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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 1996年 過去問

1996年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

問題

問題文ABCを読み、以下の問1、問2のそれぞれについて答えなさい。

(間1)三つの文に描かれた生き方の共通点と相違点を明らかにしなさい。(三百字以内で答えること。)

(問2)それぞれの文の筆者が対象をとらえる際の姿勢について、考えるところを述べなさい。(四百字以内で答えること。)

問題文A

 先日、坂東玉三郎さんと夕食を一緒にする機会をもった。話は演劇のことから文学のこと、人生のことに及び、夜が更けるのも忘れるほどであった。玉三郎さんは異様な美しさを発する女形の名優として知られるが、私は昔から玉三郎さんに一種の哲学的詩人を感じていた。彼は甚だ明敏な頭脳をもっていて、この人生に生きる彼ながらの哲学をかたくななまでにもち続け、それでもって彼の人生を厳しく律する人なのである。

 そのとき彼は、この世は愚劣なものであり、自分はそのような醜い愚劣な世界で生きたくないと語った。それはもちろん、今の歌舞伎ブームにのって、何らの新しい工夫もなく、稽古もろくにせずにいい加減な芸を見せても結構やっていける、歌舞伎界の現状に対する強い不満から生まれた言葉であろうが、彼が嫌っているのは今の歌舞伎界ばかりか、現代の世界一般、あるいはどんな時代がこようと変わらない、この世そのものでもあるように思われる。また彼は、なぜ自叙伝を書かないかという同席したある人の問いに、自分の人生などは語るに足らないつまらないものですから、と答えた。

 私は、玉三郎さんは幼にして人間の正体を見てしまったのではないかと思う。人間というものは醜い。偉そうなことを言う男も、美しく着飾っている女も、一皮めくれば欲と色の塊だ。既に幼年にしてそういう人生を見てしまった彼は、芸術の世界に、この醜い世界とは違った別の美しい世界を創り出そうとしているのであろう。彼にとって、美は人生を飾る付属品というものではない。もしも彼が美しい夢の世界を創り出さなければ、彼にとって人生そのものは生きるに値しないのであろう。

 私は、このような玉三郎さんにふと後世者を感じた。ちょうど古代から中世にかけて、こういう希望を現実の世界よりはるかに浄上の世界、夢の世界にかけていた後世者が輩出し、彼らがその時代の文化を創っていったのである。空也、源信、法然、親賞、一遍などの宗教家はもちろん、花曲法皇、西行、相阿弥、世阿弥、船舶などの芸術家もまた後世者であろう。中世文化はかかる後世者によって創られたわけであるが、現実の人間の欲望だけを過大に膨らませた近世文化が崩壊する現代という時代において、文化を創っていくのはやはり後世者ではないかと思う。

問題文B

 その浜は三重県の半島の先の、広い太平洋に面した小さな入江にある。入り組んだ岩場にはウニやウミウシがへばりついていて、水は上質のアクアマリンの色をしている。

 浜には名前がない。隣の広い砂場には、いちご浜という名称があるが、大小の岩で囲まれた小さな砂場は無名。いつ行っても人気がなく、波の音だけがする。数年前から年に何度かこの浜に来る。東京の生活から逃れるように、ただここで眠り、波の音を聞く。昼の浜は冬でも暖かくて、うたた寝するには最高なのだ。そしてここに、私が尾形亀之助、と名付けた流木たちがいる。

 不思議なことにこの流木たちは、いっも同じ場所にいるということがない。絶えず移動し、ときには別の流木がでんと居座り、前のは姿も形もなくなっていることもある。だれかが、形がいいからと持っていくのだろうか。それとも波にさらわれていくのであろうか。どちらにしても、尾形亀之助、の顔は、行くたびに違っている。

 尾形亀之助、と名付けたのは、流木のどれもが、眠る尾形亀之助に似ているような気がしたからである。明治三十三年、宮城県の大金持ちの長男として生まれた亀之助は、山頭火のように住所不定に憧れ、死ぬ死ぬと周りに吹聴しながらも実際は自死することかなわず、持病の鳴息を飼い慣らしながら二度結婚、どちらの女ともさしてうまくいかず、奔放な生活を繰り返したあげく四十三歳の若さでこの世を去った。最後の数日はろくに食事もとらず、真っ白い洗面器を便器にして、ほとんど餓死に近い衰弱死を迎えた。真冬の夕刻のたったひとりの死だったそうだ。

 その尾形亀之助の詩集「色ガラスの街」を読んだのは二十代の終わり頃のことだ。オケラのような人だと思った。土の中で眠るひっそりとした黒い虫は、ときどき寂しい声で鳴くが、作品のすべてがその寂しい感じに彩られていた。いずれも短い詩ばかりである。「昼」という作品がある。『昼は雨/ちんたいした部屋/天井が低い/おれは/ねころんでみて輝をつかまへた』。これだけの詩。「昼」という詩を他にも書いている。「太陽には魚のやうにまぶたがない』「昼の時計は明るい』これを詩といっていいものかどうか、ふと視線がとらえたスケッチ風の作品である。無意味な独白にも近いような気もするが、どの作品からも無為と虚無を生きる男の、うつうつとした姿が浮かんでくるところが共通している。

 彼はひがな寝ころんでなにかをじっと見ているが、見ているものはすべて瞬間心をよぎる影のようなもので、実体がない。その姿がどことなく、行く先定かではない流木に似ているのである。陽に洗われ、陽に体をさらし、いわば漂白されたような生の気分に近づいていく男の姿には、この世のいっさいを不信とするある種の論めとふてぶてしさがあって、ポジティブな生へと向かうべくして形作られた世界を、最初から拒絶しているようなところがある。それを潔いとするか、めめしいとするか意見は分かれるだろうが、尾形亀之助の姿には、ゆっくりと衰退していく世紀末の時間の、ゼリー状の不定型が漂っている気がするのだ。

 かといって、世界の形が曖味かと言えば、寝ころんでいる男の日に映る世界はひどく明断で、昼の雨の中を生気に満ちてよぎる輝がいて、昼の時計は午後の斜めの陽を浴びてぼうばうと燃え、太陽もまたまばたきもせずに燃え上がっている。そうした世界のありようはどこか狂乱に近いものがあるが、同時にひどく静かでもある。

 浜にいると、その男のあてどのない気分がじんわりと押し寄せてくる。だれもいないひっそりとした午後の、生活のリズムから取り残された場所。あたりには白い砂だけが広がっていて、アン・モロウ・リンドパーグの言葉を借りれば「いま」と「ここ」があるだけ、であり、子供あるいは聖者のような生きかた、があるだけ。孤独でありながら、しかしなにもかもがくっきり見える静寂の世界。そういう恐ろしい世界に尾形亀之助は四十三年生き、ついに燃え尽きて幻の昼の中に沈んでいったのである。

問題文C

 佐渡の宿根木という小さな村で、幕末、あまり熱心とはいえない医業をっづけながら、そのころでは最も詳細で正確な世界全図を製作していた男がいた。

 柴田収蔵という。家庭生活にはめぐまれず、生来の酒好きで日々大酒を飲み、患者がやってきてもしばしば大酔中という医者だ。この男が、酔っていないときに熱中したのが、世界地図の製作だった。晩年、江戸の藩書調所にとりたてられて地図製作の係官になっているが、そのよろこびは東の間で、長年の大酒がたたったのだろう、四十歳で病死している。

 柴田収蔵のことを知ったのは、宿根木の民宿に泊まったときだった。民宿に置いてあった本のなかに、『柴田収蔵日記』上下二巻があったのだ。退屈まぎれにばらばら開いてみると、漢字だらけの読みづらい日記のなかに、しきりに出てくるのが「大酔」「地球図」であった。佐渡の片田舎で屈している男が、酒と地球図に明け暮れている異様な姿が垣間見え、妙に気になったものだから、翌日、刊行元の小木町役場へ行って日記二巻を買いもとめた。

 東京に帰って読んでみると、実におもしろい日記だった。北前船に使乗しての船旅日記なども興味ぶかいものだったが、彼が幕末の佐渡で「地球図」越しに見ていた夢が、彼の満たされぬ気持ちと共に伝わってきた。しばらくしてほくは、「地球図作者柴田収蔵」という小さな伝記を書いた。そこから、とびとびに引く。

 春先に宿根木を出た廻船がつぎつぎ帰ってきて、次の航海へ出かけていた。いまは久兵衛船と鍵屋船が浦に入っている。市三郎船はすこし前に帰って、ふき【収蔵の最初の妻]が中奥へ出かけたころ荷積みをすませて出ていった。弟の仙吉なども荷積みを手伝っていたが、収蔵は廻船を見るたびに島の外の世界のことを思った。市三郎船は、天保十年、江戸遊学の直前に乗せてもらったことのある船だった。日本海から瀬戸内を廻る船の旅の解放感が収蔵には忘れがたかった。江戸の町のもっている解放感もありがたかったけれども、海の上ではそれ以上だった。風にふくらんだ自観を見上げていると、そのまま欧羅巴でも%西亜でも行けそうな気がした。

 収蔵は外国のことを書いてある本があると聞くと、借りて来ては書写する。橋本宗吉の「撃離新訳地球全図」や司馬江漢の銅板「地球全図」も借りてきて写す。宿根木や小木には廻船によってそういうものが入ってくるのだ。

 ふきと離婚した収蔵が、二度目の江戸遊学で蘭医学をまなび、あわせてさまざまな世界地図を手に入れて帰村し、称光寺の末院で医院を開く。さきにも書いたように熱心な医者とはいえない。酒と地球図にかけている時間のほうが多い男だ。村の人びとからも信用されていない医者で、病気がちょっと重そうだと思うと小木の町の医者にかかる。なかには猫の病気を治してくれと言ってくる者までいる。

 その収蔵にも、彼を慕って嫁になってくれる、ふくという娘があらわれ、収蔵のなかに生気がみなぎりはじめる。収蔵のなかには自分独自の地球図を作りたい気持ちがうごいていた。これまで手にしてきた多くの地球図を照合し、校訂し、これが決定版と言えるものを作り上げたい。そのための参考書籍もいまは自信のもてるだけ溜まっている。江戸の者といえども自分ほど地球図の諸種をあつめ、あつめるだけでなく写すことでその細部を知番し、地球図のどんな小さなことにも納得のゆくまで地理書を調べてきた者はないはずだ。それにおれは、築刻の修行などによって、誰にも負けぬだけの製図技術を身につけている。縮図法や測量法も独習ながら習得している。

 ふくを嫁にした年の十一月二十日、収蔵は自製の地球図第一号の作成にとりかかった。溜まっていたものを一気に吐き出す仕事であった。収蔵は考えあって、まず格円地球図からはじめた。仕上がったのは同じ月の、二十八日。裏打ちし、冊につくって、今度は両円地球図にとりかかった。これも翌十二月の九日に完成、裏打ちののち両図に表紙表題を付し、誇りにみちて大酒した。

 収蔵の地球図は明けて嘉永元年、相川の石井氏、おそらく夏海の子の文海の尽力で、『改正地球万国全図、地球万国山海興全図説』として出版された。

 収蔵の地球図は、無名の田舎人の出版だから評判を得るにはいたらなかったが、その時代の日本で最も正確な世界地図であった。

 柴田収蔵はほとんど不遇のままに生涯を終えた男だったが、夢を見つづけたという点では決して不幸ではなかっただろう。そして、その夢を見させてくれたものが、地球図という地図であった。

 かつて北前船の船主だったという家で、長い巻物になっている地図を見せてもらったことが何度かある。柴田収蔵の生きた時代とほぼ同時代のものだが、こちらのほうは実用の地図で、そこに夢は存在しない。

 長い廊下の端から端まで広げられるくらいの地図に描かれているのは、日本海沿岸の地形や港である。北前船は「地乗り」といって沿岸航海をすることが多かった。のちに沖合を帆走する「沖乗り」も一部で行なわれるようになるが、地乗りの場合はつねに陸地の見える海を帆走し、陸地の山や岬や高い樹木などを日あてにして航海をつづける。その陸地の様子を描いているのが、この巻物型航海図だ。陸地の目印さえ分かればいいので、距離や方向は実際とは違っている。かなり大まかなものだが、しかし、これが航海のたよりになるのだから、生死にもかかわる大切なものである。

 こういう地図はあくまで実用本位だ。それに比べて収蔵のつくった地球図は、当時としてはほとんど実用の意味を持たない。ー実に正確だ。いまの世界地図と比べてそんなに見劣りのしないものだ。だが、地図上のその世界に出かけて行く人はごく稀れな時代である。作者柴田収蔵が自分のつくった地図の世界のどこかへ出かける可能性はゼロに近かった。

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