[responsivevoice_button voice="UK English Female" buttontext="Listen to Post"]

年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 2000年 過去問

2000年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

問題次の問題文は、ある哲学者が書いた本の中の「遇うということ」と題された一章から引用したものです。以下の問1、問2のそれぞれに答えなさい

(問1)自己と他者の補完性を著者はどのように考えているのかまとめなさい(三○○字以内)。

(問H)「他者の他者としてのじぶん」とは何か述べなさい(四○○字以内)。

問題文

 じぶんというものの存在をたしかなものとして感じうるには他者の存在を欠くことはできない。しかしここで問題にしたいのは、食料だとか衣料や家屋だとか、ことばとか作法だとか、他人たちとの共同生活を維持するためには、いろいろなものごとが必要だ、という意味での他者の社会的存在ではない。そうではなくて、わたしが「だれ」かであるという、その特異性を、そのかけがえのなさを、わたしがみずからにおいて感じることのできる、その条件にかかわるような他者の存在、それがここで問題なのである。

 アイデンティティにはかならず他者が必要だ、わたしがだれであるかということーわたしのアイデンティティ、つまり「それによって、この時この場所でも、あの時あの場所でも、過去でも未来でも、自分だと感じるところのもの」ーは他者との関係のなかではじめて現実化されるとして、自他のアイデンティティの補完性を問題にするのは、R・D・レインである。

 レインは「場所」ということを問題にする。「すべての人間存在は、子供であれ大人であれ、意味、すなわち他人の世界のなかでの場所を必要としているように思われる。:少なくともひとりの他者の世界のなかで、場所を占めたいというのは、普遍的な人間的欲求であるように思われる。おそらく宗教における最大のなぐさめは、自分はひとりの大いなる他者の前に生きているという実感であろう。たいていの人びとは、人生のある時期に、彼らが幼年時代にそれを見いだしたかどうかは別にして、少なくともひとりの他人の世界のなかで自分が第一の場所を占めるという経験を求める」(『自己と他者』)。このように書くことでレインが思い描いているのは、各人にとってはじぶんがだれの他者でありえているかの感覚が、〈自己〉の同一性感情の核をなすというしが同一性感情の各をなすという仕組みである。

 生徒のいない教師はいない。患者のいない医師や看護婦はいない。教師としての、あるいは医師、看護婦としての同一性は、たとえそれが一方的な関係であっても、やはり相互補完的なものである。その意味で、いかなる人間関係であれ、そこには他者による自己の、自己による他者の「定義づけ」が含まれている。問題なのはそういう役柄の同一性でなく、端的に「だれ」としてのこの自己の同一性である。このときに他者であるのは教師でも医師でもなく、別の「だれ」という単独的な存在である。そういう意味での他者のいずれに対しても、じぶんの存在はなんらの意味をもっていないのではないかという思いにとらわれたとき、ひとはひどく落ち込む。

 人間は、他者の存在の欠落を経験するのではなくて、他者に対する他者としての自分自身の存在の欠落を経験する。彼にむかって何かをなんらかの仕方で働きかけてこない他者、彼を誘惑し、強奪し、何かを盗み、窒息させ、食い尽し、なんらかの仕方で彼を破壊しようとしない他者に悩まされる。他者はそこにいるが、彼は他社に対してそこにいない

(R・D・レイン『自己と他者』)

 求められるということ、見つめられるということ、語りかけられるということ、ときには愛情のではなくて憎しみの対象、排除の対象となっているのでもいい、他人のなんらかの関心の宛て先になっているということが、他人の意識のなかで無視しえないある場所を占めているという実感が、ひとの存在証明となる。寺山修司もある文章のなかでふれていたが、ひとは「だこにいるが、彼は他者に対してそこれもわたしに話しかけてくれない」という遺書を残して自殺することだってあるのである。

 他者の他者としてのじぶん、それを経験できないとき、ひとはどうするか。ひとつには、〈間あい〉を超えてーということは〈間あい〉がもてないということだ過剰に他者に接近しようとすることがある。他人の生をじぶんの生として生きてしまう投影的な同一化や、逆に他者の存在でじぶんを満たしてしまおうという併合的な同一化がそうだ。ここでは他者の不在が他者との同一化によって一気に否定される。駅のプラットフォームで未知の男性にいきなり「結婚してください」と話しかけた女性を例にとって、長井真理がいうには、未知の者どうしのあいだにあるべき匿名の「無関係」という関係が、間主観的な妥当性を欠いたまま、ここではいき

なり、すでにある程度の親密性を有しているかのような関係へと変更されることがある。〈間あい〉がクッションのような弾性をもちえなくなるのである。

 ところでこれら二様の同一化は、皮肉なことながらいずれも、〈解脱〉と〈救済〉といった宗教的な経験の技法と構造的に類似している。というのも、解脱というのは自己を自己自身からできるだけ遠ざける技法であり、救済は逆に、自己とは異なるものをうちに呼び込む技法だからである。自己を超えたものへとじぶんを開くこと、あるいは逆に、じぶんとは異なるものを自己のうちに呼び込むこと、これらはいずれも、じぶんを世界の側にすっぽりとゆだねてしまう技法、じぶんが世界にそっくり誘拐されてしまう技法を意味する。ところが、これがそのまま、「超越」という場面ではなく、具体的な他者との水平的な関係の場面に移行してくると、他者への過度の接近として現象しだすわけで、宗教において「伝道」がしばしあい〉がクッションのような弾性をもちえなくなるのば、他者への過剰な関心、あるいはおせっかいのような一方的で粘着的な接触として他人を暗易させることがあるのも、おそらくそのためであろう。信仰のモティヴェーションと他者への過度の接近とは、自己の存在の重心をじぶんの外に置こうとするその一点でだが、たしかに交差している。

 第二に、つぎのような幻想の解決法もある。じぶんがじぶん以外のだれによっても意味のある存在としてじぶんを感じることのできないとき、じぶんを他者として認知してくれるような他者との関係をなんとか仮構してでも、自己の存在を確証しようとするものである。じぶんの存在を意味のあるものと感じてくれるそういう他者を妄想的に設定し、そういう他者との妄想の関係のなかでじぶんをその他者にとって意味のあるものとして経験しようとする方法。被害妄想というのも、じぶんを(たとえネガティヴなかたちであれ)攻撃のターゲットとしている他者を仮構することで、そういう妄想的他者のその他者として自己を構築しようという無意識の要請というかあがきというか、それらを反映しているのだろう。そのようにしてででも、ひとはなんとか他者の他者としてのじぶんの存在を感じようとあがくのである。アイデンティティは他者との関係のなかでそのつどあたえられるもの、確証されるものであって、ひとが個としてもっ属性なのではない。ところがひとはしばしば、じぶんのアイデンティティを、「所有していたり、失ったと思ったり、捜し求めはじめたりするところの対象物」とかんちがいすることがある。そのとき「他の人びとは、一種のアイデンティティ用材料一式となる。それらをつなぎ合わせて、自分自身の肖像を組み立てるわけである」(レイン)。たとえ幻想の他者をつくり上げてでも、である。

 他者の他者としてじぶんの存在を感じるためには、ある種の隔たりというものを介在させねばならない。が、ここでは他者との隔たりが極大になっている。すれちがいや的外れというかたちでそれが現象しているわけで、それゆえにここでも〈間あい〉というものがやはり欠如している。レインは母親の子どもに対する的外れ的応答の例として、こんな会話をあげている。「五歳の男の子が、大きなふとい虫を手に持って、母親のところへ駆けてきていう。〈お母ちゃん、ほら、すごく大きなふとい虫を捕まえたよ〉。彼女はいう。〈おまえったら、きたないわ。あっちへ行って、すぐにきれいにしなさい〉」。

 この会話のなかで、母親と子どものことばはすっかりすれちがっている。母親は、虫を見せようとする子どもに対して、会話のなかでつぎのようなメタ・メッセージを送りつづけている。「おまえが虫を持っているかどうかは、わたしにとってはちっとも重要じゃないーわたしにとって一番大事なのは、おまえが清潔か不潔かということで、おまえが清潔なときだけ、わたしはお前が好きになる」というメッセージである。「おまえが好きになる」とは、「おまえを認める」ということだろう。他者に「認められる」ことが他者の他者としての自己の存在を確証するいとなみの核にあるとすれば、ここには「認める」という行為はない。

 「こんなことをしでかすやつは、わたしの息子ではない」という父のことばに、「おまえはわたしの息子だとわたしがいえば、おまえはわたしの息子だ。おまえはわたしの息子ではないとわたしがいえば、おまえはわたしの息子ではない」という父のメタ・メッセージを読み、それをさらに、「自分はこうであるとぼくがいうところの者にぼくはなる。また、自分はこうではないとぼくがいうところの者にぼくはならない」と解釈し、ついに「自分は指を鳴らすだけでなりたい者になれる」という妄想にはまった青年の例を、レインはあげている。これは他者との隔たりが極大になっている例である。そこで無意識にとられるストラテジーはいろいろありうる。会話において、隠れた意味にばかり過剰にこだわることで意味作用のレヴェルが怒意的に混同され、定義どおりの意味やメタファーが理解できなくなるばあいがまずあるだろうし、メッセージをただただ文字どおりに受けとり、言外の意味、裏の意味をいっさい無視することで、意味作用の多層的なレヴェルを単一の次元に平準化してしまうというばあいもある。そして最後は、だんまりを決め込むという、コミュニケーションそのもののカット・オフという手である。

*R・D・レイン=一九一七ー九八九。英国の精神科医・精神分析家。主著に『引き裂かれた自己』、『狂気と家族』

copyright 2016/Everyday school