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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 環境情報学部 小論文 1998年 過去問

1998年 慶應義塾大学 環境情報学部 小論文 課題文

問題 何かを表現するには,メディア(媒体,媒介)が必要です。どのメディアを選ぶかによって,表現もまた影響を受けます。そして,同時にメディアは表現によってメディアとして機能します。資料1~4を読み,表現行為とメディアの関係について。自分なりの考えを1(00文字以内で述べなさい。注1:文章は,多少の編集,省略が施されている。

注2:図版は,文章に則して選択,編集したものである。

【資料1】クレーの創造性について

 クレーは,点,線,面,空間それぞれのもっているエネルギーを,おどろくほど克明,精密に分析し,科学的な態度で。絵をかたちづくる形体の基本要素を追求たが,その追求の過程に,たえず詩がたちのぼっているのを私たちは見ることができる。たとえば,かれは,1918ないし19年に書いた「創造に関する信条告白」(1920年発表)という重要な文章のなかで,線というものをどう考えふるかについて,興味深い思索を記している。

「地勢図をつくりながら,より充分な認識という土地に小旅行をしよう。全くの静止点を越えて、運動の最初の行為を起す(線)。しばらくして一息つくために休止(中断された線、あるいは..繰り返し停止によって文節された線〉ふり返る。すでにどれだけ遠く来たかのドローイングを(反対運動)。心のなかで。あちらへ行くかこちらへ行くか思案する(線の束)。川が行く手を阻もうとするので。小舟を利用する(波動)。もっと川上には橋があるはずだが(アーチの列)。川向こうで,同じ気持ちをもつ一人の人に出会う。彼もまた,より大いなる認識を見出す所へ行こうとしている。最初は婚しさのあまり一つに結ばれている(収叙)がしだいに相違が現れてくる(二本の線の独行)。両者におけるある種の興奮(線の表現と強弱法と呼吸)。…」こういうぐあいにして,クレーはさらに線が面をつくり,面が空間の力学をつくりあげてゆく過程を,線の旅として語っている。ここには,クレーのきわめて分析的な面と,きわめて夢想的な面とが,ぴったり寄添ってあらわれている。同時に,こういう説明はクレーのたくさんの線描画の,文字どおりの図解だといってもいいのである。クレーの絵をじっと見つめたことのある人なら,かれのこういう説明を読むだけで。胸がおどってくるような楽しさをおぼえるにちがいない。

ひとつの点が夢みながら歩みはじめる。その歩みは無限に多様な線と面にまでひろがる。しかし,最初の点は,いつまでも夢みながら,クレーの鉛筆の先端で呼吸しつづけている。

 こういうことは,クレーの場合だけではなく,万人共通の造形の基本原理にほかならないのだけれども,クレーははじめて,ささやかなひとつの点の歩みにひそむ広大な展開の可能性について,私たちに充分納得のいく説明を与えてくれたのである。

(出典:大岡信著『クレー」新潮美術文庫)

パウル・クレー:1879年-1940年スイス生まれ。画家。主にドイツで活躍。

1920年からバウハウスにて教鞭を執る。

【資料2】 言語表現の可能性と限界

 人間が心に思うことを他人に伝え,知らしめるのには,いろいろな方法があります。たとえば悲しみを訴えるのには,悲しい顔つきをしても伝えられる。物が食いたい時は手真似で食う様子をして見せても分る。その外。泣くとか、確るとか、叫ぶとか、競むとか、嘆息するとか、殴るとか云う手段もありまして,急な,激しい感情を一と息に伝えるのには,そう云う原始的な方法の方が適する場合もありますが。しかしやや細かい思想を明瞭に伝えようとすれば,言語に依るより外はありません。言語がないとどんなに不自由かと云うことは,日本語の通じない外国へ旅行してみると分ります。

 なおまた,言語は他人を相手にする時ばかりでなく,ひとりで物を考える時にも必要であります。われわれは頭の中で「これをこうして」とか「あれをああして」とか云う風に独りごとを云い。自分で自分に云い聴かせながら考える。そうしないと、自分の思っていることがはっきりせず、編まりがつきにくい。皆さんが算術や幾何の問題を考えるのにも,必ず頭の中言語を使う。われわれはまた,孤独を紛らわすために自分で自分に話しかける習慣があります。強いて物を考えようとしないでも,独りでぽつねんとしている時、自分の中にあるもう一人の自分がふど蔵きかけて来ることがあります。されば言語は思想を伝達する機関であると同時に,思想に一つの形態を与える。纏まりをつける,と云う働きを持っております。

 そう云う訳で,言語は非常に便利なものでありますが。しかし人間が心に思っていることなら何でも言語で現わせる,言語を以て表白出来ない思想や感情はない,という風に考えたら間違いであります。鯨調を食べたことのない人に鯨調の味を分からせるように説明しろと云ったらば,皆さんはどんな言葉を択びますか。恐らくどんな言葉を以っても云い現わす方法がないでありましょう。左様に,たった一つの物の味でさえ伝えることが出来ないのでありますから,言語と云うものは案外不自由なものでもあります。のみならず,思想に纏まりをつけると云う働きがある一面に,思想を一定の型に入れてしまうと云う欠点があります。たとえば紅い花を見ても,各人がそれを同じ色に感ずるかどうかは疑問でありまして,眼の感覚のすぐれた人は,その色の中に常人には気が付かない複雑な美しさを見るかも知れない。しかしそう云う場合にそれを言葉で現わそうとすれば,とにかく「紅」に一番近いのでありますから,やはりその人は「紅い」と云うでありましょう。つまり「紅い」と云う言葉があるために,その人のほんとうの感覚とは違ったものが伝えられる。言葉がなければ伝えられないだけのことでありますが。あるために害をすることがある。

 次に,言語を口で話す代わりに,文字で示したものが文章であります。少数の人を相手にする時は口で話したら間に合いますが。多数を相手にする時は一々話すのが面倒であります。また,口で云う言葉はその場限りで消えてしまうのでありますから。長く伝えることが出来ない。そこで言語を文章の形にして,大勢の人に読んで貰い,または後まで残すと云う必要が生じた訳であります。ですから言語と文章とはもともと同じものでありまして,「言語」と云う中に「文章」を含めることもあります。厳密に云えば,「口で話される言葉」と「文字で書かれる言葉」と云う風に区別した方がよいかもしれません。が,同じ言葉でも既に文字で書かれる以上は,口で話されるものとは自然違って来ないはずはありません。口で話される場合には、その人の痛籍とか言葉と言葉の蘭とか眼つき、顔つき、身振り、手真似などが違入って来ますが、文章にはそう云う要素がない代わりに,文字の使い方やその他いろいろな方法でそれを補い得る長所があります。なおまた口で話す方は,その場で感動させることを主眼としますが。文章の方はなるたけその感銘が長く記憶されるように書きます。従って。口でしゃべる術と文章を綴る術とは,それぞれ別の才能に属するのでありまして,話の上手な人が必ず文章が巧いと云う訳には行きません。

(出典:谷崎潤一郎著『文章読本」中央公論社)

谷崎潤一郎:1886年-1965年東京生まれ。作家。

『痴人の愛』,『細雪』などを発表。

【資料3】橋の上の人たち(詩)

奇妙な惑星とそこにいるあの奇妙な人々。

時間に屈するくせに,それを認めない。

反対意見表明の手段を持つ。

彼らは絵に描く,例えばこの絵のような。

一見したところでは,格別のことはない。

川が見える。

岸の一方が見えている。

逆流に難儀する小舟が見え川に架かる橋が見え,橋には人が見える。

見るからに足を速める人たち

今しも暗い雨雲から大降りの雨が振り出したから。

肝腎なのは,そのあと何も起こらぬこと。

雨雲は色合いも形も変えない。

雨は強まりも,小止みもしない。

小舟は動かずに漂う。

橋の上の人たちは走っている。

一瞬前と同じ場所を。

ここでコメント抜きには過ごせない

これは決して無邪気な絵ではない。

ここでは時間が引き留められた。

その法則が放棄された。

出来事の進展に対する影響力を奪われ

時間は無視され侮辱されたと。

ヒロシゲ・ウタガワとか名乗る反逆者の力量によって

(その人も遠い昔に去るべくして世を去ったが)時間ほ躓き倒れたのだ。

あるいは,これも単に無意味な戯れか

たかだか二、三の銀河系に魔る規模の議なのかも

そのどれにせよ念のため

蛇足を足せば,次のようになるー

以前からここでは絵に惚れ込んで

高く評価し,このちっぽけな絵に

後代まで感嘆し,感動すべきだとされてきた。

それだけでは満足しない人たちもいる。

彼らは耳に雨脚の音さえ聞き取り

肩や背に漆み入る満の冷たさを覚え

橋と人々を眺めて

そこに自らの姿を見るように思い

行き着く先のないこの駆け足の

終わりのない道を,いついつまでもと

そしてその思い上がりのなかで思い込む

これがそのままの現実であると。

(出典:ヴィスワヴァ・シンボリスカ著『橋の上の人たち」(工藤幸雄訳)書摂韓山田)

ヴィスワヴァ・シンボリスカ:1923年生まれ。1996年度ノーベル文学賞受賞詩人。ポーランドのクラクフに住む。

【資料4】キース・へリングとのインタビュー

質問者(バリー・ブラインダーマン):こういうドローイングはどのようにして生まれたのかな。

へリング:ことばを使っては伝えられないけれどもイメージなら伝えられるものに興味があった。ことばをたくさ

ん使ったパフォーマンスやビデオの作品をつくってきて,ことばを使うことに不満を感じるようになってね。イメ

ージがそれまでとは違った表現を可能にした。記号やシンボルが代理機能を得て,より意味性を強める。たとえばぼ

くが描いた,はいはいする赤ん坊も記号になった。

地下鉄構内での最初のドローイングは,ジョニー・ウォーカー〔ウイスキーの銘柄〕の赤の広告にパイロットの黒のマーカーで鉄道線路のある雪景色を描いたものだ。だいたい。はいはいする赤ん坊か犬のどちらかそれとも両方が空飛ぶ円盤に攻撃されているところを描く。広告の風景と同じ縮尺でね。その広告が眼につくたびに,その上にドローイングを描くようにしていた。そうするうち-に一月になって黒い紙(更新されな霊話い広告を覆うためのもの)が使われ描き込むキース。るようになると,その紙に白墨で描くようになった。白墨はとても便利だよ。すっきりしているし,安くて。素早く描ける。ちょっとポケットに入れとけばいいんだ。

質問者:物書きのリチャード・ゴールドスタインが,最近きみのドローイングも含めて。優れたグラフィティ・アーティス、トの作品を,未公認のパブリック・アートと呼んでいた。きみの作品はじつに幅広い人々の眼に触れている。

へリング:そうだね。でもほとんどの人たちは身の周りに音やイメージがあふれかえっているので。街にはおもしろいもの)がたくさんあるのに,それを受けつけようとしない。グラフィティや街を舞台にしたアートにはまるで無関心だ。

質問者:きみの作品では簡略さが鍵になっていると思う。線の使い方にしても,シンボルづくりのシステムでも。

へリング:できるだけ単純にいいたいことをいおうとしているんだ。素数のようにね。ただ一本の線によって,ものすごくたくさんのことが伝えられるし,その線をほんの少し変えるだけで,まったく違う意味が生まれる。ごく初期のころから。効率の良さがあらゆる意味で大きな役割を果たしていたと思う。素材をとっても、かたちを見ても、また機能の面からもね。

質問者:きみの作品のなかでは、支配と従属の関係。人間を越える存在に対する長怖、崇拝といったテーマも重要だと思う。

へリング:ドローイングの多くは、権力と力関係を扱っている。力の移行。さまざまな理由から行使される力という問題だね。現代の世界では、権力の集中、あるいはその均衡が最大の問題のひとつとされている。全体的な破滅を免れるためというのが、その口実だ。空飛ぶ円盤は究極的な力。つまり未知のものを象徴している。

質問者:犬はどうなんだい。

へリング:あれは犬というより四つ足の動物なんだ。動物や自然を表わす基本的なシンボルのつもりで描いている。動物とはずいぶん長く付き合ってきたけれども、ほんとうのところはよくわかっていない。何を考えているのか。いったい考えているのかどうかさえね。犬が人間より大きく描かれているときには、それは自然または略奪者を表わしている。縮尺も線や反復と同じように、表現上の道具になる。ある物に違う意味を与えるために、よく縮尺を変えることがある。もし犬が小さければ、犬は人間のペットにもなる。

質問者:未来については何か考えがあるかな。

へリング:描きたいものはなんでも描けるということに気づいた。まちがいを犯す心配なしにね。いまの仕事のつぎには必ず何かがまた生まれてくるということについても、少しも心配していない。初めから、ずっとそんなふうに進んできたしね。

(出典:ジーン・シーゲル編「アートワーズ」(木下哲夫訳)スカイドア)キース・へリング:1959年-1990年アメリカ生まれ。アーティストとして主にニューヨークで活躍。エイズで死亡。

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