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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 環境情報学部 小論文 1997年 過去問

1997年 慶應義塾大学 環境情報学部 小論文 課題文

問題 以下の資料1~4はすべて「知識」と「情報」について論じたものであるが,これらの資料のそれぞれの論点に必ず言及しながら,来たるべき21世紀の社会における「知識」と「情報」の関係について1000字以内で論じなさい。

【資料1】デジタルテクノロジーとその人間社会への貢献

 デジタル技術を利用することにより,自由に効率よく知識や情報の共有と交換を行うことができる。これが,マルチメディア技術やインターネット環境が人や社会に貢献できる可能性の本質である。

 デジタル技術の特徴は,コンピュータとネットワークの発展によりその真価を発揮する。まず,デジタル技術が取り扱える知識や情報の範囲は,技術の進歩によって拡大している。数値そのものの取り扱いがそのほとんどすべての守備範囲だったコンピュータは,文字,動画。音声を数値で表現するそれぞれのデジタル技術によりその守備範囲を広げている。われわれが持っている知識や情報は,デジタル化することで,従来考えられなかったほどの膨大な量を蓄積することができ,それらを瞬時に検索することができるようになる。たとえば,百科事典は一枚のCDに蓄積され,その検索は迅速に行え,音や動画がその理解を深めるために使われ始めた。コンピュータによるインタフェースは,対話型の情報提供を可能にし,子供の指示に反応して動く絵本がたくさん作られるようになり,子供たちの学習環境にも大きく貢献している。

 このように,デジタル情報は,数字の並びであるがゆえの。魔法のような手段で大規模な情報交換を可能にする。その典型的な例を取り上げてみよう。テレビの画面に将棋盤のマス目を書いたとすると,しばらく変化しないマスがある。このマスの情報は一度送れば二度と送らなくてもよい。つまり,一回で何回も送ったのとまったく同じ効果がある情報である。この技術は,アナログ技術に対するデジタル技術の効率のよさ,可能性の大きさを示す典型的な原理である。デジタル暗号の技術は,プライバシーや安全を守る通信を可能にするばかりでなく,現金・や投票の概念を変えることができ,結果として経済や民主主義の仕組みにも影響があるかもしれない。

 デジタル技術の集大成であるコンピュータとデジタルコミュニケーションの統合された結果であるインターネットの環境では,これらの新しい技術要素が利用可能になり,情報や知識と人間との新しい関係が生まれようとしている。ところが,池濫する,権威に裏付けられない,膨大な情報は,有害な意味を持つ可能性もある。同時に,個人の視点による情報と知識の自由な摂取と提供,そして,組み立ては,個を尊重した新しい社会の有力な基盤ともなり得る。このように,デジタルコミュニケーションの欠点となり得る課題を克服し,人間社会にとって利点となる課題に,分野などを超越した多角的な視点から勇気をもって取り組むことが,21世紀社会の明るい未来を切り開くのである。

(村井純「デジタルテクノロジーとその人間社会への貢献」より抜粋・編集)

【資料2】ネットワーク

 これまでの人類社会に広く知られている「組織」や「市場」のような社会システムとは違って,「ネットワーク」は,そのメンバー相互の間の,事実の認識や評価にかかわる,あるいは望ましい目標の設定やその実現の手段の選択にかかわる。情報や知識の分かちあい,つまり「通有」を目的として形成される。

 ネットワークのメンバーたちは,通有された知識や情報をもとにしながらも(つまり,仲間の意見や行為を大いに参考にはしながらも),自分自身の意思決定や行為については。基本的には個々別々に。主体的に行う自由をもっているのである。もちろん,場合によっては。ネットワークが固有の名称や事務局や財産を持って,あたかも一個の組識であるかのように,共同の意思決定を行ったり共同行為に従事したりすることは、ありえなくはない。また、ネットワークの内部で、市場に類似した財・サービスの取引が行われてはならないということもない。

 しかし、それらはあくまでもネットワーク本来の目的にとっては、副次的なことがらにすぎない。ネットワークの存続にとっての必須の条件は,ネットワークの中に、そのメンバーを魅了し満足させるような興味深い。あるいは有用な情報や知識が、そのメンバーたちの努力によって、投入され通有され続けることである。もともと、日本の社会では、この意味でのネットワークが非常に重要な役割を果たしてきた。昔のムラの寄り合いや、いまの審議会の仕組みなどは、やや閉鎖的な色彩が強いとはいえ、典型的なネットワークのそれだといってよかろう。私の予想では、来るべき21世紀は、このようなネットワークが、それも情報通信技術の革新と、個人主義や地域主義を超える意識変革とに支えられた。開放的でグローバルな展開を志向するネットワークとそのさまざまな複合体が、中心的な社会システムとして活躍する時代になる。それぞれの地域社会はもちろん、国家や国際社会も。ネットワークをベースに再編成されていくに違いない。(公文俊平著「ネットワーク社会」より抜粋・編集)

【資料3】知(智)について

 智とは智恵と云ふことにて、西洋の語にて「インテレクト」と云ふ。事物を考へ、事物を解し、事物を合点する働きなり。

(福澤諭吉著「文明論之概略」より)

 福澤がここで智恵という場合、実は、いろいろな要素が一緒になっていて、未分化なところがあると思うのです。智恵というものについて、私は一応こういうふうにレヴェルを区別してみます。いわば知の建築上の構造です。

information(情報)|knowledge(知識)|inteligence(知性)|wisdom(叡智)

 福澤が智恵という場合。現実にはこれがぜいぶ一緒になっているわけです。さきに「聡明叡智の働き」という言葉が出てきましたね。それが福澤の知の未分化性。よくいえば総合性を示しています。一番下に来るのが土台としてのウィズダム(叡智)です。これはいわゆる知識や科学技術学習の程度と必ずしも併行しません。庶民の智恵とか,生活の智恵といわれるのがそれに近いものです。その上にくるのが。理性的な知の働きとしてのインテリジェンス(知性)です。聡明叡智の働きを「事物の関係」の判断とか。「大小軽重を弁ずる」とか,福澤が定義しているところから,それは主としてウィズダムとインテリジェンスという,上記の構造の下半分の作用に重きが置かれているように思われます。その一段上のノレッジ(知識)というのは,叡智と知性を土台としていろいろな情報を組み合わせたものです。福澤自身も『概略』の数年後に出版した『福澤文集』(巻之一)のなかで,学問というのは,たんなる物知りではなくて,「物事の互ひに関り合ふ縁を知る」ことだ,と言っております。個々の学問は大体このノレッジのレヴェルに位置します。一番上の情報というのは無限に細分化されうるもので。簡単にいうと真偽がイエス・ノーで答えられる性質のものです。クイズの質問になりうるのは,この情報だけです。たとえば第二次大戦はいつ勃発しましたか,というのは情報のレヴェルの問題ですが。第二次大戦の原因は何かとなると,知識のレヴェルになり,したがってクイズの問題にはなりえません。無数の情報(史料)を組み合わせねばならないので。イエス・ノーで答えが出せないのです。まえに方法論のところで申しましたように,解答としてあきらかな誤診要は指摘できますが。「正解」というものはありません。

 現代の「情報社会」の問題性は,このように底辺に叡智があり,頂点に情報がくる三角形の構造が。逆三角形になって,情報最大・叡智最小の形をなしていることにあるのではないでしょうか。観智と知性とが知識にとって代られ,知識がますます情報にとって代られようとしています。「秀才バカ」というのは情報最大,叡智最小の人のことで,クイズにはもっとも向いていますが。複雑な事態にたいする判断力は最低です。アメリカのCIAなどの高度の技術と多くの人員を駆使しておびただしい情報を集める専門部局が,きわめて素朴な状況判断の誤りをしばしば冒しているのも。上のことと関連しているでしょう。福澤が現代に生きてこの実状を見たら驚倒して,「一国人民の智徳を論」じている数章も,たとえ根本の論旨は変らないとしても。その展開の仕方を書きあらためるかもしれません。(丸山真男著『「文明論之概略」を読む」より抜粋・編集)

【資料4】「情報」と「知識」

 「情報」というのは自然科学・工学系の概念ですが,これに対比される人文的・社会科学的な概念は,「知識」です。情報におけるウィーナーやシャノンに相当する位置を占める名前をあげるとすれば,ロックとヒュームがそれにあたることになるでしょう。この対比は,自然科学・工学に対する人文・社会科学という対照と同時に,情報が20世紀中期の高度産業化段階における概念化であるのに対して,知識が17-18世紀の初期近代化段階における概念化であるという対照を示すものでもあります。

 ロックやヒュームが論じた「知識」というのは,人間の観念の一形態であって。人間の精神作用としての認識によって主観の中に取り込まれたものであります。したがって,知識の生産過程には,人間の主観的内面の思索による加工・解釈・推理などの過程が不可欠です。

 知識の生産過程におけるこの加工・解釈・推理というのは,コンピューターが行なうデータ処理の過程と比較可能な位置を占めるものです。しかしこの両者は,非常にその性質が違っています。コンピューターによるデータ処理は,あらかじめコンピューターが読める言語で人間がきちんとプログラム化しておくのでなければ受けつけてもらえません。これに対して思索による加工・解釈・推理などは,プログラム化されていないものをプログラム化する創造的な過程を含んでいるのです。主観的内面の世界という表現は,コンピューター・プログラムのようには客観化されていない。また客観化されることのできない。主観的な精神作用をあらわすものです。

 認識の源泉には,経験と理性と超越的世界との三つがあります。これらはそれぞれ。経験的知識(科学),先験的知識(数学・論理学),超越的知識(神学・形面上学)という。人間知識の三つの形態に対応します。知識の生産は,認識作用を前提としますが。認識というのをもし外的知覚をつうじて外から情報が取り入れられる過程に限定するならば,それは経験的知識にはあてはまりますが。先験的知識と超越的知識にはあてはまりません。後二者の生産には,推理とか理解といった内的体験が必要です。コントの実証主義哲学では,実証的(経験的)知識が神学的知識および形面上学的知識よりも高次の知識であると主張されていました。これは,啓蒙主義的科学主義の影響でそう考えられたのです。これに対して,マックス・シェーラーは,実証的知識と神学的知識と形面上学的知識は同時並行的に存在するもので。それらは人間精神の分化過程に対応する知識の分化した形態を示すとしました。こんにちでは,実証主義者といえども科学を万能であるとは考えず,超越的世界についての命題の意義を承認するのがふつうです。ここでは。経験的知識・先験的知識・超越的知識の全体を知識とよぶことにしましょう。

 知識の生産過程が人間の主観的内面世界での思索にかかわるということは,しかしその産物としての知識が個人の主観を超えた客観的存在であることを妨げませんし。またその形成過程に客観的な要因が作用することを排除するものではありません。知識のこの二重性は,認識哲学と経験社会学とをいわば両親とした子供である知識社会学という学問分野を生み出しました。知識社会学の主題は,シェーラーの言い方にしたがえば,人間の思考作用における「理念的」要因と「実在的」要因とがどのようにかかわ合っているかという問題であり,またマンハイムの言い方にしたがえば人間の思考作用が「存在諸要因」によってどのようこ拘束されているかという問題です。シェーラーとマンハイムに共通しているのは,一方で認識や思考が精神的・主観的な過程であることを強調しながら,他方でその中に客観的とりわけ社会的過程が入り込んでくることを同時に強調する,という二重性にあるといえましょう。

 さてここで私がいいたいのは,情報にはこのような二重性はない,ということです。このことを,つぎの三点に分けて考えましょう。第一に,情報は具体的な事実の生起についての伝達であって,受け手が直接体験し得ない事柄について。経験の範囲を拡大してくれる,経験の代用物です。ということは。経験それ自体には主観的内面における加工・解釈・推理などは含まれていないのですから。情報もそれらのものを含まない,ということを意味します。情報は知識の素材であり得るけれども,知識そのものではないというべきではないか。

 第二に,情報は瞬間的であって反復されず。したがって人の内面的世界において蓄積されたり,累積的に進歩したりすることがありません。情報はルーマンがいうように,意外性を生命とする一意外なニュースほど価値が高いものです。いうまでもなく,意外性というのは一回限りのもので。反復され得ず,蓄積され得ません。これに対して,知識は反復され記憶され,蓄積されていくものです。

 第三に,情報は不確実な事柄の不確実性を減らすために求められるものであり,いわば意思決定をより確実なものとする手段価値によって求められているのです。つまり情報は道具なのです。これに対して,知識は道具以上のものです。知識は,それ自体のために求められます。なぜなら,他者と知識のストックを共有することは,文化の共有として,共通の生活世界を形成するのに役立つからです。情報の共有に,そのようなメリットはあるのでしょうか。

 これから21世紀にむかって,情報インフラストラクチュアの建設が急速度ですすんでいき,そのために政府が今後巨額の財政支出をすることになるのはたしかでしょう。さてそれによってインターネットが膨大にふえたとき,人間はそれを使って何をするのでしょうか。それらは知識の生産と直結するのでしょうか。北海道から九州まで日本を縦断する光ファイバーの「情報ハイウェイ」といった巨大な情報インフラストラクチュアの建設は,日本社会をどのように変えることになるでしょうか。これについては,ヴァーチュアル・リアリティー(仮想現実)の問題としては,いろいろなことがいわれています。しかし現実の社会をどう変えられるかといった問題になると,ネットワークの中から創造的なものが出てくるといったかけ声が大きいわりには,どうも現に出されているものは意外と貧困であるという印象がずっと私にはあるのです。これまでの定型は,在宅勤務・在宅授業・ホームショッピング・ホームバンキング・医療相談などですが。どうもたいしたものはないのです。在宅勤務や在宅授業で,会社や学校が要らなくなるというような説があり。また人間が都市に集住する必要がなくなるというような説もありますが,依然として空想の域を出ていません。多分そんなふうにはならないのではないか。

 情報インフラが知識の生産とむすびつく事例としては,データベースへのアクセシビリティが高まって大学院生のデータ解析能力が向上するとか。文献検索が容易になって一般知識人が専門研究の成果を利用する度合いがふえるとか,プレゼンテーションが文字情報だけでなくカラー・グラフィックや動画などの映像情報を駆使してできる。などのことが考えられます。このような事例において,情報社会化が知識社会化のための有用な道具となり得る,ということはたしかでしょう。しかしその場合でも,コンピューター・ネットワークは情報処理や情報伝達を迅速かつ大量に行ない。またプレゼンテーションを多角化することを可能にすることによって,知識の生産と普及を助けますけれども,はたして知識の生産そのものを行なっているのかどうか疑問です。知識の生産そのものは,依然として個々人の主観的内面の世界で行なわれ,またその正確な伝達は印刷術の発明いらい用いられてきた書き言葉による伝統的コミュニケーションによって行なわれているのではないでしょうか。

これから、出生いらいパソコンとともに育った「新々人類」がふえていきます。私が心配していることは,彼らがコンピューターには強いが本を読まない。情報には詳しいがものを考えない人種になっていくことです。彼らが「ポスト工業社会」の制度的担い手たる大学や研究所の主役になったとき,その大学や研究所そのものが知識を生産する能力を失っていくことを心配するのは,私だけの単なる枯愛でしょうか。

(富永健一著『近代化の理論一近代化における西洋と東洋」より抜粋・編集)

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