[responsivevoice_button voice="UK English Female" buttontext="Listen to Post"]

年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 2001年 過去問

2001年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

問題以下の二つのテクストを読み、設問に答えなさい。

(設問1)

テクスト1とテクスト2を踏まえ、一九五○年代から一九七○年代の日本における西洋音楽への対応について略述しなさい(三○○字以内)。

(設問2)

 一九八o年代から新世紀にかけての日本における欧米文化への対応とはどのようなものか。対象を必ずしも音楽に限定せず、あなたにとってもっとも関心の深い文化の領域を一つ選び、あなた自身および社会全体の問題として論じなさい(四○○字以内)。

テクスト1

 私は、クララ・ハスキルの演奏を三回聴くことが出来た。そのことを話すと、ヨーロッパの音楽友達はかならず「君は運がいい」と言う。

 それは、この女流ピアニストが十八歳頃に一種の墜原病に冒されて以来、生涯を通じ極めて病弱であったため、予定されていたコンサートもキャンセルされることが多く、ヨーロッパにいても彼女の演奏を実際に聴くことはなかなか難しくて、それは「幸運なめぐり会い」に近いと考えられていたからである。

 私にとってのその「幸運なめぐり合い」は、一九五五年十二月十五日のフェスティヴァル・ホールが最初であった。この夜はルドルフ・ケンペがロンドン・モーッァルト・プレイヤーズを指揮してのコンサートであったが、ハスキルは、モーッァルトの『ピアノ協奏曲第二十七番(K五九五)』を弾いた。

 私は、その数か月前にロンドンに来たばかりで、ヨーロッパの楽壇や演奏家についての知識も少なく、クララ・ハスキルが何者なのかも全く知らなかった。このコンサートの切符を買ったのも、ピアニストへの関心よりも、それまでにシュナーベルやカザドシュのレコードを聴いて好きになっいた、このモーツァルト最後のピアノ・コンチェルトを、演奏会で実際に聴いてみたいと思ったからであった。

 その夜、ステージに現われた彼女を見た最初の印象を今でも忘れられな瞬私は、年を取った婦人が、ピアノの鍵盤を拭くために上がって来たのだと思ったのである。彼女は銀髪を無造作に束ね、つま先までの真っ黒なだぶついたスーツを着ていたが、何の飾り気もなくトボトボと歩いて来て、ピアノの横で聴衆に向かってピョコリとお辞儀をした。その姿は、市井でよく見かける平凡な老婦人の姿と何も変わらなかった。ケンペはそういう彼女をかばうようにして指揮台に上ったが、やがて、冒頭のさざめくような弦の響きが聴こえてきた。オーケストラによる長い序奏の間、ハスキルはみじろぎもせずに座っていたが、曲が進むにつれて彼女の頭が段々に下がってきて、彼女の指が第一打を響かせた時には、彼女の首が肩の線より低いように見え、鍵盤に吸いつくような感じになってた。

 しかし、そんな姿勢から彼女が打ち出した音を聴いたとたんに、私はすぐに、これは今まで聴いたいかなるピアニストの音とも違うと感じ始めていた。どこが違うのかを言葉で言い表わすのは実に難しいが、一っ一っの音が異常に高い純度で結晶していて、それらがきらめくようにつながっているという感じであった。A彼女の指先は、柔らかく繊細であると同時にしっかりと力強く、それが実に明るい透徹した音を打ち出すのである。圧巻は、第二楽章のラルゲットで、まるでモーツァルトの魂から出た音の一つ一つをハスキルの心がしっかりと受け止めて、それを空間に向かって深く刻み込んでいるように聴こえた。一つ一つが凝縮しきった音は、怖ろしいほど澄みきって明るく、そして悲しかった。驚いたことには、第三楽章の速いパッセージに入っても、音の結晶度が崩れたりゆるんだりせずに、固く引き締まったままで、ただ音の間隔が流れるように速くなるということであった。こんなに濁りのない音楽が一体あるのだろうか。これこそがモーツァルトの精髄とでもいうものではないだろうか。私はこの時に受けた鮮烈な印象を四十年たった今日でも忘れることができない。

 ハスキルはこの曲を、フェレンツ・フリッチャイ指揮のバイエルン管弦楽団やクレンペラー指揮のケルンのオーケストラと録音している。それらを聴いていると、古いメカニズムが避けられない音の限界や制約を超えて、あの時聴いた「この世ならぬ音」を、何度でも心に響かせ感動を新たにすることが出来る。そしてそれは、私にとって実に有り難く貴重なことである。

植村攻「巨匠たちの音、巨匠たちの姿一九五O年代・欧米コンサート風景」

テクスト2

 一体どういうことが起こったか。ここを皆さんに聞いていただきたい。ここだけ聞いていただけば、私はもう今日は言うことない。それは、世界各国のジャズが、日本では日本のジャズ、ヨーロッパではヨーロッパのジャズとして自立できたのです。つまり、それまでの日本のジャズというのは、ひたすらアメリカの模倣であったわけです。お前たちの演奏はまるでアメリカ人の演奏のようだというのが大変な褒め言葉だったんです。これはレコードに残っておりますから、皆さんお聴きください。大体六O年代終わり近くまで、日本のジャズメンが吹き込んだレコードのレパートリー、演奏曲目は、殆どアメリカの曲なんです。しかもアメリカの有名なジャズメンがやって当たったような、そういう名演レコードに、なるべく近い演奏をやろうとした。本場はアメリカ、日本人はその真似をしている。うまく物真似した奴がよいジャズ・プレイヤーというような風潮があった。だからアメリカの、お前のサキソホンはソニー・ローリンズにそっくりだと言れて喜ぶ、そういうのが大体六○年代の終わり頃まで、続いた現象です。ところがフリー・ジャズというものが起こりまして、黒人は黒人音楽のルーツを追及する。ルーッを追及するばかりでなしに、いわゆる非ョーロッパ音楽、っまり世界の民族音楽、殊にインド音楽がそこで注目されたんですけれど、あるいは中近東の音楽、日本の音楽とか、非ヨーロッパ圏の音楽を取り入れてやろうというような運動が起こった。そうすると例えば日本の音楽を取り入れるのは日本の人に敵うものはおりません。それですから日本人もそこですっかり考えを改めまして、ここに全世界のジャズが、それぞれのナショナリズムを確立させるに至ったのであります。でありますから、日本のジャズというものが本当に面白くなったのは、この一九六八年、九年、七○年以降であります。世界の若者が荒れ狂った六○年代に、反抗の伴奏音楽のように栄えたフリー・ジャズが残したのは、意外にもナショナリズムの確立という非常に大きな成果であったように思うのです。

 その明瞭な成果は、今日、山下洋輔トリオに現れております。これはお聴きになった方も多いと思う。山下洋輔がトリオでデビューしたのが一九ハ九年の春で、デビューした途端に私はこれは素晴しいグループが出たと思い、早速ビクター・レコードに吹き込みをさせました。山下洋輔トリオは七四年以降ヨーロッパに遠征して、ヨーロッパで大変な人気を呼んだ。

 彼の音楽は一度お聴かせしないと何のお話をしているかわかりませんでしょうが、いわゆるこれが音楽か、というような音楽を演奏する。(笑)もし日本人が素っ裸になって、何物にも束縛されずにピアノを弾いたら、そこに何が残るか、1手癖だけが残る。日本人であるからには日本人としての手癖が残る、という言葉を吐きました。これなかなかの名言なんです。それまでの日本のジャズは、ずっとアメリカの模倣に終始してきたと言いましたけれど、それとは別に、何とかして日本のジャズというものを確立しようという運動はずうっと昔から続いてきていたのです。ジャズが渡来した時からそういう意欲はあった。ところが、じゃあアメリカのジャズと違う日本のジャズというものは一体どういうものだろう。ここでみんなとまどっちゃった。「佐渡おけさ」をジャズふうにやったら、日本のジャズじゃないか、なんていうことを真面目に考えた時代も実際にある。

 皆さんだって困ると思うのですが、例えば、あなたがアジア人の間に人だけ連れ出されまして、君は日本人だそうだけど、本当に日本人か。その証拠を見せろと言われましたら、どうしますか。素っ裸になって、これがあるから俺は日本人なんだといえる証明をお持ちでしょうか。今の日本人に一番欠けているのがそれだと思うのです。明治開国以来、西洋化の道を日本人は適進して来た。だからもう日本人は、洋食、和食、そんなことにこだわりなく食べていますし、音楽にしたって世界の音楽を聴くでしょう。かえって日本の音楽のほうを聴いてないぐらい。とにかくそういう具合にして、非常にインターナショナルなマインドを持っている今日の日本人、この今日の日本人が、今日の日本の音楽を作ろうとする場合、一体どうやったら日本人のジャズと言えるものができるんだと、これでみんな迷ってしまったんです。山下の言葉が一発でそれを解決したんです。どんなにやったって最後に残るのは日本人の手葬だ。これでいい。これで何が日本人のジャズかという難問は解決できた。

 だから、渡辺貞夫や日野時正が吹けば、たとえ外国の素材を使っても、日本人がやっている日本のジャズなんだ、これでいいんじゃないか。何かコロンブスの卵みたいな話になりますけれど、要するに日本のジャズとはどういうものかと、過去数十年間、日本のジャズメンが、苦しみに苦しみ抜いて来た問題が、こうしてあっさりと解決されたのです。

 山下洋輔トリオは、最初ヨーロッパに行った時、大変に驚かれ、二年目、三年目と回を重ねる毎に、あのグループを前座に出したんでは、後のグループが全部っまらなくきこえるから、あれはドルに出せということになっちゃって、どこのフェスティバルでも山下洋輔トリオは最終に出て、フェスティバルを引き締めるという役を受けもつようになりました。だからギャラも高いんです。ヨーロッパで最高のギャラを取る。

 ヨーロッパの連中のフリー・ジャズというのは、ウォーミングアップみたいなところから始まりまして、クライマックスまでに一時間ぐらいかかって、クライマックスにかかったと思ったら終わっちゃって、あんまり面白くない。山下洋輔のジャズというのは、クライマックスから始まってクライマックスで終わるんだから、もう全然素晴しいんです。「神風ジャズ」とか、「空手ジャズ」とかいろいろいわれましたが(笑)、ヨーロッパのやつはみんなダウンしちゃった。今年のニューポート・ジャズ・フェスティバルに招かれて、初めてアメリカに行きました。その実況録音のレコードが先般出ましたけれど大好評です。こうしてアメリカでも山下洋輔は大変な成功を収めた。

 今、山下洋輔の例しか申し上げませんでしたけれども、現在ではそういう具合に、アメリカ人はアメリカ人のジャズ。アメリカ人のジャズの中でも黒人のジャズ、白人のジャズ、これははっきり違う。それから日本人は日本人のジャズ、ヨーロッパ人はヨーロッパ人のジャズ、という具合に、それぞれのナショナリズムを確立して来たのが七○年代におけるジャズの新しい様相でございます。そうなると、例えば日本人は日本人だけでかたまって、他の共演を許さないようなものを作り上げるかというとそうじゃない。七○年代のもう一つ大きな動きは、そういうナショナリズムが確立された一方で、お互いにそれを尊重しながら手を結んで、仲良く一緒に共演しょうじゃないかというような雰囲気になって来ました。六○年代のフリージャズの真っただ中では、それぞれ徒党を組んで、別れ別れにやっていた。七○年代になって、それぞれのナショナリズムが確立されればされるほど、世界のミュージシャンは積極的に交流を望み出したというのが現状でございます。

油井正一「ジャズ啓蒙の四十年」

copyright 2016/Everyday school