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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 1997年 過去問

1997年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

問題

 次の問題文を読み、以下の間1、問Hのそれぞれについて答えなさい。

(間1)全域的なリアリティとは何か、局所的なリアリティと対比させて説明しなさい(ニ○○字以内)。

(間2)局所的・全域的というニ重のリアリティは、また芸術や歴史の領域においても見出すことが可能である。いずれか一方の領域を選び、具体的な対象や事例に即してこのニ重のリアリティについて論じなさい(四○○字以内)。

問題文

 人間にとって空間が時間と共に、世界を了解し、行為するための基本的な枠組みであることは、カントやレヴィ=ストロース等によってすでに指摘されてきた。人間はつねに時間と空間のなかで自らの行動を組織し、自己と他者との関係を考える。脳生理学をはじめとする今日の自然科学が教えるところによれば、世界を「時間」と「空間」によって了解することは、哺乳類である人間の脳が外界から取り入れる情報を処理するモデルの構造によっているという。

 また、人類学や民俗学が教えるように、ある社会の建築や集落の空間的な構造は、その社会の規範や社会構造、世界像や宇宙観等と関係していることが多い。地図もまたそのような「社会的空間」や「意味空間」を象徴的な形式で表現していることがある。けれども、ここで考察するのは、地図が表現する「空間」が、けっして私たちが通常経験する「空間」と同じ現れ方や見え方をするものではないこと、したがって地図は、厳密な意味では、私たちが普通に経験している空間の「代わり」ではないということである。

 私たちは通常、地図を祀き込むように上空から世界を見ているのではなく、大地に立った身の丈の高さから世界を経験している。この時、空間は私の身体を中心として、その周囲(=近傍)に広がるものとして現れる。他方、地図に表現された空間像は、このような身体の近傍に開ける空間像ではない。

 そこに表現されているのは、個々の身体の近傍を超えて、個々の身体の近傍に開ける空間がその内部に位置づけられるような全体としての空間である。人間はこの全体としての空間を直接見ることができない。人びとは、それにもかかわらず、この新しい次元を「全体」として見出し、個々の身体の近傍に開ける空間をその内部の「部分」として了解するのである。

 個々の身体を基準としてその近傍に開ける空間を「局所的空間」と呼び、それに対して地図的表現が可能にする、局所的空間がその部分として位置づけられる全体としての空間を「全域的空間」と呼ぶことにしよう。

 局所的空間は、大地によって支えられた自己の身体を中心に、その周囲に広がる三次元的な空間である。この空間には、次のような特徴がある。第一に、この空間には身体の向きに応じて上下、前後、左右の区別、すなわち方向性があり、この方向性は身体が立つ位置や姿勢によって時々刻々変化する。(上下はともかく、恒常的に決まった「右」や「左」、「前」や「後ろ」は存在しない。)第二に、この空間は個々の身体を中心とする広がりとして現れるので、異なる人間の間で局所的空間が示す方向性は一致しない。(私にとっての「右」と他者にとっての「右」とはかならずしも一致しない。)第三に、一つの場所を二つの異なる身体が同時に占めることはできないので、異なる人間が同じ局所的空間を同時に経験することはできない。(したがって、私にとっての空間と他者にとっての空間とはつねに異なる相貌を示している。)

 他方、全域的空間は、局所的空間と対照的な次のような特徴をもっている。

 第一に、全域的空間にも東西南北や上下、あるいは富士山や議事堂といったランドマークになる空間内の特定の地点を基準とした方向性は存在するが、この方向性は局所的空間における方向性のように個々の身体の位置や向きには影響されない。逆に、その空間内部の個々の身体の位置や建造物の配置、向き等が、「東向き」とか「北向き」とかいうように全域的空間における方向性との関係によって決定されるのである。第二に、第一の特徴の結果として、全域的空間がもっ方向性は、複数の身体の間でつねに一致する。第三に、地図のような形で表現される場合には、全域的空間は複数の人間の間で同一の像をもつものとして現れる。そしてまた、そのように表現されることなしには、人間は全域的空間を見ることはできないのである。

 イーフー・トゥアンやジェイムズ・J・ギブソンらが指摘していることによれば、人間が自己の行動の空間的なパターンを記憶する場合、通常は地図のような空間の全域的な形態を表したものによって覚えるのではなく、運動によってそのつど開ける景観の連続的な動きや風景の継起的な変化を覚えることが知られている。ここで空間認知を支えているのは、局所的空間における世界の見えだということになる。けれどもこのことは、人間がそこで全域的空間の存在を知らないということではない。空間のこのような記憶において、私たちは局所的空間経験の連続を記憶するのだが、同時にその局所的空間経験が、ある全域的空間の内部における身体の動きによって生じていることを知っている。

 たとえば私が自分の家から公園までの道筋を記憶する場合、私は道々の風景の連続や曲がり角などによってそれを記憶するが、その道筋が私の個々の視点を超えたある空間の全域の内部にあり、私が記憶したものがその全域内の道筋の個々の地点からの空間の「見え」の記憶であることを知っている。

 モーリス・メルロー=ポンティの表現を使えば、この時私は、自己の周囲に広がる空間を自身の「可能な活動の系」、自身の「潜勢的身体」として捉えている。私はその空間の全域を一つの像としては、かならずしも想起していない。だがその一方で、その空間の全域が、私の局所的空間の記憶のいわば「土台」をなしていることを確信している。したがってまた、その共通の土台の上では、私以外の他の人間もまた、私と同じルートを、私と同じ局所的空間の連続として経験するであろうことも、私は確信している。

 トゥァンによれば、きわめて幼い子供は風景を鳥職した時の眺めを想定することはまずないが、五、六歳になると明らかに、上空から見ると風景がどのように見えるかを理解できるという。また、子供にとっても大人にとっても、ある風景が飛行機の上からどう見えるかを想像する方が、同じ風景が丘の反対側からどう見えるかを想像するよりも簡単であるという。これらのことは、全域的空間像を了解する能力が、人間の脳にあらかじめ具えられた生体的な空間モデルを土台にして人間の成長と共に開発されること、したがって地図的な空間像を制作し、了解する能力は人間にとって普遍的な基本的能力であろうことを示唆している。

 こうした能力によって、人間は通常了解してはいても経験することのできない全域的空間を、地図的な空間像として可視的な形で把握する。この時、地図的な空間像は人びとが日常的に経験する空間(=局所的空間)の像に取って代わるのではない。一見するとそれは、人びとが実際に経験する空間に取って代わるように見えるが、実際にはそれは、人びとが直接見ることができない空間の全域的な像を提示することによって、人びとの空間的な経験に新しい次元を付け加えるのである。

  重要なことは、それがかならずしも代替ではなく、むしろ新しい次元の付加であるにもかかわらず、そのようにして付加された空間像が人間にとっての世界経験の根源的なものを、それ自体に代わって示しているかのように機能しているということだ。この意味で、地図的空間像が果たすこの機能は、ジャック・デリダが用いる「代補supplenent」という言葉で表現する方が適切であろう。地図は「空間の代わりをする」のではなく、通常の空間経験とは異なる空間像を、あたかもそれが局所的な空間像よりも根源的なものであるかのようにして、人間の了解と経験に代補するのである。

 この代補は、地図をもつ人間やその集団になにをもたらし、いかなる変容を経験させるのだろうか。このことを考えるために、見知らぬ街で地図を片手に目的地まで行こうとする場合のことを考えてみよう。

 そのような場合、人は街角に立って周囲の風景(=局所的空間の展望)を見回し、それを地図上の空間像(=全域的空間)の特定の地点に同定し、その地点と目的地との位置関係を地図上で確認した上で、周囲の風景の中から自分の進むべき方向や、目標とすべき建築物を発見しようとする。そこでは人は、局所的空間の見えと全域的空間の像とを重ね合わせ、局所的空間の方向性を全域的空間の方向性と一致させ、それによって自己の振る舞いを全域的空間の中に位置づけようとする。

 こうした定位がうまくいかない時、周囲の環境は疎遠なものに見えるだろう。建物や街路などが見えてはいるが、それらは今立っている場所に関する情報も、これから進むべき方向に関する情報も与えてはくれない。だが、一旦この定位がうまくいくと、周囲の環境の相貌は一変する。それまで疎遠に見えた周囲の環境は、突然、理解可能な手掛かりに満ちた場所になる。と同時に、それまで不安に満ちていた人の意識は、確実な志向性によって力づけられる。それまで周囲の環境はまるで霧の中にあるようで、自分自身の限界のなかでの位置づけも不安定であったのに、定位が成功した途端に周囲の環境は「見える」ものになり、自身が立つ場所も同時に分かる=見える場所になるはずである。

 右の思考実験が示すように、人は、個々の人間が経験する局所的な空間の「見え」を、全域的空間の内部に位置づけることによって安定した空間定位を得、世界の中に確固とした場所を得ることができる。全域的空間は、人間が世界に存在する時の、存在の土台をなしているのだ。個々の人間の立つ場所や、そこから開ける視点が局所的で、したがって相対的であるのに対して、全域的空間は、そうした局所的・相対的な経験が位置付けられる共通の台座をなしている。

 けれども、これは一つの逆説である。というのもそこでは人は、個体的な経験に即して言えばより本来的であるはずの局所的空間よりも、後から代補された全域的空間の方に経験の安定した土台を見出しているからだ。考えるべきことは、この逆説の意味である。

 人間は身近のよく知った環境の中にいる時には、地図の助けを借りなくとも不安を感じることはない。人が地図を必要とするのは、右の思考実験のように見知らぬ場所にいる時か、見知った環境を、それを内部にふくむもっと大きな空間の全域上に位置づけようとする時、あるいは道を教える時のように、場所に関する情報を他者に伝達しようとする場合である。言いかえれば、環境に対して自身が疎遠な「他者」であったり、ある環境に関する情報をその環境を知らない「他者」に伝達しようとする時に、地図的空間は現れるのである。つまり、地図を作ることは環境に関する知識を記号として伝達する象徴化の形式である。全域的空間という地図が表現する空間のあり方それ自体、他者とのコミュニケーションを可能にする表現であり、地図的空間が、っねに・すでに他者の了解に対して開かれた表現なのである。地図的空間はその存在自体の内に、環境に関する情報の他者との共有と伝達の可能性を内包しており、したがってそこで表現される空間像は、他者と共有され、他者へと伝達される「社会的」な空間像なのである。地図的空間像のこの社会性、伝達可能性は、この空間像の存立を可能にする特異な視点に支えられている。

 地図的空間は、はるか天空から地上を鳥職した時に開ける展望のように見える。だが、地図的空間の全域性を可視化する視点は、厳密には鳥職図の視点とは異なっている。鳥職図とは、上空のある特定の一点から見た局所的空間の像にすぎないからだ。では、地図における全域的空間の像を可能にする視点とはどのような視点なのか。それは不在の、それゆえに遍在する視点なのだ。

 実のところ、地図においては通常言う意味での「視点」なるものは存在しない。写真であればカメラのレンズに位置し、透視図法の絵画においては消失点の対極に位置しているはずの視点が、地図には存在しないのである。地図とは、「点」として存在する視点から見られた世界の像ではなく、「面」としての地図平面へと投影された世界の像なのだ。地図に表現される空間が「点」から見た像ではなく「面」に投影された像であるということは、言いかえれば地図を見る視点は、地図の平面全体の上にいわば遍在しているということだ。あるいは、地図上の個々の点はすべてその点の真上から見られた像であり、地図の全体は無数に存在するそうした点から見た無数の像のいわば「積分」として存在しているということである。

 地図において空間を鳥職的に見下ろしている視点は、特定の「だれか」に帰属する視点ではない。それは、だれのものでもない視点であり、したがってだれもがそこに自らの視点を重ね合わせることができるような視点である。「だれのものでもなく、それゆえだれのものでもありうる」ということは、その視点が社会の内部の特定の成員の視点(=局所的空間を見る視点)から超越しており、その超越性のゆえに普遍的な視点(=全域的空間を見る視点たりうるということだ。そのような視点の不在=遍在によって地図が表現する全域的空間は、文字通りだれのものでもなく、だれの視点に対しても開かれた空間たりえているのである。

 地図的表現が人間の空間経験に導入するあの根源性は、それが可能にする空間像(=全域的空間像)が、右に述べたように超越的な視点から見た空間の像であることに由来している。視点の超越性は、その視点において他者の視点と自己の視点を重ね合わせることの可能性、複数の不特定な他者との間で一つの空間像を共有することの可能性である。むろん、実際にはどのような身体もこの超越的な視点を取ることはできないから、そこでの他者の視点との重ね合いや空間像の共有は「想像的」なものであるに過ぎない。

 重要なことは、地図という表現がそのような想像的な視点による空間の像を、実際に目に見える形で表現すること、したがって人びとは地図を媒介にしてこの想像的な視点から見た空間の像を、実際に取りうる視点から見た像であるかのごとき経験をするということだ。この意味で、地図的な視点が人間の経験に代補する世界の全域的なリアリティもまた、想像的であり超越的である。地図上の空間は記号によって表現されたものであるという点で、実際の空間の全域的な像とは異なるが、記号によって構成された縮小された空間の像を媒介として、人は自己がーそして他者もまたーその内部に属する空間の全域的な像を、他者たちと共有し伝達することが可能になるのである。

 この時、全域的空間像はそれが他者と共有され、伝達可能な像であるがゆえに、局所的な空間像よりも根源的であるかのような相貌をもち始める。というのも、局所的空間像がたかだか自己の身体のみに帰属する空間の像であるのに対して、全域的空間像はー想像的な視点からする記号化された空間像を経由してではあるがー不特定の他者に受け入れられる空間の像、したがって「われわれ」に共有の空間の像であるからだ。

 先に述べたように、全域的空間像には他者とのコミュニケーションの可能性が内在している。この伝達可能性によって、全域的空間像は自己にではなく、自己をもふくむ複数の身体からなる集合としての「社会」に帰属する空間像として現象する。しかもそれは、自己のみならず、自己から独立して存在する他者たちにも普遍的に妥当する空間像であるがゆえに、自己に対して外在的かっ規範的で、自己の意識や存在に先行する事象であるかのように現象するだろう。ェミール・デュルケームの古典的な概念を用いれば、ここで全域的空間像は社会的に共有された観念を表象しているという意味で「集合表象」なのであり、個人に外在する規範的な存在であり、社会的な経験において個人的な経験に対して先行するものとして現れるという意味で「社会的事実」なのである。

 地図が表現する空間像が集合表象であり、それが人びとに対して社会的事実として現象すること。それは、地図を持つことが生み出すこの空間のあり方が、私たちが「社会」と呼ぶもののあり方とよく似ていること、より積極的に言えば、私たちが「社会」というものを了解し、経験することの一つのあり方、一つの様式であるということだ。

 社会とは、一方では私たちが日常的に生きているもの、したがって私たちの身体の周囲に、具体的な他者や事物との関係として現れるものである。私たちは、つねに・すでに「社会」のなかで生活しており、したがって私たちが日常に接する他者との関係や事物との関係は、つねに・すでに「社会」の経験であるということができる。だが、他方では社会は、私たちの身体の周囲に広がるそうした具体的な関係を超えて、そうした諸関係の積分された総体としても了解されている。

 企業組織や国家、国際社会のような「社会」を、私たちは身近に接する他者や事物を超える諸関係の大きな広がりとして了解する。私たちが実際に接することのできる企業の同僚や国家の役人、テレビ等で目にする政治家や外国の大統領などは、いずれもそのような「全域」としての社会のごく一部の「局所的な見え」であるに過ぎない。このように社会を自己の近傍を超える全域として了解する時、私たちはちょうど地図を見る時のように想像的な視点をとって、そこから可視化される全域的な像として社会を概念化している。このように、人間にとっての「空間」が局所的空間と全域的空間からなるように、私たちにとっての社会も「局所」と「全域」という二重の現れ方をする。

 局所的空間と全域的空間という空間の二重性は、社会的世界のもつこの二重のリアリティとちょうど照応している。先に述べたように、世界という空間を「局所」と「全域」という二つの水準で捉え、自らの存在を「全域」の内部の「局所」として捉える認知は、生物学的存在としての人間の生理学的・生態的条件に基本的には因っている。この生物学的な空間把握をいわば母型として、人は社会的な関係の圏域や社会的世界を、「局所」と「全域」を持っ〈空間〉として了解する。(ここで言う〈空間〉とは、これまで述べてきた地理的空間にとどまらない、行為と関係によって張られる場、すなわち社会全般のことを指している。)

 「社会」は私たちを取り囲む環境ではあるが、私たちはその全域を直接に見ることができない。「社会」という言葉は、そして社会科学のような社会を体系的に語ろうとする言葉は、地図がちょうどそうするように、けっして見晴らすことのできない世界の全域的なあり方を可視化しようとする表現なのである。そのようにして社会が可視化される時、「社会」という存在が洪えるリアリティは、個々の人間の個別的・局所的な経験を超えた超越的で想像的な位相、それゆえ他者と共有され伝達されることの可能な位相を内包している。地図を描き、それを通じて世界を見るという営みは、人間がけっして見晴らすことのできない世界の全域的なあり方を可視化する一つの方法、世界の空間的なあり方に関してそれを可視化し、了解し、その中に自己と他者とを位置づけようとする営みなのである。

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