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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 経済学部 小論文 1999年 過去問

1999年 慶應義塾大学 経済学部 小論文 課題文

 

問題

 次の2つの課題、課題aと課題6のなかから1つを選び、解答しなさい。但し、課題aは解答用紙aに、課題βは解答用紙βに記入しなさい。

課題α

 以下の文章は、フランスの文人で思想家でもあるポール・ヴァレリーが1919年に書いたエッセイ『精神の危機』から抜粋してまとめなおしたものです。20世紀末の現代からみて、あなたはこの文章が提起する問題をどのように考えますか。この文章の内容に関連する論点をみつけ,それについて800字以内であなたの見解を自由に述べなさい。なお、自分の論述の要旨を、解答用紙の指定された横側に80字以内で書くこと。

 文化、知性、傑作といった観念は、我々にとってはヨーロッパという観念と昔から結びついていて、それもあまりに昔なのでめったにそこまでさかのぼっては考えないほどです。

 世界の他の部分にもすばらしい文明、一流の詩人、建築家、さらには学者さえ輩出しました。しかし世界のいかなる部分も、もっとも強い吸収力と結びついたもっとも強い拡散力というこの奇妙な物理的特性をもつことはありませんでした。すべてがヨーロッパに来り、すべてがヨーロッパから来たのです、あるいは、ほとんどすべてが.

 ところが、今という時代は次のような重大な問いを抱えていますーヨーロッパは、あらゆる分野においてその優位を保ってゆくだろうか。

 ヨーロッパは、現実にあるがままのものに、つまりアジア大陸の小さな餅になってしまうのか。それともヨーロッパは、依然としてみかけ通りのもの、つまり地上世界の貴重な部分、地球の真珠、巨大な身体の頭脳でありつづけるだろうか。

 世界地図上の、人の住む土地の全体を見てください、全体が地域に分かれ、各地域には特定の人口密度があり、特定の人間の質があります。またそれぞれの地域にはある自然の富が対応しています一肥決さの異なる土地、埋蔵物の価値の異なる地下、灌漑の程度や輸送設備のつくりやすさに差のある領土、などです

 こうした特性によって、どの時代にも地域間に等級をつけることができます。その結果、どの時代においても、生きたものとしての地球の状態は、その表面の人の住む地域間の不平等性の体系として定義することができます。

 どの瞬間においても、次の瞬間の歴史はこの与えられた不平等性によって決定されます。

 こうした理論的な等級化ではなく、現実に昨日なお存在していた等級分類を考えてみると、ョーロッパという狭い地域が何世紀も前から首位を占めているという事実に気づきます。面積はわずかで、土地の豊かさは目覚ましいものではないのに、ヨーロッパは表の第一位にあります。いかなる奇踏によってでしょうかー奇頭は住民の質にあるに違いありません。天科の一方の皿にインド帝国を、他方には大英帝国をのせてごらんなさい。軽い分銅をのせた皿のほうが下がるではありませんか!

 これは驚くべき不均衡ですが、しかしここから生じる結果はもっと驚くべきものです、それは徐々に逆方向の変化が起こることを予想させるものだからです。

 先ほどは、人間の質がヨーロッパの優越性の決定因にちがいないという意味のことを申しました。私はこの質なるものを詳しく分析することはできません。しかしざっと検討しただけでも、食欲な活動力、利害をはなれた熱烈な好奇心、想像力と論理的厳密さの調和、悲観とはちがう一種の懐疑主義、諦念とはちがう神秘主義などが、ヨーロッパの「こころ」のとくに際立った性格であることが見てとれるのです。

 しかし、こうした人間の質の所産として生まれた我々の近代科学は、いったん物質への応用を通じて試練を受け、その報酬を受けたあとは、権力と支配の手段、富の刺激剤、地上の資本を生み出す道具と化し、一「自己目的」であり芸術的活動であることをやめてしまいます。消費価値であった知が交換価値となります。知の有用性が、知を少数の愛好家でなく万人に望まれる食用品にしてしまうのです。

 この食用品は、次第に扱いやすく食べやすい形で作られ、多くの顧客に配られる商品となって、方々で模倣され生産されるようになるでしょう。その結果、機械技術、応用科学、戦争や平和の科学的手段などの点で、世界の諸地域間に存在した不平等性ーヨーロッパの優位を支えていた不平等性ーは消え去ろうとしています。

 したがって、世界の地域間の等級は、物質的な大きさ、統計的要素、数(人口、面積、原料)などだけで決まる等級そのものになろうとしています。そして、軽く見える我々のほうに傾いていた天科が、ふたたび我々を持ち上げはじめますーまるで我々が自分の側にあった不思議なおまけの分銅を愚かにも向こうの皿に移してしまったかのように、我々はうかつにも力を物量に比例するものとしてしまったのです。

 しかしヨーロッパ精神は一少なくともそこに含まれるもっとも貴重なものは一余すところなく拡散しうるものでしょうか?地球の開発、技術の平等化、民主化といった現象は、ヨーロッパの特権喪失を予想させるものですが、これを運命の絶対的な決定と考えなければならないのでしょうか?それとも我々は、事物の側が反乱をたくらむという不穏な超勢に対抗するなんらかの自由をもっているのでしょうか。

課題β

以下の文章は、イギリスの哲学者、思想家として著名であったバートランド・ラッセルが1929年に出版した『結婚と道徳』からの自由な抜粋である。この文章を素材にして、「現代社会における男女の愛の理想的なあり方について」という主題で、あなた自身の見解を800字以内で述べなさい。なお、自分の論述の要旨を、解答用紙の指定された欄に80字以内で書くこと。

 ほとんどの社会における愛に対する支配的な態度は、奇妙なことに、二重である。一方では、愛は詩、小説、劇の主要なテーマであり、他方では、それは大部分のまじめな社会学者に完全に無視され、経済的あるいは政治的な改革の諸計画に必要なものの一つとは見なされていない。私はこうした態度が正当だとは考えない、愛とは、その語を正しく用いた場合は、両性間のいかなる関係またはあらゆる関係を指すものではなく、少なからぬ感情を含む関係のみを意味し、肉体的であると同時に心理的でもあるような関係を意味する。私は、愛を人間生活における最も重要なものの一つであると見なすし、その自由な発展に不必要に介入するようないかなる制度をも、悪と見なす。

 たとえば、現代世界では、愛にはひとつのきわめて危険な敵がある、それは仕事と経済的成功という信条である。現代の典型的な職業人の生活、とりわけアメリカにおけるそれを考えて見るがいい。彼は大人になったそのときから、彼の最良の思考と最良のエネルギーのすべてを、金儲けのうえでの成功にささげる。若いときには、彼はそのときどきの肉体的な欲求を娼婦によって満足させる。結婚するや、彼の興味は妻のそれとはまったく違うので、彼は決して妻と本当に親密になることはない。彼は会社から夜遅く、疲れて帰宅する。朝は妻が目覚める前に起きる。日曜日はゴルフをして過ごす。なぜなら、金儲けの闘争に適応するためには運動が必要だからだ。彼には結婚における愛のための時間がないのと同様、不倫の愛のための時間もない、しかし、もちろん、仕事で家を空けるときには、ときどき娼婦を訪れることはあるかもしれない。

 愛は性交への欲求をはるかに超える何物かである。愛は、人生の大部分を通じて大半の男女を苦しめる孤独から逃れるための主要な手段である。情熱的な相互の愛は自我の固い壁を壊し、二人が一つに融合した新しい存在を生み出す。自然は、人間をひとりぼっちでいるようには作らなかった。なぜなら、人間は、もう一人の援助なしには自然の生物学的な目的を達成することができないからだ。そして、文明人は、愛なしに彼らの性的本能を十分に満足させることはできない。その本能は肉体的と同じくらいに精神的でもある人間の全存在がその関係の中に入らない限り、完全には満足されないのである。幸福かつ相互的な愛情がもつ深い親密さと熱烈な一体感をまったく知らない人々は、人生が提供する最良のものを見逃したことになる。したがって、情熱的な愛に正当な位置を与えることは、社会学者の関心を引く問題であるべきだ。なぜなら、もしもこの経験を手に入れ損なのならば、男女ともに十分な成長を達成することはできないし、世界の他の人々に対して、それなしには彼らの社会的活動が全く確実に有害なものとなるような、そのような種類のたっぷりとしてあたたかみを感じることもできなくなるからだ。

 ほとんどの男女は、適当な条件が荒れば、彼らの人生のある時期に情熱的な愛を感じるものである。しかし、そうした経験のない人々にとっては、情熱的な愛をたんなる性的渇望から区別することはきわめて困難である、とりわけこのことがあてはまるのは、育ちのよい娘たちであり、彼女たちは、愛している男性でない限りとてもキスする気持ちにはなれないはずだと教えられてきた。娘が結婚するときに処女であることを期待されている場合には、性的経験のある女性であれば容易に愛から区別できるような、一過性の取るに足りない性的魅力の罠にはまってしまうということが非常にしばしば起こるものである。これは疑いもなく、不幸な結婚のよくある原因になってきた。

 他方、現代の解放された人々のあいだでは、われわれが問題にしているような真面目な意味の愛は新たな危険にさらされている。つまらない衝動に駆られるたびに性交するということに対する。いかなる道徳的な抵抗をも人々が感じなくなると、彼らは、性を真塾な情感から、また、情愛に満ちた感情から分離して考える習慣におちいる、愛から切り離された性交は、本能に対していかなる深い満足をももたらすことはできない。私は、愛から切り離された性交が決してあってはならない言っているのではない。なぜなら、これを確実なものにするためには、われわれは、愛もまたきわめて困難になるほどの厳格な障壁を設けなければならないからである。私が言っているのは、愛から切り離された性交はほとんど価値のないものであって、主として、愛を目指す実験行為と見なされるべきだということである。

 人間生活において公認された地位を要求する愛の主張は、非常に強力である。しかし、愛は無政府的な力であるから、もしも自由に放任されるならば、法律や慣習によって設定されたいかなる限界のなかにもとどまろうとはしない。子供を巻き込まない限り、このことは大した問題ではないかもしれない。しかし、子供が登場するやいなや、われわれは別の領域に入るのであり、そこでは,愛はもはや自律的ではなく、人類の生物学的な諸目的に奉仕するのである。子供と結びついた社会的倫理が存在しなければならず、それは、情熱的な愛の諸要求と対立するならば、それら諸要求に優越するかもしれない。しかしながら、賢明な倫理はこの対立をできる限り最小にするだろう。というのも、愛はそれ自体としてよいものであるばかりでなく、両親が愛し合っているならば、子供にとってもよいものだからである。子供の利益と両立する限り、できるだけ愛に干渉しないことが賢明な性道徳の主目的の一つであるに違いない。

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