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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 1998年 過去問

1998年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

問題

 次の問題文を読み、以下の問1、問2のそれぞれに答えなさい。

(間1)この文章を読んで、筆者の考え方の筋道がわかるように、全文を要約しなさい(三○○字以内)。

(間2)言語活動を人間独自の進化とする筆者の見方を考慮した上で、言語と人間との関係についてあなたの考えを述べなさい(四○○字以内)。

問題文

 心にかんする昔からのいろいろな言葉ー霊魂、たましい、精神、心などの言葉に代わって、最近では科学的な文脈では「意識」consciousnessという言葉がより多く使われている。しかし私自身は「心」を「意識」という語で十分に置き換えることはできない、と考えているので、改めて「意識」という語の意味についてもう少し詳しく分析してみて、新たに「心」について考えてみたいと思う。

 考えてみると、魂とか心という一語で語っている私たちの心の実際の経験は、多くの異なった部分に分かれていることに気づく。悲しいとか嫡しいといった情術も心の働きである。しかし、同様に計算したり、監したりするのも心の働きである。また空想にふけったり、美を意識したりするのも心の働きならば、同様に講演をしたり著作を書いたりするのも心の働きに他ならない。しかし、美を感じる心の働きと、推理や計算をするときの心の働きとは同じではない。

 ところで、「意識する」ということは、右に述べたような心のいろいろと異なった経験に共通なものなのか、それとも、それらのいろいろな経験とは別の、もう一つの新しい経験の種類なのだろうか。たしかに、「心」と違って「意識する」という語は、それに対応する経験をすべての人がもち、知っている経験だ、ということができるだろう。しかし、「意識する」という語にあたる心の経験は、具体的にはどのような経験か?と尋ねると、これに答えるのはかなり困難である。喜ぶとか悲しむ、といった心の経験は、どんな経験なのか、と聞かれれば、そのような経験をした過去のある場面を思い出して、そのとき私がもっていた心の経験がそれに当たる、ということができる。しかし、「意識する」という経験のばあいには、どのような具体的な特定のばあいを挙げることができるだろうか。

意識という言葉は日本古来の語ではなくて、明治時代になって欧米の語にあてて使うようになった翻訳語である。もとの外国語は、英語のconsciousness、フランス語のconscience、ドイッ語のBewuBtsein、ラテン語のconscienta、ギリシア語のgregのである。英、仏、羅の語はギリシア語のそのままの形の語で、「共に知る」という動詞の名詞化である。この「共に」をどう解釈するかについては、諸説まちまちである。ドイツ語の意味は「気づいている」とか「分かっている」という意味であり、ギリシア語系の意味も、いろいろな違った対象を区別して(分けて)知っている、すなわち、「分かっている」という意味である。その意味では、イヌやネコのみならず、魚でも昆虫でも知覚を通じて自分の環境の風景のなかの事物や出来事に気づいており、それがなんであるかをある程度まで「分かっている」のだから、おそらくすべでの生物はー程度の違いはあってもーなにかに気づき、それがなんであるかが「分かって」おり、その意味で意識をもっでいる、ということができる。

 ところが、「意識している」ということは一体どういう経験だろうか、と考えて私たちが自分自身の経験を内省してみるとしよう。このばあい、私たちが知らず知らずのうちに陥ってしまう混同が生じる。それは私たちが外にあるなにかの「対象に気づいている」という意識1と、対象に気づいている、すなわち意識1しているということはなんなのかを考える意識2とが混同されてしまう。別な言葉でいうと、ある対象を意識していることと、ある対象を意識しているということを対象として、それはなんなのかを意識して問うこと、もっと別な言い方をすれば、意識と、意識の意識とを混同することである。意識しているという事実と、意識という言葉の意味はなにかを明らかにしようとする意識との混同であり、この後の問いは単に意識するという(動物でも人間と同じようにもっている)事実でなくて、意識という言葉の意味を問うているのである。したがって、このような意識は言語をもっている人間だけがもっている意識であり、意識を意識する自己意識であり、動物にはない人間に特有な心のあり方なのだ、という考えに移ってしまう。

 考えてみると、人間でも例えば野球のゲームをしているとき、自分の打った球がどの方向に飛んでいったかは「分かっている」、すなわち意識しているし、自分が一塁に向かって走っているとき、球が一塁手の手に受け取られるよりも前に自分の体が一塁のべースを踏むのに十分に時間がある、ということも「分かり」、そのことを意識してゆっくり走る。この意識と、タカが空中を飛んでいて、地上に獲物がいるのが分かり、それを捕獲するために急降下して獲物をつかむことができるように行動しているときに分かっている意識とは時シの意識であり、それぞれの心の働きの一部である。同様に人間がサバンナのなかでライオンに遭遇して、ライオンと分かり(意識1)、その結果として恐怖の感情をおっという心の働きと、シマウマがライオンに遭遇してライオンと分かり(意識1)、その結果として恐怖の感常をものも、人間とシマウマに共通の同じ種類の心の働きだといっていいだろう。また、聖獣するという心の働きも人間以外の他の動物にも見られる。ネコがネズミを捕える運動のなかにも、ネズミの行動の仕方をあらかじめ予測して行動したり、ライオンが獲物を追いかけるとき別のライオンが獲物の逃げる方向を予測して、別の方向から獲物を待ち伏せるような行動をするのも推理である。

 このようにして意識1、すなわち「気づいている」こと、推理すること、恐れとか喜びその他の感情、情緒といった心のいろいろな働きは(程度の差を無視すれば)人間特有なものではない。すべての動物、ばあいによっては植物でも温度や光の有無が「分かって、あるいは気づいて」行動(花を開いたり、葉を閉じたり、花の向く方向を変えたりする)をするのだから、心の一部の働きは共通にもっている(感情、情緒の心の働きの部分はもっていないとしても)ということもできる。

 ただし、意識2は人間に特有な心の働きの部分のなかで生じるものである。それは単に意識している(意識1)とか、あるいは恐れるとか悲しむなどという心の働きの他に、「意識」とか「悲しみ」、「恐れ」などその他多くの言語記号についてそれらの意味を考え、それらが互いに重複したり矛盾したりしていないか、などを考えるもう一那の心の働きなのである。そしてこの「もう一つ別の心の働き」は、人間が言語をもつという、他の動物には存在しない、全く新しい心の働きを進化の過程で獲得したことによって人間だけに生じたものである。

 言語記号を用いる、という人間独自の能力は、あたかも翼をはばたいて空中を飛ぶ鳥類の能力と同じように、人間の住む環境世界のイメージを他の動物のそれとは比べようもないほど拡大することになる。現在生存しているイヌやネコは、三百年以前の江戸の街のイメージ、ましてや五万年以前の原人がどのような生活をしていたかのイメージをもつことができない。しかし、人間にはそれができる。そのイメージは、時代や場所や人によって異なるかもしれないが、どのようなばあいでもイメージそのものはもつことができる。これは人間の知覚での意識、すなわち眼や耳のような感覚器官で知覚し分かっている環境の風景が、現に知覚されているものの意識から、現に知覚されていないが、かつて一度知覚されたものの記憶、想像による過去や未来のイメージの意識にまでー言語活動を通じてのー拡大延長された例である。

 このような風景の意識の拡張に基づいて、人間の心の他の働き、例えば感情や情緒の働きも拡張される。人間でも他の動物でも、自分が手に入れた食物が他の動物に奪われたときに生じるであろう感情は同じであり、種の維持のために行なう性行動の瞬間の感情も同じようなものであろう。しかし日々の食物は一応不足なく食べてはいるが、社会が経済不況になり雇用が悪化し失業の恐れからくる生活の不安とか、人間の生態系の悪化に伴って将来起こるであろう人類の滅亡という観念が、ある人びとに与えた未来へのュートビアを奪われた希望のない終未への不安のような複雑な感情、あるいは日本の文学的な表現のある様式に伴なう「わび」とか「さび」といった情緒は、言語表現の能力をもたない他の動物には起こりようのない感情情緒の人間独特な言語による拡張であろう。

 また人間以外の動物でも、例えば必要とする食物が多いか少ないかいは判断でき、獲物を追いかけて行動するとき、その獲物がどのように行動するかを前もってシすることはできるだろう。ーしかし、この多いないかを数記号(言語記号と同じである)を用いて四倍多いとか、一・多い、などという算数的計算はできないし、また推論を現に眼の前でる出来事のなかで行なうことから離れて一般的、形式的に表現できない。これができる人間の心の働きは、言語記号あるいは数記号を用いる事ができるようになった大脳の拡大された働きに応じて、大脳の感情や情緒を生じさせる部分が適応的に働くようになったことから生じる、心の拡張された部分の働きである。

 このように、心のいろいろな部分の働きが、一般の動物から人間という動物になって著しく拡張されるようになった原因は、人間になって初めて言語記号を使用することが可能になったからである。感覚器官を通じて環境を知覚して意識するという能力は、人間も他の動物も(視覚が中心になるか、あるいは視覚がなくとも聴覚が他の動物よりすぐれている、といった違いを別にすれば)共通にもっている能力である。しかし、言語使用の能力は人間だけが進化の過程でもつことのできた特別な能力である。

 この言語を用いることによって、人間は相互にコミュニケーションを行なうだけでなくて、一人一人の環境の風景を無限に拡張することができるようになった。ギリシア神話の話を聴いたり読んだりすることによって、私たちは現に知覚している環境の風景を超えて、知覚の風景のなかではおそらく絶対に現れ見えることのない翼をもった馬、すなわちペガサスという動物のイメージをもつことができるし、オルペウスとエウリュディケーの物語に感動したりする。またドストイェーフスキーの『罪と罰」という小説を読んで、功利主義的な考え方では考えもしなかった愛と人間の生命の尊さ、許しを求める感情といったものの存在に気がつき、生き方を大きく変えることにもなる。かつて私は大学を卒業すると徴兵されて直ちに中国の鮮地につれて行かれた。そのとき日本内地から部隊がっれて行った犬がいた。私たち兵隊が故郷を遠く離れ、明日の生死も分からない戦地の日々の生活の風景を超えて故郷の人びと、あるいは将来の見通しの暗さこれらはすべて心のなかの言葉として私たちに語りかけるのだが)の故に、なつかしさ、不安など複雑な気持の入り交った感情をもったものだ。しかし犬は食物をやれば喜んで飛びはねて、私たちのような暗い思いはもってもいない。私は犬になりたい、と思った。

 人間の心の一部には他の動物の心とは違う部分がある。それは言語である。このことは別に新しいことではなくて、だれでも知っていることに過ぎない。しかし重要なのは、このだれでもが知っている現在の事実を宇宙全体の進化のなかでどのように位置づけるかという、いわゆる「宇宙における人間の地位」と従来よくいわれてきた哲学上の問題としてこの事実を改めて見なおすことである。

 宇宙を支配している四つの力(弱い力、強い力、電磁力、重力)はビッグバンの直後に素粒子という物質をつくり、その後に原子そしてへリウム、水素などの元業をっくり、さらに叩から移の間に天体や銀河系をっくり今から四十六億年前には太陽系の惑星(地球をふくめて)をつくる。そして約三十億年前にこの地球上に生物を、そして約十万年前にホモサピェンスという生物を出現させた。この生物のなかから、単に自分と同じものを新たにつくりつづける増殖の仕方から、遺伝子をいろいろと組変えて自己とは違ったものをつくる有性生殖によって多くの異なった生物の種をつくるようになる。そして人間に至って言語というものをっくり、この言語間のコミュニケーションを通じて(遺伝子がつくり出す異なった生体の多様性をはるかに鍵盤した)無限の新しい言語を、そしてそれに伴なう新しい考え方をつくり出すようになる。神話、宗教、科学、芸術などの思想という形で、いわゆる人間の文化をっくるようになったのである。

 人間の言語は遺伝子と同じように(否それ以上に)この宇宙の進化のなかで新しいものをつくり出すという宇宙的効果をもっているということができる。その意味で私は人間の言語を、遺伝子と同じ系列の、より進んだ力として語伝子logonという、私自身が創った用語で表現した。力が物質となり、物質から遺伝子をもった生物が生じ、この生物のなかから人間の語伝子による文化を生じた。これは宇宙の進化のなかの大きな三つの段階の最後の(少なくとも現在までは)段階というべきだろう。「言語をもつ」ということを宇宙の進化のなかでこのように位置づけることができると思う。最近、宇宙論学者のなかでいわれている人間原理anuropeprincipeの意味をこのような文脈のなかで、より拡大して物理学から人間諸科学へとつなぐ橋とすることができるのではないだろうか。

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