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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 2006年 過去問

2006年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

つぎの文章を読んで、設問に答えなさい

 画面に一個の錠剤が映しだされる。どこから見ても薬物に見える。それが恐るべき毒物に変質することを映画『薬に病むークロロキン網膜症」(一九八○年)は明らかにしてゆく。私たちが生きるこの社会は、薬物から毒物へとたやすく逆転し変貌するような危うい社会なのだということ、いや、そのような危うさをこそ基礎とすることを、画面は静かに真正面から提示する。この錠剤はクロロキン製剤の丸薬である。この「薬品」が一体どのようにして、日本社会に生活する人たちの身体のなかへと浸透することになったのか。映画は、その歴史的な出自と社会的な経路とを明らかにする。

 クロロキンという薬物は、一九三四年にドイツで合成開発され、一九四五年にアメリカで抗マラリア剤として再発見されたという経歴をもつ。その日付に注目すれば、この薬物の身元は明瞭だろう。世界大戦が種々様々化学薬品を生みだしたことを、私たちはしっかりと記憶にとどめておかなければならない。したがって、この薬物が戦後の日本社会で大量に製造され販売されたとき、それは腎炎の特効薬として、いわば市民社会に向けて変身した姿形で現われたのだった。言いかえれば、私たちが生きる「市民社会」とは、このような戦時体制の遺産をひそかに、あるいは公然と引きっぎながら、変態をとげたものなのであった。そのことを、この薬物が辿る「戦後史」は冷酷に教える。

 クロロキンは市民社会に合わせて変貌しただけではない。それが一九七○年代、とりわけその後半の日本社会に集中して現われた、というもう一つの日付がある。映画に登場するクロロキン網膜症者のほとんどが、一九六五年頃から七○年にいたる時期に大量に投薬された人たちなのである。その人たちの視力を剥奪し視界を破壊するほどの大量投与がなされたということ、それは急成長し膨張する医薬産業の存在なしにはありえないだろう。それを保護し支援する社会体制なしには不可能だろう。このようにして一九六○年代の社会に暮らす人々の身体のなかへ、この薬の装いをもつ毒物は浸透していった。すなわち、この人たちの極限まで狭められた視界が映しだすのは、日本経済の高度成長過程そのものなのである。

 この映画が丹念に追跡調査する一人一人の急激な視力の低下と視野の狭空は、その急激さそれ自体において、高度成長社会とはそこに生きる人々をどのように変形するものであるかを否応なく示している。それが制度ぐるみである以上、その残酷さはほとんど逃れがたく思われてくる。たとえば映画に登場した一人の男性は、七年半の間に八千錠近いクロロキンを投薬されている。彼が服用をやめたのは、クロロキンが製造中止になる二年前であり、イギリスの医学雑誌がクロロキン服用に伴う網膜症の報告をしてから十三年後のことであった。彼の眼はわずかに光を感じることができるだけである。この投薬の期間といい、錠剤の数量といい、まさしく常軌を逸している。それが、この社会の姿形なのだ。

 クロロキン網膜症に冒された人たちの投薬期間や障害の状態に関する字幕とともに、各人の「視野図」が映しだされる。輪状暗点やや島状視野といった視野の極度の狭空化を示す文字が、それぞれの人の苦痛を表わしている。しかも、それはなお進行中である。この病気の恐ろしさは、薬物の服用をやめても症状が停止せずに進行しつづけることだ。苛酷に「成長」しつづけるのである。その視野図の表示のなかに。(①)「測定不能」という衝撃的な文字が現われてくる。映画に登場した人たちの半数がそうである。測定不能。これが物理的な計量と計算を規準とする社会、つまりこの測定社会が産み落とした事態なのである。この社会が自己の欲望を貫くことによって生みだした生活破壊は、その社会形態に相応して「測定不能」という冷徹な表記によって示される。私達が陥っているのは、測定の果ての状態なのだ。

 結果責任を問う通常の損害賠償とは違う取り組み方が必要である、と映画のなかで弁護士が語る。それは交通事故の補償などとは根本的に異なっている。どういうからくりでどういう無茶苦茶をやったのか、という「行為の悪性」が問題なのだ、と。その通りである。私たちは、誰がどのように何をしたのかを問いつづける必要がある。厚生省、製薬会社、医学界、病院はそれぞれ何をしたのか。それは同時に、それぞれは何をしなかったのか、なぜしなかったのかを考えることでもなければならないだろう。っまり、この社会における「行為」のあり方を間わなければならないのである。薬の危険性を察知して自分だけ服用をやめた厚生省の役人や、実験もせずに有効性を説いた大学教師は、けっして特別のエピソードではない。

 ここには、中身を問わず何事かを行うこと、何かをつくりだすことそれ自体に対して肯定的な社会が前提されているのである。高度成長社会とはそれが極度に加速された社会にほかならない。企業は膨大な量の薬品を製造販売し、役所はそれを後押しし、学界はそれに関する論文を生みだし、病院はその薬物を大量に使用する。正負を問わず間断なく物を生みだしつづけること、その物件の増大が経済成長の中身となる。っくらないこと、生みださないこと、差し控えることは、この社会では文字どおり否定的な「無為」以外のものではない。このような行為基準のもとに社会を押し進めるとき、そこに何が生まれるかを、この映画は痛切に教える。数千人といわれるクロロキン被害者は、「行為」の集積によってつくりだされたのである。

 たえず何事かを行うことを肯定する社会は、厚生省や製薬会社や病院の加害行為をくいとめられないだけでなく、現在の私たち自身におけるように健康イデオロギーの強迫、すなわち自己への加害から逃れられないだろう。それは、薬物服用を主とする健康のための「行為」へと私たちを駆りたててやまない。しかも、そのための手立ては専門家集団によって独占されているのだ。この映画を観ながら、網膜症に冒されたのが私自身ではなく彼らであったのは、紙一重の事情の違いにすぎないと思わざるをえないのは、この社会体質の遍在性のゆえである。

 一個の錠剤があぶりだしてゆく情景はどのようなものであるか。それは何よりも現代という時代において経済社会が帯びる、身体的振るまいとでもいうべきものである。そこには、関係の基礎をなすべき信頼によって仲立ちされない「社会」のあり様が、残酷なかたちであらわになっている。それは、被害者の一人が言うように、「もう人ば信用するちゅうことができんごとなった」社会である。私たちが生きている社会は、いかに凄まじく恐るべき場と成り果てていることか。それはまさしく荒地といっていい。しかもそれは、荒地であることの自己意識なき「荒地」というほかないようなものである。そうでなければ平然と他人に苦痛を与えつづけ、自分自身を含む社会関係の破壊を押し進める行為に、集団的に加担するなどという振るまいは考えられないだろう。「信用」の暴力的な設損は、社会関係を寸断し破片化するだけではない。それは社会の核を腐触しつづけることによって、その破片を無力化し全体へと組みこんでいくのである。

 大量の化学薬品は、個々人の間の信頼関係の喪失ないし欠如を前提として、そこに介在し流通する。そしてそれが流通すればするほど、その不信感を増幅しつづける。この前提と帰結とはおそらく二十世紀という時代を貫く固有の運動過程をなしている。クロロキンが世界大戦ーすなわち従来の社会関係のあり方を根こそぎする総動員の戦争に出白をもつことの社会的含意を改めて想い起こさなければならない。薬害を生みだしつづける社会とは、一二十世紀という時代の刻印を色濃くおされて産み落とされ、戦後の成長過程のなかで自己増殖をなしとげた社会なのである。

 この経済社会の振るまいは、物事を徹底的に対象として扱う思考の帰結でもある。人間が自分たちをとりまく世界を対象化し、切り分け、支配統制することの上にのみ存立してきた社会は、ここでその運動のほとんど極限的な事態を生みだすことになる。ここでは「人間」自身が、どこまでも対象化されつづける。「人体」という実験対象として、また薬物投与の数値対象として、一方的に対象化されつづける。それが相互性をもちえないことを、クロロキン網膜症者におけるほど残酷に示す場所もないだろう。暴力的に視力を剥奪されることによって、この人たちは文字どおり見られるだけの対象に反められているからである。

 人間を対象とみなし、それに向けて薬品を大量に投下するというこの行動様式は、まぎれもなくこの世紀のものだ。それは社会のなかに、あるいは人間のあいだに、隙間や余白を残すことを許容しない思考様式によって促されている。総動員の思考である。そのような空隙は幹部とみなされ、根絶されなければならない。この社会的患部の発想はそのまま身体の患部に向けられるだろう。それは治癒する肉体でも病気とつきあう体でもなく、根治されるべき対象となる。根絶といい根治といい、その余すところなき「根こそぎ」の発想は、皆殺しの思想といっていい。全体主義的思考そのものである。このような思考が個々人を襲い、その身体に投下される。身体は放置されることはないのだ。

 「働きたいんです。とりあえず働いて:どういったらいいんですかねえ:病気のことなんか忘れて一生懸命働こうとしてるんです、ぼくは。それを病気がじゃまして、働かさないように働かさないようにするんです」

 これは、網膜症のほかに難聴や手のしびれや頭痛などの薬害に苦しむ、まさに手足をもがれた元造船所の労働者の言葉だ。この高度産業社会は、自分の基礎を食い破りながら膨張してゆく。体を動かして働きたいという欲求すら破壊していく社会は、自らの未来を食い潰すほかないだろう。そしてその負債道をすり足のようにして歩く若い女性。鶏小屋で手探りで卵を集め、それを耳元で指でたたきながら選別するこの女性。高校時代の投薬によって、いまは視野の中心部にわずかに視力が残るだけの彼女の、これが「仕事」なのだ。この若い女性の日をついてでるのは、次のような言葉だ。

「あのね、結局は普通の人ならば結婚、就職それから進学、それがほらなんていうの、未来があるでしょう。結局は、それがわたしたち、わたしにはないって感じて、そこであれじゃないのかしらねえ:」

「でも、好きを、もっとも脆弱な者たちの苦難において一時的に決済しながら進行するのである。に、好きになるような人はできないでしょう。やはり結婚となったら、まあ、ひとりでやりたいて思うのがあれじゃないのかなあと思ってる。だから、別に、しない、しない方がいい。好きにならない方が」

「自分で死のうと思っても死ねないしね。だから、今はまだわかんないけどもね。だからまず歯を治して、と思ってる。でも長生きだけはしたくないね。長生きだけは」

 小さな個人から剥奪されたものの大きさを示す、いかにも救いがない言葉だ。しかし、それは不思議なほど透明な響きを帯びている。そして、その少女のようにはにかんだ表情と時折みせる美しい微笑。この映画の包みこむような視線のもとで、他人に対する信頼感が束の間そこに蘇生したのではないかとさえ思わせる。カメラは、物干し筆から洗濯物をゆるゆると取りこむ彼女の姿を、それを抱えてじっと立ちっくす姿を、ナレーションを排して遠くから撮りつづける。

 社会の圧倒的な傾斜に対して、この女性のしぐさはいかにも無力にみえるだろう。しかし映画は、その姿を静かに映しっづける。少しずっ洗濯物を取りこむ彼女のまわりに流れている時間を、そして立ちつくす彼女のうちに去来する思いを、フィルムに焼きつけ定着させようとするかのように、映画は息をひそめるのだ。冒頭部分に置かれ末尾近くに再び挿入される、この女性の姿に向けられる視線は、この映画が身を置く場所とその方法とを示しているだろう。

 それは人々の日常の暮らしに眼差しを据えっづけることによって、それを触み破壊する社会的諸力を捉えようとするのである。収奪される個人の身体は、その破壊力が集中する場なのだ。それこそが目を凝らすべき「現場」である。それは、私たちの生存の様態と基礎そのものを問おうとする姿勢といってよい。このような視線のもとに、この②失明した社会を生きていくことの耐え難い苦しさと難しさを、この映画は静かにしかし痛切に提示する。

(市村弘正・杉田敦『社会の喪失』より)

設問1

 なぜ筆者は「測定不能」という文字を「衝撃的な文字」(傍線部@)と受け止めたのか、八○字以上一○○字以内で説明しなさい。

設問2

 筆者の述べる「失明した社会」(傍線部の)とはどのような社会のことか、三六○字以上四○○字以内で説明しなさい。

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