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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 2008年 過去問

2008年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

人家が焼け落ちるのを、間近で見ていたことがある。小学校からの帰り、いつもはがらんとしている一画にたいへんな ひとだかりができていて、なにごとかと思ってふだんは寄り道にすら数えたことのない湿っぽい路地の奥を背伸びして見 てみたら、長屋ではないけれと間日の狭い二階建ての離比しているあたりにもうもうと煙がふきあがり、うち一軒の二階 の窓から煙といっしょに、濃い、としか言いようのない橙色の炎が吹き出していた。藤になっている路地の反対側の市道 に停められた消防車から白い土管みたいなホースが引かれて、消防士がふたり、絵本に描かれているとおりの模範的な姿 勢で水をどんどんかけていくのだが、炎はそれをものともせずばちばちめりめりと音をたてて舞いあがり、火勢からして 隣家に延焼しないでいることのほうがむしろ信じられないほどだった。

まったくやりきれんねえ。野次馬という呼び方が不似合いなくらい真剣な顔で、すぐわきのおじさんが溜息まじりにつ ぶやく。あそこは去年改築したばかりだったのになあ、命が助かっただけでもよしとするほかなかろうが、それにしたっ て苦労して建てた家だのに。大人たちはまだ消されてもいない火事をまえにはやすぎるお悔やみを言いながら、しかしそれきり無言のまま為す術もなくいちように首をもたげ、キャンプファイヤーや新や花火をまえにしたときにすら見せない 無防備な顔で炎の行方を追っていた。犠牲者はいないとわかってひとまず安培したものの、彼らのてらてらした顔の輝き に私は忌まわしいなにかを感じて、それが殿のようにながく胸に残った。

いったい、あんなふうに火事を見ているときのほかんと魂が抜けたような表情は、どこから湧いてくるものなのだろう。 ひとがなにかを見つめるときの顔つきは、その対象によってさまざまに変わる。山の緑を、絵画を、異性の裸体を、空を、 海を見ているひとの頼の張りや瞳の輝きは、千変万化して折々の緊張や地緩の質も同一でないことはだれもが知っている はずだが、火事の現場に居合わせた人々の顔には、なにかしらふつうではない、どこかほんとうに深い闇から引きあげら れたものが宿っているように思う。身を守るため、暖をとるため、調理をするため、鉄を打つため、陶器を焼くため、あ るいは亡骸を葬るため。そういう目的や意味のある火ではなくて、とつぜんやってくる暴力のように、愛する存在を根こ そぎ持ち去っていく火だからなのか。山火事にまでは至らなかった中規模のほやに遭遇したこともあったけれど、それは 自然のなかで自然に発火した火の自然な消滅というにすぎず、ひとが蓄積してきた時間とものを焼き払うのとはまたべつ の話だった。人為をほろぼす炎をまえにすると、ひとは原初の恐怖ともちがうなにかを感じ取るのかもしれない。

古い火事の記憶などを持ち出したのは、先日、桐生の大川美術館の企画展でベン・シャーン(注1)のリトグラフを堪 能してきたからである。画廊での数点というのではなく、美術館でベン・シャーンの作品をまとめて目にするのは、じつ は今回がはじめての経験だった。一九九一年に大がかりな回顧展が開かれ、福島県立美術館を中心に各地を巡回していた らしいのだが、不幸にもこのとき私は国外にいて立ち会うことができず、その後もなぜか、古書店で買い求めたCBSテ レビ版『ハムレット』の台本挿画や、『洋梨の木のャマウズラ』など数冊の絵本、それから学生時代に古書店で買った一 九七○年の、東京国立近代美術館で開かれた回顧展のカタログを繰り返し眺めるだけで我慢していた。

あまり好もしい表現ではないとはいえ、シャーンの代名詞みたいに言われる社会派のレッテルが張られそうな極彩色の 絵の主題にかつてはやや腰が退けていたし、大川美術館常設展示の目玉でもある松本竣介の作品でもそうだが、ある種の

主義に傾きかけていると外から判断されがちな絵とのつきあいには、そういう知識を除いてもなお好きだと恥ずかしげも なく言えるまでになかなか時間がかかるものだ。社会調刺や政治批判の図はそのとおりだとしても、うまく説明できない まま、私はシャーンの線に惹かれてしまったのである。まっすぐなようでいてまっすぐでない、おなじタッチのようで微 妙にずれている線の響宴。「プール」と題されたテンペラ画のフェンスと飛び込み台と監視台の関係、「テレビアンテナ」 に描かれた、たがいに言葉をかわしあっているようなアンテナたちの、交わりそうで交わらない存在のすき間、「天国と 地獄の結婚」に散り敷かれた四角形の変奏、「リュート」をいろどる数本の、かすかにふるえる弦のまわりの空気。「スー パーマーケット」や「小麦畑」の垂直線と余白のバランスはそれだけで軽やかな音楽であり、突きつめて言えば、そこに 描かれているのは風景でも抽象でもなくて画家のとらえた人間の姿だとも感じられた。

ところで、一九七○年の図録のほぼ巻末に近い頁に、一九六八年、つまり亡くなる前年に発表された全二十四枚のリト グラフ集『一行の詩のためには』が、一頁六枚の縮約モノクロ版で収められている。この作品の色刷りは、先の、一九九 一年の展覧会の図録に収録されており、一頁四枚のレイアウトだからある程度の質感は推測できるのだが、私はこれを四 五・三×五七・三センチの原寸、原色で見たいと念じつづけてきた。

リルケの『マルテの手記』の一節に触発されたこの連作のタイトルや解題には、従来、名訳として定評のある大山定一 訳が採用されており、いちばんあたらしい大川美術館の展示キャプションにも、小冊子ふうの愛らしい図録にも、おなじ 訳文が使われている。しかしシャーンの図録を買った当時、望月市恵のすこしゆるい日本語訳を愛読していたこともあっ て、大山訳の歯切れのよさについていけなかった。そもそも通しタイトルからして、望月訳では「一行の詩をつくるのに は」とやや冗長な言いまわしになっており、リトグラフ集をとりまとめる言葉にこれを採用するのはたしかに辛いなと感 じつつも、大山訳にかすかな違和を感じないではなかったのである。告白すれば、私にはいまだに大山訳の該当箇所に頻 出する、「ねばならぬ」というつよい言い切りを受け入れるだけの心の余裕がない。したがって、以下、引用は望月市恵 訳(岩波文庫)に依拠することとしたい。

一行の詩をつくるためには、ながい年月がかかる。「詩は一般に信じられているように、感情ではない」とマルテはい きなり本質を突く。「(感情はどんなに若くても持つことができよう。)しかし、。調は感情ではなくて』経験である」。 ならば、その経験として生まれ出る一行の詩のために、詩人たる者はなにをなすべきなのか。そこで列挙されている事柄 のひとつひとつにあわせて、画家は絵筆をとった。

一行の詩をつくるのには、さまざまな町を、人を、物を見ていなくてはならない。動物の心を知り、鳥の飛ぶさまを感じ、小さな花が朝に開く姿をきわめなくてはならない。知らない土地の野路、思いがけない避近、虫が知らせた別離、 ーまだ明らかにされていない幼年のころ、そして、両親のことを。幼かった僕たちを喜ばせようとして与えた玩具 が僕たちを喜ばせなくて(他の子供が喜びそうな玩具であったからー)、気色をそんじた両親のこと、妙な気分で始 まって、何回も深い大きな変化をとげさせる幼い日の病気、そして、静かな寂とした部屋の日々、海辺の朝、そして、 海、あの海この海、また、天空高く馳せすぎ星とともに流れ去った旅の夜々を思い出さなくてはならない、それ を思い出すだけでは十分ではない。夜ことに相のちがう愛欲の夜、陣痛の女の叫び、肉体が再びとじ合わさるのを待ち ながら深い眠りをつづけているほっそりとした白衣の産婦、これについても思い出を持たなければならない。また、臨 終の者の枕辺にも巫したことがなくてはならない。窓をあけはなち、つき出すような鳴脳の聞こえる部屋で死者のそば に巫した経験がなくてはならない。しかし、思い出を持つだけでは十分ではない。思い出が多くなったら、それを忘れ ることができなければならない。再び思い出がよみがえるまで気長に静かに待つ辛抱がなくてはならない。思い出だけ では十分ではないからである。思い出が僕たちのなかで血となり、眼差となり、表情となり、名前を失い、僕たちと区 別がなくなったときに、恵まれたまれな瞬間に、一行の詩の最初の言葉が思い出のなかに爆然と現われ浮かび上がるの である。

これから書かれる手記がマルテ自身にとって「詩」に到達するためのきびしい準備期間であることを示し、さらに、そ れが永遠に到達できない領域にあることをも同時に暗示するおそろしい一節だ。一九二四年から二五年まで、そしていっ たんアメリカに帰国したのちの、一九二七年から二九年までパリを中心にヨーロッパで暮らし、模索の日々を送ったベ ン・シャーンがこの詩句にとらえられたのは、おそらくふたつの相反する未来の正しさを感じ取ったからだろう。小高い 山の坂の途中にある大川美術館ー入口から見るとガラスブロックの壁がすっと伸びている満酒な平屋なのだが、じつ は下へ下へと降りていく私の偏愛する構造になっていて、そのいちばん低い空間の階段室まで利用して用意されている企 画展ーでようやく見ることのできた連作は、文句なしにすばらしかった。鳥のくちばしと花々と右下の署名だけに赤 が用いられ、あとは陰鬱だが一篇の詩の誕生にむけての薄い希望の光が射している青と黒を基調にした世界。モノクロ図 版では味わうことのできない筆触と色彩の均衡が、徐々に下っていく階段横の壁面の不均衡とへんにつりあっていて、そ のつりあいの奇妙さのなかに突っ立っていると、シャーンはいったい『マルテの手記』を何語で読んだのかという、専門 家ならたちどころに答えられるような愚問が頭をよぎっていく。連作が依拠しているテキストは一九四九年に刊行された M・D・ハーター・ノートンの英訳で、若きシャーンのパリ滞在時にはまだ一九三○年のホガース・プレス版すら世に出 ていなかった。もしこの時代に触れていたとすれば、可能性としては、独語の原文かモーリス・ベッツの仏訳のいずれか るのだが……。

階段を下りるときは、こんなふうによそごとを考えている瞬間がいちばん危ない。段を踏みはずさないよう慎重に足を 運び、ステップひとつひとつで立ち止まりながら、しかし私は性懲りもなくシャーンの最晩年のリトグラフと『マルテの 手記』のつながりを考えていた。とりわけ二枚目の冒頭、「見る目ができかけている今、僕は仕事を始めなくてはと考える」というよく知られた一節を、シャーンによるレイアウトで《think I ought to begin to do some work, now that I am learningtosee》と読み返し、『ある絵の伝記』の、獅子と狼の合いの子のような獣が足もとに子どもの遺体を従えて背 景もろとも真っ赤に燃えている一九四八年の「萬意」のなりたちを明かす頁と、詩人の回想を結びつけようとしていた。

ヒックマンという貧しい黒人労働者が、火事で四人の子どもを失う。それに関する報道記事に挿し絵を描くことになっ たシャーンは、記者と打ち合わせをし、ある程度の描き方を定めながら、やがてそれを完全に放棄してしまった。彼にと ってこの火事は、四人の子どもが亡くなった悲惨さや人種差別を訴えている以上に、火に対する人間の普遍的な恐怖をあ らわしていると思われたのだ。

この火事を語ることで、私は記憶のあれこれを呼びさまされた。幼年期に二度、大火事があったのだ。一度目は色が 美しいだけだったが、二度目のものは恐ろしく、忘れがたいものだった。最初の火事では、祖父の住んでいたロシアの 小村落が焼けたのだが、そこに自分もいたということしか覚えていない。いたるところで火の手があがり、人々が列を つくって、消火のために町を貫流する河からバケツリレーで水を運んだこと、だれかの家から逃れでた半狂乱の女の顔 が、まっ赤な火陥の反射を受けながら、死人の顔のように蒼白だったことなどが記憶に残っている。 もうひとつの火事は、私にも家族にも大きな影響を及ぼし、父の腕と顔には火傷の痕を残した。父は下水管をよじの ぼって私の兄弟や姉妹をひとりひとり救い出し、そのあいだにひどい火傷を負った。おまけに私たちは家と家財のいっ さいを失い、両親はその痛手からの回復に持てる力のすべてを尽くしたのだが、ついに果たせなかった。 (美術出版社、佐藤明訳を改変)(注2)

前者の大火は、一九○二年、父親がシベリアに亡命したため、リトアニアのカウナスから母親と移り住んだヴィルコミ ール村での出来事で、シャーンはこのとき四歳だった。また、後者の火事は、一家が一九○六年にアメリカへ移住してい ること、そして「幼年期」と限定されていることを考えあわせると、一九○二年から一九○六年までのあいだの出来事に なる。いずれにせよ、「寅意」に彼自身の幼少時の記憶が重ねられているのはまちがいないだろう。「私がこの作品におい て創造しようと努めたイメージはシカゴの火事そのものではなかった。そんなものは私の興味を惹かない。私は災害を取り巻く感情的な調子を創造したかったのだ。べつの言葉でいえば。内面的な災割が描きたかったのだ」とシャーンは重ね て説明しているが、「内面的な災害」こそは、思い出が血肉化し、「一行の詩の最初の言葉」が爆然とあらわれるための分 岐点となる貴重な炎ではなかったろうか。そして、準備段階として決定的な役割を果たしているこの火事が、『マルテの 手記』の冒頭、先の詩をめぐる考察よりもまえに置かれていたことを私は「思い出した」のである。

これは夜の物音である。しかし、そういう音よりももっと恐ろしいものがある。それは。静けさだ。大きな火事のと きにも、同じようにひっそりとして緊張の極に達する瞬間がときどきあるようだ。ポンプの噴出がやみ、消防夫ははし ごをのぼるのをやめ、だれもが息をひそめてたたずんでいる。頭上の黒い蛇腹が音もなくせり出し、高い壁が、立ちの ほる火柱の前で黒々と音もなく倒れ始める。だれも息をひそめ、首をちちめ、仰向いて目をむきながら立ち、すさまじ い結末を待っている。この都会の静けさはそれに似た静けさである。

幼年期にシャーンが体験したふたつの火事のうち、より重要なのはもちろん最初のほうだ。半狂乱になった女性を照ら す炎の色彩だけではなく、そこにはリルケが描いているような意味あいでの沈黙がある。息をひそめて火を見つめる人々 のあいだで柱がはじけ、炎がごうごうと鳴り、熱風が舞うなかにばかんと開いた穴のような沈黙は、たぶん、詩がたちの ほる瞬間にこそふさわしい、矛盾を承知で言えば。菊のつ引った劇となるだろう。

シャーンが『マルテの手記』に寄せた親近感は、彼が二十八歳と設定されたマルテとほぼおない年で、詩人になろうと しながらいまだなりきれず煩関しつづけているその姿への共感によるものだろうが、いまひとつの理由として、この火事 と沈黙の関係に触れた熱くしずかな、それでいて凶暴ななにかから目を逸らさないマルテの強靭な一節があったことを挙 げてもいいのではないか。一篇の詩のためには、火事場を支配する一瞬の静寂の深さを、怖さを感じ取らなければならな い。そうでなければ、マルテの啓示にたいする返答を自分の絵でおこなうために、数十年もの歳月を湯煎にかけるはずがない。この連作を描き終えたシャーンは、これまでとはまたべつの角度から、自分もまた見ることを学びはじめている、 と実感したのではないだろうか。*(堀江敏幸「火事と沈黙」)

出题者注 (注1)ベン・シャーン(一八九八ー一九六九) 画家、彫刻家、写真家。 (注2)ベン・シャーンの回想録『ある絵の伝記』の一節。

設問1 リルケの言葉「詩は感情ではなくてー経験である」(傍線部①)とはどのようなことか、一八〇字以上二〇〇 字以内で説明しなさい。

設問2 シャーンの言う「内面的な災害」(傍線部②)、リルケの言う「静けさ」(傍線部③)、そして筆者の言う「実のつまった虚」(傍線部④)、これら三つが表現活動において果たす役割について四八〇字以上五二〇字以内で論じなさい。

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