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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 2015年 過去問

2015年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

赤い色は波長七七○ナノメートルの光として物理学的に定義できるが、 それを個人がどのような感覚(クオリア)として受け取っているかは、自分 に関してはわかっても、他人については知りえない。それは色覚異常の人 が赤色を識別できないという意味ではなく、正常に赤を知覚できる人が本 当にどう感じているかはわからないという意味においてである。

実のところ、私たちの赤の色覚はこの七七○ナノメートルの波長を直接 に感知しているわけではない。色の認知にかかわる人間の色覚は、それぞ れ四四○、五四○、五九○ナノメートル付近の光にもっとも強い感受性を もつ三種類の難体細胞が受ける刺激によって構成されているからだ。この三つは慣例として青難体、緑難体、赤難体と呼ばれているが、それぞれが青、緑、赤の色そのものを感じるわけではない。脳は、それぞれの難体の 反応の総和として、青なら青、赤なら赤という色を知覚するのである。 私たちのコミュニケーションの前提になっているのは、おそらく他の人 びとも同じように赤色を感じているのだろうという推測だけである。眼の 構造および機能が基本的に同じなのだから、同じように感じるだろうとい う推測は自然だが、かならずしも正しいとは言い切れない。色覚には人種 による違いが知られている。色覚が完全に発達するまで生後六年くらいを 必要とするが、その間の文化的な影響があるからである。太陽は赤いと 思っている日本人は多いが、他の国では黄色が多数派だし、日本人は虹を七色と見るが、四色や六色と見る民族も少なくない。 色に限らず、あらゆる感覚について、他人がどう感じているかは外から うかがい知ることはできない。「怒り」、「悲しみ」、「喜び」という感情が どういうものかは、自分の感情を基本にして類推するしかない。 進化心理学者ニコラス・ハンフリーの『内なる目』によれば、社会的な コミュニケーションを必要とするようになった初期人類(あるいは初期類人猿) が他人の感情を推し測るために自分の内面を見ることが自意識の始まりで はないかという。こういう状況で自分が悲しみを感じたから、同じような 状況でほかの人もそう感じるだろうと判断することが、意思の疎通の出発 点である。自分が殴られたときに痛かったから、大切なものを失ったとき 悲しかったから、似たような状況におかれた他人も同じように感じるだろ うと推測することから、他人に対する配慮や思いやりが生まれる。

他人の置かれた状況や振る舞いあるいは表情から、その人の気持ちを推 し測るという能力は、しばしば人間以外の対象にも向けられる。人間以外 の生物や無生物さえ人間的な心をもつと考えるのが、いわゆる擬人観、擬人主義である。

他の動物がどの程度まで、人間に似た感情をもつかを、科学はまだ十分 に解明できていないのだが、高等動物、少なくとも大型類人猿には悲しみ、 喜び、絶望、嫉妬、同情などの感情があるらしく、鏡を見て自己認知する 能力をもつことが確かめられている。イヌやネコを飼っている人の多くは、 自分のペットには人間の気持ちがわかると信じているし、小鳥や魚にさえ 感情があると思っている人も少なくないだろう(最近出版された『魚は痛みを感

じるか?』という本によれば、魚にも少なくとも痛みの感覚があるらしい)。しかし、ミ ミズやイモムシに感情があると考えるのは、神経系の有り様からして無理 筋の話で、たとえミミズがのたうちまわっていても痛がっているわけでは をい。そう感じるのは、人間の感情を対象に投影しているにすぎない。 擬人観を敷術すれば、万物に魂があるというアニミズムまで行き着くが、 他の生物に感情を認めるというのは、科学的に正しくはなくとも、おそら く狩猟採集民時代の初期人類には実用的な価値があったのだろう。獲物と なる動物の内面の心理的メカニズムをいちいち分析的に考えるより、人間 と同じように振る舞う生き物として、相手の出方を考える方が狩りに成功 しやすかったということは十分に考えられる。シートンの動物記などを読 むと、野生動物を人間そのもののように考えることがハンターにとって不 可欠な素養のように思えてくる。 たとえ植物や細胞が相手であっても、対象の全般的な健康状態を知るの に「ご機嫌が悪い」というような擬人的な見立てが実践に役立つ場面がし ばしばある。つまり、擬人的な対象の捉え方は、対象に感情移入して相手 の丸ごとの反応を予測するうえで一定の便利さがあるということだ。科学 啓蒙においてもしばしば擬人的な表現が用いられるのは、このゆえである。

他人に何かを伝えようとするとき、聞き手にその何かを具体的に想像さ せるような表現が必要になる。したがって、言葉による表現はなんらかの 形の比喩に頼らざるをえないのである。英語では、換喩(メトニミー)、隠 喩(メタファー)、提喩(シネクドキ)、富意(アレゴリー)など、比喩的な表現が いろいろ細かく区別されているが、要は相手が知っている何かの具体物や感情に喩えることによってイメージを喚起する修辞法である。事物だけで はなく、科学における概念についても、しばしば比喩的表現が用いられる。 分子生物学の基本である遺伝「情報」の「伝達」(この二つの単語もすでにし て比喩なのだが)を例にとれば、そこには擬人的・比喩的表現が満ちあふれ ている。 まずDNAの塩基配列から同じ配列のDNAがつくられることを「複 製」、RNAの相補的な塩基配列が形成されることを「転写」、メッセン ジャーRNAの塩基配列からアミノ酸で構成されたタンパク質がつくられ ることを「翻訳」と呼ぶ。これらの過程は単なる化学反応にすぎず、そこ に転写生や翻訳者がいるわけではない。しかしこうした擬人的な表現をす ることによって遺伝情報の流れが明確に理解できる。科学啓蒙において、 むずかしい概念をやさしく説明するために、擬人的な表現は時として必要 である。 しかし、たやすい理解には必ず誤解がつきまとう。作家村上春樹が述べ ている「理解というものは誤解の総体に過ぎない」(『スプートニクの恋人』) という認識論は、彼の真意とは異なるにせよ、科学的理解の本質を表す言 葉としても使える。 科学的に難解な概念や事柄を比喩的な表現によって理解するのは、自分 の勝に落ちる部分だけをわかったつもりになるということでもある。「ビッ グバン」や「プラックホール」という言葉で表されているものの本質は、 相対性理論や量子力学の理解なくしては把握できない難解なものである。 しかし「ビッグバン」という言葉(ジョン・ホーガンの『科学の終焉」によれば、ビッ ダパンは一九五○年に、フレッド・ホイルが、それまで「フリードマン宇宙論」と呼ばれていた膨張宇宙論にキャッチーな名前をつけようとして思いついたものだという。その後 一九九三年にある雑誌がこの理論の改名コンテストをおこなうが、何千もの応募案でこれに 勝るものはなかった。それについて、ホイルが「言葉というのは銅のようなもので、いった ん打ち込まれると引き抜くのはとても難しい」と語っているのは、比喩的表現の影響力の大 きさをよく物語っている)によって、異論があるものの大部分の宇宙物理学者 に支持されている膨張宇宙論という仮説に立てば、宇宙の始まりがどのよ うなものであったかをイメージとして理解できる。 「プラックホール」という言葉によって、現代の主流天体物理学の理論 にもとづく恒星進化の行き着く果てを思い描くことができる。そういう意 味では、啓蒙的にすぐれた表現であるが、ここにも誤解の芽はある。ビッ グバンのバン(bang)というのは爆発という意味だが、ここは通常の意味 の「爆発(exposon)」ではけっしてない。気体も燃料も不用であって、ピッ パンをふつうの爆発と捉えるのは誤りである。「ブラックホール」は恒 星進化の最終的な状態で、あまりにも重力が大きいために光も外に出るこ とができない天体を表す。さまざまな傍証から実在が確信されるように なってはいるが、実際に誰も見たわけではなく、多くの科学啓蒙書に出て くるシミュレーション画像もあくまで想像でしかない。言葉を額面通りに 受け取って、宇宙空間にぼっかり黒い穴が空いているなどと想像するのは やはりまちがいである。 専門外の物理学の話のついでに、二○一三年度のノーベル物理学賞の対 象となったヒッグス粒子の通俗的な説明について触れておこう。新聞や雑 誌の解説には、ヒッグス粒子が質量をつくったとして、「宇宙空間がこの 粒子で満たされると、他の素粒子はこれに衝突しながら動くとき、まるで水鉛のなかを歩くように動きにくくなり、この動きにくさが質量なのだ」 と書かれていたりする。これは素粒子物理学の世界の話なので、私には本 質的な理解は不可能だが、秘かに敬愛する学習院大学の田崎教授によれば、 これははなはだ不適切な表現だという。 代案の説明が書かれてはいるが、ここでそれを示すのは場違いだろう。 ただ、教授が言うように、世の中には直感的に理解できないことはいくら でもあるのだから、無理矢理まちがった比喩的説明をするより、誰かに質 問されたら、「場の量子論のことは知らないから、さっばりわからない」 と答えるのが正しいという意見は至言であると思う。

科学の専門用語は、ギリシア語やラテン語にさかのぼって、新たな言葉 として造語されたものか、従来から使われている言葉に限定された意味を 与えたものかのいずれかである。前者の場合は、往々にして、難解な学術 用語という趣があり、科学的な啓蒙にはあまり適さない。後者は広く一般 読者に理解してもらうため、できるだけ平易で日常的な言葉で説明しよう とする場合に使われる。もちろん研究者は厳密に定義して使うのだが、そ の言葉を受け取る側はその用語がもつ他の意味、つまり言葉が本来もって いる「定義に含まれない」意味を読み取り、書き手の方もそれを暗黙の前 提としていることがある。ここに、知の欺噛への誘惑がある。 一つの例としてカタストロフィー(カタストロフ)をとれば、この語はも ともと天地がひっくり返るような出来事を意味するギリシア語に由来する もので、一般的に破局や破滅、大惨事や大災害を表すのに使われ、文学で は悲劇的な結末のことを指した。一九世紀初頭にジョルジュ・キュヴィエが生物進化のメカニズムにこの概念を取り入れた。彼の考えでは、地球は 地質時代を通じて何度かの天変地異(カタストロフ)に見舞われ、その際に それまで生きていた生物のほとんどが絶滅し、生き残った少数の生物が次 の時代に繁栄することによって進化が起きたという。そこで彼のこの考え (Catastrophism łęsę 3. og Theory of catastrophe) *ġġšķÈłłóș33 ĝHKỲỆAJț¢ ばれ、カタストロフが限定された意味で使われるようになった。 そして一九七二年にはフランスの数学者ルネ・トムが数学理論としてカ タストロフ理論を発表した。この理論は、秩序だった現象のなかから突然 に無秩序が発生する現象を数学的に説明するもので、カオス理論やフラク タル理論とともに、複雑性研究の理論的武器として一躍脚光を浴びた。し かしこの理論におけるカタストロフはあくまで数学的な概念である。人文 系の学者の多くがこの言葉の日常的な意味をくっつけたままで使うとき に、混乱と欺噛が生まれることになる。 言論界に大きな波紋を投じたアラン・ソーカルとジャン・プリグモンの 『「知」の欺噛』には、哲学者や人文学者による科学用語の誤用の例が数多 く例示されている。そこで取り上げられているのは、カオス、微分、積分、 虚数と無理数、速度と加速度、複雑系といった、主として数学および物理 学の用語だが、狙上にのぼった哲学者たちは、こうした言葉を、言葉のイ メージだけを借用して、本来の数学や物理学とはまったく異なった用法で 使っている。自分たちの哲学的な思索の内容を表現したいならば、厳密な 定義のもとに独自の言葉をつくればいいだけの話なのだが、こうした科学 用語を使うのは、彼らが科学主義を否定しながら、じつは科学の権威の傘 を利用しようとしているのではないかと邪推したくなる。

こうした傾向は、世俗的なレベルでより顕著であり、代替医療の推奨者 や悪徳商法業者が、物理学の波動(wave)のイメージを背負った波動 (wbration)という言葉を採用し、科学的な真理のごとく「万物に波動があ る」と言ったりするのはその典型である。 言葉は科学の独占物ではないので、誰がどのように使ってもいいのだが、 定義された意味を変えるのなら、明確にそれとわかるようにしなければな らない。 同じ言葉であっても、言葉の使い方が分野で違っていることがあったり するので、翻訳家も読者もしばしば困惑させられる。たとえば、「超伝導」 と書くのがふつうだが、電気工学分野では「超電導」と書くのが通則に たなっているなどはその一例である。 翻訳に関する別の本(悩ましい翻訳語』)にも書いたのだが、英語のformというのは、非常に多義的で翻訳が難しい。一般的には形、姿、形式、生 物学関連では、形態、種類、タイプなどの意味で用いられるが、厄介なの は哲学用語としてでてきた場合である。アリストテレスの重要な概念的枠 組みの一つである脳相eagが英訳ではcnとなり、プラトンのイデ ア論もtheory offormsと訳される。このように、英語のfornは一筋縄 ではいかない単語なのだが、これは日常語で形を表すfornという単語が もつさまざまな歴史的・空間的な側面に、それぞれの学問分野が特異的な 意味づけをしていることを示している。したがって、一つの言葉が文脈に よって異なった意味をもつわけだが、それを逆手にとって、怒意的な言葉 遣いをすれば、そこに誤解や歪曲が生じることになるのである。

(垂水雄二『科学はなぜ誤解されるのか』より)

 

設問1 科学的な知識についての筆者の主張を三○○字以上三六○字以内にまとめなさい。

設問H 人間にとって科学的な知識とはどのようなものか、この文章をふまえて、あなた自身の考えを三二○字以上四○○字以内で述べなさい。

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