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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 環境情報学部 小論文 2005年 過去問

2005年 慶應義塾大学 環境情報学部 小論文 課題文

 人が作り出すあらゆる物を人工物といいます。人工物の使いやすさや分かりやすさを決める概念の一つとしてアフォーダンスがあります。アフォーダンスに関して書かれた資料1をよく読んでください。次に,あなた自身の身の回りでアフォーダンスが充分でないため。あるいは間違ったアフォーダンスのために,使いやすさや分かりやすさが損なわれている実例を2つ挙げてください。それらについて。それぞれ,図示してどこがどう使いにくいか。あるいは分かりにくいか。またどのようにすれば改善できるかを,250字以内で具体的に説明してください。

注|アフォーダンス(Afordance)とは。アメリカの知覚心理学者ジェームス・ギブソンが動詞のafordをもとにして考え出した造語です。動詞のafordには,「与える」という意味があります。

[①の解答の記述例]

 平らな台は「ものを置く」ことをアフォードしている。アイスクリームの冷凍庫の上部が平らになっていると「ものを置く」ことを間違ってアフォードしてしまう。しかもガラスになっていると,実際に何気なく重いものを置いた場合、ガラスが壊れてしまう恐れがある。

 この場合,たとえば上面を斜めにすれば,間違って「ものを置く」ことのアフォーダンスが回避され。問題が解消する。

 ドナルド・ノーマンは1988年,アフォーダンスの概念と日常物のデザインに関して“ThePsychologyofEverydayThings”(邦訳『誰のためのデザイン?」)を著し。多くの賛同を得た。資料1はその後の一連のノーマンの著作の中の一つで“TurnSignalsAreTheFacialExpressionsofAutomobiles”(邦訳『テクノロジー・ウォッチングハイテク社会をフィールドワークする」)という書物の中の文章である。

資料1 

愚かなデザイン

 『誰のためのデザイン?』の中で,私(=ドナルド・ノーマン)は電灯のスイッチや水道の蛇口あるいはドアについて。デザインの問題を詳しく述べたので。ここでさらに繰り返す必要はないと思うが,それでもまだ。私を驚かせる例は次々と現われる。1の漫画「DRABBLE」を見るまでは,もうドアのことは決して書くまいと思っていた。その漫画の「主人公」はノーマンという名前(意地悪な偶然の一致だ)である。さっそく,ノーマンの言い訳をさせてもらいたい。

 どうしてドアのような単純なものに「押す」とか「引く」というような言葉による注意書きが必要なのだろうか。もし,ドアが正しくデザインされていたら。説明は不要なはずである。正しい操作以外に何もできないはずだから。

 気の毒なノーマンが押しているドアをもう一度よく見てほしい。ドアの把手(とって)は平らな板でドアのガラスから少し持ち上がっている。しかし,平らな板は明らかに押すというサインである。私はそのノーマンがドアを押しているのを責めるわけにはいかない。こっちのノーマンだって同じことをしたに違いないからである。実は。私はよくドアの近くにそっと立って,そういうドアに対して人々がどう振る舞うかを見ているが,普通平らなものに対しては人は押すものだということがわかる。だからこそ平らにしてあるのではないだろうか。

図1:漫画DRABBLE(UFS社提供)一会話文のみ掲載,イラスト省略

①男:ウェンディ,このレストランはいいって聞いたんだ

②男:あれ,ドアが開かないぞ。どうしてだろ?

③男:おかしいな!ドアが開かないんじゃ,どうやって客を入れるつもりなんだ??

④男:中に客がいる!どうやって入ったんだ??何か秘密があるのかな??

⑤女:ノーマン,ここに「PULL」って書いてあるわよ

⑥女:ということは,押すんじゃなくて引きなさいってことね

男:あっ

⑦男:でもどうしてこんなにややこしいんだろうね??

女:きっと,バカな客を入れないためじゃない!

 ノーマンを困らせているドアの把手は,怠慢で無能なデザインのいい見本である。そんなデザインだから「引く」という表示を付けなければならなくなる。平たい板は押すことを誘う。だから押してはいけないと注意しなければならなくなるのである。ドアを開けるために説明書きを読まなければならないなんてことがあってはならない。たとえそれが一単語であっても。

 この章では世界各地で見つけたへぽなデザインの実例を紹介しよう。私は旅行するときに,いつもカメラを持って,まだある愚かなデザイン,すなわち本来の意図に反していたり,ユーザーを不満にしたり,そしてしばしば機器の目的そのものをだめにする愚かなデザインを探して撮ってくることにしている。

 まずは,説明なしで使えなければならないごく普通の日常的なものの例から話を始める。ところがそういうものでありながら大きな注意書きや貼り紙を必要としているのである。しかもそれは,いいですか。デザイナーによってではなくその装置を買って頭にきたオーナーによって,こんな日常的なものの使い方を説明しなければならないことにくたびれて貼り付けられたものなのである。

 ドアを開けたり,部屋の照明を調節したり,水道の蛇口を使ったり,公共の水飲み器を利用したり,ホテルの管節(たんす)の引き出しを開けたりするのに,説明書が必要だと思う人がいるだろうか。デザイナーがいつも意図してこんな具合にデザインするわけではないが。このような物はいたるところに見受けられる。

 私は悪いデザインを見つけるための経験則を持っている。注意書きの貼り紙を探すことだ。使い方を書いた貼り紙を見たときはいつも,そこがへたにデザインされた部分なのである。私は貼り付けられた手書きの表示に「何をしろ」また同様に「何をしてはいけない」と指示してあるのを読みながら世界中を歩きまわることを大きな楽しみとしている。

世界中のデザイナーへの注文ー注意書きを不要にせよ

アフォーダンスの話

 アフォーダンス(afordance)というのは聞き慣れない言葉であるが…物の特性一ある特定の物に対してどんな操作や扱いができるかを言い表わす専門用語である。ドアは開けることと閉めることをアフォード(aford)し,ドアの入り口は通り抜けることをアフォードする。椅子は支えることをアフォードし,その上に人が立ったり座ったり,本や紙を置いたりできることを意味している。テーブルも同じように支えることをアフォードする。しかし,その高さによって簡単に座れることをアフォードしたりしなかったりする。ボール,あるいは同じような大きさで動かせるものは投げることをアフォードする。もしそのボールが堅くてしっかりした材料でできていたら。それを使って叩いたり砕いたり擦りつぶしたりすることをアフォードする。同時に,ころがすこともアフォードする。平らで水平な面は支えることをアフォードし,平らで垂直な面は押すことをアフォードする。

図2:このような水道の自動蛇口を使おうとする人を見ているのは面白いものだ。ほとんどの人は蛇口の先端を強く持ち上げると水が出てくるということに気がつく。たいしたものだ。強く持ち上げるということは手を蛇口の下にやることになり,赤外線センサーを働かせることになる。しかし,持ち上げるということそのものは何の効果もないのである。センサーをもっと見えるようにして,ューザーが気づくようにすべきである。

 アフォーダンスはわれわれを悩ます多くの装置で重要な役割を演じている。ものをデザインするときに重要なことは「知覚されるアフォーダンス」,すなわちユーザーが知覚どおりに実際にできるようにすることである。過去に出会ったことのない装置でもどのように扱うかがわかるのは知覚されるアフォーダンスがあるからである。われわれは初めてのものに出くわしたとき,それは何に使うものか,そしてどのように扱うべきか,どうしてわかるのだろう。答えは複雑であるが,われわれが対象物のアフォーダンスを知覚することが重要な役割を果たしているのである。動かせそうに見えないものは,持ち上げたり,投げたり,取り除いたりしようとはしない。押せるように見えるものは押し引けるように見えるものは引っ張る。われわれは,あいまいでなく,明解に認識できるアフォーダンスがひとつだけあるものをいちばんうまく扱える。結局のところ,できることはただひとつ,正しいことだけである。手がかりとなるアフォーダンスがないものを扱うのは難しい(開ける手がかりが見えないパズルボックスを設計するときに有効な原則である)。多すぎるアフォーダンスを持つ対象物もまた,ユーザーがどの可能性を選択すればよいかわからないので難しい。

 しかし,たぶんいちばん悪いのは,明快に認識できるアフォーダンスがひとつあるのに,それが間違った操作につながるというものである。これが漫画の中の気の毒なノーマンの状況なのである。彼の前のドアにはハードウェアとして平らな板があり,平らな板は明らかに押すことをアフォードしている。まさにそれはノーマンがやっていたことだ。確かに押して開けるドアなら適切なハードウェアである。しかし,引くべきドアに板が付いているのをよく見かける。ノーマンが(そしてほとんどの人たちが)引くべきところを押すのはそのためであり,多くのドアに説明書きが必要なのもそのためである。悪いデザインはその愚かさを克服するために表示やマニュアルに頼らなければならないのだ。

 どうしてそんなものをデザインするのだろうか。ほとんどの場合は,その機械を使う人の気持ちになっていないからである。良いデザイナーたる者は、ユーザーの視点でものを見て,それを使う典型的なユーザーが適切に簡単に効率よく使うためにはどんな情報が必要か考えなければならない。これをうまくやるいちばん良い方法は,その製品を使うはずの典型的なユーザーを観察しかかわりあうことである。ということはそのデザインを彼らに使わせてみて,彼らが困惑することがあったら喜んで変更することを意味する。それなのに,多くのデザインは他のことに焦点を合わせている。コストや美しさ,あるいは技術上の基細なことに焦点を合わせ,初めて使う人がどのように使い方を理解するかなどは気にしていない。私が思うに。ほとんどのデザイナーは実際に自分達の製品を使っているところを見たことがないのだろう。その結果,ユーザーは混乱し,間もなく注意書きが出現する。操作説明の注意書き、警告の注意書き、絶望的なひどい注意書きが。

 このような問題に出くわす第2の理由は美意識のため、もちろん、取り違えた美意識のためである。美の名のもとに何と我慢をさせられてきたことか。図3に示すホテルの筆管前の引き出しをもう一度見てほしい。引き出しに目に見える把手がありさえすれば、どうすればよいかわかるのに。(もちろん。同じコメントが出っ張りのないキッチンキャビネットにも当てはまる。どこが開くのかヒントがない。どちら側にドアを開けるヒントがあるのかすらわからない。)そう。そのデザイナーは把手を付けると引き出しのすっきりした滑らかなラインが損なってしまうと気にしたのだ。しかし、把手を無くしてしまったら初めて使う人はどうやって開けたら良いのかわからなくなってしまう。ホテルというのはもちろん、毎日いろいろな客が出入りしていて,ほとんどの客は初めてその引き出しを使う人たちなのである。最後に,軽率なデザインのやり方がもたらすもうひとつの結末は,すっきりと美しくする狙いが使い方を説明する注意書きのせいで逆に台なしになってしまうことだ。

 適切なアフォーダンスがないことでときどき問題が起きることがあるように,間違ったメッセージを伝えるアフォーダンスがあるときも問題が起きる。このひとつの例として,平らな板が。実際には引っ張るドアであって押されることを示していることをすでに見てきた。別の例をあげよう。

 大学のカフェテリアで。私はアイスクリームの入った冷凍庫がレジの近くの壁ぎわに置かれてあるのに気がついた。客は欲しいアイスクリームを取り出し,トレイに乗せて,レジに出るときに支払うことになっている。冷凍庫は細長く,横はふさがれ上が透明ガラスになっている平たい箱である。る。ガラス面は自分で欲しいものを取り出せるようにスライドして開けられる。

図4:片手に食べものがいっぱい乗ったトレイを持ちながら,どうやってこの冷凍庫からアイスクリームを取り出せばよいか。無理だ。トレイを置く必要がある。どこにトレイを置くか。左上面を開けて取ろうとするとき,唯一の場所は冷凍庫の右上面である。しかし上面は負荷を支えるようには作られていなかった。だからついには割れてしまった。注意書きは遅すぎた。間違ったアフォーダンス。間違ったカフェテリアのデザインである。(なぜトレイを置く場所を他に作っておかなかったのか。)

 しかし,その冷凍庫の上には「ここにトレイを置かないでください!」という注意書きがある。ほらすばらしい平面一明らかにものを載せるシグナル,アフォーダンスは明確。そのうえ,トレイが一杯のとき,トレイに載せた物を落さないようにアイスクリームを取り出すには,冷凍庫にかがみ込んでどうやって手を伸ばせというのだろう。まずどこかへトレイを置かなければならないが,置けそうな所は冷凍庫の上しかない。明らかにそのアフォーダンスはまったく不適当なのである。

 昼食時間にカフェテリアへ出かけてその注意書きに出くわし,それを写真にとるために,急いで戻って,カメラを持って駆け付けた。しかし遅すぎた。ガラスはすでに割れていて,店員が周りを掃除しているところだった。私はどうしたのだとたずねた。「そうなんです,割れたんですよ。みんながこの上にトレイを置いたんで。」と店員は答えた。そんなわけで写真には注意書きだけでなく割れたところも写っている。注意書きは役に立たないものだ。人々のニーズと知覚されたアフォーダンスは何事にも優先するのである。これに対する適切な解決方法は,次の2点を実施することである。

(1)アイスクリームを取り出すときにトレイを置きたい,というニーズを満たすこと。

(2)上面の知覚されるアフォーダンスを変えること。(例えば,そこに何かを置いてしまうとか。上面に傾斜をつけるとか。知覚されるアフォーダンスを何らかの方法で変えて,トレイを置く場所には見えないようにする。)

 実際には,もっと人間味のある代案が欲しい。その上面をトレイを置くためのすばらしい場所として認め,置いても割れないように丈夫にするのだ。どんな解決手段を適用しても,もしカフェテリアの客のニーズにうまく合わなかったら,いかなる警告サインや注意書きにもかかわらず効果を上げることはできないだろう。

(本文はドナルド・ノーマン著,佐伯腔伴監訳,『テクノロジー・ウォッチングハイテク社会をフィールドワークする」新曜社,(1993)の第2章より抜粋・編集したものである。)

 世の中にある機械やシステムのほとんどは人が使うためのもので2す。人がその機械やシステムをスムーズに使うためには。その機械やシステムに対して,簡単にしかも間違いなく指示を出したり,逆に途中経過や結果を機械やシステムの方から知らせてもらったりといった。良いコミュニケーションが成立していなくてはなりません。そのために人と機械の接点には,ヒューマンインタフェースと呼ばれる機構が設けられています。たとえば現在。パーソナルコンピュータのほとんどには人とのインタフェースとしてキーボード。マウス,ディスプレイなどがあり,また。病院には来訪者とのインタフェースとして。総合案内や行き先表示などがあります。資料2と資料3は,そのインタフェースに関する文章です。これらの資料をよく読み。次の2つの問に答えてください。

[1]この「ヒューマンインタフェース」という考え方が,今なぜ重要だと考えられているのかを,世の中の流れと関連づけて400字以内で記述してください。[2|あなた自身が考える今後のインタフェースのあるべき姿を,具体的に製品や社会システムのジャンルを挙げて,500字以内で述べてください。その際,あなたの注目したその製品や社会システムのジャンルのゾーンを1つ。図7のように丸印で解答用紙の図に記入してください。そして,なぜそのゾーンに注目したのか。そのゾーンが何を表わすのかについても言及してください。

〔解答欄〕

資料3には、家電やコンピュータが例として多く取り上げられていますが、その分野にとらわれる必要はありません。日用品(文房具。化粧品。台所用品など)や社会システム(交通、病院など)を含め、幅広く考えることができます。

 なお、解答用紙の図は資料3の中にある図7をもとに作ったものです。これは、支払い能力の高低と忍耐力の大小の2軸により。消費者全体を分類するためのものです。

資料2

単純なものを単純なままに

 インタフェースデザイナー人口の急増にもかかわらず、4つのボタンがついた電子腕時計の新製品が数十年前のものよりも使いやすくなっていると主張する消費者はほとんどいません。現代の時計には、コンピュータ同様に多くの機能が備えられているため(実際その通りです)。結果的にインタフェースも複雑化している(ここは議論の余地があります)のだと指摘する方がいるかもしれません。しかし、「今まで簡単にできた単純な作業までもが複雑化の泥沼に陥っている」という点を私は指摘したいのです。複雑な作業には複雑なインタフェースが要求されるかもしれませんが、それが簡単な作業を複雑化させる言い訳にはならないのです。時刻合わせがどれだけ難しくなってしまったかを、4つのボタンの電子腕時計と機械式時計で比較してみてください。システム全体がどんなに複雑なものであったとしても、そのことが単純な作業を単純なままにできない言い訳とはならないのです。

 不適切なインタフェースデザインによって多くの不条理が押しつけられるのは、おそらく何を単純にすべきかを混乱させたためであり、この混乱によってマンガやコメディアンにもネタを提供しています。3人の仲間たちがカウボーイの体験をする「シティ・スリッカーズ」という映画がありました。その中で、俳優ビリー・クリスタル演ずる役柄が、ビデオテープレコーダーを使って、あるチャンネルを録画しながら別なチャンネルの番組を見る方法を(明らかに何時間もかけて)説明しようとするものの、うまく説明できないというシーンがありました。友人たちはあまりにも長い説明にしびれを切らせて怒りを爆発させるのですが、クリスタル演ずる役柄は、快くその話題を打ち切って。その代りにビデオテープレコーダーの時刻合わせの方法を説明しようとするのです。これがさらに友人たちを怒らせることになり,観客を爆笑させるわけです。こういった滑稽さは,作業の単純さとインタフェースの難しさによる不協和音からくるものなのです。もしも図5のように,ビデオレコーダー前面の時刻表示桁の上と下のラベル付きボタンがあったならば,誰もが時刻合わせを行なえるようになるでしょう。

人間中心のデザインとユーザー中心のデザイン

 インタフェースデザイナーだけでなく,エレクトロニクス産業やコンピュータ産業の管理者もユーザー中心,あるいは顧客中心のデザインを行なう必要性を理解しています。それには,まずユーザーを知るということから始めなければならないため。一般的にはその作業領域のエキスパートからヒアリングを行なうという手法がよく用いられます。しかし作業領域の達人は解決すべき問題における要因と詳細については詳しいものの,その専門性が人間心理まで及んでいることはほとんどありません。作業に対するニーズというものがユーザー毎に異なっているとしても,ユーザー集団は多くの一般的な心理属性を共有しているのです。つまり,インタフェースデザイナーは,アプリケーションの調査や個人差を埋める作業を始める前に,全人類が共通して持っているインタフェースデザインに対する要求を活用して,自らの作業量を低減させることができるのです。この作業を事前に行なっておけば,インタフェースデザイナーは,個人間やグループ間の差を埋めることに注力でき,最終的にその作業におけるさまざまな要求を満足させることができるというわけです。重大な最初の段階ーインタフェースデザインと調和する普遍的な心理的事実の確認一は,今までのデザイン段階では省略されていたのです。そして大多数のインタフェースデザイナーは,「業界基準」に責任をなすりつけ,放棄していたのです。現在一般的になっているすべてのインタフェースは,私たちが知り得ている人の考え方と振る舞いを愚弄した土台の上に築き上げられていると言っても過言ではないでしょう。一例を挙げれば,今日のコンピュータシステムが提供している普遍的な機能の一つとして「ファイルに対応づけられるファイル名」というものがあります。しかし,6ヶ月前に保存したドキュメントのファイル名を覚えておくことは誰しもが厄介に感じているはずです。私たちには,見た目の派手さよりも使いやすさに焦点を合わせ,完全無欠な動作を実現してくれるわかりやすいソフトウェアが必要なのです。

デザイン革新の足を引っ張るツール

 素晴らしいインタフェースを創り出すには,徹底的で,しかも高くつく作業を行なう必要があります。VisualBasic”やVisualC++”といったインタフェース構築ツールの売り文句は,開発コストを下げ,迅速な実装が可能になるというものです。この種の実用性はあるのでしょうが,本書ではこういったツールをほとんど取り上げておりません。というのも,こういったツールは現在のパラダイムを祭り上げることによって,適用可能な範囲を不当に制限しているからです。同様にMacintoshやWindowsのインタフェースガイドライン,および本書で紹介しているインタフェースデザインに関する経験則は,しばしば明らかに間違ったアドバイスを与えています。こういったものの大半は,「初期バージョンとのインタフェース互換性を維持するために必要である」という企業論理から来るものであったり,「旧来の慣れたインタフェース手法を放棄するとユーザーが不安感を感じる」という誤った認識から来ているものなのです。本当の進歩とは大きな変革によって達成できるものであり,インタフェースデザイナーは,「学習段階を容易にする親しみのあるパラダイムの合理的な使用」と「それらを放棄することによって獲得できる使いやすさの向上」を天科に掛けなければならないのです。職員や顧客がめまぐるしく変動するケースを考えた場合,デザイン選択上は親近感が優先されることになるでしょう。その製品を使用する作業時間のほとんどが決まった操作で占められており,学習段階の占める割合が小さい場合には,生産性に的を絞ったデザインが(再訓練が必要になるとしても)しばしば正しい決定となるのです。

デザイン段階におけるインタフェースデザイン

 プロジェクトの方法論によっては。インタフェースデザインに関する既知の事実をうまく利用し損なっている場合が多々あります。ユーザーと製品の間で発生するインタラクションのクオリティというものをインタフェースデザイナーが軽視し。それを向上させる機会を逃し続けた場合。こういった失敗が引き起こされます。デザインというものは,最初はとても柔軟なものなのです。しかし,ソフトウェアの設計後やソフトウェア構築ツールの選定後,あるいはソフトウェアがほぼ完成した時点でしか。インタフェースデザイナーの助言が採り入れられないのであれば,正しいアドバイスは「初めからやり直す」というものしかあり得ず。それは到底受け入れられるものにはなり得ないでしょう。予算とスケジュールのほとんどは使い果たされているため。設計,開発済みのプログラムの大半を捨て去ってしまうという選択肢は,プロジェクトマネージャーを苦しめるものにしかならないはずです。また,エリクソンとマグナスが著したプロジェクト管理に関する最近の著書でさえも,プロジェクト開発の第一段階である要求分析ではインタフェースの設計を行なっておりません。しかし,彼らが提案するような「インタフェースデザインを設計局面(彼らの分類における第三段階)にまで遅らせる」という開発形態はあり得ないのです。一旦。製品のもつ課題が確定したのであれば,まず最初にインタフェースのデザインを行ない,次にそのインタフェースデザインの実装を行なうべきです。これは繰り返し工程になります。つまり,インタフェースのデザインによって課題の定義が変更され,課題の定義やインタラクションのデザインによって実装が影響を受けるわけです。すべての段階で柔軟性が要求されるのです。実装を開始するにあたって必要となるのは,「目的を達成するためにユーザーはどういったことを行なうのか」という点と,「ユーザーの各動作に対してシステムはどのように応答するのか」という点を厳密に挙げていくことなのです。

 ユーザーは,自分にとって必要なことが目の前の箱によって実現されるのであれば,その箱の中に何が入っているかは気にも留めないのです。どんなプロセッサ(処理装置)が使われているのか。プログラミング言語がどんな原理で動いているのか。また,専門用語で彩られた素晴らしいプロセッサであるかどうかなどは関係ありません。ユーザーが必要としているものは利便性と結果なのですが。彼らが目にするものはインタフェースだけなのです。顧客の立場から見る限り,インタフェースが製品そのものなのです。

時は神聖なり,作業は神聖なり 

 私は作業結果を定期的に保存する癖をつけていたので,システムがクラッシュした場合でも,さほど時間を無駄にすることは無くなりました。まず,段落を一つ書き終える毎,あるいは文をいくつか書き終える毎に。キーボード操作による保存コマンドを実行しています。こういったコマンドによって,今までの作業結果がディスクへとコピーされ,クラッシュしても被害はいくらかましなものになるのです。また,1時間かそこら毎に作業結果をメモリカードへとバックアップし,そのカードを物理的に取り外しています。これによって,コンピュータから隔離されたバックアップが取られたことになるので。コンピュータが暴走しても安全なのです。また。毎週,システム全体を外部ディスクにバックアップしています。私は偏執狂じゃありません。単に現実的なだけです。でも。こういった入念な手続きは不要であるべきだとも思っています。システムはすべてユーザー入力を神聖なものとして扱うべきなのです。アシモフのロボット三原則における第一原則,「ロボットは人間に危害を加えてはならず。また,人間に危害が加えられることを看過してはならない」を言い換えてみましょう。インタフェースデザインにおける第一原則は,「コンピュータはあなたの作業に危害を加えてはならずあなたの作業に危害が加えられることを看過してはならない」であるべきなのです。

 本書執筆中に,私は編集者から示唆された変更を選択的に承認,拒否できる機能を使い始めました。このときもいくつかの指示を行なう毎に,保存コマンドを実行していました。そして,あるときシステムがクラッシュしました。しかし,今までと同じように保存を続けていたため。何も心配は要らないはずでした。ところが間近に行なった大半の変更は消え去っており,その作業をやり直す羽目になったのです。何度か試してみてわかったのですが,承認,拒否機能を用いている場合,キーボード操作による保存コマンドは機能しないという仕様になっていたのが原因でした。何も警告もありませんでした。そして,作業回復と今後の再発を避けるための原因調査に3時間以上の時間を無駄にしたのです。今日のコンピュータシステムが複雑であることを割り引いたとしても,こういった当惑が引き起こされること自体,より良いインタフェースデザインを行なう必要がある証拠といえるでしょう。

 インタフェースの第二原則は,「コンピュータはあなたの時間を無駄にしたり,本当に必要な作業以外を要求してはならない」を置いて他にないでしょう。(本文は,ジェフ・ラスキン著,村上雅章訳,『ヒューメイン・インタフェース」,ピアソン・エデュケーション。(2001)の第1章より抜粋・編集したものである。)

[資料3]

消費者のスペクトラム

 われわれはおそろしいほどに順応性がある生き物である。すぐれた道具ならユーザーに合わせるべきところだが,そうした道具がまれにしかないので。われわれの方がおかしな方法に順応することを学ぶのである。もちろん。人間がコンピュータにつきあうにも限度がある。ただ親しみやすいからだけという理由だけで。人間は道具を使ったりはしない。道具を使うのは仕事を遂行するためであり,道具を使うための努力が堪忍袋の緒を切らすようなものならわれわれはその道具を打ち捨ててしまうのだ。

 ハイテク製品を購入するとなると,消費者はひどくむら気なものである。実際,コンピュータ企業や家電メーカーは,ユーザーフレンドリーを成功の鍵と考えている。しかし,ここ20年のヒット商品,不人気商品をその目で見てみると,ユーザーフレンドリーはユーザーの大きな科卒のほんの一部でしかないことがわかる。消費者の歴史を振り返ると,RCAのディスコヴィジョン(初期のレーザーディスクシステム),多くのホームコンピュータ,音声制御電話,スマート機器,ポケットサイズのコピー機など。ユーザーフレンドリーであっても市場には不発だった数多くの製品が散らかつている。

 一方,複雑なのに,市場の点では成功した製品の例にも事欠かない。現在の消費者のほとんどは,家にあるVCR”の一部すらどうやって使うのかの手がかりを持たないし,テレビのリモコンのボタンの森の間をどうやって歩んでいくのかを知らない。最たる例外は,パソコン(PC)そのものである。使いやすさがそれほど重要なら。ひどく不安定でアンフレンドリーで,使い方もはっきりわからない初期のDOS”ベースのPCがどうやって市場を確立したのだろうか?使いやすさとユーザーフレンドリーであることだけが重要なら,DOSはWindowsの出荷準備が整うずっと以前に,Macintoshやその他のOSにもまれてなくなっていたはずだ。

 DOSがはやったのは,ユーザーフレンドリーというのが,単に使い勝手のほんの一部でしかなかったからだ。これは単にコンピュータだけでなく,ハイテク機器全体に言えることである。DOSのPCが,簡単に使える代替となるOSにもまれながら生き残ったのは,われわれが恐ろしくなるくらいに順応性に満ちた生き物だからなのである。

 優れた道具はユーザーに順応すべきところだが,そうした道具が少ないため,よほど変なからくりでなければわれわれの方が適応してしまうのである。コンピュータはことに優雅さに欠けた道具であるため,メーカー側はユーザーが歩み寄ってこの不安定な発明物を使ってくれることを期待しているのである。これにすっかりしてやられたおめでたい人びとはコンピュータ語を使える人と呼ばれるのだが,彼らはうっかり者でのせられやすく,メーカー側のデザイン上の欠陥を尻ぬぐいするエキスパートなのである。

 もちろん,お相手の人間がどこまでつき合いがいいのかにも限度がある。人間は。ただ親しみやすいからといって道具を使うわけではない。道具は作業を済ませるために用いるのであり,作業を済ませるためにやる最大の妥協以上のこと。つまり堪忍袋の緒が切れる以上に努力をしなくてはならないようならわれわれは道具などうち捨ててしまうのだ。

堪忍袋の境界線

 堪忍袋の緒がどこで切れるかの境界線は,やろうとしている作業の重要さと。そうするために利用する道具のユーザーフレンドリーさの両方をとらえる使い勝手の天科卒のようなものである。オフィスでPCを使う場合は,コンピュータがフレンドリーである必要はない。CRT”による目のストレスや腰建靴肖炎(けんしょうえん)に悩まされる知識労働者たちは。これがビジネス世界の不幸な決まりになりつつあるのだと直感している。われわれのビジネス世界というのは、比較的強い堪忍袋を強いる文化を持っているのだ。ビジネスにはトレーニングというぜいたくなものを提供する余裕もあり,これがイライラする専門技術を,受容可能な道具に変えるのに貢献している。

 ところが、個々の消費者となると,堪忍袋の緒は大変弱い。どんなにフレンドリーに作られた情報機器も,それでできることが退屈なら,部屋でホコリを被ってしまう。VCRの持ち主のほとんどは,再生と録画のボタン以上のものに挑もうとはしない。なぜならややこしい一連のコマンドをやり遂げるというやっかいさに比べると。その結果できることに大した利点はないからだ。同じように,1993年以前のホームコンピュータ市場は,仕事を家まで持ち帰るビジネスマンや学生だった。彼らは強い堪忍袋を家にまで持ち込んでいたのだ。趣味でコンピュータを始めた初期のユーザーたちなど。もっと強い堪忍袋の緒を持っていたのだから!

 堪忍袋の目安は情報テクノロジーに限らず,もっと一般的にも通用する。他のデバイスを検討してみると。各種の潜在的な消費者行動がわかる。たとえばそのテクノロジーにどれほど文化的な親しみがあるかによって堪忍袋の境界線は変るのだ。自動車はPC以上に反ユーザー的なものである。メインテナンスが複雑だし。運転するのは危険で,罪もない市民を定期的に殺したり傷つけたりしている。だというのに自動車がユーザーフレンドリーに見えるのは,ガソリンを入れたり,修理屋と話したり,複雑な交通法規を覚えたり,ローンを組む方法を理解したりという。自動車技術をとりまくあれこれに慣れるのにわれわれが一生をかけているからである。また電話システムは,電話会社の分割以来どんどん複雑になっていくが、それにほとんど気づかないのは,われわれの学習カーブが上昇して,集団的な堪忍袋が強くなっているからである。ダイヤルインだのコーリングカード”だのアクセスコード”といったことを受け入れて,皆がオペレータになったのだ。

 この電話の例が物語っているのは,時間がたつにつれ堪忍袋の境界線は移動するということである。1920年代からやってきたタイムトラベラーは,1990年代のプッシュホンシステムの複雑さに呆然とするだろう。だが立場を交換してみると。人間のオペレーターと延々とやりとりするのでは,われわれは同じように混乱し怒ってしまうだろう。

 また,年齢集団によって,あるシステムにどれだけの安らぎを感じるかが異なるといった具合いに,テクノロジーへの反応には世代ごとに大きな開きがある。ベビーブーム期に生まれた人なら,銀行の自動窓口の効率性と匿名性を好むが。彼らの親の世代は自分の金の出し入れにこんなロボットを使おうとはせず。人間のいる窓口へ向かう。最近では,若い世代がワールドワイドウェブのようなサイバースペース環境をものにしてしまったが。親たちはそばで見ているだけである。いずれは後追いの年寄りの一部もこれに続くだろうが。それも若い世代が道を切り開いた後でしかない。

 道具の機能を改良すると,また堪忍袋の境界線は変わる。PCが消費者のヒットになったのは,CD-ROMがクリティカルマス”に達し,高速モデムでワープロや表計算よりもっとおもしろいソフトをインターネットから入手できるようになったときである。つまりPCは孤立した仕事の道具から,もっと大きな情報世界へアクセスする窓となったのである。

道具とユーザーが織りなす宇宙

 消費者の適応性の科には,まだもうひとつの側面がある。どれだけの金が払えるか,払いたいのか,という点だ。図6のように,払う意思と能力を縦軸にとり。堪忍袋の境界線の強さを横軸にとってみよう。消費者の反応や彼らが買おうと思う製品が,4つの角に示される。以下に説明しよう。

●必宮宣大将ー「資金に制限なし。忍耐の限界にも制限がない」。限リなく高価で限りなく複雑な道具を想像すると,B-2ステルス戦闘機のような,わかりづらい最新技術が思い浮かぶ。すべてを金でつくったとしてもまだ安くつくような代物だ。こうしたキャッシュを持ち合わせ,しかもこんなものを所有しようという堪忍袋の持ち主はひとりしかいない。同じように複雑なハイテクを詰め込んだスペースシャトルを持つNASAですら。この購入者になれず,この道具には対抗できない。

●ティーンエージャーのハッカー一「複雑なテクノロジーへの愛は大将なみだが,金がない」。テクノロジーの中身はB-2と同じくらいに複雑でよくわからないが。金持ちでなくとも手に入る道具を想像していただきたい。1990年代初頭まで。インターネットは当時のアクセス道具のオタク的な複雑さのおかげで,B-2と同じ一角をしめる純粋なテクノロジーだった。その頃,インターネットはあまりに複雑で時間をかけてまでこれを理解しようとしたのはたった2種類の人間だけだった。一種類はコンピュータ科学者。もう一種類はティーンエージャーのハッカーたちだ。後者のティーンエージャーたちにとってインターネットはうっとりするくらい難しく,これがPCやモデムという少額の投資でアクセスできる電子遊園地を訪ねずにはいられない環境にした。新しい道具が出現して,インターネットはもっとアクセスしやすくなったが,サイバースペースはティーンエージャー的なこだわりのライセンスとなった。ティーンエージャーたちは,他の消費者が「箱に入ったインターネット”」という聖杯を待つ間も,下界を探検するのだ。

●ハリウッドのかわいいスター一「大金は持ってはいても,忍耐はゼロ」。限りない富はあるけれども,もっともシンプルな道具に対してですら忍耐がないのは誰?スクリーン上の人物ザ・ザ・ガボールはちょうどこのパーソナリティの持ち主にみえるので,この一角の人間をハリウッドのかわいいスターと名付けよう。退屈しきった金持ちにぴったりのおもちゃは,もちろんロールスロイスだ。そしてそれがあまりにも複雑で運転しにくいというなら,それだけの話だ。もう少しお金をつぎ込んで運転手を雇えばいい。そうすれば,道具とのインタラクションはすぐに簡単になる。お金が高くつくだけだ。高級なホームシアターシステムなどは,消費者向けのロールスロイスと言っていいだろう。

●普通の消費者一「お金も我慢も制限つき」。ようやくわれわれ,お金も我慢も制限付きの普通の消費者の一角になった。消費者も残りの三者と同じように新しいものが好きだが,お金と時間に制限があるという組み合わせによって,きらびやかなものを購入する希望にはブレーキがかかる。もしその製品を買うことが,あまりに労力やお金をかけずに利益をもたらすなら(機能や楽しみの面で),自分の生活の一部にすることだろう。電話機は,この一角の消費者向けの典型的な製品だ。安く(10ドルしかしないものもある),簡単に使え(プラグを差し込むだけでいい),われわれに真に即時的でわかりやすい利点を提供する。消費者向け製品のメーカーにとってのチャレンジは,この一角の人びとに売れるよう,製品を優しくし,コストを下げることだ。

 ビジネスの側においては,PCが最も簡単で安い道具であり,スタッフ個人にとっても最もわかりやすいものである。ワークステーション”はもう少し高く複雑なのだが,これはシステムマネージャーが管理するネットワークに接続されなくてはならないからだ。メインフレーム”はもっと間接的で複雑なもので,一方,サイバースペースは(新しい道具のおかげで劇的にアクセスがしやすくなった)最近まで一握りの聖なる人間を除いては目にすら見えないものだった。実際,こうした製品をテクノロジーとは別に,純粋に機能的な軸にそって説明することもできる。PCは,個人がつけたり消したりできる道具で,希望によってソフトウェアを加えることもできる。ワークステーションでは,ユーザーがスイッチをコントロールできるが,ソフトウェアをどうこうする前に誰か他の人間の許可が必要である。そしてメインフレームともなると,近づくのに官僚的な手続きが必要になる。

 同じ原則が消費者側にも応用できる。電話機は,その低コスト,明らかな利点使いやすさによって消費者の一角にどっしり構えている。テレビになると少し角から離れる。というのも,まずもう少しお金がかかる上に,ACパワーアダプターやらアンテナやらケーブルに接続しなければならずその後はどんどん増え続けるチャンネルの間をうまく動き回る必要があるからだ。ビデオはまだ先だ。値段はテレビと同じくらいだが,ビデオの複雑さは人々が実際に使えるいくつかの機能を大きく超えている。ステレオコンポーネントは,消費者の一角の一番遠くに位置する。高いだけでなく,セットアップするのに絡まる電線を解き,自分向けのセットにして,よくわからないリモコンの使い方を学ばなくてはならない。幸運なことに,だいたいどこの消費者の家にも,みんなよりも進んだ人間がいるものだ。チームとなれば,製品を使いたいという欲望を現実のものにできるのだ。パパやママがお金を払い,もっとテクノロジーに抵抗力のある子供たちがステレオを設置したり,ややこしいビデオの設定操作を担当する。図7のモデルは消費者のトレンドを説明し,特殊な場合には製品が成功するか失敗するかの予想をすることもできる。その含蓄をいくつかここに示そう。

●「ハイテク製品は,時間経過と共に下方左側に向かって移動する」一ハイテクの部品のコストがあっという間に下がり,新しい部品のパフォーマンスが向上するのは自明のことである。たとえばムーアの法則(インテル社の創始者のひとり,ゴードン・ムーアによって提唱された法則)によるとチップの処理能力を一定にするとその価格は1年半で半分になる一方,同じスペースに入る回路の数(性能を測る間接的な指標)は1年半で倍になる。コストが下がるというのは,ハイテク製品が図の下方に向かって進んでいくということだ。パフォーマンスが上がるというのは,ユーザーフレンドリーにするためにパワーを使っているということで,製品は我慢の横軸を左方に向かって移動する。

●「消費者の堪忍袋は,時間がたつにつれ強くなる」一前述したように,消費者はあるテクノロジーがあればそれに慣れるにつれて忍耐の程度が高くなる。新奇な電話機が出てきたとき、われわれの祖父母たちはイライラしたものだが、今日のシステムはもっと複雑ながらわれわれがいらだつことはない。つまりわれわれはテクノロジーと共に進化して、テクノロジーの新しい可能性と共に洗練されるのだ。世代も関与する。アタリ”やニンテンドー”で育った子供たちは、WindowsべースのPCやインターネットのサービスの複雑さをあっという間に習得する。これはまた、図で製品が左方へ進むのに寄与する。時間が経過すること。そして洗練されること自体、道具をユーザーフレンドリーにするのだ。

●「メーカーは、図の中のあるゾーンに向けて製品をつくるようになり。それを移動させるのは難しい」ー図には、産業全体を配置することもできる。たとえば家電産業は左下方(消費者)の一角。コンピュータ産業は右上方あたりを中心にしている。どの産業。あるいはどの産業のどの部門も、中核となっている消費者の忍耐や主要ラインの価格ポイントに合わせている。この傾向は、企業がいつもの領域から脱出するのを非常に難しくしているのだが、その理由は、いったん出るとなると、どのくらいまで消費者の我慢を期待できるかについて新しい理解が必要になり、また異なる価格構成に合わせて製造やセールスのプロセスをすっかり変えなければならないからだ。後者に関して言えば、企業は村のようなもので、それぞれが異なった獲物を食卓にならべるために猟をしている。ある村は、6ヶ月に一頭のマンモスを殺して食糧とし、別の村は毎週鹿を捕り。また別の村は鬼ばかりを食べる住民で成り立っていて、生存のために毎日鬼を捕ってこなくてはならない。今日のハイテク産業にこれをあてはめてみると、宇宙産業はマンモス狩り、パソコン企業は鹿狩り。そして家電メーカーは鬼狩りということになるだろう。マンモス狩りをする村人は毎日鬼を捕るなどということを、ひどく大変で疲労がつのるものととらえるのと同じように、家電でビデオの次に続くものを宇宙産業が考え出すことはないだろう。宇宙産業はもともとビデオ部品の大部分を開発したにも関わらずである。

●「企業にとっては、右方へ移動する方が、下方あるいは左方へ移動するよりもたやすい」一すべての条件が同じだとすれば、我慢のできる消費者に向かって移動する方が、その逆よりも簡単である。使うのが難しくとも。価格の高い製品を売る方が、安い製品を売るよりも簡単だ。IBMがPC市場を独占しようとする苦難に満ちた試みを見ればこれはよくわかる。

 左方へ移動するのは、ライフベストをつけてプールの底へ向かって泳ごうとするようなものだろう。必死に水をかいても、途中までは行けるが、いずれぼっかりと浮かんでしまう。アグレッシブな企業によってはレベルをひとつだけ下げることもできようが、それ以上は進めない。IBMが1980年代に起こしたPC市場移動の試みは英雄的ではあったが、結局は不毛なものに終わった。IBMは「大きな鉄」のメインフレームのたぐいをつくっていたが、その当時は生まれたばかりのPCは、優れた重役の決断と洞察力のある経営者という徳をもってしても、親しくあいさつを交わすご近所だと勘違いしてしまったのだ。しかしIBMが実際にPCジュニア”を伴って家庭用PCに進出しようとしたのは、ただの災難を招いただけだった。というのも、グレースーツに身を固めた男たちにとって、消費者レベルの価格帯と我慢の程度はあまりにかけ離れたものだったからだ。

●「順応型インタフェースは、重要な機会を提供する」ーユーザーフレンドリー性というのは、きわめて相対的なものである。初心者にとってはフレンドリーで親切でも、鍛練を積んだ専門家にはひどいおせっかいかもしれない。ユーザーがマスターするに従ってどんどん上の段階へ進んでいくのだとすれば、インタフェースがユーザーのスキルを見定め。それに合わせてユーザーが学習することを励ますようになるのは論理にかなうものだろう。もちろん、スキルのレベルにインタフェースを合わせるというのは、消費者以外の環境ではより重要になる。プロたちにとって、ビジネスの効率は道具が仕事の内容に合っていること。そして何よりユーザーのスキルの上達に合っていることに依っているのだ。日本のクラフトマン。柳宗悦は次のように述べている。「職人がもっとも自由になるのは、自分の道具が自分の要求に合致したときである」。

(本文は,テリー・ウィノグラード編,瀧口範子訳,『ソフトウ

ェアの達人たち』,アジソン・ウェスレイ,(1998)の第5章ポール・サフォー著「消費者のスペクトラム」より抜粋・編集したものである。)

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