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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 2002年 過去問

2002年 慶應義塾大学  文学部 小論文 課題文

A、B、Cの三つの文章を読み、設問に答えなさい

(設問1)三つの文章において「らかにしながら説明しなさい(三六○字以内)。

(設問2)「何かをわかる」とは、どのようなことだろうか。あなたにとって関心のある具体的な例をあげて、あなた自身の考えを述べなさい(四○○字以内)。

A

 科学技術の発展は目ざましく、先端化していくにしたがって、科学技術の研究者といえども自分にごく近い隣接分野がどのような状況にあるかはなかなかわからない。一般の人々にとっては、「クォークに質量のあるこがほぼ確定した」といったニュースを聞いても、それが何を意味するのかはまったくわからない。

 一方、ダイオキシンはがんやその他の病気の原因になるということが広く知られるようになって、自分たちの近くにダイオキシンがあるかどうかについて、つねに敏感になっている。しかし、ごみの焼却炉からダイオキシンが発生すると言われても、どのような燃やし方をしたときにどの程度とわかる」「理解する」ということはどのように考えられているか。それぞれの違いを明たの濃度のダイオキシンが出るのかといったことは、よく理解できない。また、ダイオキシンはどのような経路で人体に入り、どの程度の量でどのような被害をおよぼすかといったことも、かんたんにはわからない。

 そこで科学技術の内容を一般の人たちにわかるように解説することを専門とする科学技術ジャーナリストが登場することになる。科学技術ジャーナリストは、以前は主として科学技術の解説雑誌に記事を書いていた。ただ最近になって、いくつかの新聞が科学技術のための紙面をもうけるようになり、テレビでも遊び感覚でおもしろさを感じさせながら、科学や技術を一般の人々にわからせる番組をつくるようになってきている。

 こういった科学技術ジャーナリズムの努力は高く評価すべきであるが、いろいろと問題も存在する。たとえばテレビの天気予報において、明日午前に雨の降る確率は二○%であるといった表現をとっているが、これは午前中に半時間程度雨が降るという意味なのか、ばらばらとした雨がずっとつづくのか、あるいは降るか降らないかだが、五日に一日は雨になり、明日はその確率でのギャンブルだといっているのか、多くの人にその意味がわかっていない。ふつうの人々には、雨が降るか降らないか、台風が来るか来ないかといか来ないかといった形の、いわゆるイエスかノーかの一分の法的説明でないかとなかなか理解できないという一般的傾向がある。したがって、むずかった形の、いわゆるイエスかノーかの一分法的説明でないと、なかなか理解できないという一般的傾向がある。したがって、むずかしい科学技術の内容を、しばしば単純に割りきって述べることになってしって、正確な内容から隔たった理解をさせてしまう危険性がある。

 科学技術ジャーナリスト自身、説明しようとする内容を十分に理解しているわけではないというところにも問題がある。かなり短絡的な結論を出してしまったり、新しい発明・発見をしたという研究者から取材して、その研究者の言うことを鵜呑みにして書いてしまって、じつはかたよった見方を読者に植えつけてしまうという危険性もある。情報公開という言葉が近年しばしば言われるようになってきた。政府のもつ情報資料の公開、あるいは政府の審議会や委員会の議事内容の公開が積極的にインターネット上におこなわれるようになって、多くの活動内容が一般社会の人たちにも理解されるようになってきつつある。一○○一年四月には、情報公開法が施行されることになり、個人のプライバシーにかかわらない、かなりの範囲の国の情報が、請求によって開示されることになった。

 それでも、すべてのことが公開され、十分な監視とチェックの下におかれることはできず、いろいろと思わぬ事故をおこしてきた。情報の公開とともに、どうすれば第三者的立場から十分なチェックをして、安全性を確保していけるかは、これからの大きな課題である。科学ジャーナリズムにおいても、よく検討すべき問題であろう。たとえば原子力のような複雑なものは、科学ジャーナリズムなどが適切に橋わたしをしなければ、一般の人たちには、客観的な立場からのものの見方をすることは、たいへんむずかしいのである。あることがらに対する科学的説明は論理的で、その範囲内においては反論の余地のないものであることがほとんどである。しかし、それでも社会の多くの人々を納得させることのできない場合があるのはなぜか、を考えることが必要だろう。

 それにはいろいろな理由があるだろう。一つは、その科学的説明の前提となっていることが、ほんとうに確信のもてることなのかどうかということである。もう一つは、論理的、科学的説明といっても、説明に用いられる推論規則は絶対確実なものではない。九九・九九九%まちがいないといわれても、○・○○一%の確率でおこる可能性があるとすれば、それに対する心配がある。また理論がまったく予想しない条件が生じないともかぎらないという心配もある。原子力発電所の建設などに対する反対は、そういうところから生じていると考えられる。

 もう一つのタイプの心配は、体外受精の適用範囲の拡大、脳死判定と臓器移植などにおける人間の倫理観や文化に深く関係する問題である。この種の問題については、科学的内容の説明が、人間感情というまったく次元のちがう要素に対して効力を発揮することを期待することはできず、人々を納得させることはむずかしい。

 もっと直接的に個人に関係するのは、インフォームド・コンセンドであろう。自分の病気がどういうものであり、どういう手術をしたら、どのようになるか、手術の成功率・危険性はどのように判断したらよいか、といったことすべてについて、医者の説明を聞き、それを理解し、医者の助言によって自分が判断し、決定しなければならない。そのった形の、いわゆるイエスかノーかの一分法的説明でないときに、完全に理解して明確に決定することができないという場合が多いだろう。しかし、自分の運命は自分が選択しなければならず、そのためには納得のいく説明を受け、十分な理解をする努力が必要になる。医者の側でも、患者の病状だけでなく、その人の年齢、家庭環境、経済力、その人のもつ人生観・価値観についても考えに入れて、助言することが必要となるだろう。説明はあくまでも客観性を失ってはならないが、科学的側面だけでは決定できないのである。

 科学的な説明は論理的なものであり、そのようにして説明されたことはまちがいがないから、人はそれにしたがわねばならないと一般に思われているかもしれない。しかし、論理的な理解のほかに身体的レベルにおける理解、心の底から納得できる状態というものがあって、これは必ずしも論理的なものかどうかはわからないが、個人にとってはむしろこの納得のほつがはるかに優位にある理解の状態といってよいだろう。客観的真理が絶対的なものでなく、それを超えた理解の状態の大切さということにもっと目を向けるべき時代にきているのではないだろうか。

(長尾真『「わかる」とは何か』に拠る)

B

 二次元の平面に三次元の事物世界を描くというのが絵画の根本条件である限り、三次元の物体の立体形こそいつの時代のどの国の画家にとっても関心の核心であったはずである。事実、透視画法の発明は西洋絵画史上の画期的事件であったし、東洋絵画にとってはその輸入が画期的なでき事であった。

 しかし立体形とはそれほどわかりきった概念であろうか。そうでないことはわれわれの身辺にあって最もありふれた立体形の一つである人間の形を考えてみればすぐわかる。人体という立体形の把握はた易いものではない。様々な動きによって千変万化するし、その一つの姿勢に限ってもそれを見る距離と角度によって限りなく変化する。この無限の変化をいくばくかの省略を加えてでも理解していなければ人体を把握したなどとは到底言こえないだろう。

 人体のような自然物の余りに複雑過ぎる立体形はしばらく措いて、コップとか机とかのもっと単純な立体形状を例にとって考えてみよう。

 そしてある一つの立体形状、たとえば三角錐や円筒、机や椅子の形を知態の大切さということにもっと目を向けるべき時代にきているのではないだろうか。でいる、聖解いでいるとはどういうことなのかを考えてみたいのである。ところが立体形を一挙に見でとることは不可能であり、われわれにできるのはある一つの視点からそれを見ることだけである。だからわれわれに可能な立体形の知り方は、あらゆる視点から見た場合の「見え姿」を知っている、ということが最大限であり、それ以上は無理として断念しなければならない。だがこの可能性の上限に到達することですら容易ではない。こで、あらゆる視点はあきらめて有限箇のサンプルで我慢するか、あるいは任意の視点を指定されればその視点からの見え姿を作図できるようなアルゴリズムを知っているということで我慢する。このアルゴリズムは自動車の見え姿や動く対象の姿を見せるコンピューターグラフィクスで実用されているような明確なものである必要はなく、視点を指定されればそこからの見え姿が大体こんなものだと見当がつけられる程度の大まかなものであってよく、かくかくしかじかと明記できないで概略承知しているといった心理的準備であってかまわない。そういったものが現にわれわれが各種の立体形状を知っているという場合の実情だからである。

 しかしこの程度の曖昧さを持っていても次のことを確認するには十分だろう。すなわち、「ある物Xがある立体形状Aである」ということの意味は、上述の意味で視点を指定したならばかくかくの見え姿をしているということである。換言すれば、立体形状の意味は特定視点からの見え姿の無限集合である、と。このことの特別に簡単な事例として、工作物の設計図が正面図、側面図、平面図からなることがある。それに鳥獣図を加えても要するに、その工作物の立体形状の意味である見え姿の無限集合の中から三、四の要素を描きだし、他の見え姿はそれから作図構成できるようにしたものである。

 しかし先に述べたように各視点からの見えの無限集合を把握することは不可能であり、辛うじてその集合を生成するアルゴリズムあるいはそれに相当する心理能力を持つのが精一杯なのだから、立体形状の意味を完全に知ることはできず、また完全に知る人もいないということになる。それは当然で、人体とか柳の木とかの立体形状を完全に知ることなどは誰にもできない。われわれの社会で流通している立体形状の意味は、省略や変形を加えた不完全なものであり、完全な意味に対する近似であるに過ぎない。ただ、三角錐、円筒、球、といった単純な幾何学的立体形状の意味は、ほぼ完全な形のものが可能である。何よりもそれらの単純な立体は、その無な限箇の視点からの見えを簡単に作図する幾何学的な方法があるからである。いずれにせよ、ある立体形状が一体どんな形なうことは、無数の視点からの見え姿をどんな仕掛いることに他ならない。それ以外には考えられな意視点からの見え姿の無限集合である、というのているのである。

 知覚正面(見えているものの正面)の無限集合としての三次元物体の意味はまた、人間である限り画家にも受けつがれてきている。だが彫刻家と違って壁面やキャンバスの二次元平面上に物体を描かねばならぬところから、三次元物体の意味に特段に敏感にならねばならない理由がある。三次元物体を平面上に描くとき最初にとられた方法は、知覚正面を丹念に写生することだった。そこで大切なのは知覚正面として見えていない部分、例えば机の背後や側面は描かないのはもちろんだが、例えば机の後脚上部のように遮断されて見えない部分も描かないことである。幼児の画ではこれがしばしば破られていることは誰もが目にしたことがあるだろう。この知覚正面をできるだけ忠実に描くという方法を意識的に追求してゆけば、あの透視画法にやがて到達することを理解するのはた易い。だがそれだけではなく、光による明暗の利用、特に陰影付けもまた知覚正面の忠実な写生の中で気付かれ意識的に追求されたもので、その好例をレンブラントに、その極端なものをデ・キリコに見ることができる。

 しかし三次元物体の描き方は知覚正面の写生に限るわけではない。現に幼児は知覚正面などさして気にかけないで机の面にいきなり四本の足をつけてしまう。幼児にとって机という立体は、後脚もまた机面に接続しているのである。この幼児が解している机という立体の意味がそうなのである。この幼児の解する机の意味に多少の変形を加えて整頓するならば、机の前面の視点からは前脚二本が机の面に接続する知覚正面、机の後方の視点からは後脚二本が机の面に接続する知覚正面、という二つの知覚正面の集合ということになり、それは言うまでもなく三次元物体の知覚正面の無限集合という公共的意味の部分集合になっている。そしてこの幼児はこの二つの異なる視点からの知覚正面を無雑作に重ねて描くのである。だがこれこそビカソやブラックといった巨匠のキュビズムの描法の萌芽に他ならななぜなら、複数の視点からの知覚正面を重ねて描く、というのがキュビズムの描き方の本質だろうからである。それゆえ、平遠、深遠、高遠という三つの視点を重ねて描く中国宋代の山水画もまたキュビズムに属していると言えるだろう。

 こうした意味でのキュビズムの描法を採る画家は、意識するか否かは別として、上述の知覚正面の無限集合としての三次元物体の意味に従って立体を描いた、と言えまいか。一二次元物体のこの意味を平面上に展開するならばキュビズムの描法が得られるだろう。もちろん無限の知覚正面は人間には不可能事であるから、そこに不可避の省略が行われて有限箇の知覚正面の展開図にならざるをえないであろう。そこでどの視点からの知覚正面を選びどのようにして重ねて描くかはその画家が美的にすることであって、機械の設計図を描く場合とは全く異なっている。しかし画家も設計者も立体形を平面的に展開して描く、という点では全く同じ動機に従っているのである。

(大森荘蔵「キュビズムの意味論」に拠る)

C

 「分かる」、とはどういうことだろうか。

 「分かちもつ」、とはどういうことだろうか。あなたではないわたしが、わたしではないあなたが生きる〈現実〉を、あなたの経験を、あなたの痛みを、分かちもつ、とは、どういうことだろうか、それは、いかにしたら可能なのだろうか。

 それを可能にするのは、わたしとあなたの経験の同一性、なのだろうか。たとえば、「同じ女」としての経験とか、「同じ**」としての経験、とかいうような。でも、わたしはあなたではなく、あなたもわたしではないとすれば、同一と思われた経験のなかにも、幾重もの差異が織り込まれているにちがいない。「分かる」とは、そのような差異の存在を無視して、同一性に基づいた「私たち」と、「私たちならざるもの」を分かつこと、なのだろうか。たとえば、「私たち女」と「彼ら、女ならざるもの」というように。

 絶対的に分かたれた、その境界線のあちら側とこちら側で、私たちが「分かる」ということ、「分かちもつ」ということ、それは、可能なのだろうか。可能であるとすれば、いかにして可能なのか。私たちは、果たして何を共有しているのだろう。私たちが、やがて死すべく運命づけられた存在として、今、この世界で、わたしがあなたではなく、あなたがわたしでということはないという他者性を生きている、うことのほかに。

 たとえば『私という旅』ーリサと嘆恵という、親密なふたりの女性のあいだで交わされた対話、濃密でひそやかなテクスト。

 移民は、一世はもちろん、言葉の上では完全なネイティブ・スピーカーに見える三世までもが、その言語が内包する意味的世界を自分のものにできずにいると言います。これは、私にも痛いほどよくわかります。こんなに流鶴に日本語を話しているようでも、私にとって日本語はやはり未だに外国語です。外国語が上手になってもぬぐい去ることのできない限界と暗闇を、私は日本語に対しても外国語同様、度々感じるからです。その意味的世界の外に私は立たされているのだ、と。(:)では、こんな私にとっての母語とは何でしょうか。そもそも母語と呼べるものはあるのでしょうか。母語を奪われている状態とは、至高の現実をもちえない状況だと言えるでしょう。そこから発生する不安や自明性の喪失を抱えて生きなければならないということ。

(『私という旅』第二章「権力資源としての言語」より、鄭嘆恵の発言から)

 日本語を解する者、日本語を母語とする者がこれを一読して明らかなとは、嘆恵がここで語っていることに曖昧な点は一つもない、というこだ。日本語を母語としながら、しかし、母語であるはずのそれが外国語であらざるを得ない、母語を生きるということが、母語の意味世界からの疎外でしかあり得ないという〈現実〉。

 私(たち)は嘆恵の、その言葉の意味するところを、おそらく、ほぼ完壁に理解することができるだろう。だが、思うに、アポリテはまさに、そこにこそ存在するのではないだろうか。母語の意味世界からかいりが媒介する世界との乗離を生きざるを得ないという、その痛みをともなうの疎外、母語〈現実〉が、自らをその意味世界の外部へ放擲しているはずの母語それ自体によって、母語を母語として生きる者たちに過不足なく理解されてしまう、ということのなかに。母語と、母語が媒介する世界との乗離など知らない者たち、母語を自明なものとして生きている者たち、自らが生きているその世界と自らの存在が、透明な言語によって無媒介的に繋がっている者たち、〈世界〉との至福の連続性を自明のものとして生きているであろう者たちに、その言葉は、あたかも透明であるかのごとくにーあたかも、言葉と世界のあいだの乗離など存在しないかのごとくにその意味するところを伝えてしまうとすれば、それは大いなる背理ではないだろうか。

 嘆恵がここで語っていること、それは、透明な言語によって媒介された意味世界の内部で幸福に生きうる者たちの社会にあって、言語の不透明性を生きるということ、言語の物質性、言語の他者性を生きるということ、その苦痛についての証言であるのではないだろうか。もし、そうだとすれば、その証言を私(たち)が真に聴き届けるということ、彼女が生きるその〈現実〉を、その痛みを、母語を母語として生きる者たちが分かちもつということは、いったい、どのようなことであるのだろうか。私には、分からない。でも、少なくとも、日本語という母語を母語として生きる者たちが、母語なるもの、言語なるもののその不透明さ、物質性に徹底的にに噴くことで、母語を母語として、自明なものとして生きているかに見える私(たち)自身のアイデンティティを脱臼させることが、必要なのではないだろうか。

(岡真理「私、「私」、「「私」」:M/other(s)Tongue(s)」に拠る)

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