[responsivevoice_button voice="UK English Female" buttontext="Listen to Post"]

年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 文学部 小論文 1993年 過去問

1993年 慶應義塾大学 文学部 小論文 課題文

つぎの文章は、一九五一年に書かれた渡辺一夫 [T]氏のエッセイである。これを読んで、以下の設 間に答えなさい。

(間1)この文章の主旨を三OO字以内で要約しなさい。

(問2) 筆者の主張は、今日の状況においても妥当か否 か、あなたの立場を明確にして、四○○字以内で論じ なさい。

 

過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開される現実を 眺めても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒する と称して、不寛容になった実例をしばしば見出すことが できる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを 守るために不寛容に対して不寛容になってよいという答 はない。割り切れない、有限な人間として、切羽つまった場合に際し、いかなる寛容人といえども不寛容に対して不寛容にならざるを得ぬことがあるであろう。これは、認める。しかし、このような場合は、実に情ない悲しい 結末であって、これを原則として是認肯定する気持は僕 にないのである。その上、不寛容に報いるに不寛容を以 てした結果、双方の人間が、逆上し、狂乱して、避けら れたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更 にまた、怨恨と猫疑とが双方の人間の心に深いひだを残 して、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は、考えまいとしても考えざるを得ない。従って、僕の結論は、極めて簡単である。寛容は自らを守るために 不寛容に対して不寛容たるべきでない、と。繰返して言 うが、この場合も、先に記した通り、悲しいまた呪わし い人間的事実として、寛容が不寛容に対して不寛容にな った例が幾多あることを、また今後もあるであろうこと をも、覚悟はしている。しかし、それは確かにいけない ことであり、我々が皆で、こうした悲しく呪わしい人間 的事実の発生を阻止するように全力を尽さねばならぬし、 こうした事実を論理的にでも否定する人々の数を、一人でも増加せしめねばならぬと思う心には変りがない。

 

人間は進歩するものかどうかは、むつかし ろうが、人間社会全体の存続のために、人々が様々な抗 や契約を作り出し、各自の怒意による対立抗争の解決に 努力している点では、確かに進歩があると言ってもよい であろう。ヨーロッパの昔 (中世前期)においては、個 人間に関着が起った時には、大名なり王者なりの前で、 当該係争者が決闘をして、勝った者が神の意に適ったも のとして、正しいと判ぜられたという。これは、弱肉強 食から、人間が一歩前進して、何かの擁、何らかの契約 を求めて、弱肉強食を浄化する意志を持っている証拠の ように思われる。その後様々な法令が作られて、個人間 の争闘は、法の名によって解決され、人間は死闘の悲惨 から徐々に脱却しつつあると言ってもよいであろう。人 間は嘘をつくし、逆上して殺人もする。しかし、嘘をつ いたり、殺人をしたりしてはいけないという契約は、い つの間にか、我々のものになって居り、嘘をつく人や殺 人犯人は、現実にはいることを、悲しく呪わしい人間的 事実として認めても、これを当然の事実として認める人はいない答である。 寛容が不寛容に対して不寛容になってはならぬ、とい う原則も、その意味で、強く深く人々の心のなかに、新 しい契約として獲得されねばならない。たとえ、前にの べたような悲しく呪わしい人間的事実が依然として起る としても。いくらこうした原則が設けられても、不寛容 が横行する以上どうにもならぬではないか、とも言われ よう。しかし、右のような契約が、ほんとうに人間の倫 理として、しっかりと守られてゆくに従い、不寛容も必 ず薄れてゆくものであり、全く跡を絶つことは、これま た人間的事実として、ないとしても、その力は著しく衰 えるだろうと僕は思っている。あたかも嘘言や殺人が、 現在においては、日陰者になっているのと同じように。

 

寛容と不寛容との問題は、理性とか知性とか人間性と かいうものを、お互いに想定できる人間同士の間のこと であって、猛獣対人間の場合や、有毒菌対人間の場合や、 天災対人間の場合は、論外とすべきであろう。人間のな かには、猛獣的な人間もいるし、有毒菌的天災的な人物もいるにしても、普通人である限りにおいでは、当然問 題の範囲内にはいってくる。ただ、このような人間は、 その発作が病理学的な場合もあり無智の結果である場合 もあるから、問題の範囲内に入れるとしても、これも別 に論じなければならぬことになろう。ここでは、概念的 すぎるかもしれないが、普通の人間における不寛容と寛 容との問題だけに焦点の位置を限らねばならない。

 

秩序は守られねばならず、秩序を撃す人々に対しては、 社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、 その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩 序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければ ならない。更にまた、これは忘れられ易い重大なことだ と思うが、既成秩序の維持に当る人々、現存秩序から安 寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を斎す 人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を 受けている秩序が果して永勃に正しいものか、動脈硬化 に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を素す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々 がいることを、十分にわきまえる義務を持つべきだろう。 即ち、秩序を守ることを他人に要求する人々は、自らに とってありがない秩序であればこそ、正に、その改善と 進展とを志さねばならぬ管である。寛容が、暴力らしい ものを用いるかに見えるのは、右のような条件内におい てのみであろう。しかし、この暴力らしいもの、即ち、 自己修正を伴う他者への制裁は、果して暴力と言えるの であろうか? 十字路の通行を円滑ならしめるための青 信号赤信号は暴力でないし、戸籍簿も配給も暴力ではな い。人間の怒意を制限して、社会全体の調和と進行とを 求めるものは、契約的性格を持つが故に、暴力らしい面 が仮にあるとしても、暴力とは言えない。そして、我々 がこうした有用な契約に対して、暴力的なものを感ずる のは、この契約の遵守を要求する個々の人間の無反省、 倣慢或いは機械性のためである。例えば、無闇やたらに 法律を橋にとって弱い者をいじめる人々、十字路で人民 をどなりつける警官などは、有用なるべき契約に暴力的 なものを附加する人々と言ってもよい。こうした例は無数にある。用いる人間しだいで、いかに有用なものでも、 有害となり、暴力的になるように思う。このことは、あ らゆる人々によって、日常茶飯のうちに考えられていな ければならぬことであろう。

 

寛容と不寛容とが相難した時、寛容は最悪の場合に、 涙をふるって最低の暴力を用いることがあるかもしれぬ のに対して、不寛容は、初めから終りまで、何の瞬踏も なしに、暴力を用いるように思われる。今最悪の場合に と記したが、それ以外の時は、寛容の武器としては、た だ説得と自己反省しかないのである。従って、寛容は不 寛容に対する時、常に無力であり、敗れ去るものである が、それはあたかもジャングルのなかで人間が猛獣に喰 われるのと同じことかもしれない。ただ違うところは、 猛獣に対して人間は説得の道が皆無であるのに反し、不 寛容な人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではない ということである。そこに若干の光明もある。

人間の歴史は、一見不寛容によって推進されているよ うにも思う。しかし、たとえ無力なものであり、敗れ去るにしても、犠牲をなるべく少くしようとし、推進力の 一つとしての不寛容の暴走の制動機となろうとする寛容 は、過去の歴史のなかでも、決してないほうがよかった ものではなかった答である。

copyright 2016/Everyday school