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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 2013年 過去問

2013年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

次の文章を読み、設問に答えなさい。

設問1「アノミー」「自己本位主義的志向」「自己領域化」という言葉を使用して、携帯電話が社会に及ぼす影響について、筆者の考えをまとめたさい。三○○字以上三六○字以内で説明すること。

設問2傍線部「対幻想は衰弱する」という筆者の主張に対して、賛成か反対か、あなた自身の意見を明確にし、その理由を具体的に述べなさい。三ニ○字以上四○○字以内で論じること。

 まずこんなふうにはじめよう。なぜ家族の時代ではなくて、家族論の時代なのか。

 「家族の時代」という言葉から、私には、あまりいいイメージが浮かばない。スーパーマーケットの生鮮商品が家族四人を消費の単位としてパックされているというような時代。「企業戦士の戦意が衰えないように家族がそれを支えるといった裏方のイメージ。主婦の家事・育児等の無償労働すなわち1・イリイチのいうシャドウ・ワークの是認。家族持ちの男性に手厚く、女性やひとり暮らしの人、独身主義者に対する差別や排除をおこなうことおよびその制度化。異性愛中心主義。家族内の子どもという個が個として尊重されない傾向。老いのイメージがもてない時代i私にとって嫌な感じのする項目のいくつかをあげてみた。どれも権力やイデオロギーの臭いのするものばかりであることに気づく。これらの状景のうち消滅したものは残念ながら一つもない。

 狭い室内に一人を消費単位とする商品をいっばいならべるという企業戦略で店舗展開を図ってきたのはコンビニエンスストアである。東京に最初たるとてもコンビニに行かない日はないというほど、コンビニは若い人たちの日常生活の一部に組み込まれている。消費場面をリードする主役がスーパーマーケットからコンビニエンスストアへと移ったのである。このような主役の移行は、家族を単位とする時代が終わり、個人を単位と来を告げる象徴的な出来事であるとみなしていいだろう。

 ではこのように時代が個人単位で動くようになること、言い換えれば個人化してゆく過程が、さきほど記したような嫌な感じのする家族の時代の状景を払拭して、新たに個人の尊重を第一義に、多義性のある、生きるにあたいする家族の時代を拓きつつあるかといえば、簡単にうべなうことはできない。個人化の時代は、個々に自己本位主義的志向を強くうながすことに特徴がある。その結果、強度をおびた自己本位主義的志向のはたらきによって、家族の内側がこれまで経験したことがないようなかたちで歪食されてしまうという事態が生まれたのである。家族内部がばらばらに個別化され、統一性を欠くようになる、こうした現実がしだいにあらわになってきたのである。一種の崩壊が起きたのだ。自己本位主義的志向が、かならずしも、一人ひとりの内発的な多様化への欲求とむすびつくわけではなかったのである。

 多義的でも、多様化でもない、そのような無残な、とも思える家族状況を、フランスの社会学者E・デュルケームのこしらえたアノミー(無秩序・無規制)という用語でもってとらえてみるのがいまのところ適切であるとかんがえている。

(中略)

 デュルケームによれば、アノミーは自己本位主義の芽生えなくしては起こりえない、なぜなら人が強固に社会化されていたなら、無規制や無秩序といったアノミー状態は起こりえないからである。自己本位主義とアノミーは、一方が行動のあり方およびその動機を語り、他方がそれのもたらす状態を示すといった違いがあるだけである。

 ここは少々、説明を要するところである。アノミー(anonie/anony英語)は、無法律性を意味するギリシャ語anomiaに由来し、社会秩序の崩壊状態をあらわす概念としてデュルケームによってつくられた概念である。個人に優越していた社会が機能しなくなり、それまで規制されていた個人の、思い思いの行動すなわち自己本位主義がどっと表面に露出する、その結果として出現する社会秩序の崩壊状態を指している。ここでデュルケームのいう社会とは、共通の価値、共通の信念が共同体の各メンバーの行動を規定しており、その結果、その共同体が統合されている状態のことである(セバスチアン・デ・グレージア『疎外と連帯』佐藤智雄・池田昭他訳、勤草書房、一九六六年)。かくして共通の価値、共通の信念によって統合されている社会と、個人の自己本位主義的志向とは相いれないことが知れる。

 ここでの共通の価値、共通の信念とは、自分といういのち、自分という社会的存在が、他の人のいのちが存続するための不可欠なニードとの関係において成立しているという確信のことだ、と理解しておこう。ニードは、これが満たされなければとたんにいのちはその存続に困難をおぼえるという意味での基本的な必要性のことである。つまりは、そのように他者のニードが充足されることが、自己がいのちとして存続するための条件の一部でもある、ということ。、そう誰もが認識しているゆえに他者の存在、他者のいのちとのかかわりに配慮して行動することが自明なものとして一人ひとりの内部に構造化されている状態ーデュルケームのいう「社会化されている」という言葉が伝えようとしているのは、そのようなものである、そう捉えて大過ないと思われる。

 だとすれば、自己本位主義的志向へと人びとの重心が傾くようになればなるほど、他者に配慮しつつ自己の行動を調整するといった、それまで内部に組みこまれていた価値、信念のはたらきは弱まらざるを得ないだろう。必自己本位主義的志向を強化すればするほど、社会は「社会なき社会」のことであると。

(中略)

自己本位主義的志向を強化すればするほど、社会は「社会なき社会」というアノミー状態を呈するようになる。社会がアノミー化していればいるほど、自己本位主義的志向は増強されるほかない。このような悪循環過程が、よるべなき時代の社会的な背景である。

 だが、このところ状況はさらに変化し、自己本位主義的志向という視点だけでは十分把握しきれない現実が出現してきたようにおもえるのだ。

 とりあげたいのは携帯電話の登場という問題である。携帯電話は、自己本位主義的志向がきわめて強度をおびた社会状況と呼応したアイテムである、このことは誰もがみとめるにちがいない。しかし、携帯電話の出現というできごとの象徴性を、記述するためには、自己本位主義的志向だけではもはや十分ではなく、もう一つ「個人化」という概念を必要としているようなのである。

 理由の第一は、機器の特性として共用をこばむということ、一人ひとり個々が所有するという意味で、また機能が個々の暮らしや交遊や興味などと密接にむすびついていることである。

 理由の第二は、機器と個々の存在の同一性とが不可分な関係に入ったことである。携帯電話なくしては自己存在の同一性を保ちえないと感じている、それくらい依存度を高めている人たちが大量に出現してきているのである。一人ひとりが、自分の所持する携帯電話と一体化していこれらが個人化という用語を要請してくる現実である。

 携帯電話をめぐる社会現象を記述するために、個人化という概念を必要とすることに気づいたのは、一五年ほどまえのことである。一九九六年、携帯電話が基にどっと溢れはじめたときの驚きはわすれられない。電車の中のあちこちで呼び出し音が鳴ると、かたわらに人がいるのにもかかわらず、通話がはじまるのだ。声のトーンを落す人、落さない人。声を落さないのはサラリーマン、車内で傍若無人の営業が開始される。機器にむかって繰り返し頭をさげている人も目撃できる。

 隣り同士のとりとめのない小声の会話が成立しない。携帯電話が車内に通話による騒音という無規制状態を生んだのだ。これをマナーの崩壊という「上からの視点」でとらえるつもりは当時も毛頭なかったし、いまもない。それでは思考停止に陥るだけだからである。

 アノミーという視点にたつと、事態は単純明快であった。車内という公共の場所が、携帯電話という徹底した自己本位主義的メディア機器の登場によって、あっという間にアノミー空間と化してしまったのである。社会空間のアノミー化である。

 もう一つ私が気になったのは、携帯電話による傍若無人の行動という点では同じであるのだけれど、ややおもむきを異にする現象であった。それは、こんな話を聞いてしまってもいいのだろうかと思われるほどのプライベートな内容の会話がはばかる様子もなく、かわされることであった。そういえば、電車の中で化粧が堂々とおこなわれるようになったのもこのころからである。どちらも隣りにすわっている私がまるで存在しないかのごとくふるまう光景であることを共通点としている。こうした現象は私の中に、どうして他者の耳や目を遮断できているかのようにふるまうことができるのだろうか、という問いを生み出したのだった。

 繰り返すが、こういう現象につつしみやたしなみの欠落、はずかしさやはしたなさの感覚の欠落をみるといった倫理的な接近だけは避けたかった。あくまで時代精神の一面が映し出されるような語彙でもって事態を把握できたらとおもったのだ。そこで自己領域化という用語をつくって対応することにした。

 携帯電話が使用状態にはいったとたん、その使用者はあたかもみえない皮膜に一人つつまれたかのように、自己世界を閉鎖し、そこに没入するのである。こうした個人化状況を自己領域化現象となづけてみた。すると、車内という社会空間がいくつも出現した自己領域によって複数に分割されたすがたがイメージ可能になってきたのである。ここから、社会空間のアノミー化と社会空間の自己領域化による分割とは、個人化の表裏一体の現象象であるという理解がみちびきだされる。

 携帯通信機器のいちじるしい進化は、車内の同時多発的な通話がひきおこす「そうぞうしいアノミー」を一掃してしまった。けれども、自己領域化状況はその表面上のかたちをかえて温存されたのである。いまや車内の大半の人たちが進化した機器の画面に集中し、黙々とよりふかく自己領域の世界に没入するようになったのだ。ここに「静かなアノミー」と呼んでいいような現象が出現してきた。

 機器の進化によってもたらされた静けさに満ちた車内は一見、秩序だっており、その意味で個々は社会化されているようにみえる。だが、この状景は自己領域化の深まりがつくりだしたものであって、社会化、秩序化とは似て非なるものなのである。そう考えるのは、自己領域化の深まりが、自分の周りの他者のニードへの静かな無関心というかたちでひろがっているように思えてならないからである。

 ラッシュ時をさけて電車を利用することの多い私が、このところの特徴ではないかとみなしていることがある。下は制服姿の小学生の子どもたちから上は中年のサラリーマンまで、われさきに空席の確保をめざす人たちが増えているように感じられる(それと正反対に混雑していても優先席には決して座ろうとしない若い人(男性)がすくなからずいることも特記しておく必要があるだろう)。だが、このような光景はずっと以前から見られたものだろう。

 私が興味深く思うのは、こうした小サバイバルゲームの勝者が次にとる姿勢である。ひとたび席を得ると彼らはすぐ自分の携帯通信機器を手に、それに没入しはじめるのである。そうなると、自分のまえに足元のたしかでない老人が立とうと、妊婦が立とうと、障害者が立とうといっさい反応を示さなくなる。むろん席をつめようともしなければ、譲ろうとする気配もない。目前の人間がどういう状況にあるかを知っていてなおかっ無関心をよそおっているのではない。携帯電話という自己領域世界へ入りこみ、その世界に没入しているため、周囲に生じている他者のニードに無関心状態になっているのである。こうした状景は「静かなアノミー」の一例としてとらえることができるのではないだろうか。

 電車内という社会空間が携帯電話の数だけの自己領域によって分割されるという光景と似たような状景が家族の内側においても現出している。暮らしの場面に例をとろう。食卓においてさえいまや家族の一人ひとりが携帯電話を手ばなさなくなっている。家族がそろって夕飯の食卓をかこむ際にも電源をきらず、着信があれば、その人はごくあたりまえのように食事を中断して応答するという挙にでるのである。こうした事象に対し、だから、どうなんだ、という反応はあるだろう。たしかに、今ではどこにでもある、とりたててめずらしがるほどの状景ではな

 しかし、私はひっかかりを感じる。このような状景に、食卓というもっとも家族的な場に自己領域がもちこまれたという見方ができるからである。このような視点にたつと、直感的に複数の自己領域がもちこまれたことによる、そのもちこまれた数にひとしいだけの対幻想空間の分割が起こったというイメージが脳裸に去来する。分割は対幻想の解体へとすすみ、その結果、家族のアノミー化の過程をたどるのだ、と想像せざるをえなくなる。アノミー状態がすでに進行しているから、なんの抵抗もなく電源をきらないままの携帯電話、すなわち自己領域性を食卓にもちこめるのだという解釈も同時に可能である。

 あらためて家族にとっての食卓はどのような場であるのだろうかという疑問にとらえられる。これまで述べてきたことにしたがってやや形式ばった答え方をするとすれば、こうなる。家族にとっての食卓は、対幻想を基底にしつらえられた特別な場であり、特別な時間である。したがって主婦が食卓上にならべた食べ物は、たんに個体の生命機能を維持するための栄養物という意味の食べ物ではない。対幻想という世界におけるいのちの存続をはかるための特別な食べ物であり、それを家族が一緒に食べるということは、対幻想を食べるということなのである。対幻想を食べるということは、対幻想を更新し、存続しようとする意志の表明であるはずである。食卓につくということは、そうした家族の意志に個々が従うことでなければならない。

 

 だが、携帯電話に着信があると、その所持者は食事を中断して、着信内容を確認することを優先するのである。着信の瞬間、自己本位主義的思考が自動的に作動し、次の行動において自己療育が露出する。そのようにして食事空間はひび割れ、ひび割れた対幻想空間の裂け目からアノミー状態が顔をだす。

右のように想像し、把握できる食卓の状景は、電車の中で生じている自己領域による社会空間の分割という事態と構造をひとしくしている、というのが私の理解である。かくして対割引。家族は同居しつつ、その実質は自己領域化していて、自己領域化した分だけ、バラバラであるという事態を招来していることになるだろう。家族は一緒にいるのに、その意味で一緒にいないのだ。家族の絆はほころび、ほどけてしまい、食卓はたんなる同居人の集合する食事の場へと転じる。家族と家族の外との境界が消失し、消失した地点からアノミーが噴き出してくる。個々の内面に家族の中の孤独すなわちよるべなさがひろがってゆく。

芦沢俊介一九四二年生評論『家族という意志ーよるべなき時代を生きる』

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