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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 1999年 過去問

1999年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

問題

 次の問題文は西アフリカ内陸部のサバンナに居住する農耕民、モシ族(人ロ約ニ○○万)について文化人類学者が書いた随筆集の一章です。以下の問1、問Hのそれぞれに答えなさい。

(問1)モシ族における「もの」と「ひと」の関係を要約して述べなさい(三○○字以内)。

(問H)自分たちと異なる文化を理解するための心構えを、筆者の見方をとり入れながら、具体的な事例をまじえて述べなさい(四○○字以内)。

問題文

ものとものとひと

 近年になって私は、サバンナに生きるモシ族の人たちの、自然に対するあの強靭さ、一切の感傷を払拭した即物性とでもいうべきものを、幾分かは理解できると思うようになった。かつては私はそれを単に、自然に対するこの人たちの感動の欠如というふうにとっていたのだったが。

 家畜や家傘高の生き血を祖先の墓石にそそぐ、家族そろってのいけにえ。のどを切られ、もがきながら血をしぼりとられたあと、ニワトリは老人の手の中で音をたてて大腿骨を折られ、願いがききいれられたかどうかを落ち方で占うために、二、三メートル先の地面に拠りだされる。

 まだようやく白い羽根がはえそろったばかりの雛鶏が、気管を切断された血まみれの顎をのばし、あくびをするように何度も日をあける。何とか助かろうとして、地面に横だおしになったまま、陣身の力で羽ばたく。それからからだを撃撃させ、両脚をそろえてっっばって息絶える。

 脚を折らないこともあり、元気のいい雄鶏など、喉笛を切って撤り出されたあと、立ち上って走りだすこともある。子供たちが笑いはしゃぎ、追いかけてつかまえ、今度は脚の骨を折ってもう一度地面に投げる。五、六歳の男の子も、もう兄たちにまじって、まだ死にきれていない難の羽根をむしり、枯草を集めて火種を吹き吹き上手に火をおこして培る。それはいけにえのときの、男の子の分担だ。

 日本だったら、大人は年のゆかない子にこんな役割はさせないだろう、とふと思う。だが、なぜさせないのか?日本人は、それほど生きものへの隣個と共感にみちており、そのことは子供のしっけにまで、一貫しているといえるだろうか?

 モシの人たちの人間中心主義は、あけすけでおおらかだ。彼らはムード派ではない。人間と人間以外のものをはっきり区別し、人間以外のものが、人間のために犠牲になるのは当然という態度が、はっきりしている。対人関係はかなりべとついているが、ものに対しては徹底した即物的な思考の持ち主だ。日本人のように、情緒的にものとかかわろうとするところがまるでない。

 だが、彼らの考え方を人間中心と呼ぶときの、中心になる人間に対するものとは何なのか、と私はさらに思ってみる。それは「自然」だろうか?

 私は、西洋の思想の中で概念化され定立された、「自然」対「文化」という二元論、私たちまでつい、人類に普遍的な真理のように思いこんでしまいがちなこの二元論のことを考える。それからまた、いまの日本でやかましくいわれている「自然」、生活環境におけるごく日常的な快適さ、「アメニティー」とやらにまで結局は援小化されてしまった、現代日本の「自然」のことを考える。そこには、人間中心主義というより人間ェゴイズムの、それも徹底しておおらかさを欠き、装われ、とりつくろわれた姿が露呈されているのではなかろうか。

 モシ族の人たちの生活で、人間の生活領域である「イリ」が、その外にひろがる「ウェオゴ」と対置させられている。ウェオゴは、人手の加わっていない荒れ野であり、精霊キンキルシなどのものが跳梁する空間だが、その彼方の、異種族の人間「プー・ゼンパ」の生活領域でもある。これに対して、イリは、気心の知れあったもの同士が、自分たちでこしらえたものを使って暮している空間だ。野獣のことをモシ語ではウェ・ルンガ、つまり、ウェオゴのルンガ(動物)というのに対し、家畜のことはイル・ドゥンガ、イリの動物と呼ぶ。子供が反抗して手におえなくなったというとき、「ウェオゴに行った」と表現する。動物が言うことをきかないのも、「ウェグマメ」つまり「ウェオゴ風になった」という。野蛮人、っまり会のしきたりを知らない人間は、「ウェオ・ランパ」、ウェオゴものと呼れる。

 人間は、ゾウからアリにいたる動物と区別されるが、それは人間が「ャム」(分別)をそなえているからだ。そして人間と動物は、「ニョーレ」(鼻=生命)をもっている点で、木や草や石から、日やスンパラ味噌(注1」にいたる「ブンブ」つまりものと区別される。

 人間は、穀物や土器などの人間の領域に属するものがよく出来るように、ウェオゴのもの、キンキルシに頼み、いけにえを捧げる。キンキルシは、祖先の霊と同じく、世界の根源的な力であるウェンデと、生きている人間との仲介をする。いけにえを指すモシ語「マーンド」は、「行なう」「働きかける」を意味する「マーネ」という動詞から出ている。このいけにえをするのは、生きている人間のうち、これらの仲介者に最も近いと考えられている、土地に最も古くから居着いている一族の、最年長の男だ。家族なら、一家の最年長の男である家長だ。彼は最も「古い」という意味で、ものの世界に最も近く、ものの作法に通暁しているからだ。

 こうした根源的な力への人間の働きかけであるいけにえで、人間は何を、どう願うのであろうか。私はモシ族のさまざまないけにえに立ち会い、私の住んでいた村では、私も自分のニワトリを、雨季のはじめのキンキルシへのいけにえにさし出し、数多くのいけにえのことばをきき、録音した。人間は、ウェンデに、キンキルシに、祖先の霊によびかけ、「ここにあなたのニワトリがある。立って手をのばし、お受けとりなさい。そして私たちのうちから悪いことを追い出し、悪いことが入ってこないように見張って下さい、云々」とたのむ。

 そこにくりひろげられるのは、打算的ともみえる取りひきだ。雨季のはじめ、豊作を祈って土地のキンキルシにいけにえをするときは、もしよい総を恵んでくれれば、来年はもっとたくさんニワトリやホロホロチョウをあげよう、という。私は日本の照照坊主を思い出さずにいられなかったー晴れれば、のっべらぼうの顔に職をかきいれ、酒をのませてやるi。

 同時に私は、モシの人がそこで行なっている、目にみえず、感知できないものの擬人化に驚かずにいられない。ウェンデや祖霊は、ふだんは擬人化されていないが、いけにえを捧げ、ものをたのむにあたって、交渉相手として擬人化して、目の前に据えているといったおもむきがある。人間のあいだで通用する取りひきを、世界をかげで動かしている力との交渉にもあてはめようとするかのように。

 煩雑な礼儀作法、挨拶、贈りものーさまざまな人間関係のあいだに、たちまち上下の庇護・従属の関係をすべりこませるモシ族の社会関係に、私が見出す二つの特徴は、項目によって区別しない「まるがかえ」の論理と、仲介の論理だ。人間関係を語るのに日常きわめて頻繁に用いられることばに、「ベレム」(とり入る)という動詞がある。日頃、ある強者に、挨拶、贈りものを欠かさず、ベレムすることによって、その強者からは、何事によらず庇護を期待できる。

 その全人格的なかかわりあいは、事柄に応じて契約的にきまるものではまったくない。この点でのモシ社会の人間関係のべとつきよう、強者に対するへりくだりようは、サバンナのさまざまな社会の中でもきわだっている。しかもモシ語では、世界の根源的な力、ウェンデに対してもベレムするという表現をする。折々に人間の強者にニワトリやヒツジを持ってベレムしにゆく、それにひきくらべられる行為が、ウェンデに対する働きかけ、いけにえなのかもしれない。

 強大な者に対しては、直接にでなく、しかるべき仲介者を通してベレムするー地方首長へは村の長を仲介として、地方首長を仲介として王の家臣に、王の家臣を仲だちとして王へ:。現実の社会関係で、階様序列を通して行なわれていることが、長老を通して祖霊やキンキルシに、祖霊やキンキルシを仲介としてウェンデへという関係に、そのまま移行されているようにみえる。しかも、社会関係の頂点にいる王は、多くの面でウェンデと重なりあう力をそなえた存在として考えられているのだ。依存の中の働きかけー生きている人間の社会関係と、人ともののかかわりは、この原理によって、ともにウェンデを頂点とした二辺をなしているようにみえる。

 つまり、モシ族の世界像と、ものを動かしている力への人間の働きかけ方は、人間中心的すぎるともいえるのだ。もの自体は擬人化されず、人間とのあいだに一線が訓されていることにおいて人間中心的である反面、ものを動かしている力は、個別的でなく、まるがかえに、人間が働きかける対象として擬人化されていることによって、人間中心になっているといえる。ものを望ましいように変えるべく、人間は、その擬人化された力にべレムする。というより、ベレムできるように、人間はものの背後の力を擬人化したのだ、という方があたっているかもしれない。

 はじめのうち私は、モシの生活に類感呪術的な要素、つまり似たものは似たものを生んだり、影響を与えたりするという考え方が、まったくないのを不思議に思ったものだ。日本語に著しい、ことばの類感呪術的発想に由来する、同音類音の忌みことばもない。

 しかし、右のようにみてくると、これは当然のことでもある。モシの人たちは、お守りとしてヒョウの手やサイチョウのくちばしを大切にするなどの点で、軽度の呪物崇拝者ではあるが、いわゆるアニマティズム(有生よろず観)神も座さず、万神殿もない。ものの最終原理としての唯一者、ふだんは感知できないが、ベレムの対象としては擬人化されるウェンデへの依存。人間の怒意をつめたくはねかえす、しかし人間がそれに精通することによって利用もできる、普遍的な、ものの原理の不在。ウェンデへの人間の働きかけの適不適は、きわめて状況的に、事にあたっての占いを通じて、キンキルシの意見として知られる、そして、その意見に応じたいけにえが、きかけの不適切を個う。

 人間の生死や農作の出来不出来を最終的に司るのはウェンデだが、この根源的な力にベレムすることにおいて、モシの人たちは、決して受動的とはいえない。宿命論者ではないのである。むしろ、根源的な力自体が単一のものとして擬人化されているために、すべては「何とでもなる」と思われがちだとさえいえる。それは「まるがかえのベレム」であるために、個々のものを動かしている原理を人間が探って利用し、あるいは個々のものに見出される原理をたどって根源にいたるという途は、とりにくいのであろう。ものに人間が共感し、ものの中に潜んでいる本性や力をよりよく発現させるのに、人間が手をかすという、古来日本の技術の一つの基本になった発想も、このサバンナのモシ社会では、彼らなりの人間中心主義によって、さまたげられているとみることができると思う。

 「自然」という、そもそもモシ語にもない概念によって、たとえば「モシ族における自然の利用」といった形でこのサバンナの文化を論じることが、一方的な枠組による対象の切りとりになりやすいことはあきらかだ。私自身しばしば行なってきたこのような切りとりは、彼らの思考の枠組だけをとりいれることによって、「正しい」ものとなるわけでは初論ない。彼らの枠組と私の思考の枠組との、葛藤ないし相互作用のうちに、世界像ないしイデオロギーと、技術・物質文化とが、相互にもっているはずのかかわりを、具体的にあきらかにしてゆくこと。私が将来に向って、未解決のままにかかえている課題の一つだ。

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