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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学SFC 環境情報学部 小論文 1996年 過去問

1996年 慶應義塾大学 環境情報学部 小論文 課題文

問題 資料1,資料2,資料3をそれぞれ良く読んだ上で,問1と問2に対する答を解答用紙の解答欄に記入しなさい。

問1.資料の中で使われているキーワードを10個程度使い。主な論点とその相互関係を図で表現しなさい。答は解答欄(1)に記入しなさい。

問2.高度情報社会において日本が世界でどのような役割を果たすべきかが注目されています。このためにあなたが重要と考える課題は何か、またその解決のためには何をなすべきかについて。上で作成した図をもとに考察し。解答欄2)に1000字以内で記入しなさい。

【資料1】

 「今日の文明を象徴するものは何ですか。最低十品目いってみて下さい」こんな質問を受けたら,われわれはまず何を頭に描くだろうか。多分。普段の生活の中で,目にし,耳にするものをそのまま挙げると思う。

 自動車,飛行機,コンピューター。電話機,テレビ,ラジオ,ビデオ。カメラ,半導体。さらに,鉄鋼,アルミニウム,ナイロン,ペニシリン。ストレプトマイシン,弾薬,X線等々。

 残念ながら、上のうちどれひとつとってみても,日本人が発明発見のドラマに深くかかわったものはない。

 日本人は欧米人の発明発見した「基本技術」なり,「基本特許」なりを,あるときは,「技術導入」という形でそのまま取り入れ,またあるときは,それに少し手を加え,「改良特許」「応用特許」として国内で取得し,遅れた技術の空白を埋めてきた。その上で,「安くて」「品質のいいもの」を,「大量に」生産して輸出し,日本を世界第二の経済大国に押し上げてきた。だが,先進工業国になった今日の日本に強く求められるのは,「模倣」でも「改良」でもなく,欧米に伝(ご)して,自ら「基本技術」「基本特許」をどう生み出していくかである。

[中略]

「少しぐらい真似しても、うまく作れば、外国の特許には抵触しないでしよう」

 この言葉を口にしたのは、プラント機器メーカーの中年のエンジニアだった。1970年代の終わりから、80年代初頭にかけての話である。

 「日本人は模倣の天才だ」

 簡単にそう割り切るつもりはないが、彼の言葉を聞いて

 「日本人には本当に、オリジナリティ(独創性)があるんだろうか」

 そういう疑問が私の頭をかすめたのも事実だ。

 本書を書く目的の一つは、この疑問を解き明かすことにある。一言でいえば、特許の歴史とはエゴイズムまる出しの歴史であった。しかし、特許制度はまた今日の現代文明を築き上げるうえで、大きな役割を果たしてきたことも否めない。

 特許の歴史の光と影を追いながら、今世紀の、いや21世紀の日本におけるオリジナリティに富んだ技術のありようを考え直してみたい。

 古代ローマ人は独占を嫌った。独占を悪だと考えていたからである。独占を必要だと認めたときでも、生活の基本にかかわる「衣」と「食」については除外した。

 今日の常識に照らしてみても、特定の個人に独占権を与えることは、けっして好ましいことではない。ところが「特許」とはまさに「発明の独占」なのである。特定の発明について、特定の人間に、一定期間。作る権利を独り占めさせるからだ。世界で最初の特許は、ヴェネチア共和国(イタリアのヴェニスにつくられた都市国家)が1443年にアントニウス・マリーニに与えたものだといわれている。対象物は水なしで動く製粉機で、20年間の独占製造権が付与された。

 ローマ帝国の社会的風土からは考えられない特許制度が、ヴェネチア共和国に誕生したわけである。もっとも近代特許制度はイギリスではじまり。16世紀のエリザベス一世時代にだいたい確立され、1624年の英国議会で成立した「独占大条令」でその離型が形成され、今日に至っている。

 本来、特許制度は発明を保護する狙いをもっている。技術を「公開」した代償として、発明者に「独占権」を与えようとするものである。技術の公開とひきかえに発明者に与えられる独占権には、三つの効用が期待できる。

 一つは、発明に要した開発費用の回収が可能になることである。一長期間の悪戦苦闘の末、発明まで遭ぎ着けた者が、その発明を模倣されたら。どんなことになるだろうか。発明者は以後、発明の中身を公開しなくなるであろう。実際、模倣者は開発コストがかからないので、発明者よりも安く商品を製造販売することができるわけである。もし発明者に一定の独占期間が与えられれば、開発コストは回収され、さらに利益を生み出すことも期待できよう。

 二つ目の効用は、社会全体からみて、発明のための重複研究。二重投資が避けられ、公開された発明の中身が呼分味され、さらにちがった方向の研究に進むことが可能である。三つ目は、発明が特許によって保障されれば、発明行為に火がつき。新しい発明および技術開発のための刺激剤にもなりうるだろう。

[中略]

 歴史上、われわれからオリジナリティを奪い取った典型的な事例として。よく引き合いに出される文献がある。それが享保6年(1721年)に徳川幕府が出した触れ書きで、「新規御法度(ごはっと)」と呼ばれたものである。新規のことはすべて幕府に対する反逆と決めつけられた。新しいことは何もかも悪とみなされたのである。「新規御法度」とはどんなものだったのか。

一、呉服物。諸道具、書物は申すに及ばず、諸商売物、菓子類にても、新規に巧出し候事自今以後堅く停止たり。若し拠なき仔細これある者は役所へ訴出。許を受け仕出す可き事

一、諸商物の内、古来の通にて事済み候処。近年色品を替。物数寄に仕出し候類は追て噌味を遂げ停止申付くべく候間、兼々其旨心得べき事

 つまり、呉服や道具や書物やお菓子にいたるまで、新規のものを製造販売することは禁じられたのである。また長い間売ってきたものに,たとえば色を変えるとか,素材に別のものを使って,目先の変化をつけようとすることも禁じられた。

 上の触れ書きは享保6年のものだが,この手のお触れはしばしば発せられている。

 享保6年は,西暦に直すと1721年,先進国のイギリスでは,18世紀の産業革命期を迎えようとしていた。変革の前夜であった。

 日本は産業革命どころの話ではなく新しいお菓子さえ作ってはいけないといわれた鎖国のまっただなかにあった。新技術をはぐくむ土壌は幕府によって完全に抑圧され,まったく発明への気運を醸成するような社会情勢にはなかったのである。人びとは変化を求めず,思想の自由,行動の自由を求めずひたすら幕藩体制下の秩序を守ることを強いられた。だからこそ,この抑圧が反発のバネになり,新しい時代を用意するための変革期を迎えることになるのである。

 かりに優秀な技術があったにしても,それを公にせず,秘法として自らの内におさめておくことが為政者の求めるところでもあった。

 このような変化を嫌う状況では,「発明の公開」を条件に「独占権」を与えようという特許の思想は育ちようもない。

 たしかに江戸時代も半ばを過ぎると,幕府の出した「新規御法度」とは逆に,各藩は競って新技術・新産業・新商品を求めるようになっていったことは事実である。しかし,欧米が鉄とか蒸気機関,電信機といったすすんだ発明と特許の関係を論じているとき,日本では塗物,紙,ロウソク。醤油,お茶,鋳物,木綿など日常生活の中の小物の改良,改善に関する工夫や技法を問題にしていた。もちろん築城といった巨大技術もあったがそれは例外中の例外といえる。

 嘉永6年(1853年)のペリーの来航によって,日本は急速に開国に向かい,西欧の文物を大々的に導入することになった。こうした流れの中で特許制度も,福沢諭吉の『西洋事情』(1866-70年にかけて出版)によって日本にはじめて紹介された。

守誠『特許の文明史」より抜粋,調整

【資料2】

  「知識と力は一致する」という言葉がある。これは17世紀初頭に哲学者兼高級官僚として活躍したベーコンの言葉である。ここでいう「力」とは本来は自然を征服するためのものとして主張された。だが、時代が推移するとともに、知識は「経済的価値」という力をもつようになった。これはルネサンス後、さらに産業革命後、多くの人によって強く意識されるようになる。

 ベーコンより一世代あとにニュートンが物理学者としてベーコンの主張を実現しはじめた。そのニュートンにこんな言葉がある。「私がデカルトよりも遠くのほうを見ることができたのは、巨人たちの肩に乗せてもらったからである」。この言葉は知識の姿というものを端的に示している。それは個人の知的業績というものは、先行者の成果のうえに積みあげられていく。という構造である。つまり。どんな個人Aについても。

 「Aの業績」は「Aの先行者の業績」に「Aの付加価値」を加えたものとなる。

 ベーコンの言葉とニュートンの言葉を重ねてみよう。ベーコンの言葉が正しいとすれば、知識はつねに経済的価値をもつ。このとき知識は万人の関心事となるだろうし、関係者はその私有化を望むだろう。しかもニュートンの言葉が真であれば、だれの業績もつねに先行者の業績に支えられている。とすれば、先行者は自分の業績を確保し、後続者にみだりに利用されることを拒もうとするはずである。もちろん、Aもつぎの世代によって先行者にくりこまれることになる。したがって、Aにとっても、自己の業績を確保することは切実な課題となるはずである。これは先行者の論理である。

 しかし、後続者の論理というものもある。それはすべての知識に生産者のラベルを貼り、その人に当の知識の経済価値を付与することはできないという主張である。この立場からすれば、「Aの業績」は「社会共有の知識」に「Aの付加価値」を加えたものとなり、既存の知識は公共財ということになる。もともと知識には公共財的な性格がある。

[中略]

 だいたい知識にはコピーされやすい(社会的生産費用がゼロ),だれの専有にもなりにくい(排除不可能性),という性格がある。こうした点をみると,知識が公共財としての特徴を備えているということが納得できる。

 あきらかに公共財とみなせる知識がある。たとえば法律,技術標準,官庁統計,気象予報,小・中学校用教科書などをこご.に含めることができよう。これらは社会の成員の共通ルールまたは共通感覚を支えるものとして存在し,これで社会は秩序を維持できるのである。このような共通知識については,権利を個人に専有させることはできない。

 さきに示した先行者の立場と後続者の立場を重ねあわせてみると。

 「Aの先行者の業績」は「社会の共有知識」である

 というおかしな関係が得られる。この関係の前半分は先行者の言い分。後半分は後続者の意見,ということになる。前半分からみれば知識は私有化すべきだということになるが,後半分からみればそれは公有にせよということになる。

 そこでこの矛盾に折りあいをつけなければならない。そのためには知識を分類し,ある部分については有償として個人に帰属させ,他の部分は無償として社会の共有とする。という工夫が必要になる。この分類を制度化したものが知的所有権制度となる。知的所有権には工業所有権(特許権が代表格)と著作権がある。

 知的所有権制度は先行者の立場から,かれの利益を保護することを目的としている。だからというべきか,この制度はいずれも知識の私有についてはっきりとした制限を設けている。この制限はさまざまな視点からなされている。これを日本の現行法をベースに整理してみよう。第一に,定義によって私有化(ただしくは専有化)できる知識を制限している。特許法では,それは

 「特許発明」にたいして与えられる。その定義をみると,「特許発明」は「技術的思想の創作」であり,「自然法則を利用」したものであり,しかも「高度」なものである。ここで「技術的思想の創作」とはアイデアは含むが発見は除くということであり。「自然法則を利用」とは数学的法則,経済的法則,ゲームの法則などは除外するということであり,「高度」とは前例がなく(新規性),かつ優れて(進歩性)いなければならない,ということである。

 いっぽう著作権法では,私有できる知識つまり「著作物」の定義は,「著作物」は「思想,感情の表現」であり,「文芸,学術などに属し」。しかも「創作的な」ものとなる。ここで,「思想,感情の表現」とは表現が対象であり,かつデータを除くということであり,「文芸,学術などに属し」とは産業上の利用は除くということであり,「創作的」とは他人の作品に対して差異性があればよいということである。差異性があれば新規性とか進歩性はなくともよい。

 第二に,いずれの制度も知識の私有を時間的・空間的に限定する。特許権においては,出願後20年,出願国内にかぎる。また著作権においては,死後(個人のばあい)または公表後(法人のばあい)50年。こちらは国境の制限はない。

 第三に,手続き的な制限がある。特許権については出願が私有化の条件となる。登録という手順を踏むことによって権利の範囲も確定される。ただし,著作権についてはこのような制限がない。したがって,こちらのほうは権利の範囲はあいまいである。

 第四に,公共性からの配慮がある。特許権については,国情に応じて私有を認めない分野がある。たとえば薬品などに関する知識。著作権においては,公共領域で発生し,または公共性をもつ情報については私有を許されない。前者については,たとえば法律,判例など,後者については,たとえば事実の伝達にすぎない報道記事など。

 第五に,それではいったいなにを私有できるのか,ということがある。特許権では情報の使用を,著作権では情報を複製することを私人の権利とするのである。

名和小太郎『技術標準対知的所有権」より抜粋。調整

【資料3】

 私は資本主義を一応,商人資本主義,産業資本主義,ポスト産業資本主義という三つの形態に分類していますが。この分類は,それらが違うものであるということを言うためではなく,それらが原理的には同じであるということを言うためなのです。たとえば,いわゆるポスト産業資本主義。あるいは情報資本主義と言われているものは、一見新しい事態のように思えるけれど、それは資本主義の基本的な原理を誰の目にもわかるようなかたちで示しているに過ぎない。

 それではその資本主義の基本原理とは何かというと、それはノアの洪水以前からの商人資本主義、とりわけそれを特徴づける遠隔地貿易を思い起こしてみればわかるように、複数の価値体系の間に差異があれば、その差異を媒介として利潤を生み出す。つまり差異性こそが利潤の源泉であるということですね。

 産業資本主義でもまったく同様です。それは結局、一国経済の中に市場化された都市と市場化されていない農村とが共存していることによって生み出される。労働生産性と実質賃金率との間の差異が、利潤の源泉となっていた。この産業資本主義の勃興期である1776年にアダム・スミスの「国富論」が出版され、近代科学としての経済学が誕生したわけです。

[中略]

 ところが、ダニエル・ベルが「脱工業社会の到来」を著した1972年を一つの区切りとすると、それ以降先進資本主義国において顕著になったポスト産業資本主義的あるいは情報資本主義的な傾向が、アダ、A・スミス以来の資本主義像に対して、事実によって異議を唱えることになったわけです。なぜならば、それは企業間の情報の差異性を媒介したり、さらには差異性そのものでしかない情報自体を商品化することによって利潤を生み出していく資本主義の形態であるからです。そこでは、まさに資本主義の原理が意識化されている。差異性から利潤を生み出すという資本主義の原理が誰の目にも明らかなかたちで日々実践されているわけです。

[中略]

 そもそもインターネットははじめは科学者間のコミュ、ニケーションの手段として誕生したわけですが、それがさまざまな使われ方をし、さまざまな人間や企業が参入するようになってくると、当然、それを商売の道具に使おうという試みがおこってくる。もちろん。インターネットにおいてはコンピュータを使った他のすべてのコミュニケーション・ネットワークと同じで、モノそのものを流通させることはできません。いわば電子的にビット化されうる情報しかやりとりできない。だから。最初のうちは。単なる商品のカタログなどをおずおずと送ったりするだけだったのが,次第に映像やプログラム・ソフトや経済データといった情報そのものを売り買いする場としても使おうという動きが出てきたわけです。つまり,インターネットの上では。資本主義といってもポスト産業資本主義の形態のみが可能であり,そして,実際それはいま,まさに情報そのものを商品としてやりとりするポスト産業資本主義の純粋な実験場となっているわけです。

 問題は,コンピュータ・ネットワーク上では,すべての情報が他人に簡単にコピーされてしまうということです。ところが,資本主義の立場からいうと。価値とは差異性です。どのように貴重な情報でも。それはコピーされてしまえば差異性を失い無価値になってしまいますから,インターネット上でやりとりされる情報をそのまま原則的に商品化することはできません。ここに大きな問題が生まれるわけです。

 そこでこの大問題を解決するために登場したのが,数学における暗号システム論です。ただし,すでに70年代において。実は。原理的には情報の暗号化の問題は解かれてしまっていた。たとえば有名なRSAシステム(注1)を使えば,公開キーと秘密キーとを組み合わせることによって,どのような情報でも,ほぼ完全に秘密を保ったかたちで送ることができます。そして,この暗号システムをうまくプログラムできれば,インターネットを通してどのような情報でも秘密のまま送れることになりますから。それを商品として売り買いすることができることになる。まさに,純粋なポスト産業資本主義の成立です。

[中略]

 実は現在インターネットの上では二つの力が争っていると思うんです。一方はそれを資本主義化してしまおうという力,もう一方はそれを贈与交換の世界へ引き戻そうという力です。

 インターネットは,その出発点においては,アメリカ国防省から軍事研究を委託されていた,研究者の間の科学研究の情報のネットワークであったわけですが,もともとの参加者である科学者にとっては,インターネットを経済的な目的に使うのは抵抗があるようです。科学者の集団というのは,少なくとも建て前の上では、信用なるものによって結ばれている世界なのです。科学者がおたがいに論文を交換する。あるいは科学情報や技術情報を交換するとき,それは同じ科学コミュニティの一員としておたがいの名前を認めあっているからです。たとえ園人的に名前を知らない場合でも。博士号を持っていたり,名のある研究機関に属している人間であれば同じです。そこでは,まさに名前というものが重要な役割を果たす信用のネットワークが築かれる。そして,その名前が重要な役割を果たす世界とは,贈与交換の世界なのです。たとえば,古代ギリシアのホメロスの叙事詩のなかに出てくる英雄たちは,他人から贈与を受けたら,自らの名誉を守るために,つまり自分の名前の信用を守るために,必ず贈与をした人間に対して返礼をする。ここでは,まさにおたがいの名前に対する信用が人間と人間との交換を可能にしている。贈られるモノそのものに価値があるから返礼するのではなく,贈った人間と贈られた人間との間の一種の信用関係を保つためにモノが交換されるのです。

 昨年,あるコンピュータ・サイエンスの会合に呼ばれて講演をしたときに出会った何人かの人たちは,コンピュータ・コミュニケーションの世界に資本主義的な要素が入り込んでくるのをなるべく排除しようとしていました。それはいうなれば,それを原初における贈与交換の世界のままに保ちたいという必死の抵抗でしょう。その極端な例が,ソフトウェアを全部タダにしようと,それをネットを通じてタグでばらまこうという動きです。コピーレフト(注2)ですね。あれはインターネットから資本主義の原理を排除して,なるべく古き良き贈与交換の世界に留めておこうという動きだと思います。

 これがインターネットのなかで働いている一方の力ですが,しかし不幸にして,もう一方の力が厳として存在しており,それはいうまでもなく資本主義化への動きなのです。そして,コピーレフトに全面的に対抗する手段となるのが暗号化の技術です。インターネット上の情報を暗号化すると…その情報の内容はまさに秘密キーを持っている。人間だけしか知ることができなくなる。つまり,ここに所有権が確保されその所有権をもとにした商品交換が可能になるというわけです。

 いま,インターネットを舞台にして,この二つの力が争っているんだと思います。幸か不幸か。私は経済学者ですから。資本主義化への動きというものがいかに強いものであるかを良く知っています。そして,さらに不幸なことに,じつは贈与交換を維持しようとしている動きには自己矛盾がはらまれている。なぜならば,インターネットとは,原則としてすべての人が自由に参加できることを前提にしているわけですが。おたがいの間の信用を基礎にして成立する贈与交換の世界とは,まさにそれが何らかの意味で閉じていることを必要とするのです。たとえば,科学的な情報や知識が,贈与的な原理によってインターネット上をタダで自由に行き来していくと。それが誰でも参加できるインターネット上であるが故に,それを欲しがる人間を増やしてしまい,そのなかにはもちろん信用のない人間も当然含まれますから。自らの基盤である信用に基づくコミュニティを破壊してしまうことになる。インターネットがこれだけ拡大してしまうと,今度は,贈与的な世界を維持しようとする人びとは,インターネットから離れた小さなネットワークを作ったり,あるいはもっと皮肉なことに,自分たちのかたきである暗号システムを使ってインターネット上に閉じたコミュニティを作ることになるかもしれない。

[中略]

 資本主義の見方には二つあり,一つは資本主義というのは自由放任にしておいても「見えざる手」の働きによって自己完結性を保っていくシステムであるというもので,アダム・スミス以来の伝統的な経済学の立場です。これに対して,私が論じてきたことは,純粋資本主義というものは自己矛盾的なものなんだということなのです。それは,まさに貨幣経済であるということから,完全な自由放任にまかしておいては,必ず恐慌におちいったりハイパーインフレーション(注3)へと暴走してしまう可能性を持っているということです。

 ところが,現実の資本主義経済は,絶えざる景気循環を経験しているのだけれども,なかなか崩壊しなかった。大恐慌は1930年代に1回経験しただけだし,ハイパーインフレーションには何回もおそわれましたが、それはすべて局所的で,全世界をまきこむものではなかった。それでは,現実の資本主義がこのようにチョボチョボの安定性を保っていたのはなぜかと言えば,それはどこかで不純なものを含んでいるからだというのが,私の考えです。たとえば、労働市場で市場原理が働いていないとか。国家が存在しそれが必ずしも利潤動機で動いていないといったことが,結果として、資本主義が自己崩壊することから救っているのです。

 しかし,これに対して,インターネット上の資本主義はまさに純粋化された資本主義です。そして,それだから。そこでは資本主義が本来抱えている不安定性がはるかにはっきりと出てくると思う。せっかくデジタル・キヤツシユ(注4)を作ってもそれが発行元の貧欲によって過剰に発行されてしまって,その価値が消えてしまうとか。突然マフィアが国家経済からインターネットへと参入し,デジタル・キャッシュが不足してしまうとかね。もちろん,インターネット上での資本主義はようやく始まったばかりだから。まだ遠い先に発現するであろうその不安定性についていまから心配する必要はないかもしれませんがね。

 ただ、ここで皮肉なことは。このようなインターネット資本主義の不安定性を救う主として,コピーレフトが何らかの役割を果たす可能性があるということです。たとえば,市販されているソフトウェアと同じものをインターネット上で自由に配布するというような動きは,結局,インターネットの世界が資本主義化していく力に対して何とか抵抗し、ようとしているわけですね。しかし,まさにこのような動きが,インターネット資本主義をあくまでも不純なものに保ち,それを純粋資本主義の持-わている本質的な不安定性から救い出す一種のかすがいの役割を果たすことになるかもしれない。

(注1)米国マサチューセッツ工科大学のRivestらが開発したデータ暗号方式。数百桁の暗証番号のような「秘密キー(鍵)」と誰でも知ることのできる「公開キー」とを対にして使う。数学理論に基づいて秘密保護などを実現する。

(注2)コンピュータ・プログラム(ソフトウェア)が著作権(コピーライト)制度で保護されるのに対抗して,米国のStalmanらが提唱し進めているソフトウェア公共財化の運動。

(注3)インフレーションが極端に進行し,貨幣の価値が暴落する状態。(注4)コンピュータ・ネットワーク上で取引を行うために,貨幣に代わって使用される電子的メッセージ。暗号技術を応用してその信用と安全性を維持する。

岩井克人(インタヴュー:上野俊哉)「インターネット資本主義と貨幣」より抜粋。調整

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