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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 2009年 過去問

2009年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

次の文章を読み、設問に答えなさい。

「演出に必要なものはなにか」

と聞かれたら、私は、

「何を見て、何を聞くのか」

と答えるでしょう。「見る」/「聞く」。この一つの人間の持つ当たり前の能力を、もう一度見つめ直すことこそが、演出の作業でまず必要とされるものなのです。

 では、何を見て、何を聞くのか。演劇は、つくるのも見るのも人間です。すべての人間に共通する一つだけの解答などありません。ですから、演劇の現場でも決して一つの解答が出るものではない。ならば、世界の多くのもの、そして人間の感情の無数の動きから何が聞こえてくるのか、それにしっかりと耳を傾けることが、出発点となるのです。

 演劇に限らず、今の時代に、一番大事なことは、「聞くこと」のように思えてなりません。話すことよりも、まず人の声を聞くことです。大きな声は、いつの時代にも圧倒的な力で他を制してきました。このような声は、嫌でも聞こえてくるのですが、忘れられ捨てられていくような小さな声を、掘い取るっもりで耳を傾けてみることが大事です。そこに、必ず自分自身に響く何かが聞こえてくるはずです。

 しかし今、大人も子どもも、人の言うことをまるで聞こうとしません。ですから、人間の関係が成り立ちにくい。国の大事なことを決定し話し合う場であるべき国会での答弁を聞いいても、一方的にまくしと、一方通行なのです。誰もはじめから聞こうとしていないからこそ、政治家の声は大きくなり、その大きな声がリーダーの条件であるかのように世間も支持してしまいます。そして、ますます小さな声を聞こうとしなくなってしまうのです。

 聞こうとしない人には、何も聞こえません。また、見ようとしない人には、何も見えないのです。

(中略)

 人間全体に、聞く力が衰えているように感じます。他者への伝達手段が、一方通行の意思表示として完全に定着してしまったことにもよりますが、携帯電話のメール機能などもその一つです。文明の利便性をあえて否定する気はありませんが、自分の言いたいことを相手に伝える行為が、今や一方通行になってしまい、そこに肉声による対話というダイアローグの時間が失われているのです。

 聞く力は、人間の普通の生活にとって重要です。この世にはいろいろな人間が生きています。演劇も美術も音楽も人間が表現するものを含めて、生活一般すべて「聞く力」が重要であることに違いはありません。それは俳優を志す人たちにもいえることです。>「相手役のせりふをよく聞くこと、相手の声をよく聞いて、それで動いた自分自身の気持ちが次のせりこぶになる」と、稽古場で何度繰り返したかわかりません。

 それはなぜか。日本の俳優には、そのことが一番欠けていることだからです。近年、日本の俳優の多くが教科書にしてきたのは、田中千未夫の『物言う術』という本でした。もちろん、俳優にとって自分に与えられた役柄の言葉ですから、それを使いこなすための「物言う術」が大事なことはいうまでもありません。

 しかし、実はこの「物言う術」の前に、相手の言うことをまず聞くこと、「物聞く術」があるのです。簡単に誰にでもできるように思われるでしょうが、これができていない。

 私は、「物言う術」の前に、「物聞く術」を大事にしたい。なぜならば、せりふの意思は、相手のせりふを聞くことからしか生まれないからです。そのせりふは、目の前にいる相手役を、また動かすための言葉で、そのつながりによって物語は動きながら前へと進んでいくのです。そういう人間の関係性が今の俳優の認識に欠けている。とにかく自分のせりふだけを覚えることが大事。そこから自分のせりふの数の多少を問題にしたりする。そんな俳優に、よくめぐり合いますが、そこに何の意味があるでしょう。そうではなく、相手のせりふがあって、それが声でこちらに投げられるから、自分のせりふが生まれるという、それだけの関係をしっかりと捉えることが、俳優のまず第一の仕事なのです。たった一言のせりふであっても、その前のせりこぶのすべてを受けて語られている。とても大裂銭にいえば、その一言の前には人類の歴史が流れているのです。そういう歴史を踏まえて発せられた一つの声が、強く相手を動かすのです。

 ところが、「物言う術」だけを意識して、「自分は、自分のせりふをこう言う」と稽古前から自分の言い方だけを決めてかかる俳優がよくいます。相手役のせりふの語尾だけを覚えていたりして、語尾が変わると「あれ、終わった?」。これではどうしようもない。芝居の流れはその場で断ち切られてしまいます。たとえば、三時間の芝居のなかで、この一行のせりふがなぜに必要なのか。その一行が全体のなかでどのような意味を持っているのか、それを知ることが、俳優が戯曲を読むことなのです。言葉の基本は、自分からはじまるわけではない。相手の言葉を聞くこと、感情を読み取ることから対話がはじまっていくのです。

 聞く力を養うには、日常生活から強く意識するほか、方法はないでしょう。

 いろいろな人たちの、いろいろな声を聞く。本から言葉を聞く。音楽から、さまざまな音を聞く。山を歩くと小さな草や花が語ってくれる。もちろん、草花が話すわけはないのですが、聞こうとする自分がいるならば小さな声は聞こえてくるはず。

 何度でも繰り返します。演劇は聞くことから出発する。そして聞くことは、私たち現代人にとっての、大切な関係のレッスンでもあります。自分の短い一方的なメッセージを送りさえすればそれでいいとする人間のいかに多いことか。

 日常から何が聞こえてくるのか、俳優はそれをつねに聞き取っていく能力を必要とされるのです。

 優れた俳優は皆、ちゃんと「聞く」ことができる人だと思います。たとえば稽古中に、出演者の誰かがうっかり何かの小道具を床に落として、コトンと小さな音を出したとします。すると自然に音の方角を向く俳優と、音を無視して演技し続ける俳優とがいます。

 さあ、どちらが稽古場での正解でしょうか。

 それは、自然に音に対して反応する俳優がいい。だって、そこで確かに音が聞こえたのですから。

 舞台の善し悪しを語るとき、「アンサンブル」という言葉がよく使われます。「アンサンブルのよい舞台」というと、一糸乱れぬ呼吸のあった舞台だと解釈されがちですが、はたしてそうなのでしょうか

 アフリカ北西端の国・モロッコをぐるりと周っていたときのことです。その南東に位置するマラケシュの街に行ったときの体験は、音とアンサンブルについて、私のなかに深く刻まれています。

 カサブランカは白い街であり、マラケシュは赤い街と呼ばれています。それもそのはず、深夜になってやっと到着した定期バスの窓から祀くマラケシュの風景は、黄色の探照灯に照らし出されて残酷なほどに鈍く錯びたような赤色の街でした。その中心に、「ジャマ・エル・フナ」と呼ばれる広大な広場があって、日没ともなると、どこからともなく人びとの群れが現れ、まるで映画のコマ落としでも見ているようなスピードで、あれよあれよという間に広場は人と動物で埋め尽くされました。ジャマ・エル・フもともと公開処刑場だったのです。広場の士も赤ならば、いくつもできた水溜りも、血が大地に多く染み込んだせいでは無論ないでしょうが、不気味に血の如く赤く見えているのです。

 日が暮れ、まるで客席のライトが落ち、野外劇場に明かりが入るかのようなその広場では、あちこちで繰り広げられる道化たちによる余興や香具師の口上、お呪いであろうか山積みにされた動物や人の歯などを売る奇異な商いの数々、薄暗がりのなか、見たこともない怪魚の頭を切り落としては手早くフライにする活気に満ちた屋台の行列などが散在していて、まるでイスラム版ワルプルギスの夜(注)でした。

 その夜こと行われる彼らの狂宴には、最近はやりのノイズ系ミく、あちらこちらでアフリカン・ドラムを中心とした小さな音楽隊の、まるで火花のように作裂する音の競演が聞こえてくるのです。

 そんな喧騒のなか、一つの家族なのか、小さなかぼそい少女の歌をリードに老婆のヴァイオリン、その父、母、兄たちでしょうか、かれらの古い民族楽器が頼りなげに曲を奏でていました。また、それを取り囲む音の洪水は、その小さな音楽隊を暴力的に呑み込み、行くえ知れずにただ興奮の輪の波状を広げている。しかしながら、そこで聞こえてくるすべてのものは、決して誰かに聞かせるための音楽ではなく、自らが勝手に歌い踊り自然に足を踏み鳴らす、とても倫快に開かれた音楽なのです。

 それから五、六時間、いろいろな小さな音楽隊の前でそれぞれの自由気ままな音楽に誘われながら時を過ごしていました。すると、先ほどの少女の小さな歌声がいつのまにか連鎖し四方に歌い継がれ、そこを埋め尽くした人たちの大きな一つの合唱となったのです。

 その旋律が何だったのか、そしてそれがいつもの決められた儀式のようなものであったのかはわかりませんが、一つの音楽が人間の創造しえた歌声という大きな一つの力となって響き渡ったことだけは確かです。もちろん、それはばらばらな声の総和でしたが。身体がブルブルと震えました。そして彼らの祈りにも似たその歌声は、静かな夜を呼び寄せでもしたかのように、急に深まり、こぶと気がついてみると歌はすでに終わっていて、何ごともなかったかのような日常のなかに人びとは消え、また元のじっと静けさをたたえた赤色の広場に戻っていました。

 もう一つのエピソードです。

 日本の歴史の暗部を挟り出した『悪魔の飽食』(森村誠一)を題材にオラトリオを作曲された池辺晋一郎さんから、そのリハーサルのときの思い出としてこんな話を聞いたことがあります。

 ……前に進む道の真ん中に、巨大な石が置かれている。その石に向かって、大勢のコーラスがその歌の力で、その石をどけることができるだろうか。たとえその声のコーラスがとてつもないエネルギーを学んでいたとしても、それは不可能だろう。しかし、その大勢の人たちがその巨大な石を動かそうと石にへばり付き、力を一つに合わせたとき、そこにきっとリズムが起こり、そこに一つの歌が生まれだろう……

 マラケシュで出会った音楽は、まさにそのことの証明だったのだと気づきました。

 美しく澄んだ声だけではない。そこに、無数の意志が集まれば、しわがれ、多少の音程のくるいなど気にもかけない、かれらの生活や歴史のなかから立ち上がる絶対的な美しく大きな音楽が生まれてくるはずなのです。決められた枠組みに、ただ閉じ込められていてはならない。一つひとつの人間の声が集まれば、それぞれ多義的な広がりを可能にする無限の力と情熱を持った集合が生まれるはず。そしてそのとき、ただの足し算ではなく、複数の掛け算が成立したとき、それぞれの全身から溢れ出る歌の総和は、巨大な石をも動かせる大きな奇跡を起こすことができる。そう私は信じていたいのです。

 演劇ではもちろんのこと、複数のキャラクターが一つの場所で出会い、そこにドラマは起こります。アンサンブルとは、調和した声の集合でも、人物たちの行動線がうまくなめらかに流れていくことでもありません。それぞれ違った歴史を背負い、それぞれ違った状況にある人物たちが、その場でぶつかり引き裂かれた瞬間に起こる、外側へ限りなく放射する力の集合、それこそ演劇のアンサンブルなのだと思でぶつかるとき、舞台は軌み、動き出します。

 マラケシュの広場での体験は、そのまま、演劇の現場である舞台の上で演じる登場人物たちの行動とも重なりました。それぞれ違った者同士が、それぞれの欲望によってばらばらに存在しながらも、地上の生命のように棲み分けして共生しているという健康な関係は、また、いつの時代にも必須な条件でなければならないでしょう。多声(ポリフォニー)との強烈な出会いから、そしてその仕組みを考えるようになってから、私の稽古場での視線は大きく変わりました。対話も、人物たちの動きも、間も、また外側から聞こえてくるあらゆる音楽も、どんなものも、一つの要素だけではなく、複数の力によって組み立てられているということを知らなければりません。答えは一つではないのです。

 相和す人ではなく、逆の人をぶつけたときに生まれる面白さに出会いたい。異質のものが相手の言葉を聞き、その上でぶつかることで新たな可能性は生まれるのです。

 皆同じ発声でしゃべり、皆同じ演技スタイルで身体を開き、動くその調和を「アンサンブルがいい」と書かれた劇評によく出会います。それは違うのです。人間の性格も感じ方もそうですが、芝居は全員違った立場の人が舞台上でぶつかり合い、それぞれが自分の声で主張する。そのときの衝突が生む、不調和な調和の時間。私は、それこそアンサンブルだと考えます。アンサンブルという言葉は、「演劇とは何か」という言葉と重なります。

 だからこそ、何度も繰り返し、そのときに発せられた他者の言葉を聞くこと、そのときの自分の周りを見ることが、稽古場では求められるのです。そして、そのときに起こる感情に素直に反応し応えることが、次のせりふを生み出していくのです。

 毎回、初めて聞く言葉として、聞く。初めて見るものとして、見る。物語の結末に向かって計算で組み立てていくことなどせずに、その瞬間に起こる変化だけに忠実になればいいのです。そこでぶつかり、生まれる対話は、だから生々しく現在形のまま、鋭く響き合うのです。

 今、必要だと思うことを、曖昧なカタチのまま置き去りにすることなく、見捨てず、その瞬間自分の手のなかに掴もうと必死になればいいのです。

 その瞬間こそ、アンサンブルのなかにいる一人ひとりの、それぞれのリアリズムがぶつかり合い、ドラマはいろいろなカタチを現して見えてくるのです。

(栗山民也『演出家の仕事』より)

出題者注

(注)ワルプルギスの夜ドイツの民間伝承で、五月一日の前夜に魔女たちがブロッケン山に集まり、魔王を囲んではめをはずした大騒ぎをするといわれる。

設問1「肉声による対話というダイアローグの時間」(傍線部)が他者への伝達において果たす役割について、一八O字以上二○○字以内で説明したさい。

設問著者の主張をふまえ、「間く力」と「アンサンブル」との関係について、四八○字以上五二○字以内で論じなさい。

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