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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 環境情報学部 小論文 2006年 過去問

2006年 慶應義塾大学 環境情報学部 小論文 課題文

問題 21世紀にふさわしいモノやサービスを「発明」してください。

資料1

 「来るべき産業革命」は現在の社会を分析しながら,来るべき社会システムについて説明したものです。この資料をよく読んで「問題発見」をしてください。資料2「ファクター10」はデザインによって環境問題を解決する方法について説明したものです。資料3「発見・発明の方法」は問題解決のために新しい機器やシステムをデザインすることを「発明」と呼び,そのプロセスを説明しています。これら3つの資料を参考にして,21世紀にふさわしいモノやサービスを「発明」してください。[注]自動車はすでに様々な角度から環境問題に関係づけて議論されています。今回の回答では自動車に関係する「発明」は避けてください。

問1 あなたが発見した「問題」を簡潔に35字で説明してください。

問2 あなたの発明したモノあるいはサービスを図で描いてください。

問3 あなたの発明したモノあるいはサービスの仕様と機能を文章(200字)で説明してくだ

問4 発明したモノやサービスを実現するためには,その価値を人に納得させる必要があります。800字で売り込みの文章を書いてください。

 

 あなたが発明したモノの意義・仕組み・魅力を,技術・経済など様々な角度から複眼的に検討して,実現方法をあみだし,論理的で魅力的なストーリーを書きましょう。社会的使命を見失わず,自由奔放にアイデアを生み出し,そのアイデアを整理して,説得力のある説明をしてください。

資料1

 来るべき産業革命都市から自動車とバスの騒音が消え,車から吐き出されるのは(排ガスではなく)水蒸気だけ,不要になった高速道路が公園と緑地帯に生まれ変わる。そんな静かで安らかな世界を少しだけ想像してみよう。石油価格は1バレル当たり5ドルまで低下しているのに買い手はほとんどおらず石油輸出国機構(OPEC)はその役割を終えている。これまで石油に頼っていたサービスを,もっと安く。無害な方法で手に入れられるようになったからだ。人々の生活水準,とりわけ貧しい人々と発展途上国の人々の生活水準が飛躍的に向上する。非自発的失業はなくなり,所得税はほぼ全廃される。住宅に関していえば,そこで生産されるエネルギーによって住宅ローンの一部を支払うことができる。低所得層向けの団地もその例外ではない。ゴミの埋め立て地は数少なくなり,世界中で森林が増加し,ダムの解体が進められている。二酸化炭素の大気中濃度は200年ぶりに減少しはじめ,工場廃水は使用前よりも澄んでいる。工業国では資源の使用量が80%も減るが,その一方で生活の質は改善される。こうした技術革新と並行して,重要な社会的変化が起きる。西側諸国の疲弊した社会保障制度が補修される。家庭を支えるのに十分な収入が得られる仕事が急増し,福祉の需要が小さくなる。進歩的な労働組合は,企業。環境問題の専門家,政府に積極的に働きかけ,石炭,原子力,石油の使用を段階的に減らすことによって,労働を「適切な形に変化」させようとする。町や村では,教会。企業。労働団体が中心となり,貴重な社会資本の成長とその保全を保証する最も安上がりな方法として,生活維持賃金を再定義する新しい社会契約を推進している。こんな世界はユートピアにすぎないのだろうか。そんなことはない。事実,すでに存在する経済的,技術的な動向から見てここで指摘した変化は今後数十年内に実現する可能性を秘めている。

 本論では,こうした可能性をはじめとする。さまざまな可能性について説きすすめる。

 それは今日広く標準となっている産業システムとは、原理,目標。基本的プロセスをまったく異にする,新しい産業主義から生まれるさまざまな可能性である。21世紀には,世界人口が倍増するのに対し,1人当たりの利用可能な資源がこれまでの半分ないし4分の3減少するが,それを契機として,産業と商業の目覚ましい変化が起こりうる。この変化により、資源とエネルギーの消費は激減し,活力あふれる経済がつくり出される。この経済の下では,資源が無駄なく利用され,個人所得税は軽減され,社会悪に対する1人当たりの対策費は増加して(同時に社会悪を減少させながら),破壊された地球環境が蘇生しはじめる。前提となるこうした変化が順調に起こるならば,経済の効率化,生態系の保存,社会的平等を同時に達成するのも夢ではない。

 今日の資本主義の推進力となった産業革命によって,人類の物質的な発展の可能性は一足飛びに拡大した。そうした拡大は,大きな代償を払いながらいまなお続けられている。18世紀半ばから今日に至るまでに,歴史上のどの時代をもはるかに上回る規模の自然が破壊された。産業システムはその成功の頂点を極め,広範なレベルで人工的な資本の収集,蓄積が可能となったが,文明が経済的繁栄をつくり出すための礎である自然資本は急速に減少し,その減少の割合は物質的な豊かさに比例して増大している。「自然資本」には,水,鉱物,石油,木材,魚,土壌,大気など,人間が使用するすべての資源が含まれている。そして,草原,サバンナ,湿地,河口域,海洋,瑞調礁,河川流域,ツンドラ,熱帯雨林などの生態系もまた含まれている。現在,このような生態系は全世界で,未曾有の速さで衰退している。そこには,地球の生命を支え,生活に潤いを与えてくれる。菌類,淡水魚,哺乳類,腐植土,両生類,細菌類,樹木,鞭毛虫,昆虫。鳥類。羊歯類,ヒトデ,花などが生息している。

 人間と企業が生命システムに及ぼす歪みが深刻化するにつれ,経済的な繁栄に歯止めがかかる。それは工業生産力が限界に達したためではなく,自然資本によって制約されるためである。とはいえ,近い将来,世界が原燃料不足に陥るというわけではない。いま現在,ほとんどの原燃料価格は過去28年間での最安値を記録しており,いまなお下落し続けている。生活用品は安く,豊富にあると思われている。アジア経済の崩壊や,貿易のグローバル化,輸送費の低下,販売業者と中間業者が生産者を圧迫しかねない不均衡な市場など,さまざまな理由をその背景として挙げることができるが,実際には新しい強力な採掘技術の成功に負うところが大きい。しかし,それによって生命システムが破壊されるという莫大な損失が,金銭的に評価されることはほとんどない。採掘技術が進歩したことによって鉱山会社は,高品質の鉱石を採掘し尽くしても,鉱山全体を切り崩し,粉砕することによって、低品質の鉱石を採掘し、必要な金属を抽出できるようになっている。このような技術の進歩が資源の枯渇を助長している。金属の価格が下落し続けるように見えるのは、あくまでそう見えるだけにすぎない。採掘した後には、熱帯雨林が裸になり、有毒な廃石が河川にどっと流れ込み開発下の村はその分だけ貧しくなる。と同時に、固有の文化も創地まれるのだが(そのような結果にはまったく注意が払われていない)。その代償は生産コストにまったく算入されていない。

 人間が行う開発に歯止めをかけるのは、石油や銅の供給不足ではなく。生命そのものへの脅威である。今日の資源開発に制約を課しているのは。漁船の数ではなく減少する魚の数。ポンプの数ではなく帯水層の枯渇。チェーンソーの数ではなく原生林の消失である。生態系は、材木、魚。食物など有用な原材料の源だが、最も重要なのは生態系が供給してくれるサービスである。人間が繁栄するためには、再利用できない資源よりも生態系によるサービスの方がはるかに必要なのである。森林は、材木という資源を供給するだけでなく、水の滋養や洪水の管理というサービスをも提供している。健全な環境は、きれいな水や空気。雨。海洋で生命を生み出す力。肥決な土壌。河川流域の回復力などを自動的に供給するだけでなく、廃棄物処理(自然にであれ、工業的にであれ)。極端な天候に対する緩衝機構。大気の循環といったあまり目立たないサービスも提供している。

 人類は過去38億年間にわたり蓄積されてきた自然資本を受け継いでいる。利用と破壊のスピードがこのまま続けば、21世紀末までに自然資本は払底してしまうだろう。これは美意識や道徳観の問題にとどまらず、社会とすべての人々の実質的な利害に関係している。環境の現状について多くの報道がなされ、環境破壊を防止する立法努力が重ねられてきたにもかかわらず、自然資本の減少は一足飛びに加速している。そこから供給される重要な生命維持サービスは人類の繁栄に不可欠なものだというのに。

 ナチュラル・キャピタリズムとは、人工的な資本を使用した生産と。自然資本の維持、供給のあいだに重要な相互依存関係があることを認めた考え方である。従来の定義によれば、資本とは、金融資産。工場。設備の形で蓄積された富のことである。経済が順調に機能するために必要な資本は実際、次の4種類に分類される。

1 人的資本 労働や知識、文化、組織の形をとっている。

2 金融資本 現金,株式,金融証券から成り立っている。

3 製造資本 インフラ(社会的基盤となる)施設を含めた。機械,道具。工場などがある。

4 自然資本 資源,生命システム。生態系のサービスなどから成り立っている。

 産業とは。最初の3種類の資本を用いて,自然資本を,人間の日常生活に必要なもの,つまり自動車,道路,都市,橋,建物,食品。医薬品,病院。学校などにつくり変えることである。

 いま気候問題が論議されているのは,危機に瀕しているのが。石油,魚。材木などといった特定の資源ではなく,生命を維持するシステムだからである。自然の最も重要な循環系の1つは,植物と動物のあいだで行われる二酸化炭素と酸素の絶えまない交換である。この「リサイクリング・サービス」は,自然が無償で提供してくれている。しかし現在。人間による化石燃料の燃焼などが原因で。大気中の二酸化炭素の濃度が増加し続けている。要するに,二酸化炭素の排出量が自然環境による同化能力を超えているわけで,種を存続させるために必要な許容量を超えて魚を乱獲するのと同じことである。ただ,ここで本当に気をつけなければならないのは,自然の働きによる二酸化炭素の同化作用に取って代わるものについて何もわかっていないことである。

 生物圏における変化は,気候のほかにも広範囲に及んでいる。過去50年間に,全世界の地表から,表土の4分の1,森林の3分の1が消え去った。環境破壊がこの割合で進めば,われわれが生きているあいだに,海洋生物の25%が生息している世界の瑞期礁の70%を失うことになるだろう。過去30年間に,地球の資源,つまり「天然の富」の3分の1が消費されてしまった。淡水の生態系は年6%,海洋の生態系は年4%の割合で失われている。世界中であらゆる生物の個体数が極端に減っているため。絶滅する種の数は増加する一方であり,絶滅が加速されているケースも少なくない。もはやどのような科学的根拠をもった反論もできない。すでに現在。ある異常な限界点にまで到達しているのである。

 工業生産の成功の陰に隠された環境問題に対する認識は,20世紀末に起きた2つの大きな知的変化のうちの後者が誘因となっている。1つは,冷戦の終結と沈みゆく共産主義であり、もう1つは、いま静かに浮かび上がってきた地球上の生物に対する略奪の終結と、ナチュラル・キャピタリズムと呼ばれるものの来るべき高揚である。

 既存の資本主義は、金銭上の利益こそ獲得できるものの、持続不可能な異常な経済発展の形態である。この「インダストリアル・キャピタリズム(産業資本主義)」と呼ぶべき資本主義は、会計原則を十分には満たしていない。たとえば、産業資本が生み出す価値を所得と呼んでいるが、最も大きな資本ストック。すなわち自然資本には何の価値も認めていない。天然資源や生命システムはもとより、人的資本の基礎である社会制度や文化制度さえも無視している。

 しかし、単に自然資本に金銭的価値を割り当てただけでは、企業活動のこうした欠陥を是正できない。それには3つの理由がある。1つは、人間が生物から受けているサービスの多くは、いずれもかけがえがないものであるために、値段がつけられないということだ。緑色植物がつくり出す酸素はその一例である。そのことを示す証として記憶に新しいのが、1991年から93年にかけてアメリカ・アリゾナ州で行われた。数人の科学者が人工の生態系のなかで生活するという総額2億ドルの実験。バイオスフィア2である。この実験から明らかになったのは、人工の生態系では8人の生命を維持するに足る量の酸素さえつくり出せないということだった。バイオスフィア。別称「地球」は、毎日60億人のためにこの仕事を無料で行っているというのに。

 2つ目の理由は、自然資本を評価することは困難であり。不正確な作業とならざるを得ないということである。にもかかわらず、最近発表されたいくつかの評価では、自然資本ストックから社会に直接提供される生物のサービスは少なくとも年間36兆ドルと見積もられている。この数値は。1年間の世界総生産。約39兆ドルにほぼ匹敵する。自然資本は経済に莫大な価値をもたらしているのである。自然資本ストックに一時的な価値をつけ、その資産が年間36兆ドルの「利息」を生むと仮定すれば、世界の自然資本の価値は約400兆~500兆ドル。地球上の人間1人当たり数万ドルである。自然資本は人間の生活に欠かせない。かけがえのないものであるという意味において無限大の価値をもっているため。これが控えめな数値であることは明らかである。

 さらに、技術が地球の生命維持システムを代行できないのと同様、機械もまた、人間の知能。知識。知恵。組織能力。文化の代わりにはならない。世界銀行の1995年度の「富裕指数」によれば、人的資本の価値の総和は。貸借対照表”に反映された金融資本と製造資本の合計の3倍にのぼるという。この数値もまた控えめな見積もりであると思われる。これには労働市場で評価される価値しか考慮されておらず、人々の無償の努力や文化的ストックが除外されているからである。

 いまや人間が破滅の瀬戸際にあるのは、こうした資本が無価値であるかのように振る舞ってきた結果であることは明白である。自然資本と人的資本の価値を貸借対照表に取り入れるのが実際問題として難しいのなら。(各国政府や良心的な企業人は)地球上の生物の責任ある利用の仕方をどのようにして決めればよいのだろうか。

 限界にきたこれまでの資本主義

 アインシュタインの名言によれば、「問題を解決するには、問題の原因となっている考え方を打破しなければならない」。したがって、経済と生態系を含む大がかりな変革の第一歩は、まず、現在の経済観の基礎になっている思考様式を理解することである。現在の資本主義の思考様式は、次のように要約することができる。

・収益を再投資することによって労働と資本の生産性が増加し続ける自由市場の下で、経済成長率は最大となる。

・より広大な市場で販売するために、より多くの製品を、より大きく。より効率の高い工場で生産することによって、競争力を獲得することができる。

・国内総生産(GDP)が成長すれば、人間はより幸せになる。

・資源の不足が、代替資源開発の引き金となる。

・環境保全への配慮は大切だが、高い生活水準を維持しようとするのであれば、それは、経済成長のニーズと調和したものでなければならない。

・自由競争と自由市場の下で、労働力と資本の最適配分が確保される。

 こうした世界観の起源は数世紀前にさかのぼることができるが,それが主要な経済観念として確立したのは産業革命以後のことである。突如起こった。このほとんど暴力的な商品の生産・流通手段の変化によって,あらゆる産業部門に,物質的な製品を生み出す基本図式の再定義を迫るような新しい要素が導入されることになった。それは,水,木材,木炭。石炭。石油,最終的には電気を動力とする機械であり,それまで労働者がやっていた仕事の一部または全部が機械によって代行されるようになり,作業効率が大きく高まった。その結果。人間の生産能力が爆発的な増大をたどりはじめる。イギリスの繊維産業では,1770年には200人の労働者を必要としていた仕事が,1812年にはたった1人の紡績工でこなせるようになった。こうした生産性の目覚ましい向上により,人間の労働力は,織物などの生活必需品を極めて安価なコストで大量生産できるようになった。これが生活水準と実質賃金の急上昇をもたらし,繊維以外の産業の製品に対する需要の増加をもたらした。技術革新は他の産業にも波及し,産業界は次々と機械化を進めた。そして価格の下落と所得の増加が促進された。このような要素がすべて絡み合い。輸送,住宅,教育,衣料をはじめとするさまざまな商品への需要が相乗的に増大し,近代商業の基礎が形成されたのである。

 こうして過去2世紀のあいだに経済的繁栄と製造資本は飛躍的に増大し,その副産物として成長を分析する経済理論が山ほど考え出されたが,どの理論も「自然資本と人的資本は最終製品の価値にほとんど反映されない」という間違った仮説に基づいている。標準的な産業モデルにおける価値創造は,原材料の採取,生産。分配という一元的なプロセスで表されている。まず。資源が登場する(舞台左から。自然が入場)。労働者が技術を用いてこれらの資源を製品に変身させる。製品は販売されて利益を生み出す。生産工程から出る廃棄物(やがて製品そのものもそうなるのだが)は,どこかしら他の場所で処理される(舞台右へ,廃棄物が退場)。このシナリオでいう「どこか」は,古典派経済学にとってはどうでもよい。なぜなら古典派経済理論によれば,金さえあれば資源はいくらでも購入できるし後に廃棄物を処理する「他の場所」にも不自由しないからだ。

 もちろん,このような価値生産の定説を批判する人がいなかったわけではない。経済学者。ハーマン・デイリーの主張によれば,「経済プロセスを生産と消費のあいだの価値循環として他から切り離して考えるのは,動物の仕組みを理解しようとして,その循環器しか調べないようなものだ。動物の消化器官は,その両端で環境と密接に結びついているという事実を無視している」。しかし,この価値生産の定説を,もっと根本的なところで批判することもできる。それは簡単な推論でわかる。感覚的に十分わかることなのだが,すべての経済活動,つまり,すべての人間,そして人間がいままで生産してきたすべてのものは,ある特殊な惑星の仕組みのなかに内包されている。地球が大きくなることはないのだから。どこか他の場所もいつも人間のそばにある。資源の採取量,輸送量,消費量,そして廃棄物への転換量の増加と比例して,人間が受け継いだ自然資本ストックは減少していくのである。

 地球の人口が1時間に約1万人の割合で増えている現在,以前にはなかった新しい欠乏のパターンがあちらこちらで現れている。産業革命初期には労働者は過重労働を強いられ,労働力は相対的に不足していたが(労働者の数は現在の約10分の1),全世界の自然資本は,まだ開発の手が伸びておらず豊富だった。しかし,現在では状況は逆転している。労働生産性が2世紀にわたって伸び続け,資源が担っている価値ではなく採取費用だけを考えた天然資源のバランスシート’,また,あたかもそれが無料で無限,永久に再生可能であるかのように生態系を開発した結果,以前とは逆に自然資本は恐ろしく欠乏し,人間があり余る資源となったのである。

 いま新たに出現した欠乏のパターンに,産業革命を推進したのと同じ経済理論を適用するなら,社会が今後も繁栄を続けていくためには,資源の利用効率を飛躍的に高めなければならないことになる。エネルギー,水,原材料,地球から借用して消費するすべてのものにつき,それぞれ1単位当たりから引き出せる利益を,4倍,10倍,100倍にしなければならない。しかし,これだけの効率性を達成するのはさほど難しくなさそうである。なぜなら資源とエネルギーという観点から見ると,現在の産業は非効率の極みだからである。工業生産のためにアメリカで1日に消費される資源量は,市民の体重の20倍以上,年間1人当たり100万ポンド(約455トン)以上にも達している。世界的な資源のフローは年間約5000兆トンだがその大半が浪費されており。大部分は統計には表れてこない。しかし,資源の採取,運搬。利用,処理によって地球環境は着実に悪化し,その歪みの兆候は日増しに顕著になり。さらには生物種の絶滅を招いている。もうすでに人間は世界の利用可能な地表水の半分以上を使い切り,陸面積の3分の1ないし2分の1の土地を開発し。陸地の全生態系が固定化する以上の窒素を固定化し,陸地で発生する主要な生物生産性の5分の2以上を専有している。人口の増加に伴い。こうした地球への負荷が倍増すれば,絶滅する生物は何百万種にもなり,生物連鎖そのものが脅かされることになる。

 生態学的な歪みは,社会のいろいろな問題や対立を引き起こし,悪化させる原因にもなる。たとえば世界人口の3分の1が,貧困,飢餓,栄養失調,伝染病に苦しみ。その数はいまも増加している。当然ながら,犯罪,汚職,法律違反,無秩序も増加傾向にある(世界で最も急成長している産業は,警備保障と民間の治安維持である)。90年代には難民人口が,控えめに見ても数億人にまで増加した。世界で10億人以上もの人々が仕事を必要としながら働き口がなく,自分や家族の生活費も稼げない低賃金労働を強いられている。森林,表土,漁場。淡水の消失が原因で,地域紛争や国家の対立が起きることもある。

 人間の経済活動において,人的資本と自然資本はもちろん,あらゆる資本の価値を完全に評価するなら,それはどのような経済になるのか。近代経済学や会計学のような生物不在の抽象論ではなく,自然の生物学的な現実を中心に私たちの経済を構築するなら,それはどのようなものになるだろうか。自然資本と人的資本を無尽蔵かつ無料で手に入るものではなく。有限で必要不可欠な生産要素とみなし。一般に認められた会計原則に則して計上したらどうなるのか。人的資本と自然資本をきちんと評価する会計処理方法がないまま,このような原則を企業が経営に取り込んだらどうなるのか。こうした転換はいますぐにでも選択可能だし,そうした経済においては社会の全構成員にすばらしいチャンスが新たに与えられることになるだろう。これは,来るべき新たな産業革命とも呼ぶべきものである。

生命システムを考慮した資本主義への転換

 ナチュラル・キャピタリズムと新しい産業システムを構築すれまでの資本主義と根本的に異なる考え方,価値観がその前提条件として求められる。基本的な前提条件には次のものが含まれる。

・環境は副次的な生産要素ではなく,「経済全体を包み込み,資源を供給・維持する大きな封筒のようなものである」。

・将来の経済発展を制約する要因は,自然資本から得られる資源の供給とその働きにある。特に重要なのが,他で代替できない生命維持サービスであり,それは現在のところ市場で価格付けされていない。

・誤解または誤った考えにより設計された企業システム,人口の増加。無駄の多い消費行動が,自然資本を目減りさせる主な原因である。持続可能な経済を達成するには,この3つの問題を解決しなければならない。

・将来,最大限の経済成長を達成できるのは,人的資本。製造資本,金融資本,自然資本などあらゆる形態の資本の価値を十分に考慮に入れた。民主的かつ市場メカニズムを有効利用する生産と流通のシステムである。

・労働者,資本,環境を最も有効に利用するカギの1つは,資源生産性を飛躍的に高めることである。

・単に全体の資金の流れを増やすより,むしろ提供するサービスの質と流れを改善することによって,人間社会の福利は最大限達成される。

・経済と環境の持続可能性は,所得と物質的な豊かさにおける国家間の不平等を正すことにかかっている。

・企業よりもむしろ一般市民のニーズに基づいた,真に民主的な統治制度によって。長期的に最適な環

境が整備される。

 このような基本となる前提条件をすべて満たすのが,ナチュラル・キャピタリズムの4つの戦略である。こうした戦略を訴えることによって,国家,企業。地域社会は,既述した4つの資本の価値を織り込んで行動することが可能となる。貴重な社会プロセスと自然プロセスから得られる恩恵を永続的に確保することは,増え続ける人口のために賢明な投資であるばかりか,今後数十年内に解決を迫られる課題でもある。そうすることで欠乏を回避し,豊かさを持続させ,社会が進歩するための堅固な基礎を築くことができる。それは次の世紀とそれ以後の繁栄を保障するために引き受けるべき責務でもある。

1 資源生産性の根本的改善

 資源生産性を大幅に向上させることは,ナチュラル・キャピタリズムの礎石である。というのは,資源をより効率的に利用することによって,3つの重要な効果が得られるからである。それは,価値連鎖”(バリューチェーン)の一端で資源の枯渇を遅らせること。他端で汚染を減少させること。そしてそれと同時に,有意義な仕事を創出して全世界の雇用を増やすことである。その結果。生態系と社会の双方を破壊する最大の原因は消え去り。企業と社会にとってその対策費は不要となり,諸費用は軽減する。環境および社会にもたらされた被害のほとんどは,人的資源と天然資源を節約せずに浪費した報いだが,資源生産性を向上させる戦略は,生物圏の衰退を食い止め,雇用の増加によって利益を拡大させることができる。結果として,貴重な生態系の破壊と社会的結束力の崩壊

2 バイオミミクリ(生物模倣)

 原材料の処理における無駄を減らす,というよりは廃棄物という概念のものをなくす。これは,産業システムの仕組みを生物を模倣したプロセスにデザインし直すことにより,生産工程や原材料の特性を変えてしまうこと,すなわち閉じたサイクルのなかで絶えず原材料が再利用できるようにすることである。その過程ではほとんどの毒性が排除される。

3 サービスとフローに基づく経済への移行

 この経済を実現するには,生産者と消費者の関係を根本的に変える必要がある。財を購入する経済から「サービスとフロー」に基づく経済への移行である。経済的サービスの流通をベースにする経済は,その基礎である生態系のサービスをより効果的に確保することができる。そのためには価値観を転換し,財の獲得を豊かさの尺度とする経済から。高品質で便利かつ高性能なサービスを継続的に利用することを消費者が選択するような経済に転換する必要がある。こうすることにより,ナチュラル・キャピタリズムの最初の2つの戦略を実践するための誘因が提供される。それは,変化する顧客の選好をよりよく満たせるように,また資源の効率的利用と循環型生産様式による原材料の再利用が自動的になされるように経済構造を再構築することである。

4 自然資本への再投資

 これは,自然資本の維持と回復,すなわち自然資本ストックを増大させるような再投資によって,地球の破壊へと向かう傾向を逆転させようとするものである。その結果として生物圏は,より豊かな生態系サービスと天然資源を産出することができる。

 ここで述べた4つの変化は,相互に関連しており,相互依存的である。そのいずれもが,市場,金融,資源,流通,雇用に数えきれない利点と機会をもたらす。この4つの戦略に総合的に取り組むことで,環境破壊の緩和,経済成長の促進,雇用の増大を実現することができる。

(ポール・ホーケン,エイモリ・B・ロビンス,L・ハンター・ロビンス著,佐和隆光監訳,小幡すぎ子訳,『自然資本の経済」,日本経済新聞社,2001。)

資料2ファクター10

成長,消費,そして将来

 今日経済成長とは,物的財の入手可能性の増加の平均値と理解するのが通例である。もっと豊かであるということは,自分の支払い能力が増加し,もっと多くの物的財を獲得することである。この種の豊かさが成長すれば必然的にエコロジー的な枯渇にいたることは,いわずもがなのことである。

 かりに製品を技術的に最適なものにし,資源生産性を最大にすることによって世界経済が脱物質化されるとしても,このような豊かさの概念は結局は地球規模の物質の流れを今日の50パーセントにまで低下させることにさえ失敗するだろう。短距離交通や市街交通用に非常に軽量で,少ない物質とエネルギーで生産され,1リットルのガソリンで走るシティカーが基準になるにしても,それと同時に各家庭が好きなだけ多数購入するとしたらいったい何の役に立つというのか。これは現在の物質集約的な生活そのものである。しかし,この場合はエコロジー的にまだ良心を持っているということが重大な違いではある。節約効果を食い尽くしてしまうこの量の反作用をいったいどうすればよいのか。

 人々の頭のなかで,また彼らの日々の行動で成長と物質的豊かさを同ー視するかぎり,エコロジー的経済は実現できない。

 成長と物質的豊かさの結びつきはそもそも避けがたいものなのか。「西側」文明圏の人々は,絶えず成長を必要としているように見える。彼らは,人生において自分たちのまわりでは物事は進歩し,この世界は停滞しないという感情を追い求めている。西洋のモットーにいう,「成長するものは錯びず」なのだ。ついでにいうと,これは科学的には無意味である。成長とはつねに物質的成長でなければならないのだろうか。人間が日々のパンのために闘い、雨や寒さをしのぐために闘い,病気になれば救いを求めて奮闘するかぎり,それらを求めることはまったく自然な本能である。生きている人間の大多数は,今日までこの状態から先に進んではいない。しかし,P・E・ヴァハテルも言うように,どこでどのようにして,安全と満足を求める成長が過剰の貧困に通じているのか。私たちはもう一度基本命題にもどろう。豊かな人々には10分の1で足り,世界全体では半分で足りる。そうでなければ,企業活動はその重さで人間をへし折り,その廃棄物で人間を窒息させる。

目標ー消費するさいに質が落ちないように脱物質化すること。

 ところで,成長は罪でなければならないものだろうか。つまるところ。本書でさえある種の成長を求めている。すなわち,エコロジー的に最適な技術の成長,人間の干渉に対する自然の高度に複雑な反応メカニズムについての知識の成長,そして,生物圏にもっとよく適合した経済・消費構造の成長である。こうしたことからも,物的財をお金を使って獲得するのとは違った成長も確かにあるということがはっきりする。この地球の資源を消費しつづけなくても,世界は前進できる。生活様式の物質集約度を低下させることができるし,またそうならなければならない。なぜ経済は,物的財を経済的に役立てる以外の仕方で成長してはいけないのか。私たちはここでそのような経済がどのようなものか。どのようでなければならないかについては,立ち入らないことにする。

 つまり,経済を持続可能なものにするには,脱物質化だけでは十分ではない。エコ効率革命は,充足革命をともなわなければ不十分である。ゼロを選択することについて私たちはもっとよく知らなければならない。私たちは,効用ということをもっとよく定義しなければならない。こうしたことすべてが,エコロジー的な構造の変化に関する政策論争において不可欠とならなければならない。私たちに必要なのは,需要充足についての脱物質化された新しい理解である。私たちには将来,製造し,支払えるというだけで物的財を消費する余裕はなくなるだろう。「アメリカン・ドリーム」がもたらされることはないのである。

 このように考えて,エコロジー的な構造の変化の実現のためのさまざまなアプローチを呼今味すべきだろう。コスト低下と所得税の負担軽減が同時になされない場合には,生産性の利益は資源に関わる税負担増によって水泡に帰するかもしれない。生き延びるために日々戦わなくても基本的必需品が満たされている国では,物的財の消費から非物的財の消費への移行がなされるにちがいない。次の世代が現在とは違う教育を受ける場合に初めて。このような展開が生まれてくるにちがいない。本物の犬を見たことはないが,電動ぬいぐるみや,鉄砲を撃つ兵士,ゲームボーイや人形たちで自分の部屋にはもうほとんど場所がない子どもたちによって。これは開始される。これは,すべての学校ですべての年齢層を対象に多くの学科を中心に進行する。どうして,国の繁栄にとって哲学や音楽や絵画よりも数学や化学や経営学のほうが重要なのか。結局,ベートーヴェンやティナ・ターナーを聴くこと。展覧会に出かけること,ボール遊びやガーデン・パーティを楽しむことのほうが,何百万台もの大きすぎる自動車を走らせ。F1レースを開催することよりも,エコロジー的にデザインすることがはるかに簡単なのだ。

サービス需要充足のためのデザイン

 持続可能な経済が実現するためには,市場にまったく新しい製品が出回る必要がある。製品デザインや製品特性の点で決定的に変化しないかぎり。今後20~30年の間に50億人以上の人間が,私たちが今日持っているような種類のインフラストラクチャー”と製品で自分たちのまわりを固めることになるだろう。したがって,私たちは必要な生産性革命を始めるために,どのようにして商品(そしてサービスも)を別な形でデザインできるのかについて考えなければならない。私たちはデザインについてよく考えなければならない。

 製品の耐用期間のあらゆる段階。製造から最終的廃棄にいたるまでの各段階で。デザインが製品のエコロジー的に重要な特性を決める。はじめからェコロジー的視点でデザインされた製品は,被害をあとから回避したり除去したりする技術よりも,生物圏に対する負荷が決定的に少ない。走行キロメートル当たりで。消費する環境が今ふつうに使用されている自動車に比べてずっと少なく作られる自動車は,エコロジー的にみると,排ガス触媒浄化装置を装備する自動車よりも優れている。最初からエコロジー的基準を考慮してデザインされた消費財は,種類にかかわりなく選ばれた物質からできている。そのような財は,分解できること。修理できること。およびその他の基準を考慮してデザインされている。これらの基準については,あとで詳細に示すつもりである。しかし今日,製品がエコロジー的に最適となる場合には,使用時のエネルギー消費量や排ガス排出量,とりわけ利用段階で重要なその他の基準に従って最適にされることがしばしばである。エコデザインがまだ自明のことになっていないのだから。これは驚くには当たらない。デザインも,環境と健康に有害な物質に関する議論の現状,つまり「今週の有害物質」論議に反応してしまう。さらにデザイナーは売れる製品をデザインしなければならない。したがって。顧客が見て体験できるような箇所にエコロジー的長所を組み込むことになる。

 しかし、ェコロジー的に重要なのは多くのその他の特性である。デザインするときにこれらの特性すべてを考慮することは,非常に複雑で見通しにくい。包括的な評価基準が見つかれば別であるが。脱物質化がそのような基準のひとつであることは間違いない。たとえば製品や設備,サービスについて,そのエネルギー集約度と物質集約度を徹底的に低下させると、自動的に,毒性のある排ガス,あるいはエコロジー的に見て毒性のある排ガスを含む廃棄物の流れが減少する。

デザインのエコロジー的変革に対する寄与

 デザイナーが製品のエコロジー的品質に影響を与えることができるとすれば,彼はいったい何をするのか。著名な工業デザイナーやコミュニケーション・デザイナーと対話してみたが,デザイナーという職業は,ある程時限界はあるもののエコロジー的により適合した製品仕様に寄与することができることを。私たちは確信した。

 工業デザイナーの仕事は製品をデザインすることである。そのさい。デザイナーは目的に合っているかどうかという基準を当てはめるだけでなく,製品に美的性質も与える。製品のデザインには。産業界ではつねに2つの目標がある。つまり。製品を利用可能なものにすること。そしてもっと多く売れるようにすることだ。したがって,デザイナーの成功とは,依頼人の売上げによって決まる。これはふつう,製品がより多く売れることを意味している。しかし,必ずしもそうでなくてもかまわない。高価で耐用期間の長い物質からできているにせよ。特別な美しさという質(ブランド製品のような)が付与されるためにせよ。それはむしろ製品がただ高価になるということを意味する。顧客は,「デザイナーの椅子」に対して,ふつうの椅子に対してよりもお金をたくさん支払う。ひょっとするとそれが快適だと思うからかもしれないし,なによりもまず非物質的価値,つまりデザインの品質にもお金を支払うからである。特別なエコロジー的品質。あるいは健康促進という品質も,競合製品よりもいくらか高価な製品の根拠となりうる。

 そもそもある製品を製造するかどうかは,通例は工業デザイナーの決めることではない。これは雇われデザイナーにもフリーのデザイナーにも当てはまることだ。工業デザイナーは物質を選択するさいに依頼人の示す製品仕様に拘束される。しかし,デザイナーはエコロジー的な代替案を助言できる。

 コミュニケーション・デザイナーの置かれている状況はこれとは少し違う。彼の「製品」は宣伝と助言である。依頼人がエコロジー的製品に理解がある場合には,当然デザイナーは宣伝でエコロジー的長所のある製品を強調することができる。たとえば広告キャンペーンのために助言を行なう場合、エコロジー的に有害な製品特性については適切な時期に依頼人の注意を促すことができる。また、製品が広告中でなんらかの形で健康や環境と関係づけられる場合には、とくにこのことを製品デザインに反映させることができる。デザイナーはこの両方の場合に。製品と物質のエコロジー的品質に関する信頼できる情報を必要とするのだが、この情報は、これまでにほとんど存在しないか。

 これに、第2の相違点が加わる。コミュニケーション・デザイナーの仕事は、必ずしも製品を製造しなくてもよい。原則的にいうと。助言の結果。ある製品を断念するとか。製品がもたらすはずのサービスをまったく別の方法で実現させるということであってもよい。

 デザイナーは、製品を耐用期間が長く、メンテナンスしやすく。エネルギー消費量を節約できるようにデザインする。しかし、買い手がこれらの特性を受け入れるかどうか。あるいは買い手がその製品を流行上の理由から短期間しか利用せず、その後捨ててしまうとか、そうしたことにはデザイナーは影響を与えることはできない。例外は、繰り返し繰り返し、場合によっては別の目的に利用できるようにデザインできる製品である。例をあげてみよう。最初は商品棚として利用した後、学生アパート用に。あるいは地下室用に再利用できる店舗用設備。そのためには、デザインするさいに分解できることとか。輸送できることを配慮しなければならない。

 製品を脱物質化すること。つまりより少ない物質。あるいはエコロジー的に見てより少ない消費で得られた物質を使って製造することに。デザイナーが成功したとする。そうすると。場合によっては、エコロジー的利益を全部あるいはその一部を食い尽くしてしまうことがある。それどころか多くの場合逆の効果がデザイナーによって達成されてしまう。つまり。新しい最適なデザインは、製品の生産価格を低下させることができる。その場合、当然依頼人が望むことでもあるが、製品の売れ行きがいっそうよくなる。その結果、製品は少ない物質消費量で製造されるのではあるが、その製品が多数市場に出て、全体として物質の流れが増加する。つまり。ある製品のデザインにおける脱物質化は、エコロジー的には望ましくない効果を生むことがありうる。

エコロジー的節約効果を食い尽くしてしまう量的効果を,私たちはどのようにして克服すればよいのか。

 事務用機器,とくにコンピュータとその付属品の市場は,現在のところとりわけダイナミックに発展している。そのような市場は,いま述べたような種類の問題にとくに弱い。節約という小さな植物は,量的に膨張するだけで押しつぶされてしまう。これとは違い,市場が飽和状態にある製品の場合には,エコロジー的な成果をあげるチャンスがある。たとえば冷蔵庫や,他のいくつかの家電製品市場はほとんど飽和状態である。どの家庭にも少なくともひとつはある。先進工業国の自動車市場もほぼその水準になっている。そのような製品が脱物質化される場合には,新製品はたいてい在庫を増やすことはなく,ゴミになる既存の機器と買い替えられる。その結果,脱物質化は全エコ収支に直接にプラスの効果をもたらす。

 製品の買い替えを早める第2の理由は,時代に左右されないデザインはごく少数しかないということである。つまり,製品のデザインは「陳腐化する」ということだ。別のデザインの製品が求められるというただそれだけの理由で,市場で新製品が求められるということだ。そのよい例が衣料品である。流行がそう望むので。衣服は実際にすり切れるよりずっと前に交換される(たまには服を2,3年保管しておくとよいことがある。その服が突然また流行るからだ)。また別の,たとえば自動車のような製品は,たしかに見た目には「陳腐化する」。しかし第2の市場,つまり中古車市場,およびこの陳腐化にそれほど神経質にならず,それどころかむしろそのような陳腐化をほしがるようなオールドタイマー(レトロ)市場がある。また,たとえばハンマーやドライバーなどのような製品は,視覚的にまったく「陳腐化」しない。この種類の製品には美的要求はなされない。これらの製品はたいていはデザイナーによってデザインされることもない。

 時代を超えたデザインはごくまれにしかないので。製品を規格品から組み立て。修理可能にし,部品を再利用できるようにしようとする努力には限界がある。摩耗部品を定期的に交換すればほとんど好きなだけ長く使用することのできる製品もあるにはあるが,エコロジー的には非常に望ましいこのような考え方をあらゆる種類の製品に適用することなどほとんど不可能である。長期間使用される製品は,多くの投資財(たとえば市電)や自転車(ただし流行品にならないかぎり)であり,また特別に耐用期間が長くなるように作られた大規模宅配業用の車両である。

 現在,工業では製品のエコロジー的長所と短所に関して神経質になっている。ある物質が他の物質よりもエコロジー的に見て明らかに有利であると証明する情報をデザイナーが示すことができれば,エコロジー的に見てよりよいものが選ばれるチャンスは十分にある。しかし,これまでデザイナーにはそのような明確な情報は与えられていない。現在まで物質をエコロジー的に評価できる明確な基準はなく,相互に部分的に矛盾するさまざまな主張があるだけである。したがって,ある製品のエコロジー的品質について論証するのは不可能なまでに難しい。ただし,エコロジー論争で特定のイデオロギーに決めつけられる危険を冒してもよいのであれば。話は別である。

エコデザインの基準

 将来の製品に必要なエコデザインは,今日の製品を「エコロジー化する」だけでは,おそらくほとんど発展しない。というのも,今日の製品は非エコロジー的条件のもとで作られ,最適化され。利用されているからである。したがって,デザインをエコロジー化するのではなく,エコロジー的に最適なコンセプトを生みだすべきなのだ。(F・シュミット=ブレーク,『ファクター10エコ効率革命を実現する」,シュプリンガー・フェアラーク東京株式会社,1997。)

資料3 発見・発明の方式エジソン式とラングミヤー式

 「着想」(創意,思いつき,考案)ができる条件とは「要求」(ゴール。目的,要求。目標,問題)と「知識」(法則,実験式。原理。材料。手段。物性値,常数)の双方が必要である。言い換えれば要求と知識とすず=可能性(胎が結びついたときに着想が可能であるということである。

 この三者の関係を人間の関係にあてはめると,「恋愛」をした後「求婚」を行い、その後に「結婚」,「受胎」するということになる。さらにこの考え方を進めていくと,着想の後に「実現可能性試験」つまりお腹の中で育つ「胎育」があり,つぎの「出産」という段階を迎えるのである(図1)。

 外国において,新製品開発に成功した例を見ると,すべてこうした一連の段階を踏んでいる。結果的には,一つのものが選ばれてきているので。普通難なく出産を迎え開発段階へと進んでいくように考えられているが、実際には,多くのアイデアが徐々に絞られていく過程を経ているのである。こうして見ると,日本の会社においても,せめてこの「出産」の段階まではやるべきだ。

 着想が生まれてくるまでには,二つの発明の仕方がある。一つはエジソン式発明であり,他の一つはラングミヤー式発明である。ご存知の通り。エジソンは小学校しか卒業していない人であり,ラングミヤーはノーベル賞を受賞したような大学者である。二人とも電球を研究していたゼネラル・エレクトリック(GE)社の創始者であり関係者である。

 この二人の発明者の発明の仕方には大変大きな違いがある。それは,求婚という段階におけるアプローチの仕方である。つまり,知識の方から要求に対してアプローチするのか。あるいはその逆のアプローチをするのかというところである。エジソン式発明では,要求が先にあって知識がそれに追従していくというやり方(要求→知識)であり,ラングミヤー式発明では,知識が先にあってその知識を応用して要求を満たすというやり方(知識→要求)である。

 この両者の基本的な相違点は,そのアプローチの仕方における「態度」の違いである。このことについて,さらに詳しく述べると,一般に言われている「知恵」という言葉は,ここでいう着想のことである。そして「知識はあれども知恵はなし」と言われていることの意味は,知識だけでは知恵は出てこない,つまり,着想はできないということである。こうした場合の知恵とは,切迫感がなければ出てこないといわれている。つまり。「窮すれば通ず」とか「背水の陣」ということわざは,ここでいう切迫感を指しているのであり,これはここでいう「要求」を強く言った場合の意味である(図2)。

いま。一般論としていえば,エジソン式の方がラングミヤー式よりも成功の確率が高い。別のいい方をすれば,街の発明家式の方がずっと成立しやすいということである。ところが,ラングミヤー式の方は。一たび発明が成立すれば大発明になる可能性がある。つまり。基本的レベルでの特許や大特許を獲得できるのである。しかし,そうした発明はそうざらにあるものではないのである。

 発明家といえば誰しもエジソンを思い浮かべる。それだけエジソン式発明の方が一般性がある。それは既存の知識の組み合わせによってできる発明だからである。

 そして,そのような着想を立証してみる部門を研究所と名付けることがある。しかも。その内容は研究というにはほど遠い試作である場合が多い。むしろ。そういうところは試作試験所というべきものである。

 エジソン式発明の大切な点は要求するところをうまく解析することにある。ここにいう要求とは。社会の要求,人間の欲望,便利なものへの要求等々である。これらの要求は時々刻々変化し,常に新しい要求が現れている。人間の夢は新しい要求を生むものであり,「必要は発明の母」であるというのは,このエジソン式発明を表している。新しい要求を見つけ出しそれを満足させる方法や物を考え出すには必ずしも高違な知識を必要としない。既存のありふれた常識や類似の事象の知識からの類推で発明できる。多くの街の発明家のよくするところである。

発明の成立

 ラングミヤー式発明にしても,エジソン式発明にしても,知識と要求の結びつきによって生ずるものであるから、自分ひとりで考えているよりも要求を持つ人と知識を持つ人とが語り合うことは大変効果的である。「三人よれば文殊の知恵」ということわざのようなものである。例えば,老人と若者とがそれぞれ知識と要求とを出し合うことも効果的である。発明が成立するためには,単なる思いつきだけでなく,それが実現する可能性のあることが立証されなければならない。これは思考の上だけでなく,実験的にあるいは理論的に立証される必要がある。場合によっては単にその要点だけでもよいが,できれば全体を試作または試行してみることである。それには何がしかの費用がいるが,そのやり方はピンからキリまであって,実現可能性を最小限立証するのであれば,存外金のかからない方法でやれるものである。

「変だぞ!」が発見・発明につながる

 エジソン式発明では,「要求」をいかに上手に「知識」と結びつけるかということが問題であり。そのためには適切な分析を行わなければならない。つまり,「要求」とか「目標」といったものをいきなり「知識」に結びつけようと思ってもなかなか結びつくものではなく,そのためには論理的(ロジカル)な考え方で分析していかなくてはならないということである。

 しかし,分析を通して最後にある「知識」と結びつく瞬間というものは「インスピレーション」(ハッと思う)という類のものである。つまり「これに決めた」という瞬間は俗にいう思いつきであり,理屈ではないのである。他方,分析を通していっても,どうしてもうまく「知識」と結びつかないという事態を迎えた場合には,もとの「要求」という段階(振り出し)にもどることが秘訳である。つまり,「要求」が「知識」に結びつくまでは,何度でも振り出しにもどって考え直すという態度が極めて大切である。

 したがって,エジソン式発明の促進の仕方において大事なことは,ここでいうインスピレーションとか思いつきとか直観といった類のことを大切にしなければならないということである。一般には,そうしたものを簡単に否定したり退けたりする傾向にあるが,これは大変悪い習慣であり,大きな誤りである。エジソン式発明の仕方では,その「要求」を分析する能力があれば,あとは努力によって既存の知識といくらでも結びつけていくことができる。また,別の言い方をすれば,どこかに結びつく知識が存在しているということである。その意味においては,エジソン式発明における「知識」を求めるということ自体にはそれほどの苦労を要さないともいえる。

(西堀栄三郎,『西堀流新製品開発忍術でもええで」。日本規格協会,1979。)

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