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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 2005年 過去問

2005年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

子どもから青年まで、最近の若者たちは、個性的であることを「キャラがたっ」と表現します。そして、自分もまた 「キャラのたつ」個性的な人物でありたいと切に願っています。キャラとは、キャラクターの略語ですから、元来はどんな性格にも該当する言葉です。しかし、この「キャラがたつ」という表現は、テレビ番組の制作者たちが近年ょく使う業 界用語に由来しており、従来の使い方とはかなり異なっているようです。

従来、キャラクターとは、ドラマやショーなどの登場人物の特徴をさして用いられたように、出演場面を盛り上げるた めの明確で強烈な性格を表す言葉でした。それは、観客の関心を惹くために意図的に創られた個性だったのです。だから、 どんなキャラクターを打ち出せるかが、芸の力として問われました。たとえば、「お客様は神様です!」とにこゃかに力 強くうなってみせた往年の国民的歌手、三波春夫のキャラクターは、演技によって構築された様式美の一っであって、楽 屋裏ではいつも無然としていたという個人的なパーソナリティとは別個のものでした。

ところが、近年のテレビ制作者が「キャラがたつ」と表現するとき、その意味はまったく違います。彼らは、いわゆるプロフェッショナル性よりも素人らしさを出演者に期待し、演技ではない持ち前のパーソナリティを評するためにこのよ うな表現を用います。だから、「天然ボケ」のように生来的な持ち味のある人間こそが、もっとも「キャラがたつ」人物 ということで珍重されるのです。逆に、そこにわずかでも演技性が透けて見えてしまうと、一気にしらけてしまいます。 芸によって創られた性格は、キャラとはみなされないのです。たとえば、お笑いタレントの明石家さんまに人気が集中す るのは、あたかも楽屋裏のすがたと同じく素のままにふるまっているかのように感じられ、そこに演技性が透けて見えて こないからでしょう。

日常生活の文脈でも、最近の若者たちはこのような意味で「キャラがたつ」という表現を用います。彼らが価値を見出 すのは、あくまで素のままの存在感なのです。ここから類推されるように、若者たちが切望する個性とは、社会のなかで 創り上げていくものではなく、あらかじめ持って生まれてくるものです。人間関係のなかで切磋琢磨しながら培っていく ものではなく、自分の内面へと奥ぶかく分け入っていくことで発見されるものです。自分の本質は、この世界に生まれ落 ちたときからすでに先在していると感受されているのです。

したがって、もし自分の本質がよく分からないとすれば、それは自分の内部に潜んでいるはずの可能性にまだ気づいて いないからだということになります。自分らしさをうまく発揮できないのは、自分が輝いていると感じられないのは、秘 められた「本当の自分」をまだ発見していないからにすぎないのです。だから重要なことは、なんとかそれを見出して、 うまく開花させてやることだと思っているのです。

ある中学生は、次のような文章を新聞に投稿しています(「中学生*ひとりごと」『朝日新聞』二○○二年七月二五日朝 刊)。「僕はいろいろ考えてる。吐き気がするような陰口を言われてること、部活、友人、好きな子のこと:。僕はそれ を表に出さない。キャラじゃないから」。このように、現代の若者たちは、自分をとりまく人間関係や自分自身を変えて いくことで得られるものをではなく、生まれもったはずの素朴な自分のすがたを、そのまま自らの個性とみなす傾向にあ ります。彼らにとっての個性とは、人間関係の関数としてではなく、固有の実在として感受されているのです。

本来、自らの個性を見極めるためには、他者との比較が必要不可欠のはずです。他者と異なった側面を自覚できてはじ めて、そこに独自性の認識も生まれうるからです。自分と異なった他者が存在していなければ、なにが自分の特質なのか 判断のしようがないでしょう。あるAという属性を備えた人物は、その属性Aを多くの人びとが備えた集団に所属してい る場合、たぶん個性的とはみなされないでしょう。

しかし、別の属性Bを多くの人びとが備えた集団に所属している場合、 おそらく個性的とみなされるでしょう。このように、本来の個性とは相対的なものであり、社会的な関数です。個性に対 するこのような本来の感受性のあり方を、現在の若者たちの個性感覚と区別するために、ここではあえて社会的個性志向 と呼んでおきましょう。 しかし、現在の若者たちにとっての個性とは、他者との比較のなかで自らの独自性に気づき、その人間関係のなかで培 っていくものではありません。あたかも自己の深淵に発見される実体であるかのように、そして大切に研磨されるべきダ イヤの原石であるかのように感受されています。その原石こそが「本当の自分」というわけです。「私にだってダィャの 原石が秘められているはずだ」と、さしたる根拠もなく誰もが信じているのです。

高校教師の喜入は、自らの体験を次のように語っています。「成績が悪くて、授業にも集中できない生徒が、『私は絶対 に大学に行く』と言って、大学受験用の選択科目ばかりをとってしまうとか、国語能力が低くてどうしてもまともな文章 を書けない生徒が、『ジャーナリストをめざす』と言い張って、ジャーナリストを養成する専門学校へ行ってしまったり、 どう見ても華のない地味な生徒が『タレントになる』と言って、学校の授業を犠牲にしてまで芸能スクールに通ったりす る:このような生徒に対して、教師の側が『考え直したほうがいいのではないか』『君にはもっと別の道があるのでは ないか』などと言うと、彼らは猛反発して、『先生がそんなふうに決めつけるのはよくない』『ゃればできるかもしれない じゃないですか』などと言ってくる」。 「星のおかげで自分らしさを見つけた」という天文好きのある少女は、自らの可能性を銀河にたとえて、「未知の世界が きっと自分の中にも広がっている」と語ります(「新・教育の森」『毎日新聞』二○○三年七月二五日朝刊)。宇宙には無数の銀河がある、でも肉眼で見ることができるのは三つしかない、彼女はそう話します。同様に、「自分らしさ」も、そ の潜在的な可能性も、すでに無数に存在しているはずだけれども容易に目に見えるものではない、だからまだ発見されて いないだけなのだ、彼女はそう言いたいのでしょう。 このような個性のとらえ方には、他者の存在が希薄なように思われます。本源的に自己に備わった実体の発現過程とし て個性を理解するこのような感受性のあり方を、ここでは内閉的個性志向と呼んでおきましょう。現代の若者たちがめざ しているのは、これから自己を構築していくことではなく、元来あるはずの自己を探索していくことなのです。

先だって、NHKテレビの教育番組のなかで、ある小学校の児童たちが「先生と私たちとは平等なはずなのに、先生が 私たちに指示するのはおかしい」、「先生は、私たちを教えて給料をもらっているのに、いばるのはおかしい」といった不 満を口にしていました。社会的な成長のなかで形成されていくものとして自分の本質をとらえていないので、この世に生 まれ落ちたときから大人と対等な一人前の人間だと自分のことを思っているのでしょう。ここには、社会化による成長と

いう観念が欠落しているように思われます。 昨今の教育現場では、かつて教師と生徒のあいだに成立していた役割演技の関係が成り立ちにくくなっています。かっ ての生徒たちが教師の言葉には従うべきだと感じていたのは、人間としての個人的な魅力を教師に感じていたからではあ りません。もちろん、そういうケースもあったことを否定はしませんが、多くの場合には、教師という役割主体が、その 演技として発した言葉だったからです。教師と生徒の関係は、素の人間どうしが付き合う親密性の関係ではなく、それぞ れが教師と生徒という役割を演じあうことによって形成される公共性の関係でした。教師の強制力は、彼に付与された役 割によって支えられていたのです。 ところが、生徒たちのあいだに社会化による成長という観念が失われてくると、教育の指導的な側面は敬遠され、支援 的な側面だけが注目されるようになります。教育がサービスとしての色彩を強め、教師の強制力は逆に色あせていきます。

学校に集う人びとの主観的な差異を抑圧して、教師には教師の役割を演じ、生徒には生徒の役割を演じることを期待する という、従来の学校制度が潜在的に保持してきた公共性が、なかなか成立しえなくなってくるのです。

こうして、教師と生徒のあいだの役割演技の関係が崩壊しはじめた結果、学校空間の従来の公共圏的な性格は肥大化し た親密圏によって侵食され、その容貌を大きく変えつつあります。だから、さきほど引用した喜入も指摘するように、

「先生は神様ではないのに、どうして私という一人の人間を評価できるのですか」という不満が生徒のあいだに出てくる

のです。教師の評価は、生徒を演じている役割主体としての自分に向けられたものではなく、全人格的な一人の人間とし ての自分に向けられたものと感じられるからです。「生徒としての自分」という意識が希薄になっているので、自分の全 体像が評価されているように受け取られるのです。

最近の子どもたちが、そのふるまいから推察すれば未熟なはずなのに、どうにも大人びて見えてしかたないとよくいわ れるのは、彼らが社会化に対するリアリティを喪失しているからです。自分は、生まれ落ちた時からすでに完結した個性 を備えており、後はその秘められた原石を掘り起こして磨くだけだと思っているからです。いまの自分にとって重要なこ とは、自己の深淵に眠っているはずの「真のすがた」に気づくことであって、社会生活の中でそれを練り上げていくこと ではないと感受されているのです。

最近の若者たちは、かつて「腹がたつ」とか「頭にくる」などと表現していた心の状態に対して、「むかつく」という 表現を多用します。本来、「むかつく」とは、胸がつかえてすっきりとしない、なんとなく吐き気をもよおす、などとい った生理的な感覚を示す言葉でした。しかし最近は、ある状況や人物を不快に感じたり嫌に思うときに、この言葉が使用 される傾向にあります。

不倫快な心の状態を表明するためにこの言葉が好んで使用される背景には、その心の状態がまさしく生理的な感覚に近 いものとして感じられるようになってきたという事情があるでしょう。私たちが胃の「むかつき」を覚えるのは、生理的な感覚であって、心理的な状態ではありません。同様に、ある状況や人物を不快に感じるのは、昨今の若者たちにとって は生理的な感覚にきわめて近いものなのだろうと推測されます。

ところで、「むかつく」が生理的な感覚の表明である以上、そのような嫌悪感をいだくに至った社会的な根拠は問題と されません。「むかつく」は、「腹がたつ」や「頭にくる」などとは違って、怒りの矛先をしめす目的語を必要としない自 己完結した表現なのです。そこでは、そう感じてしまった自分の感覚こそが、ともかく優先されます。彼らの最大の関心 事は、その自分の感覚とどう付き合っていくかにあって、そう感じるに至った理由はさほど重要なことではないのです。

このような感受性の変化は、社会学者のベラーの言葉を借りて、〈善いことーbeing goodー〉から〈良い感じーfeeing goodー〉への評価基準の変化といってもよいでしょう。自分の感情や行為が妥当なものであるか否かは、かつては社会 的な基準に照らし合わせて決まるものでしたが、いまや自分の生理的な感覚や内発的な衝動に照らし合わせて決まるもの となっているからです。ベラーがそれを「表出的個人主義」と呼び、説明するように、「行為はそれ自身では正しいとも 間違っているとも言えない。ただ、行為のもたらした結果が、また行為が引き出したあるいは表出した『いい感じ』が行 為の善し悪しを決める」のです。評価の基準は、自分の外部にあるのではなく、自分の内部にあるのです。 ものごとを判断する際に若者たちが重きを置くのは、ともかくそう感じている自分たちの直感です。「私が本当に感じ ているものは何なのか」、それがもっとも重要な判断材料なのです。たとえば、学校で「廊下を走ってはいけない」と教 師が生徒に注意すると、「いけない理由は何ですか。こんなに広くて気持ちのよい場所なのに」といった答えが返っ るといいます(「教育の森」『毎日新聞』二○○○年五月一三日)。そう感じる気持ちは自分以外の誰のものでもないので すから、そこに口出しをされても反発を覚えるだけなのでしょう。

教師の側にしてみても、〈善いこと〉については指導の対象とできるでしょうが、〈良い感じ〉については口の挟みよう がありません。そう感じてしまう人間に向かって、そう感じてはいけないと迫ることは不可能です。ある特定の気持ちを 抱くように強制することなどできません。「善いか悪いか」と違って、「好きか嫌いか」については、いわゆる「べき論」は通用しないのです。

若者たちに圧倒的な人気を誇る歌手、浜崎あゆみの歌は、そのほとんどが自分語りのようなものですが、若者たちはそ こに共感を覚えるといいます。たとえば、彼女が自ら作詞した『Fly high』には、次のような一節が出てきます。「(編集 の都合上、歌詞は省略)」。ここに端的に示されているように、若者たちにとってなによりも重要なのは、自らが考える言 葉の社会的説明力の強さではなく、自らが感じる内発的な衝動の切実さです。

現代の若者たちは、自らのふるまいや態度に対して、言葉による根拠を与えることに熱したる意義を見出さなくなって います。それらは、いわば言葉以前の内発的な衝動の発露であり、言葉によって構築された観念や信念に根ざしたものと はみなされなくなっているからです。彼らは、自らの身体的な感覚をきわめて重視し、心や感情の動きといったものも、 その身体感覚と同質なものとして捉える傾向を強めています。そして、「個性的な自分」の根拠も、そこに見出そうと躍 起になっています。だから、彼らの個性志向は内閉的に進んでいくことになるのです。

したがって、学校の授業がよく分からなくて退屈だと感じるなら、じっと我慢をして席に座った生徒を演じつづけるよ りも、教室をうろついたりお喋りをしたりしたほうが、よほど自分らしいふるまいだということになるのでしょう。また、 学校に行くこと自体になんら積極的な意義を見出せないと感じるのなら、無理をして通いつづけるよりも別の居場所を探 したほうが、よほど自分を大切にしていると思えることになるのでしょう。

彼らは、自分自身でさえもいかんともしがたいような、すなわち自分の意思では統御されえないような、自己の深淵か らふつふつと沸き上がってくる自然な感情のあり方こそ、自分の本当の「キャラ」だと感じています。彼らの絶対的な価 値は、そこに置かれています。だから、その感情をそのまま放出することこそ、本来の「自分らしさ」の最高の発露だと いうことになるのです。

ところが、言葉によって構築された思想や心情が時間をこえて安定的に継続しうるのに対して、自らの生理的な感覚や内発的な衝動に依拠した直感は、「いま」のこの一瞬にしか成立しえない科那的なものであり、状況次第でいかようにも 変化しうるものです。したがって、その直感に依存した自己は、その持続性と統合性を維持することが困難になります。 各々の場面にいた自分は、相互の脈絡を示すことなくそれぞれがばらばらに併存しているだけですから、その場その場で 直感された自分のたんなる寄せ木細工のようなものになってしまうのです。

最近の子どもたちを眺めていると、同じ人物の行動であるはずなのに、その行動の相互のあいだにまるで一貫性がない ように見えるのはそのためです。たとえば、ある保護観察官は次のように語っています。「個々の場面ではいいことをす る子もいるんですが、それが他の行動に結びついていかない:たとえば、老人ホームに行ってお年寄りの世話をしたり するのが好きで喜ばれている中学生がいるんですが、この子が同級生や教師に暴力を振るう。それも、同級生に声をかけ たのに返事をしないで通りすぎたというだけで全治二ケ月の大怪我を負わせているんです。これは、どう考えたらいいの か、私にはまったく分からない」。

こうして、生理的な感覚としての「自分らしさ」を希求する人びとは、やがてその「自分らしさ」そのものを見失って いくことになります。彼らの自己意識が断片化し、拡散していくからです。それぞれの場面の雰囲気に応じて、その時々 に沸き上がってくる内発的な衝動に突き動かされているだけなので、いまの自分がさきほどの自分とはまったく別の存在 であるかのように感じられ、そのあいだに一貫したアイデンティティを感じとることが困難になっていくのです。

自己意識の断片化した人びとにとって、個々の場面で経験する一つ一つのエピソードは、あたかもテレビのチャンネル を次から次へとザッピングして眺める番組のようなものです。生き生きとしたリアリテイをもって迫ってくるのは、いま 眺めているそのチャンネルの番組だけだからです。そこに全神経が投入されるので、さっきまで没入していたはずの他の チャンネルの番組は、すでに意識のはるか彼方へと追いやられています。同様に、「いま」というこの時間が、過去から 未来へという時間のなかに位置づけられて相対化されることがなくなると、「わたし」という存在も、たった「いま」のこの瞬間にしかリアリティをもって感じられなくなるのです。

女子高校生に対する綿密なインタビューにもとづいて構想されたという村上龍の小説『ラブ&ポップ』の主人公の高校 生は、「大切だと思ったことが、寝て起きてテレビを見てラジオを聞いて雑誌をめくって誰かと話をしているうちに本当 に簡単に消えてしまう」と監ぎます。わずかな時間さえ自分が保てないというこの焦りにも似た感覚は、近年、少女たち の多くが持ち歩いている濃密手帳にもよく反映されています。

濃密手帳とは、微細な文字で埋めつくされたスケジュール帳のことです。帳面の上では、空白の時間は文字どおりに真 っ白な空欄となって可視化されてしまいます。彼女たちは、この空白の時間を極度に恐れて、細かな文字で紙面の全体を 隙間なく埋めつくすのです。ここには、「いま」に対する切羽っまった感覚がよく表れています。

私たちは、時間をこえた自己の統一性を実感していれば、過去から未来へという時間の流れのなかに、現在の自分を位 置づけることができます。時間軸のなかにわが身を置くことで、生きることに疲弊するまでただ闇雲に「いま」を走りっ づけることなく、ちよっと立ち止まって息をついたり、未来を見つめたり、過去を振り返ったりといった余裕を持っこと ができます。「いま」という時間に相対的に接することができるのです。

しかし、未来にも過去にも実感がなく、時間に対する余裕の感覚を見失ってしまった自己は、かけがえのないたった 「いま」のこの間にしか、その生の感触を得ることができません。したがって、っれにシしてしまうまで、この 「いま」を濃密な時間で埋めつくさないと安心していられないのです。「いま」という時間にポッカリとできた空白は、 自分の存在そのものをまるで全否定しているかのように思えてしまいます。だから、彼女たちは、なかば強追神経症的に、 その空白を埋めようと躍起になるのです。

濃密手帳には、もちろんこれからの予定も書き記されていますが、むしろそのほとんどは、時々の出来事を日記のょう に書き連ねたものです。彼女たちは、自分の所有する時間の濃密性を表すメタファー(隠喩)として、極度に小さく凝縮 された微細な文字を使いこなします。その細かな文字によって埋めつくされた紙面を眺めることによって、この世界における自分の存在を確認し、そこに生のリアリティを定着させようと試みているのでしょう。時間軸が有効でないと、記憶 は成立しません。記憶が成立しないから、記録しようと懸命になるのです。

生来的な属性に個性を感じる人びとにとって、その個性はダイヤの原石のように固定的なモノとして感受されています。 ところが、そこから派生した内発的な衝動を重視するメンタリティは、自己意識を断片化していきます。ここに、自分の 個性は普遍的な実在であるはずなのに、それを実感できない断片化した自分というパラ以ク刻「(遡説)が生じることにな ります。個性とは一貫したもののはずだという幻想が、逆に焦燥感を高めていくのです。

(土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』より)

 

設問1 なぜ傍線部のパラドクスが生じることになるのか、筆者の考えを三○○字以上三四○字以内でまとめなさい。

設問2 つぎに掲げるのは、この文章のすぐ後に筆者が引用している、ある少女の投書です。この投書が仮に新聞の相談 コーナーに寄せられたものであって、あなたがその回答者ならば、この相談に対してどのように回答しますか。三六○ 字以上四○○字以内で書きなさい。

私は、自分らしさというのがまったくわかりません。付き合う友達によって変わってしまう自分、気分によって変わ ってしまう自分を考えると、いったい何が本当の私なのかわからなくなります。自分には個性がないんじゃないかとずっと悩んでいます。

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