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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 環境情報学部 小論文 2002年 過去問

2002年 慶應義塾大学 環境情報学部 小論文 課題文

問題

 「Skyscraper」すなわち「摩天楼」とは,天をかすめるものという意味から超高層建築の代名詞のように使われています。ここに,人類の空に対する夢と願望を示すために,資料3点を添付します。そこでこれら3つの資料を参考として,次の課題に答えてください。

 解答欄(1)には、800字以内で、人類の空に向かう構想力とそれ自体が抱える問題点について論じてください。その際,摩天楼の発生。技術の可能性と限界,人類の生存についての視点を必ず織り込んでください。

 解答欄(2)には、「資料1」で示されたバベルの塔が,過去から引き継がれたプロジェクトとして今日まで建設が続けられたと仮定し,このプロジェクトの今後について提案してください。プロジェクトを継続するか見直すかを判断し,具体的な内容を示してください。工事の継続,不動産としての販売、解体整理、映像化。テーマパーク化、など自由闘達なアイデアを期待しています。表現方法は自由ですが、枠内(縦15cm×横27cm)に必ず収めてください。

[資料ー1]ピーテル・ブリューゲル父『バベルの塔』1568年頃,油彩/板(59.9×74.6cm)ロッテルダム・ボイマンス美術館蔵

[解説]

 バベルの塔の運命は旧約聖書『創世記』11章1-9節に記されており。古代バビロニアのシンアルの人々が煉瓦と石で町を造り,天まで届かんとする塔を建てようとした逸話にもとづいている。しかし,神はこの塔の完成を妨げ,ひとつの共通言語で統一されていた人々を各地に散らし。また言葉を混乱させて。以後互いに言葉がわからないようにした。「バベル」の名はヘブライ語の「混乱(パラル)」に由来する。フラヴィウス・ヨセフスの「ユダヤ古代史」(1巻、4巻)によれば、塔の建設はノアの曾孫たるニムロド王の命によるものとされる。ヨセフスは王の倣慢を非難する。

 (バベルの塔を主題とした)ウィーン美術史美術館蔵の作品に対してロッテルダム・ボイマンス美術館蔵の作品では、町が描かれていない。これは聖書の記述に反するが、ヨセフスが引用した古代ローマの託宣集「シビュラの書」の内容とは合致する。それによると、バビロンの町は塔が倒壊してから建設されたという。交易都市として繁栄を享受したバビロンの滅亡については、「ヨハネ黙示録」第18章・19章に、その罪が積み重なって天にまで届いたがゆえに罰されたとして長々と記されている。

 研究者の多くは、この作品を崩壊が運命づけられた「高慢」のシンボルとして解釈しているが、一部には、ブリューゲルの塔がローマのコロッセオを下敷きとしているという事実から。ローマの滅亡を示唆していると見る向きもある。既にコルネリウス・アントニス・ゾーンが1547年にコロッセオをエッチングで描いていることからして、ブリューゲルが初めてこのローマの古代遺跡を取り上げたわけではない。また、ブリューゲルのこの作品が、アントワープの商人たちに警告を発しているという説や、カトリック教会の倣慢さに対する告発とみなす意見もある。後者の場合は、塔の回廊を進む行列に注目してその論拠とする。この行進は参拝者の集まりであり、彼らが運ぶ赤い天蓋は教皇の存在を示唆しているとされる。

 他方、この塔が倒壊後ではなく建設中を示していることから。一部の美術史家には、この絵画に肯定的な意味を付与する者もいる。実際さまざまな研究者たちが、この塔こそあらゆる言語の源を表現していると述べている。そのこと自体、世界各地の商人が集まる貿易の中心地アントワープを想起させるのに十分である。この作品が広く認められているように、ブリューゲル晩年の作であるなら、この作品を描いていた頃はブリュッセルに住んでいた可能性が高い。

 この作品は、色彩の絶妙な扱いゆえに高い賛辞を受けてきた。塔上部の煉瓦の色調は下部の重く風化した石材の色調に較べて明るく輝いており,いかにも新しい部分だということを理解させ,また,この塔の建設には相当の時間がかかっていることも印象づけることになる。画面に強いアクセントを与えるのは、画面左側を縦に走る2本の色彩の帯である。ひとつは職人たちが石灰岩の石材を上に向かって巻き上げるシーンを表わし,人間も塔も白っぽい粉塵に包まれている。他のひとつは,そのやや左に位置し,煉瓦用の滑車が上下に並んで縦に煉瓦の赤い縞をかたちづくっている。(フリソ・ラメルツェ『バベルの塔』より抜粋・翻訳・編集)

[資料ー2]摩天楼の形面上学

 アメリカのオフィス街が空中に向かって拡張してきたのは,ひとえに空間が不足した結果であるとしばしば説明されてきた。超高層の設計者にして都市計画家として名を馳せたハーヴィ・ウィリー・コーベットは,ヨーロッパ人向けのアメリカ入門書として出版された著書『アメリカ人の眼になるアメリカ』(1932)のなかでこう記している。

 「垂直性を強調した鉄骨構造の摩天楼は、世界の建築に対するアメリカならではの貢献である。その発展は,よく指摘されるような特定の地域の地勢から引き起こされたものではない。ニューヨークで摩天楼が隆盛を迎えたのは,マンハッタン島が…狭く細長い地形となっていることにのみ由来するのではない。初期の摩天楼は,三方を平らな土地で囲まれたシカゴにも登場していることを忘れてはならない…今やどのような規模の都市であれアメリカ中で摩天楼を建設しつつある。水平方向の成長に必要な土地を十分有する都市であっても,である。」

 最初の摩天楼(「鉄骨造の高層ビル」と定義する)がシカゴに建てられたという事実は。今日広く一般に認められている。しかし,シカゴといえば無限の空間を連想しないわけにはいかない。シカゴの「インランド・アーキテクト」誌の記事(1883)には,「シカゴのように大平原の真っ只中に位置していれば,未来の発展の可能性に対してほとんど制限はない」との文章が散見できる。ここで空間を節約するためにデザインされた道具が実は空間の限りなく豊富な場所で発明された。という矛盾にぶち当たる。確かに,シカゴの都市空間を決定づける格子状のグリッド・パターンは本来アメリカ大陸の果てしない広がりに対して,少なくとも行政上,コントロールを可能とするためにデザインされたものといえよう。それゆえ,このパターンは,どこまでも拡張でき無限に増加することができる構造となっている。これが考案されたのは,空間を節約するためではなく,むしろ空間をコントロールしそこに道筋をつけることを目的としてであった。

 無限に続く大平原の連なりの上に巨大なネットを被せるかのようにグリッドを広げておきながら,空間が狭隆盛となってしまったと言い張るのは当然ながら矛盾した言い回しである。シカゴの成長はシカゴ河の河口の範囲に留まり,従ってループと呼ばれる中心業務区域は市の他の区域に及ばず,それゆえ地価が他と比較にならないほど高騰したといえばそれなりに理屈が通った話のように思える。しかし,この場合も論の立て方に無理がある。ほとんど前例のなかった垂直の建築群を世に送り出してきた技術の持ち主が、当時の批評家がただの「溝」と形容したごく普通の河川をまたぐための仕掛けを考えつかないとは,とても信じられない。長年にわたって培われてきたトンネル技術や橋梁技術、さらには下水道の技術を実践する際に、鉄骨の超高層を建設すること以上のどんな問題があったというのだろうか。

 だから実のところ。摩天楼がどのように生み出されたかはよくわからない。むろん逆の意見もある。数多くの建設事業を手がけそのなかでもエンパイア・ステート・ビルディング(1930/31)を完成させたアメリカきっての建設業者ポール・スターレットは、摩天楼の登場は明快そのものだと言い切った。「これは単なる常識(コモンセンス)の適応にすぎない」というのが彼の主張である。この考え方があってこそ、スターレットは、自己に全幅の信頼を置き、輝かしい技術を成し遂げるという中西部の成功神話に名を刻んだのである。彼の頭のなかにあったのは、摩天楼を実現に導くさまざまなメカニズムが、一見したところでは必然の成り行きとの印象を与えるが、実際の芸術や技術の創造という点できわめて複合したプロセスを経るということであり、それ自体彼にとってはまさに常識の範囲にあった。ロマンチックな響きをもったスターレットの自伝『スカイラインに挑戦する」には、(造物主としての)デミウルゴス的な自信を抱いてみずから意図的に創造という行為に乗り出したことが触れられている。複雑な現象だからこそ、単純な用語と解説を用いた。というのも、摩天楼はそれを建設するものにとっても至極大変な事業であるからである。グリッドが機会の均等を保証するニュートラルなシステムであることは間違いない。面倒なのは、この平等なマトリックスの上に別の構造が重ねられ、それがまったく逆の作用をもたらすということである。これこそが競争の力である。拡張する代わりに収縮するのである。一方が開放すれば、他方が内にこもる。最初はニュートラル・ゾーンと見えていたものが、気がついたら荒野に変質していたのである。

(中略)

 アメリカの商業都市がめざしたのは、「大自然のなかの人間」が誰でも事業をこなせるようにすることであった。ニュートラルなグリッドは彼らに移動の自由を保証し、境界も要求しない。また。中心や特定の焦点も定めない。しかし、人々はこれらの特質を社会の恩典として用いることはなかった。彼らは自然に対してではなく、みずからの仲間と競い合うことこそが努めであると身を構え,グリッド内の固定した点に留まってしまったのである。商業ビルが密集して建ち,上に向かって伸びていく様は,本来は存在しないはずの欠乏の法則がなぜか強く作用してしまったことであり,もはや手の打ちようがない状態に達してしまった。

 商業活動の中心点を押し上げる超高層ビル群は,結果的に自由貿易,レセフェール(自由放任主義),競争といった原理を指し示す舞台装置,あるいは教材モデルの性格を有していたのである。

(ThomasA.P.vanLeeuwen“TheSkywardTrendofThought”より抜粋・翻訳・編集)

[資料ー3]宇宙船地球号

 「宇宙船地球号」という言葉は、彼(バックミンスター・フラー)が1951年のある講演でふと思いついて口にしたものだが,きわめて直接的で驚異的な響きを持っていた。この言葉は,月に向かったNASAの宇宙船が地球の映像を公開するよりも20年も前に,我々の青い星をフラーが「外から」眺めていたかのように思わせる。彼は「宇宙船地球号」を,ひとつの完結したエコロジカルなシステムとして定義した。彼は30歳の時すでに,我々の星の土地が人類で埋め尽くされていることを見抜き,南極大陸を含むすべての大陸が居住可能な群島であること。「世界海」に浮かぶ「世界島」であることを理解していた。従って、その群島における政治的活動を彼が「外から」眺め,そこには策略家と。特定の利益の代表者と,口先ばかりで何も見ていない自惚れ屋たちの不条理な騒ぎしかないことを見抜いたのも不思議ではない。彼は論争をしかけるような姿勢で,時には悲嘆にくれながら。そのような連中に抗議し続けた。彼は細分化されたアカデミズムの世界をも,尊敬の目ではなく好奇の目によって「外から」眺めていた。彼は物質の形成に関する自らの研究活動を通じて,数学,幾何学,物理学,化学は本質的に「自然はどのような構造を持つか」という問題を探求する同じひとつの学問ではないかと問い続けたのである。

(中略)

フラーの初期のスケッチは、一般の建築家のそれに比べれば素人並みだが。そのためかえって明快である。それらは,彼の建築計画の基盤をはっきりと示している。個々の建造物は、地球規模の構想の一基点にすぎない。そして、「地球規模」とは、フラーがただその住居を世界中に建てようと考えていたことにとどまらない。彼が意図していたのは、地球全体を,空に届く軽量の塔を無数に建てるための足場にすることだった。実際に,彼のスケッチには,塔の足場として地球が描かれている。そのスケッチを説明するには,塔が「空に届く」という言葉すら適切ではない。絶対的な「上」と「下」ではなく,地球という「内」と,宇宙空間という「外」が描かれているからである。塔は地球の外へ,宇宙空間へと手を延ばす。フラーのこのような発想と同じ視点で建築をとらえた者は他にいただろうか。タトリンも,エル・リシツキーも,ル・コルビュジエもそうではなかった。フラーが自らのタワーによって作ろうとしたのは基地のネットワークであり。人類の植民活動のための信号塔である。彼にとって建築とは,地球に居住する者が,ある土地を自分の縄張りとして主張するための戦略である。この考え方は,開拓時代のアメリカ人たちが自分の居所を主張した方法の伝統を受け継いでいる。しかし,フラーの考え方は,昔のアメリカ人の方法とは、ひとつ大きな違いがある。フラーにとって土地の所有とは、その地面と土壌が自分の持ち物であると主張するような神話的観念とは無関係だった。そのような主張はつねに許いや戦争や破壊の原因となってきた。フラーの考える土地の所有権とは。ある場所に一定の期間生活し、そこで食物を手に入れるなり,あるいは家を建てるなり,何らかの方法で利用することを意味していた。つまり,その土地は他の人々にとっても利用可能であるべきであり,それは船で海を渡る者が他の人々にも海を渡ることを認めるのと同じことなのである。たえず動いている海の上を船で渡っていて,自分の船の下にある水を「所有」しようと考える者はいない。人々がそのような考えを持つのは動かない土地の上にいるときだけだとフラーは皮肉を込めて挑発的に言った。人間はそのような行為がいかに愚かしいかをいずれ悟るだろうと,彼は確信していたのである。

(クロード・リヒテンシュタイン,ヨアヒム・クラウセ「世界を機能させる方法」より抜粋・編集)

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