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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 環境情報学部 小論文 2010年 過去問

2010年 慶應義塾大学 環境情報学部 小論文 課題文

問題1 資料Aは三つの部分、Aー1、Aー2、Aー3からなっています。Aー1に書かれている電子的な図書館がもし実現するとしたとき、Aー2とAー3に基づいて、将来の電子的な図書館が日本語に与える影響を考察して500字以内で論じなさい。

問題2 資料Bにも三つの部分、Bー1、Bー2、Bー3があります。それらの資料に基づき、印刷した書物と電子テキストを比べて、電子テキストの長所と短所を300字以内でまとめなさい。

問題3 資料Aと資料Bの内容を総合して考察し、皆さんが大学に入学して学習・研究を進める立場に立った時に、印刷された書籍の図書館と比べて、電子テキストなどを収めた将来の電子的な図書館はどのような意味を持ち、どのように使うのが望ましいかを700字以内で論じなさい。

資料A 日本の小説家がグーグル・プロジェクトと言われる電子的な図書館の構想を紹介し、その影響を受ける日本語の将来を論じた資料です。この出典の表題は、日本語そのものが亡くなるというよりも比喩的な意味で表現しています。また、資料Aー1で解説している図書館構想は著作権の問題が未解決なので、その実現に向けて現在も世界中で様々な検討が行われています。出典:水村美苗著、日本語が亡びるとき、筑摩書房、2008年10月(一部編集・改変)

資料Aー1

 <大図書館>とは、インターネットを通じて世界のすべての書物にアクセスできるという、究極の<図書館>である。人類は、紀元前三百年のアレクサンドリア図書館以来、すべての書物が入った<図書館>、人類の叡智をすべて蓄積した<図書館>を夢見ていた。その夢が、今、インターネットにさらに二つの技術が加わって可能になりつつある。一つは,書物をデジタル化して読みとれるスキャニングの技術。二つには,欲しい書物を探しだせるサーチエンジンの技術。インターネットに,この二つの技術が加わり,地球のどこに住んでいようと,携帯電話一つあれば,データ化されたすべての書物,データ化されたすべての文化遺産がほとんどただでしかも一瞬のうちに目の前に立ち上がる時代が来ようとしているのである。人は新しい技術にすぐに慣れ,すでにこの<大図書館>という概念にも慣れつつある。だが,その概念が初めて姿を現わしたとき,それは驚きと興奮とをもって迎えられた。そして,人は,その究極の<図書館>がいずれ可能にするであろう,情報の理想郷とでもいうべき世界を情熱的に目の前に描いた。

(中略)

 たとえば二○○六年五月一四日づけの『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』には,そのような<大図書館>一この記事では,「universallibrary」とよばれている一をめぐっての長い記事が掲載された。掲載されたとたんに賛否両論を生み,有名になった記事である。筆者はケヴイン・ケリーというアメリカ人。『ワイヤード』(Wired)という,コンピュータ関係の雑誌の創立者の一人としてよく知られた人物である。記事の後半は,そのような<大図書館>の出現によって,現在,アメリカでは厚く保護されている著作権(作家の死後七十年)がどうやって変わっていくべきかが主題となるが,前半は,今,いかにそのような<大図書館>ができつつあるかそして,その<大図書館>ができたあかつき,どれほど素晴らしい理想郷がこの世に実現されるかが情熱的に描かれている。

 ケヴィン・ケリーによれば<大図書館>に向けて人類が最初の一歩を踏み出したのは二○○四年の十二月。サーチエンジンの最大手企業グーグルがこれからアメリカとイギリスにある五つの主要な図書館と提携しそれらの蔵書すべてをデジタル化して読み取り,一つのデータベースに入れ,いずれ世界のどこからでも読めるようにすると発表したのである。「グーグル・ブック・サービス・ライブラリー・プロジェクト」という長い名前がついているが,ここでは,「グーグル・プロジェクト」とよぶ。記事が書かれた時点でたとえばスタンフォード大学では,八百万冊の蔵書を,スイス製の最先端のロボットを使い,一時間に千ページのスピードですでにスキャンしていたそうである。

 しかも,<大図書館>に向けて動き出しているのは,グーグル社だけではない。ほかの大学も,そして企業も<大図書館>に向けて,それぞれ競って動き出している。カーネギー・メロン大学では,人件費節約のため中国とインドに船積みで蔵書を送ってスキャンしているという。インターネット書店の最大手アマゾンは,この記事が書かれた時点で,販売中の本のうち数十万冊をすでにスキャンしたという。このようにして,今世界で年間百万冊単位の本がデジタル化されて読み取られている。

 もちろん,最終的に<大図書館>に入るのは本に限らない。

 ケヴィン・ケリーいわく,<大図書館>に入るのは,本以外にも,過去から今に至るまでの新聞,雑誌,そして,絵画や彫刻や写真などの視覚芸術の複製,映画,音楽,ラジオやテレビで放送された番組,そのコマーシヤル,もちろん個人ビデオ。さらにはすでにオンラインに載らなくなったウェブ・ページ,ブログ・ポストなどなど。<大図書館>に入るもののリストには限りがない。この記事が出てからさらなる技術進歩によってYouTubeが現れ,今や悲に流通する動画が爆発的に増えていっているがそれもリストに入るであろう。

資料Aー2

 人は言葉以外のメディア=媒体を通じ,<大図書館>を大いに活用し大いに楽しむであろう。地球のどこに住み,何語を話そうと,<大図書館>に出入りすれば,アルタミラの洞窟の壁画もマヤ文明のピラミッド神殿も中国の万里の長城も写真で見ることができる。好きな踊りを観て,好きな歌を聴くことができる。目と耳に訴えるものは,度合いの差こそあれ言葉の壁を乗り越え,何かしら理解できるところがある。

 ところが,言葉だけは,まったく次元のちがったメディア=媒体なのである。言葉というものは,読めなければ,まるで意味がない。

 <書き言葉>は,読めなければ,白い紙一コンピュータの場合には画面一の上に並んだ小さな線や点でしかない。たとえ,明日,人類の遺産すべてが入っている<大図書館>が実現しようと、こと言葉にかんしては、人は、自分が読める言葉の<図書館>にしか出入りすることができないのである。(中略)<大図書館>が実現しようと、そこには、こと言葉にかんしては、背の高い言葉の壁で四方が隔てられた、ばらばらの<図書館>が存在するだけである。そして、それらの<図書館>のほとんどは,その言葉を<自分たちの言葉>とする人が出入りするだけなのである。唯一の例外が、今、人類の歴史がはじまって以来の大きな<普遍語>となりつつある英語の<図書館>であり、その<図書館>だけが、英語を<外の言葉>とするもの凄い数の人が出入りする、まったくレベルを異にする<図書館>なのである。(中略)

 もちろん、世の中には、常に不可能を可能にしようと夢見る理想家がいる。

 インターネットを真に世界に開かれたメディアにしよう一すべての人が「すべての言葉」を読めるようにしようと夢見る理想家がいても不思議はない。そのような人たちが考えついた解決法とは、論理的帰結として、当然、自動翻訳機である。自動翻訳機はかれらが最初に夢見ていたよりはるかに困難なものであるのが明らかになりつつあるが、それでも、理想に向かう彼らの努力は年々成果を上げ、今やずいぶんと役に立つものになっている。ことに、西洋語同士ではそうである。だが、自動翻訳機が人間の翻訳者に取って代わる日がくるなどと考えるのは、電子本が普及するにつれて紙がなくなる日がくると考えるのと同様、非現実的である。

 思うに、自動翻訳機による翻訳は、いくら技術が進歩しようと、まずは原理的に不可能である。たとえば、ある文章が言っていることと、その文章が意味していることのちがいというものは、すべての言語の本質にある。言葉の修辞学的機能から生まれる。そして、書いた人間の意図と無関係に言葉だけを解読する自動翻訳機では、その言葉の修辞学的機能というものを理解することたとえば、ある表現が反語的に機能しているのを理解することが不可能である。ひとつの文脈の中で「自動翻訳機で翻訳したとはたいしたもんだ!」というのが、皮肉だか皮肉でないかがわかるように翻訳するのは、どうプログラムしようと、ランダムにしかできない。皮肉が通じない人間もいるのだから当然といえば当然である。

資料A一3

 『新約聖書』の現存する一番古い<テキスト>は,当時地中海文明の<普遍語>であったギリシャ語で残っているが,『新約聖書」がのちに西ヨーロッパに広がったとき,それは当時西ヨーロッパの<普遍語>だったラテン語訳で広がった。もとはパーリ語やサンスクリットで書かれた「仏典」も,漢文圏の中国や韓国や日本では,<普遍語>の漢文訳で広がった。「聖典」そのものが何語で書かれていようと,その「聖典」は<普遍語>で広がる。(中略)

 いや,もし英語で書くことができれば,学者のみならずいったい誰がわざわざ<自分たちの言葉>で書こうとするであろうか。<学問の言葉>が英語という<普遍語>に一極化されつつある事実はすでに多くの人が指摘していることである。だが,その事実が,英語以外の<国語>に与えうる影響にかんしてはまだ誰も真剣に考えていない。<学問の言葉>が<普遍語>になるとは,優れた学者であればあるほど自分の<国語>で<テキスト>たりうるものを書こうとはしなくなるのを意味するが,そのような動きは,<学問>の世界にとどまりうるものではないのである。<学問>の世界とそうではない世界との境界線など,はっきりと引けるものではないからである。英語という<普遍語>の出現はジャーナリストであろうと,ブロガーであろうと,ものを書こうという人が,<叡智を求める人>であればあるほど,<国語>で<テキスト>を書かなくなっていくのを究極的には意味する。そして,いうまでもなく,<テキスト>の最たるものは文学である。(中略)

 歴史は皮肉なものである。

 ほぼ一世紀半前,日本の学問の府は大きな翻訳機関として,日本語を学問ができる言葉にした日本語を<国語>にした。それが,今,英語が世界を覆う<普遍語>となるにつれ日本の学問の府は,大きな翻訳機関に留まるのをやめようとしているのである。名ばかりの大学と成り果てた日本の大学ではもちろん日本語が中心にあり続けるであろう。だが,日本の大学院,それも優秀な学生を集める大学院ほど,英語で学問をしようという風に動いてきている。特殊な分野をのぞいては,日本語は<学問の言葉>にはあらざるものに転じつつあるのである。

 一人の小説家としてーそれ以前に、一人の日本人として、このような動きがこの先日本語に与えうる影響を考えないわけにはいかない。たとえば、今、瀬石ほどの資質をもった人物が日本に生まれたとしよう。かれはこの先どのような道を辿るであろうか。

 瀬石は、福沢諭吉と同様、まことに優れて<叡智を求める人>であった。

 たとえば瀬石がロンドンで義父に宛てた書簡。

 「文学論」の構想を練っているときに書いたものだが、ロンドンに留学したがゆえに、英語の<図書館>への自由な出入りが初めて真に可能になったときに書かれたものである。その書簡からは、当時、いかに瀬状石がひたすら勉強したかったかいかにそのとき人類が知っていることすべてを知りたかったかが息苦しいほど伝わってくる。異国の孤独の中で知識を渇望する気迫がそのまま感じられる。(中略)瀬石が今生まれたら、そして、その生まれた家がある程度経済的に余裕のある家だとしたら、あの資質とあの頭脳である。大学、大学院へと進んだ可能性は大いにある。そうして学者になった可能性は大いにある。(中略)

 瀬石が今生まれたとすれば、大人になるのは四半世紀後である。四半世紀後の世界では、非西洋人の学者が英語で書くのは今よりもさらに常識となっているであろう。英語で<テキスト>を書くことによって、世界の<読まれるべき言葉>の連鎖に入ろうーそう、瀬石が決心し、そして、もし英語として充分に読むに耐えうる<テキスト>を実際に書くことができたとすれば、かれが書いたものは、実際、世界の<読まれるべき言葉>の連鎖に入ったかもしれない。

 ただ、そのときの瀬石は、英語とはあまりにかけ離れた言葉を<母語>とするおのれの運命を呪い、英語を<母語>とする人たちの幸運を妬み、彼らの無邪気と鈍感に怒りを感じながら、人生のかなりの時間を英語そのものと格闘してすごすことになったであろう。瀬状石は、いずれにせよ、毎日が幸せでしようがないといった類いの人間ではない。しかし、<外の言葉>である英語と格闘して過ごす毎日は、<自分たちのことば>である日本語で書く毎日と比べて、さらに不幸なものとなったであろう。<外の言葉>である英語で書く行為は、かれにどうしようもない疎外感ものとはならなかったであろう。しかも、彼の書いたものは、瀬石にとって満足のいくものとはならなかっただろう。

資料B 

 この資料ではグーテンベルクが発明した印刷書籍と最近の電子ブックを比較して論じています。著者は米国と英国で教授を勤めた編集文献学者です。著者の編集文献学では,文献のかたちで残った文化遺産を収集・維持・伝えていくこと,および,文学作品などのテキストを比較・考証し,編集・印刷・出版・流通さらに読者も観点に入れた幅広い学問を扱っています。

出典:ピーター・シリングスバーグ著,明星聖子,大久保譲,神崎正英訳,グーテンベルクからグーグルへ,慶應義塾大学出版会,2009年

資料Bー1

 まず,電子ブックもまた複雑な企てであることを認識しなければならない。それは一つの領域で起きた変化が他の領域での変化を可能にし,あるいは変化を促しもする,巨大なネットワークの複雑さである。その複雑さは,電子ブックのすべての局面を覆っており,そのなかにはあなたや私が専門家ではない部分も含まれている。そこには必要な機械装置(CPU[中央処理装置]からディスプレイやプリンタ,各種コネクタ,地域的かつ国際的にそれらをつなぐための有線または無線の装置までのハードウェア),必要な資材(電源,ライト,テキスト表示のためのスクリーン。もしテキストを印刷するならば紙もいるであろう),ソフトウェアや基本コード体系(文字集合印字書体,テキストや画像を配列・表示・伝送・複製するための方法など),通信システム(配信と表示のためのソフトウェアとハードウェアの双方)などが含まれる。読みやすくかつ美しい電子書面とするためには,適切な書式設定と魅力的な頁デザイン,書体や文字サイズ,空白などをエレガントに組み合わせるための専門知識も必要だしそして価値ある内容とどんな細部に至るまでも信頼性のあるテキストの選択や創作の専門知識も必要だ。

 要するに,グーテンベルク革命によって引き起こされたのと同じくらいの驚嘆の念を感じながら,私は電子テキストの前に立っている。電子テキストという現象の力,器用さ,スピード,優雅さに魅了されるのはいうまででもない。私たちは皆,電子テキストが印刷された書物よりも優れた能力をもっていることを肌身でわかっている。電子テキストは検索可能で多くの異なる方法で更新や流通や分析が容易にでき,操作も容易ならそれ自身を別のテキストに何度でも変換することさえ容易にできる。電子ブックは堅固さ,安定性と持続性を持つ印刷された書物とは根本的に異なっている。とりわけ私は,学術論文という形での学知の貯蔵庫への電子アクセスに敬意を抱いている。私も学生たちも印刷された学術誌で読みたい論文が以前の学生というか野蛮な破壊者によって切り取られていることに何度も遭遇しているからだ。電子論文ならオリジナルに害を加えずに「切り取る」ことができるではないか。

(中略)

 けれども,印刷された書物もまた,電子テキストがいまだ獲得していない利点をもっている。冊子体の発明以来,十分な光さえあれば図書館や書斎から寝室,ポーチのハンモック,公園のベンチ,そしてビーチまでどんな場所ででも本は非常に容易に使える。それに対し,一枚の紙と比べて同じくらいの薄い実用的な電子テキストはまだ存在しない。どのような点で電子ブックは印刷された書物と競争すべきなのか?どのような点で優れているべきなのか?少なくともどの点において印刷された書物と同等の長所を有するべきか?電子ブックが印刷された書物との競争で負けても問題ないのは,どんな部分においてだろうか?電子テキストが検索可能であるという長所は,その存在期間として今から十年か二十年すらも保証ができないという欠点を補ってくれるのだろうか?索引が付いている場合でさえ,印刷された書物よりも電子ブックからの方が早く特定の情報を収集できるという長所は,スクリーンの上で五百ページの本を(たぶん二十頁の論文さえ)読むことを選択する人などまずいないという欠点を相殺してくれるのか?これらの問いには決定的な答えはなく,しかもここから関連した問いがいくらでも生じてくる。こうした問いの数々は創意工夫に富んだ人々を駆り立てて,デザインとテクノロジーの改善へと向かわせることだろう。けれども電子的に作られ,流通するテキストの質についての疑問が残る。

資料Bー2

 第一に,デジタル革命がまだ端緒についたばかりのこの世界においてさえ,出所のわからないテキストが世界を覆い尽くさんばかりに溢れているということだ。そうしたテキストにはどのような誤りが潜んでいるかわからず,特定されていない,あるいは間違ったヴァージョンを再現している。こうしたテキストはコンピュータや,特にインターネットに対する熱狂の結果として生み出されがちである。画像として,あるいは光学式文字認識ソフトによって,テキストは簡単にスキャン可能で,ウェブに発表できる。だから,ほとんど誰でも簡単に,編集者/製作者/出版者になれる。インターネット上の議論での発言やアドバイスを見るかぎり,こうした電子テキストの公表における最大の問題は,テキストの真正さだとか,実証性だとか出所ではないようなのだ。単に,著作権が生きているテキストをウェブ上で公開することを避けるように,ということだけがやかましくいわれている。しかし,著作権に関するこうした注意事項の存在は,次のような問題を含んでいる。すなわち,作品の最新の学術編集版が存在している場合でも,電子テキストのえせ編集者兼出版者は,古く,そしてたいていの場合は廉価版のリプリントを素材として用いてしまう,ということだ。電子テキストをウェブ上に発表する動機は,利己的なものである場合もあるだろうが,しかしたいていは善意からであろう。従来なら本を買うか。図書館へ行くかさもなければ諦めるしかなかったような人々に対して労力・テクノロジーの成果のいくばくかを,無料で提供しようというのだ。テキストをコンピュータ化することの利点はそればかりではない。カードと鉛筆を使うことなしに,テキストを検索し,必要箇所を「抜き書き」し保存しておくことができる。だが,電子テキストのこれらの長所に対する熱狂がテキストの正確さや起源に対する無関心を生みだしてしまっている。

資料Bー3

 次に考えなくてはならないのは,私たちの学生がさらされている状況だ。彼らがネット上で接するテキストは起源や,オリジナルの日付やオリジナルの出版社や,オリジナルの活字面や,オリジナルのページの配置や重さから切り離されたものである。これらはみな,テキストの「出来事性」の痕跡であり、誕生当初のテキストが書かれ/読まれた文化的コンテキストを理解するための鍵となるものだ。

(中略)

 大部分の電子版テキストは、いい加減に用意され、大ざっばな校正しか受けず、[発表可能なレベルに達しているかどうかの]審査は不適切であるか、そもそもまったくなされていない。だから、誤りを含んだ文章が学問の探究を破壊する言語の地雷のようにそこかしこに潜んでいる。無料のテキストを好み、コンピュータ媒体の利点に満足している学生たちは,当然のことながらテキストの出所や正確さに関する必要な問いかけをしようとはしない。インターネット上に見られる不用意なテキストの複製は,比較的安いペーパーバック版の増大と同様に世間に広まっている考え方を反映している。

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