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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 1995年 過去問

1995年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

問題 次の問題文を読み、図Ⅰ~Ⅵを参考にして、以下の問ー、問=のそれぞれについて答えなさい。

(問1)

 バッハの『諸調によるカノン』、エッシャーの絵(解答に使用する絵をひとつ選択し、選択した絵の図版の番号を解答の文章のなかに明記すること)、およびエピメニデスのパラドクスの対応関係を具体的に示しながら、三者に共通する「不思議の環」とは何かを説明しなさい。(三○○字以内で答えなさい。)

(問2)

 問題文に挙げられている「不思議の環」の例は、どれも人によって作られたいわゆる人工物(芸術作品や言語表現)である。あなたはこのような人工物であることが「不思議の環」の本質的な特徴であると思うか。もしそう思うならば、その理由を述べなさい。また、もしそう思わずに、自然界等の非人工物のなかにも「不思議の環」があると考えるならば、具体的な例を挙げて説明しなさい。(四○○字以内で答えなさい。)

問題文

 カノンの概念は、ある単一の主題がそれ自身に逆らって演奏されるというものである。これは、さまざまに参入してくる声部によってその主題の「模倣」を演じさせることによってなされる。しかしこれには多くの方法がある。あらゆるカノンのうちで最も直載なものは、「峠の歌」のような輪唱である。ここでは、主題が第一声部で入り、一定の間隔をおいて「その模倣」が同一の調で入ってくる。第二声部と同じ間隔をおいて、第三声部が同じ主題を歌いながら入り、以下同じようにつづく。この方式では、主題のほとんどはたがいに和声をつくらないてあろう。ひとつの主題がカノンの主題として働くためには、その音の各々が二重の(あるいは三重、四重の)役割をつとめうるのでなければならない。したがって、カノンの音のひとつひとつは複数の音楽的意味をもち、聴き手の耳と頭脳はコンテクストに照らしながら、適切な意味を無意識のうちに発見するのだ。

 むろん、もっと複雑な種類のカノンがある。複雑化の第一段階は、主題の「模倣」が、拍子のみならず音高をもずらせて入ってくるときに出現する。つまり、第一声部がハ音で始まる主題をうたうとすると、第二声部は第一声部に重なりながら、五音高いト音で同じ主題をうたうのである。第三声部はさらに五音高いニ音でうたいはじめ、先行の二声部と重なっていくというような具合である。複雑化の第二段階は、各声部の速度が等しくないときに出現する。すなわち、第二声部は第一声部より二倍速かったり遅かったりする。前者は縮小、後者は拡大と称される(主題が縮んだり伸びたりするように聞こえるからだ)。

 これだけではない。カノン構成の複雑化の第三段階は、主題の転回である。つまり、もとの主題が跳び上がるところでかならず跳び降りる旋律を、それも全く同数の半音で作るのである。これはいささか奇怪な旋律変形だが、転主題をたくさん聴いているうちに、ごく自然に思われてくる。バッハは転回をとくに好み、彼の作品にはしばしばそれが現れるーフリードリッヒ大王から与えられた主題をもとに作曲された『音楽の捧げもの』も例外ではない。最後に、最も難解な「模倣」として逆行模写があるー主題を後ろから逆に奏するのだ。この手法を用いるカノンは、盤の横這いに似た特長があるところから、「警カノン」という愛称で知られている。バッハが盤カノンを『音楽の捧げもの』のなかに入れたのは、いうまでもない。どのタイプの「模倣」も、そのどれからも主題を完全に回復しうるという意味で、原主題のあらゆる情報を保存していることに注目してほしい。

 『音楽の捧げもの』のなかには、ことさら風変りなカノンがひとつある。『諸調によるカノン」とだけ名づけられたそれは、三声部をもつ。最上声部が王の主題の変形をうたい、その下で、二声が第二主題に基づくカノン和声をつくる。この二声の低い方は主題をハ短調でうたい(これがカノン全体の主調となっている)、高いほうは同じ主題を音程五度の間隔で上向きにうたう。しかし、このカノンがほかのどれとも異なるのは、それが終わるときーというか、終わるかのように思われるときーもはやハ短調ではなく二短調になっていることだ。ともかくもパッハは、聴き手の真ん前で転調をやってのけたのだ。そしてそれはまた、この「終り」が始まりへとなめらかに連結するような構築にもなっている。したがって、その過程を反復し、ホ調で戻っていけば、ふたたび始まりと一緒になることができる。こうした転調の連続は聴き手の耳を主調からぐんぐん遠のいた領域へと導き、いくっかくり返すうちに、最初の調からどうしようもなく遠のいていくように思われる。ところが不思議なことに、このような転調をかっきり六回くり返した後、なんと原調のハ短調が取り戻されるではないか!全声部は最初のときより正確に一オクターブ高くなっており、ここでこの曲が途切れても音楽的に快いだろう。それがバッハの意図だったらしい。しかしパッハは明らかに、この行程が無限につづきうるという含みをにおわしてもいる。「転調が高まるとともに、王の栄光も高まりゆかんことを」と余白に記したのは、おそらくそのためだ。この潜在的無限の側面を強調するために、私はこれを「無限に上昇するカノン」と称したい。

 このカノンで、パッハは、不思議の環という概念の最初の例を提示してくれた。

 「不思議の環」の概念を最も美しく力強く視覚化したのは、オランダのグラフィック・アーティスト、M・C・ェッシャーの作品である。彼は一九○二年に生まれ、一九七二年に没している。ェッシャーは古今を通じて最も知的な刺激を与える絵画を何点か創作した。その多くは逆説、錯覚あるいは二重の意味に源を発している。ェッシャーの絵画の最初の賛美者のなかに数学者が少なくないのもうなずけよう。なぜならそれらがしばしば、シンメトリーやパタンに関する数学的原理に基づいているからだ:とはいっても典型的なェッシャー絵画には、たんにシンメトリーやパタン以上のものがある。しばしば、ひとつの基盤概念が存在し、それが芸術的な形式として現実化されるのだ。そしてとりわけ不思議の環が、エッシャーの作品に最もくり返し現れる主題のひとつである。

 ェッシャーは不思議の環をいくつかのちがったやり方で具現した。そしてそれらは環の締り具合いに準じて並べることができる。リトグラフ「上昇と下降』(第1図)では修道士たちが環になって永久に歩みっつけ、数多くの設を経てから出発点に戻るので、風は最もゆるい。リトグラフ『滝』(第=図)における環はもっときつく、不連続の設が六個あるにすきない。車一の「殿」という概念は何か曖昧てはないかと思うむきもおありだろうーたとえば『上昇と下降』は、四っのレベル(階段)をもつものとしても、四十五のレベル(踏段)をもつものとしても見ることができるのではないか?実のところェッシャーの絵にかぎらず、多レベルの階層システムにおいては、レベルの数え方にどうしてももやもやしたものがつきまとう。しかし、いまはあまり気を散らさないでおこう。環をきつくしていくと、注目すべき『描いている手と手』(第m図)にいたる。二つの手のそれぞれが他方を描いており、すなわち設の不思議の風なのだ。そして最後に、あらゆる不思議の環のなかで最もきつく締った環が『プリント・ギャラリー』(第B図)に具現される。すなわち、それ自体を包含する絵の絵だ。あるいは、それ自体を包含するギャラリーの絵だろうか?あるいは、それ自体を包含する町の絵?あるいは、彼自身を包含する青年の?

 不思議思議の環の概念に内在するのは無限の概念だ。というのも、環は無限の行程を有限の手段で表現する手段でなくてなんだろう。そして無限は、エッシャーの多くの絵画において大きな役割を演ずる。単一の主題の模倣がしばしば調和しあい、パッハのカノンの視覚的相似形をつくるのだ。いくつかのそうしたパタンはェッシャーの有名な版画『メタモルフォーゼ』に見ることができる。それは「無限に上昇するカノン」に少し似ている。出発点からどんどん離れていきながら、突然もとに戻るのだ。『メタモルフォーゼ』その他の絵画のタイル張り模様の面には、すでに無限を暗示するものがいろいろある。しかし、無限についてのもっと奔放な視覚化はェッシャーのほかの絵画に現れる。彼の絵画のいくつかでは、単一の主題が現実性の種々のレベルで現れうるのだ。たとえば、一枚の絵画のひとつのレベルが、明らかに幻想や空想を表現しているものと見なしうるにしても、もうひとつのレベルは現実と見なしうるであろう。明確に描写されたレベルは、この二つのレベル以外にないかのようである。しかしこの二つのレベルが存在するというただそのことに誘われて、見る者はさらにもうひとっのレベルの一部として自分自身を眺めるのだ。この段階へくると、見る者はェッシャーの意図した「レベルの鎖」に囚われざるをえない。そこでは、いかなるひとつのレベルをとっても、つねにその上に一もっと現実的な」もうひとつのレべルがあり、つねにその下に「もっと空想的な」レベルがある。このこと自体にたまげてしまう。けれども、レベルの鎖が直線でなく環を成しているとしたらどうだろう。その場合、何が現実か、そして何が幻想か?数々の半現実的、半神話的世界、不思議の環にみちみちた世界、見る者を誘い入れようとしているその世界、それを思いついただけでなく実際に描いたところが、エッシャーの天才である。

パッハやェッシャーによる不思議の環の以上のような例には、有限と無限の相克、つまりは強い意味でのパラドクスが見られる。直観的にいって、ここには何か数学的なものがかかわっている。そして実際、今世紀に数学的な対応物がゲーデルによって発見され、大変な反響を呼んだ。また、パッハやェッシャーの環が非常に単純な古くからの直観ー音階や階段のようなーに基づいているように、ゲーデルによるこの数学的体系の中での不思議の環の発見もまた、もとをたどれば単純な古くからの直観につながっている。ゲーデルの発見は、核心部分についていえば、古代の哲学的なパラドクスを数学的な言葉に翻訳したものにかかわっている。そのパラドクスとは、いわゆる「エピメニデスのパラドクス」、あるいは「うそつきパラドクス」である。ェピメニデスはクレタの人で、次のような金言を残した。「クレタの人はみなうそつきである。」この言葉をさらに鋭い形になおせば、「私はいまウソをついている」とか、「この文は誤りである」になる。私がエピメニデスのパラドクスというときは、この最後の形を指している。これは、文を真と偽に分けるふつうの二分法を鮮やかにぶちこわしてしまう文である。というのは、これが仮に真であると考えると、この文はただちに逆の効果を生み出し、偽と考えざるをえなくなる。一方この文を偽と定めると、逆向きの同じような爆発が起って、この文は真にちがいないという考えに引き戻される。やってごらんなさい!

このパラドックスには、犯人がいるように見える。それは白己言及、あるいは「不思議の環」性である。そこでもしパラドクスを追放するのを目ざすなら、自己言及とそれをひき起すものを一切追放してしまえばよさそうなものではないか?これは見かけほどやさしいことではない。どこに自己言及が起こっているかを見分けることでさえ、むずかしいことがあるからである。自己言及は何ステップかの不思議の環の全体にまたがっているかも知れない。たとえば、エピメニデス文を「拡張した」次の変形版のように、『描いている手と手』(第3図)を連想させるものもある。

次の文は誤りである。

前の文は正しい。

 全体として、これらの文はもとのエピメニデスのパラドクスと同じ効果をもっている。しかしひとつひとつは、どちらも無害であり、しかも有用でありうる文である。不思議の環の原因はどちらの文にも結びっけられない。ただ両者がたがいに指示しあうそのしかたに結びつけられる。これと同じように『上昇と下降』のどの一部分も道理にかなっている。不可能性をもたらすのは、それらが全体としてまとめられるそのしかたである。

 このように、パッハ、エッシャー、エピメニデスの中に共通する「不思議の環」を見いだすことができる。それらを不可解な、非日常的なものとして無視することもできるかも知れない。しかし、このような不思議の環」の神秘性の中に、われわれが解明して行くべき何か本質的なものが隠されているように私には思われる。

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