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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 2010年 過去問

2010年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

次のインタビュー記事を読み、設問に答えなさい。

ー水村さん(注)は、『日本語が亡びるとき』の中で、こう指摘します。世界中をいとも簡単につないでしまうインターネットの出現により、英語が世界の共通言語(「普遍語」)として、史上例を見ないほどの力を持ってきた。そして、そのことによって「国語」としての日本語は危機に晒されていると。

 この本の発刊後、英語公用語論が再び注目を集める一方、「美しい日本語」は保護されるべきだという声も多数あがるなど、さまざまな議論が沸き起こりました。

水村 こんなに注目していただけるとは、正直思ってもみませんでした。日本近代文学を愛する人、いわば死に絶えつつある人と手を取り合い、「日本語の行く末を一緒に嘆きましょう」というつもりで書いたんです(笑)。それなのに、文学なんてほとんど読んだこともない読者にまで届くなんて。ともかく読者に分かっていただきたかったのは、日本語という非西洋語圏の言葉が、かくも早々と「国語」になることができたのは、実は奇跡のようなことだったという事実です。私は「国語」というものを、国民国家の成立時に、翻訳という行為を通じて生まれたものだと考えています。日常生活で使う「現地語」が、古くはラテン語や漢語、そして今は英語が代表する「普遍語」からの翻訳を通じて磨かれてゆき、やがて「普遍語」と同じように、人類の叡智を刻む機能を負うようになる。それが「国語」です。

 ところが人はいったん国語が成立すると、その起源を忘れます。海に国語を守られた日本人はことにそうです。

 でも、世界中を見渡すと、非西洋語圏では、機能する「国語」が存在する方が珍しいのが分かります。英語、フランス語、ドイツ語と並んで日本語があるのは、あたりまえのことではないのです。西洋列強による植民地政策によって勝手に線引きされた結果、世界にはまず多言語・多民族国家が多い。しかも支配層は宗主国の言葉を共通語として使っていた。これらの国では、今、自分たちの「国語」を作ろうとしていますが、「国語」の成立とは実はとても困難なことなんです。例えば、フィリピンでは英語とともにタガログ語が公用語とされていますが、タガログ語を話さない国民は「これは自分たちの言葉ではない」と反発しています。パキスタンとバングラデシュでは、地形の問題に加えて、ウルドゥ語とベンガル語という使用言語の違いがあって、国が分裂してしまいました。

 私はこの本の第七章に、学校教育で近代文学を読ませるのを国家への提言のように書きましたが、こういう主張をすると、「学校で学ばせるとよけいに文学が嫌いになる」という反論が必ず出てきます。でもそれ自体、とても賛沢な反論なんですね。まず「国語」を持っている。そのうえ教えるに足る優れた国民文学が存在する。そして教育がこれだけ行き渡ってる。それらのありがたみを考えたら、学校教育でこそ日本語を大切にして欲しい。日本語のように幸せな運命を辿った非西洋語はとても少ないという、まずはそのことを自覚して欲しいと思います。

 ーそれにしても衝撃的なタイトルですね。

水村 タイトルだけを見ると誤解されてしまう恐れがあるのですが、「日本語が亡びる」というのは、あくまでも比喩的な表現です。「クジラが絶滅する」というような意味ではありません。今後、さらに英語の影響力が増していったとしても、「話し言葉」としての日本語は当然残りますし、「書き言葉」としての日本語も残るでしょう。つまり日本語は、日本人が日常的に使う伝達の手段としても、さっと読み、すぐにブックオフで売ってしまう「廉価な文化商品」に使われる言葉としても残る。「現地語」としての日本語は日本がある限り消えないと思います。

 私が危惧しているのは、人がその言葉を真剣に読もうという、「国語」としての日本語が生き残れるかどうかです。かつての日本人は、「この本は高いけど、お夕食を一日抜いても買って読みたい」という気持ちで日本語を読んでいました。ところが今や、自然科学のみならず社会科学や人文科学の分野においても、世界的に意味のある文章は英語で読み書きされる。そんな時代に入った今、しかも、そんな時代が続くのが見えている今、日本語が娯楽以上のもの、《ありがたいもの》として流通し続けるだろうかということです。

ーすぐに売ってしまうからか、最近は本棚のない家も増えているようです。

水村 そのようですね。「蔵書」というのは、「この本はくり返し読みたい。だから手元に置いておきたい」という気持ちがあって存在するものです。私も激石や一葉や谷崎の全集は、とても手放す気が起こらず、いつも一緒に引っ越しして、くり返し読み続けました。

 よく聞かれますが、私は、最近書かれた文章をまったく評価していないわけではないんです。送ってもらう文芸誌などをたまに読むと、「ああ、面白いな」と思います。でも、今書かれているものの中に優れたものがあるかどうかは、この際、本質的な問題ではないのです。英語が「普遍語」として流通するようになればなるほど、必然的に、「国語」は危うくなる。今、英語以外のどの「国語」も分岐点に立たされているのです。しかも、非西洋語圏の「国語」の方がより危ない。非西洋語を母語とする人たちは、バイリンガルになるのが困難なので、いったん英語にいってしまうと帰ってこない。ことに「国語」がまともに機能していなければ、帰ってくる必然性がありません。そんな時代に、日本語が真の「国語」として存在し続けるためには、日本人は、まずは近代文学の古典ぐらいは読めるように育つべきだと思うんです。古典とは、定義上、時を超えて残ったものであり、再読するに堪えるものだということです。実際、激石ほど何度も読みたいと思う作家はいません。私は「良質な本が書かれるか」よりも前に、まずは、「良質な本が読み継がれるか」ということが、これからの日本にとって、一番重要な問題だと考えているんです。良質な本が読み継がれるということは、文化の継を意味します。その継承がないということは、もう文化自体が存在していないに等しいことだと思っていますので。

ー日本語が、明治時代に「現地語」から「国語」に変わっていった過程を《奇跡》と称されましたが、具体的には何が起きたのでしょうか。

水村 日本が「国語」を成立させた歴史的条件は、三つあると思います。一つは、漢語からの翻訳を通じ、近代以前の日本語が「書き言葉」としてかなり成熟していたこと。一つには、江戸時代にすでに「印刷資本主義」を持っていたこと。三つには、西洋列強の植民地にならなかったことですね。これらの条件が揃って、福沢論吉や夏目激石などの優れた人材が、西洋語という「普遍語」をよく読み、世界の知識を吸収しつつも、「普遍語」ではなく、自分たちの言葉で書いていった。その過程で、日本語が非西洋語圏の中で早々と「国語」として成立して大きく花ひらいていった。世界史の中でそのことが《奇跡》ではないかと。

 明治時代の日本人は、自分たちが非西洋語圏に生きているという事実を意識せざるをえず、非西洋語圏の国として世界でどういう態度を取るべきか、考えざるをえませんでした。西洋と全力でぶつかっていたんですね。今の日本は、明治以来一五○年の時を経て、こぶたたび英語とぶつかっています。ですから、今こそ、日本語で読み書きするとはどういうことか、日本の頭脳が英語に流出するのを食い止めるにはどうすべきかを真剣に考えなくてはならないときだと思います。

ー本では、明治以降の「翻訳」が素晴らしかったことも指摘されています。

水村 そうなんです。日本人ほど翻訳を通じて、世界の書物を読み漁った民族はいないのではないでしょうか。卑近な例で申し訳ありませんが、私の母なども日本語しか読めなかったのに、充実した翻訳文化があったおかげで、世界の文学を読み、世界のことを知ることができ、その上で、日本語ならではの面白い文章を書けました。戦前の女学校教育といえば十七歳までです。当時の日本語教育に感心します。

ー水村さんは、日本語を守らなくてはいけないとする一方で、人類の文明を進めるにあたり、「普遍語」の使用が効率的なのは間違いないとされています。「英語の世紀」に入った今、いっそ英語を公用語にするという意見も慎重に検討されていますね。このあたり、かなり迷われたのではないでしょうか。

水村 ええ、かなり迷いました。実際、短期的な国益を考えたら日本語など捨ててしまった方がよいのではという内なる思いと戦いながら書きました。

 でも、最終的には、日本語を守るのは、フランス語を守る以上に意味があるという結論に達しています。英語の世紀に入ったとは、これから世界中の読書人が、英語という「書き言葉」を介して世界を理解していくということです。そのような世界において、まずは、英語以外の「書き言葉」を守ること自体に意味があると思います。でも、フランス語のような西洋語だと、世界の理解の仕方が、やはり英語と地続きの理解の仕方でしかありません。ところが、日本語はまったく違った言葉です。しかも「書き言葉」として長い歴史を持っている。そのような「書き言葉」が亡びるのは、大げさですが、人類が知的にも感性的にも貧しくなってしまうのを意味します。しかも、日本語は世界でも希有な表記法を持った言葉なので、「書き言葉」の種の多様性を保持する上

でも、守らなくては。ですから、私の立場はいわゆる「美しい日本語」を提唱する保守主義者とは違うと思うんです。私は、「美しい日本語」の存続が危ないと主張しているのではなく、世界中の「国語」が危ないと言っているのです。たまたま私が深くかかわっているのが日本語だから、「日本語が危ない」と強調している。そして、その危機感を共有してもらうために、世界的な視点から、日本語が辿ってきた道のりと日本語が存在し続ける意味を理解して欲しかった。

 ただ、文学者というのは、いわゆる保守主義者たちとは別の意味で保守的で、それはそれで当然なんですね。つまり、文学を書くというのは、これまで文学を読んできたからこそ書いており、さらには、これまで文学を読んできた人に向けて書いているからです。言葉は過去の言葉の宝庫を喚起できればできるほど、たんにそこに並んでいる文字を超えた豊かさを得ることができます。だから過去に書かれたものに対する「模倣への欲望」は肯定すべきなんですね。しかも、たくさんの文章を読んできた読者だけが、その豊かさを分かってくれます。乏しい読書経験しかなければ、どんな文章を前にしても、それだけのことしか読めない。

ーそう言えば、水村さんの小説も、『績明暗』は激石の『明暗』を、『本格小説』はエミリー・ブロンテの『嵐が丘』を読んでいた方が楽しめます。

水村 ええ。「言語はどんどん変化していくものだ」という言語学の立場とは、文学は対立せざるをえません。

ー水村さんにとっての「文学」の定義を教えてください。水村さんの薦める日本近代文学は、狭義の「文学」だと思いますが、広い意味では、『聖書』も「文学」といえなくもありません。

水村 文学は二つに分けて考えられると思います。一つは、十八世紀半ばから西洋で「文学」と呼ばれるようになった小説や劇や詩など。今、ふつう「文学」というと多くの人が思い浮かべる、いわゆる狭義の「文学」です。

 でも、私がこの本の中で最終的に問題にしているのは、広義の「文学」です。日本近代文学に強調をおいたので、誤解が生じたかもしれませんが、それこそ『聖書』も含んだ、すべての優れた書物を論じているつもりです。例えば、ダーウィンの『種の起原』や、フロイトの『モーセと一教』なども素晴らしい文学だと思います。近代日本のもので言えば、福沢論吉の『文明論之概略』も文学だと思っています。

 ですから、問題は、今後、優れた小説が日本語で書かれるかどうかではなくて、今後、広義の意味での優れた「文学」が日本語で書かれるかどうかにあります。そして、さらにそれ以前に、そのような書物が、ある程度の規模で流通するかどうか。優れた文学がほんの一部の専門家だけにしか読まれなかったとしたら、その「書き言葉」は亡びてしまったも同然ですから。

 もちろん、優れた文学が市場で流通するのは、たいへん難しいことです。日本は、高度成長期を迎え高度教育が行き渡ったのが、*物が重要な時代だったので、「良書は黒字にならない」が少し薄いかもしれませんね。

 例えばノルウェーには、国家が一定の水準に達した本を買い上げて、図書館に配るシステムがあります。アメリカも地方の中小出版社は、経営の半分を寄付金に頼っています。そういう出版社が良書を出す。そして、その中で一般受けしそうなものがあれば、初めて大きな出版社が版権を買い上げる。良書を市場で流通させることの困難は、どの先進国も直面しています。

 政府も、少子高齢化対策などで忙しいとは思いますが、本の在庫ぐらいは免税にし、少しは良書の流通を助ける方法を検討して欲しいですね。(笑)

ー「ケータイ小説」が顕著な例ですが、最近出版される本は、完全に「現地語」で書かれたものが増えているように思います。そしてそれが売り上げ増につながっている例もある。これは、「現地語」による「国語」の押し流しが起きているということでしょうか。

水村 英語が支配的な言語になったことと、日本で流通している日本語が貧しくなったことー実は、私はこの間には直接的な関係はなかったとえているんです。もちろん、今後は、英語が支配的な言語となった影響は急速に出てくるでしょう。でもそれ以前に日本語は勝手に貧しくなっていった

 原因はいくつか考えられますが、一番大きいのは、戦後教育において、文章に対する正しい認識が失われてしまったことにあると思います。文章は読むべきものであり、自己表現のための道具ではないという認識がが失われてしまった。その結果、密度の高い文章を読ませなくなってしまいました。

 私は学校で「近代文学」を読むのを勧めています。「それは単なる好み問題だろう。現代文学で何が悪い」という意見が出てくるのも、この日本でしたら、ありうると思います。でも、私はこれは好みの問題には還元できないと思っているんです。理由はいくつも挙げられますが、一一つに絞っていえば、一つには、くり返しになりますが、古典というのは時の流れに堪えてきたもので、どの国でも国民文学の古典を教えるのはあたりまえだからです。こんなあたりまえのことを、国語教育の基本に据えていないのは愚の骨頂です。言論統制があって、過去のものを読ませてはマズイという国は別ですが。

 そして、もう一つには、読む能力の不可逆性とでもいうべきものがあります。子供の頃から近代文学に親しんでいれば、現在書かれている文学を読むのに何の問題もありません。物理的にページを繰る速度で読めるぐらいです。ところが、現代文学しか読んでいないと、近代文学が読めないです。つまり、ある年までに、ある程度歯応えのある文章を読む癖がつていない人は、その後ずっと読めなくなってしまう。どちらも読めて、じめて「好みの問題」だといえると思います。

 私は、何も「紫式部を読め」といっているわけではありません。日本語は、非西洋語であるにもかかわらず、国民文学の古典としての近代文学を早々と持つことができた幸運な言葉である。その近代文学を読み継ぐことで、読む訓練をする。日本語が「亡び」ないで済む道を辿るのに、正統的でも効果的でもある方法だと考えています。

(水村美苗「世界中から『国語』がなくなる日」より)

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