積んだ知識人でもなく,要するに丁稚小僧から叩き上げた人物(そうした人々のために用意された言葉を使えばまさしく彼らは「アントレプレヌール」)であった。

 公的な教育制度のなかで伝承されるようになると,技術は職人の手を離れて,それなりの教育と訓練を受けた新たな職能者を生み出すことになった。こうした人々はエンジニアと呼ばれることになる。

 こうした職能者はクライアントの要求を誠実に履行するという義務を負うと同時に,クライアントの要求を履行することがかつての職人のように,狭い範囲の影響圏しか持たない時代とは違って,産業のような,一般の社会の成員に対して広く影響を及ぼす状況が生まれてきたので公共の福利を侵害したり,損傷を与えたりすることがないかという点でも義務と責任を負うことになる。つまり彼らは二重の社会的責任を考えなければならない立場に立つのである。

 別の言い方をすれば,エンジニアを研究や開発に駆り立てる動機は全くの好奇心から,という場合もあることを否定できないにしても,一般的には何らかの社会的利得を生み出す,という思いだろう。

 それがクライアントの利益であっても,自分の技術がそうした利益に形を変えるところに喜びやインセンティヴを見出すのが通例である。

 産業革命で近代的工場制度が生まれ,起業家(アントレプレヌール)たちの手で,次々に新たな工業製品が生まれるとき,近代の基幹産業の原型もでき上がっていった。繊維産業に出発したそうした産業は,19世紀中に,第二次産業革命と言われる,鉄鋼を主体とする重工業へと進展し,ソーダ産業のような化学工業,鉄道,自動車,電気・電力産業などから,通信・放送などの産業に到るものの原型が20世紀初頭には出そろうこになった。これらの発展に,同じ頃制度化が整いつつあった科学は,ソーダ産業や薬品工業と有機化学とが連携した例を除けば,ほとんど関わりを持たなかった。

 したがって,鉄鋼王として知られるカーネギーにしても,あるいは電気・電力のほとんどあらゆる領域に手を着けたと言われるエデイソンにしても,ほとんど真っ当な教育は受けていないし,ましてや,当時ようやく大学に橋頭優を築き始めていた科学の研究成果などは利用するすべもなかった。彼らは,自らの努力と創造力,そして大きな時運に恵まれて,成功物語の主人公となり得た,と言ってよいだろう。

 20世紀後半になると,技術的新機軸には,科学研究の成果が指導的な力を発揮することが多くなる。量子力学的な研究現場から半導体のような新しい技術発展が生まれたり,細胞核内の物質の研究が,製薬や,治療技術の発展に貢献するなどの例は今日では枚挙に暇が無い。

 翻って,19世紀に成立した科学では,研究者を研究に駆り立てる動機は何であったか。17世紀までなら,疑いなく,神の創造の秘密を,被造物である自然を探究するなかで探し当てようとすることがそれであった。しかし,啓蒙時代を経て,19世紀に誕生した科学者たちは,もはやそうした思いを研究への動機としてはいなかった。処論個人的には例外もあっただろうが一般論としてみたとき,彼らを研究に向かわせたインセンティヴは,純粋に個人の好奇心以外にはなかったはずだ。これが判りたい,判らなければ死んでも死にきれない。そんな思いが,科学者を研究へと駆り立てていたのだ。しばしばこの種の科学を評して「好奇心駆動的」と呼ぶのも故無きことではない。

 言い換えれば,研究によって,様々な新しい知識が生み出されるけれども,技術とは違って,その新しい知識を利用するクライアントは存在しなかったのである。いや,もう少し正確には,それを利用するのは,自分自身か同業の科学者仲間であって,そうした専門家仲間の外の,一般の社会にはクライアントはいなかった,と言うべきだろう。

 研究活動は,次々に新しい知識を生産する現場である。そこで生産された知識は,論文という形をとって,論文誌(学術ジャーナル)に掲載される。この論文誌は,同じ専門家仲間の間でのみ流通し,外部の非専門家の間には読者を求めないのが通例である。したがって,どのような新しい知識が生み出されたかそれを知る機会のあるのは同業の専門家仲間(「科学者共同体」と一般的には呼ばれる)だけである。だからその新しい知識を利用できるのも,自分か仲間だけである。

 このように考えてみると,19世紀後半に次第に整備されていった科学の研究制度のなかでは,その活動がほとんど科学者共同体の内部で自己完結的に行われていることに気づかされる。知識の生産,蓄積,流通,活用などが科学者共同体の内部に限定された形で行われ,そのなかで知識体の増大という「進歩」も重ねられることになる。一般の社会から見れば「あああんなことを面白がってやっている,物好きな人たちがいるな」ということにしかならなかった。

 このような科学の性質は今でも基本的には変わっていない。とくに科学者自身の自己感覚は,そのままだとさえ言えるだろう。しかし,科学をとりまく環境は,20世紀半ば近くから大きく変わり始めた。第一には産業が,科学者共同体の内部で流通する知識を,自分たちの目的,主として製品開発という目的のために利用することを思いついたのである。その最初の目覚ましい事例はナイロンであったように思われる。

 よく知られているように,人工繊維の傑作ナイロンはデュポン社のカロザースによって,1935年に開発された。カロザースはハーヴァードでも教えた経験を持つれっきとした科学者,化学者であり,その彼がデュポン社に雇われて,絹よりも丈夫で,光沢があり,肌触りもよく,安価であるような人工繊維の開発プロジェクトに携わり,見事な成功を納めたことになる。科学者が産業に雇用されて産業の与えたミッションを達成する,ということは,現在では当たり前のようで何の不思議もないが20世紀前半ではこれが最初の事例と目されている。

 第二には,もっと大々的な行政による科学研究成果の利用例がある。マンハッタン計画である。原子核研究の専門家仲間の間に流通している知識が軍事の大量殺製兵器開発のために利用可能である,ということになったとき、この計画は動き始めた。その結果は、私たちがよく知る通りである。

 さらに現代では、ライフサイエンスの展開とともに、次々に生産される新しい知識が、医学・医療を通じて、社会に生きる一般の人々の誕生以前(例えば生殖補助医療などの場合は、ヒトの誕生それ自体に科学的知識が深く関わってくる)から、死後(例えば臓器移植で、脳死後のヒトの臓器が他者に分配されることが、科学の力で可能になっている)に到るまで,その生全般を科学の研究の成果が支配するようになっている。

 このような事態は、もはや科学者共同体の内部で科学が自己完結していることが許されなくなったことを意味している。別の言い方をすれば、科学研究にもクライアントができたのである。それも、社会のなかで最も大きな権力機構として働いている国家行政や産業が、その役割を果たし始めたのである。

 世間の人々は、現実世界とは没交渉な物好きたちが、と思っていても、その物好きたちがやっている研究の結果が、行政や産業を通じて、自分たちの生活全体を巨大な影響力を持って支配し、制御し、管理するようになってきた。エンジニアたちは、自分たちの仕事振りの結果が世間に対する責任を生じることを自覚していた、と書いたが、科学者たちは、今でも、事態がエンジニアと同じようになっていることを、明確には自覚し切れていないように思われる。

 科学と技術とは20世紀後半において、「科学・技術」から、「科学技術」へと、大きな転換を経験したとも言えるだろう。言い換えれば、科学と技術は、この段階でかなり近づき、融合する方向を示し始めたことになるだろう。英語表現でも<scienceandtechnology>という、二つの概念を接続詞で繋いだ形を嫌って、最近では<technoscience>という一語の表現が造語され、使用されはじめているのも、そうした事情の反映と見ることができよう。

資料2 出典:イーヴァル・エクランド著、南條都子訳、「数学は最善世界の夢を見るか?」、みすず書房、2009年12月(一部編集、改変)

 古典古代に科学の発展がなぜテクノロジーの進歩を引き起こさなかったかは、科学史家にとってつねに謎だった。古典古代を通じ、ほぼ一千年の間、テクノロジーはほとんど変化しなかった。一方、科学は少なくとも最初の五百年間は隆盛をきわめたが、この発展はテクノロジーには波及しなかったようだ。有名な例外はアルキメデスである。彼は、シラクサが包囲されている間、鏡を使ってローマ軍の船に火をつけたり、さまざまな謎めいた機械をつくったりして、ローマ軍を寄せつけなかった。ところがついにローマ軍が上陸したとき、彼はローマの一兵卒に殺されてしまう。この話はたいてい教訓として理解された。いわく、科学者は戦争に勝つことより星を観察することに専心すべし。いいかえると科学者は、浮き世を離れ,社会的な責任や影響力もほとんど持たず、知識のための知識を求める哲学者として見られていたのだ。

 この状況はルネッサンス期にドラスティックに変化する。それ以来、科学とテクノロジーは手に手をとって進んできた。科学者はエンジニアであることを誇りとし、エンジニアは科学を学んでそれを応用した。時の計測は、テクノロジーを変えた科学的発見の最初の例である。水時計や重り駆動式時計をどんなに改良しても、ハリスンのクロノメーターや現代のクオーツ時計には行き着かなかった。本当の断絶、テクノロジーの変化は、ガリレオの振子の理論が活用されて初めて起こった。ガリレオの元の理論は少し間違っており、ホイヘンスが(やはり理論的背景にもとづいて)技術的改良を加え、まずまず正確な最初の振子時計をつくった。これがのちにすべての発展の基礎となったのだ。エンジニアの父というべきレオナルド・ダ・ヴインチのノートには、人間のために働くすばらしい機械ー人間を空中や海底に運んでくれ、食べさせてくれ、守ってくれる機械一の図面がいっばい詰まっている。科学はわたしたちの力を強くしてより多くの資源を使えるようにし、それによってわたしたちの運命を改善するための手段とみなされた。科学者はたんなる“星観察人”とは見られなくなった。人類の幸福に貢献することが求められるようになったのだ。もちろん、わたしは話全体をいささか単純化しすぎている。たとえばガリレオが名声を得たのは、木星に五つの衛星を発見してメディチ家に捧げたからであって,時計作りに失敗したからではない。ただ,この頃から科学者が,以前は顧みなかった具体的,日常的な問題に関心を示すようになったことは確かである。たとえば,偉大なパスカルも会計士の役に立つように世界初の機械式計算機をつくっている。

 もう一度いうがその後広まる科学とテクノロジーの緊密な協力関係が歴史的にみて何から引き起こされたのかは明らかではない。一つの有力な可能性として,テクノロジーの進歩はすでに始まっており,科学者は動きはじめた汽車に飛び乗っただけではないかという見方がある。ルネッサンスはイタリア戦争の時代でもあった。フランスとスペイン・ハプスブルグ家がイタリア半島の領有をめぐって戦い,少なくとも最初はフランスが鉄砲や大砲の技術において圧倒的優位を見せつけたため,敵方は急遽態勢を立て直す必要に迫られた。ここから弾丸の動きや発射の効果に対する強い関心が生まれ,ガリレオの落下物体の研究にきわめて好都合な背景となった。同様に双眼鏡も元々は軍事目的で作られ,ガリレオがそれを夜空に向けることを思いついたのだ。テクノロジーと科学のどちらが先行したにせよ,最終的な結果ははっきりしている。近代科学のある部分はテクノロジーの問題から刺激を受け,テクノロジーは科学の発見から恩恵を受けた。この同盟関係は,18世紀後半の科学とテクノロジーを細かく記録したディドロの『百科全書』によくあらわれている。これはすべてが整合的に結びつけられた知の集大成で科学者とエンジニアだけでなく,社交界の紳士淑女も,教養人を自負する者なら当然知っているべきものと考えられていた。

資料3 出典:茂木健一郎,「脳と仮想」,新潮社,2004年9月(一部編集,改変) 

 「信ずることと考えること」を初めとする一連の講演の中で,小林秀雄は,何か巨大なものと格闘しているように感じられる。あの細い身体でつやのある甲高い声を張り上げながら,とてつもない敵と取っ組み合っているように思われる。

 小林秀雄ほどの知の巨人にしてそれほど必死で闘わなければならなかった相手とは,すなわち,近代における人間の公式的世界観,宇宙観であった。

 ここで、小林秀雄が格闘した近代の公式的世界観が実際にどのようなものとして成り立っているかを書き尽くすことは難しい。どのような時代にも、公式的世界観は、暗黙のうちに前提にされている様々な枠組みから成り立っているからである。その暗黙の枠組みの骨組みをつくっていたのが近代の科学的世界観であった。科学が切り開いた世界観こそ、小林がその講演の中で、その著作の中で格闘した、もっとも巨大で、もっとも動かし難い、恐ろしい巨大な敵だったのである。

 ここに言う科学的世界観とは、すなわち、宇宙の中の森羅万象は、その客観的なふるまいにおいて、数字に直すことができ、方程式に書くことができるという世界観である。そのような世界観が、人間の宇宙の見方全体を覆い尽くすかに見えた。いや、今でも覆い尽くしている。

 ニュートンは、リンゴが落ちるのを見て、万有引力の法則を構想したと言われている。ニュートンも所属していたケンブリッジのトリニティ・カレッジの正門の横に今でも「ニュートンのリンゴ」の子孫は立つ。イギリスのリンゴの木の背は低い。リンゴが落ちるまでのわずかな時間に、ニュートンの頭をどのような幻想がよぎったのかは判らない。

 その今となっては現実か仮想か判らない瞬間の、もはや伝説化した着想の結果、ニュートンは、そして人類は、新しい世界の見方を手に入れた。この世の全ては、数で表せる。世界の中の物質の位置は、数で表せる。その重さも数で表せる。その、数と数との関係が、方程式で書ける。そのような数と数との関係で、この世界の物質の客観的なふるまいは、全て書き尽くすことができる。

 これが、近代における、科学的世界観だったのである。

 しばしば、近代科学は、経験的データを重視するという意味で「経験主義科学」とも言われる。しかし、右のような科学的世界観は、必ずしも私たちの経験の全てを引き受けているわけではない。それにも拘わらず、世界全体を覆い尽くすかに思えるほど強大である。その点にこそ、小林が向かい合った敵の手強さの正体があった。

 小林は、その講演「信ずることと考えること」の中で、科学の言う「経験」があくまでも数えられるもの、計量化できるものに限られているということについて次のように言及している。

 経験科学ということを言うでしよ。ああいう言葉は,非常に紛らわしい言葉でしてね。経験ということは,人間,昔から,誰でもしていることで,その経験についていろいろ研究したり何かすることは昔から誰でもやっているんです。だけどこの人間の経験なるものをだね,科学的経験っていうものに置き換えたっていうことは,この三百年来のことなんです。そのために今日の科学は非常に大きな発達をしたんですけどね。(中略)科学っていうものは,経験というものを,計量できる経験だけに絞ったんです。(中略)それが科学というものの性格なんです。だから今日の科学というものは数学っていうものがなきゃ,成り立ちませんよ。計算するには数学ですからね。(中略)はっきりした計算できないものは信じてはいけないんです。それが法則です。(講演の原発言のまま)

 小林の言うように,科学は,経験を「計量できる経験」だけに絞った。それにも拘わらずその「計量できる経験」だけで世界は覆い尽くせるように思えた。

 空中に放り上げられたものは,野球のボールでも猫でも,人間でも同じ放物線を描いて飛んでいく。ロケットを地球から打ち上げれば何時間後に月に到着するか計算できる。人間の身体の中の小さな分子も,方程式にしたがって運動している。

 もし,宇宙の中の全ての物質のデータをインプットできる巨大なコンピュータがあれば,来し方行く末,全ての運動をシミュレーションすることができる。世界は,方程式にしたがって動く巨大な数の集まりである。これが,科学の描き出した宇宙観であった。この世界観はあまりにも完璧で,どこにも穴がないようにも見えた。19世紀のヨーロッパを騒がせた人間機械論や,自由意思を巡る議論はこのような科学的世界観に対するリアクションであった。ニーチェの有名な「神は死んだ」というテーゼさえ,科学的世界観がもたらしたニヒリズムに対する一つの反動であったということができる。

 人間の経験のうち,計量できないものを,現代の脳科学では「クオリア」(感覚質)と呼ぶ。

 およそ意識の中で「あるもの」と他のものと区別して把握されるものは,全てクオリアである。

 赤い色の感覚。水の冷たさの感じ。そこはかとない不安。たおやかな予感。私たちの心の中には,数量化することのできない,微妙で切実なクオリアが満ちている。私たちの経験が様々なクオリアに満ちたものとしてあるということは,この世界に関するもっとも明白な事実の一つである。

 ところが,科学は,私たちの意識の中のクオリアについては,その探究の対象としてこなかった。探究の対象にしたくても出来なかったのである。一体,脳という物質に,なぜ心という不可思議なものが宿るのか。その第一原理を明らかにする努力を科学は怠ってきた。方法論的に歯が立たなかったのである。

 もちろん,物質としての脳と無関係に,私たちの心があるわけではない。計量できる経験とは無関係に,計量できない経験があるのではない。

 私たちの脳という複雑な有機体も,また,物質である。物質である以上,その様々な性質を数で表すこともできるし,方程式で書くこともできる。脳の中にあるニューロン(神経細胞)の数は,「一千億」と数えられる。ニューロンが1秒間に何回活動するかは数えられる。ニューロンの中にある分子の種類も,その濃度も数えられる。そのような数の間の関係を,方程式で表すことができる。

しかし方程式で書けるような科学の方法は,私たち人間の主観的体験の問題に対しては何の本質的洞察も提供しない。今,ある人の脳の活動が方程式で書けて,その様子を巨大なコンピュータでシミュレーションすることができたとしよう。では,シミュレートされた脳の持ち主は,喜んでいるのか悲しんでいるのか。何を見ているのか聴いているのか。数学のことを考えているのか今日の昼食のことを考えているのか。そのような主観的な体験の質は,科学の方法ではわかりはしないのである。

 科学は数値にできる客観的な物質の変化を扱う。クオリアに満ちた主観的な体験は,それを定量的なデータに翻訳して初めて科学の対象となる。その過程で私たちの体験のほとんどの部分は抜け落ちてしまう。主観的な体験そのものを直接扱うことはできないのである。科学万能のイデオロギー信奉者ができれば,主観的体験などというものは世界から消去してしまいたいと思ったとしても当然だろう。実際デカルトが心と物質を分離して以来、科学は、一貫して私たちの意識の中の数に直すことのできない体験の重要さを消去するというシナリオの下に発展してきた。

 そのためにまずなされたのは、私たちの主観的体験を、科学が対象としている客観的な物質のふるまいから切り離すことであった。心の属性は科学の対象にはならないということを宣言することであった。赤というのは、どのような波長の光に対応するのか。この問いは、数に直すことのできる問題だから、科学の対象になる。一方、いかにして、私たちの心という奇妙なものが生まれ、その中で、かくも生々しく赤という質感が感じられるのか、そのような問いは科学的ではないとして排除されてきた。科学万能のイデオロギーの下では、科学的問いに乗らないものは、存在しないことになる。だから、クオリアは、最近の「再発見」まで、存在しないことになっていた。

 クオリアを初めとする、私たちの心をめぐる困難な問いに対して距離を置いたことは、科学が今日の成功を収めた大きな要因でもあった。一方で宇宙の根本原理を理解したいという立場からは、科学は人類の知的欲求の不完全燃焼に過ぎなかった。私たちの主観的体験の全ては、脳の中のニューロンの活動によって精密に生み出されている。心に浮かぶ様々なものを生み出す第一原因も、現時点では未知ではあるが、何らかの精密な自然の秩序であることを、現代の脳科学の知見は示唆している。意識もまた、自然現象であるはずである。しかし、科学的方法論は、今のところ私たちの意識を生み出す自然の秩序の本質を解明し得ていない。

資料4 出典:蔵本由紀、「新しい自然学」、岩波書店、2003年2月(一部編集)

 科学技術の進歩が人類をかつての貧困や病から救い、生活に多大の快適性と至便性をもたらしたことを、今さら否定する人はいないだろう。しかし、地球上における富のはなはだしい偏在や、今や誰の目にも明らかな地球環境の変調を考えると、物質面に限ってさえ、科学技術の進歩が真に人々の豊かさを約束するのだろうか、という疑念がわいてくる。昨今の景気がいかに低迷しているとはいえ、私たちは圧倒的に富める側に住んでおり、現代科学技術の恩恵に十二分に浴している。しかしそれでも、生活の快適さや便利さと引きかえに多くのものが失われつつあることも確かであろう。現代人がいだく漠然とした不安の一半は、失われつつあるものが何か、ということが見えにくいところから来ているのではないだろうか。交通通信手段の飛躍的発展、食生活や住環境の改善、医療技術の進歩などの形であたえられる現代科学技術の恩恵はきわめてわかりやすい。しかし、その代償として失われるものの多くはきわめて見さだめがたい。たとえば生物種や言語の多様性、伝統文化に含まれる智恵、人間関係の変化、等々に関わる損失を明らかにする知を私たちはどれほどもっているだろうか。これは現代における知のはなはだしい不均衡ではないか。ごく卑近な例であるが、携帯電話の普及は、空間というものをずいぶん均質で平板なものにしてしまった。濃密な固有性をもった空間の中に生きることがもはや困難になりつつあることに関して、人はこれをどれだけの損失と考えるだろうか。これを損失としてはっきり認識できるような知はどのような知なのだろうか。一面的に発達した知を補い、それとバランスをとるべき別種の知の貧しさが現代の問題の根底にあるように思われる。

資料5 出典:(財)環境情報普及センター、EICネット(http://www.eicorjp/)環境用語集より、2009年10月更新(一部編集)

炭素フラックス タンソフラックス【英】CarbonFlux[同義]二酸化炭素交換量

解説:大気、海洋、森林等の炭素(C)を貯蔵する各炭素プール間の炭素の移動量のこと。通常、単位面積(ヘクタールha)当り、単位時間(年yr)当りの移動炭素重量(トンt)で表す(tC/ha/yr)。フラックスとは、単位時間内に単位面積を通って輸送される物質やエネルギなどの量で、ここでは炭素あるいはCO2の輸送量をいう。しかし各要素間での炭素フラックスの年収支は現在平衡状態ではなく、各要素の炭素量は変動状態にある。例えば、森林伐採によって陸上生物圏の炭素量は年々減少しており、また化石燃料の燃焼による大気への炭素の放出量は毎年増加している。

 情報量をこの関係式で表したときに,情報量1をどのように定めるとよいのでしょうか。確率がいくらのとき情報量1とするかです。確率が1であれば情報量は0となってしまうし,確率が0であれば,情報量は無限大となってしまいます。ちょうど基準の1になる確率は1/2と定められました。「あれか,これか」「イエスか,ノーか」「表か,裏か」「オンか,オフか」などのように二者択一で起こる情報を情報量1と定めるということです。そうすると,先の関係式で対数の底を2にすればよいことになります。単位には「ビット」(記号bit)を用います。つまり。

H=一log2めと書けます。=1/2であれば,7=1ビットとなります。

 情報量をこのように定義すると,2進法を使って情報をデジタル化するのに便利です。そもそも単位の「ビット」はそのような意味合いが含まれています。

 二者択一,例えば「オンか,オフか」の「オン」を「1」,「オフ」を「0」で表すとしてみます。このとき「0」あるいは「1」は,確率1/2で起こりますから,1ビットの情報量です。これは2進法の1桁で表示できる情報であるともいえます。あるいは,「00」「01」「10||「11」の2桁で表示すると,この4種はいずれも確率1/4で起こりますから,2ビットの情報量です。

 このことは見方を変えると,1ビットの情報量で2種の情報を,2ビットの情報量で4種の情報を表すことができることを意味しています。同様に8ビットの情報量は2*種,すなわち256種類の情報を表すことができます。一般に2ビットの情報量で2″種の情報を表すことができます。

資料7 出典:イアン・ホワイトロー著,冨永星訳,「単位の歴史」,大月書店,2009年5月(一部編集・改変)

スコヴィル値

 唐辛子の辛さを測るにはどうすればよいのか。1912年,パーク・デーヴィスという製薬会社のために研究を行っていたウィルバー・L・スコヴィルは唐辛子の辛さを評価するスコヴィル官能検査なるものを考え出した。複数の被験者(通常は5人)が薄めた水溶液をなめてみて唐辛子味がするかどうかを判断し,そこから辛さを評価しようというのだ。唐辛子味が感じ取れなくなった段階での希釈倍数がその唐辛子のスコヴィル値になる。唐辛子味の原因となっている化学物質であるカプサイシンがまったく入っていない唐辛子,つまりピーマンのスコヴィル値はゼロで,タバスコソース(2,500~5,000),ハラペーニョ(2,500~8,000),セラーノ(1万~2万3000),スコッチ・ボネット・チリ(10万~32万5000),レッド・サビーナ・ハバネロ(35万~57万7000)の順に辛くなっていく。純粋なカプサイシンのスコヴィル値は1600万で,これはつまり,オリンピックプールにカプサイシンが半カップ入っただけで唐辛子味を感じるということだ。

 スコヴィルが定めたスコヴィル値には,非常に主観的だという欠点があった。味覚には個人によってばらつきが大きく,続けて味わっていると,やがて受容体に熱が累積したり,鈍感になったりしかねない。むしろ,液体を使って有機化合物の分離や量の測定を行う高速液体クロマトグラフィーのような技術を使ってカプサイシンを濃縮分離したほうが,直接的で正確な結果が得られる。

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