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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 2014年 過去問

2014年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

 

「問題」

 次の文章は、「規範理論における主題としての「家族」」と題する論文の中で、フェミニズムにおけるケアと正義の二元論についての記述の抜粋である。この文章を読み、「ケアの倫理」と「正義の倫理」に関する筆者の分析を踏まえて、あなたの考えを論じなさい。

試験時間90分、1000字以内

〈1〉

 アリストテレスは、家事労働は生命の必然を満たすために誰かが必ず担わなければならない労苦であることに気づいていた。 

 近代とは、社会構造の変化とともに家族の位置づけも大きく変化し、〈家族の時代〉と呼んでも過言ではないほど、家族内の機能に多くの期待が寄せられ始めた時代でもある。一方で、家族は自由規範理論における主題としての「家族」の領域と観念されながら、他方では、誰かがそこでの労苦を負担しなければならない。そのために、焦点化されるのが、女性をいかに活用するかである。 

 近代社会が抱える矛盾、すなわち、一方で家族の領域を個人の自由の下に置かれるプライヴェートな領域、国家の干渉から守られる非政治的な領域と規定しながら、他方で、無限の可能性に開かれた次世代をいかに「市民」として養育するかといった重い課題を家族に担わせる、という矛盾を解決するために動員されたのが、女性の「自然・本性」に訴えることで、当然女性が果たすべきであると考えられた家事労働であった。

〈2〉 

 公的な領域を扱う政治学、とりわけ政治思想は、「政治とは何か」を論じるさいに、政治の領域に必要とされる/相応しい「能力」がいかに、他の諸領域で求められる能力とは異なった能力であるかを執拗に論じてきた。たとえば、アイリス・ヤングは、市民に求められる「普遍性」、「一般性」というタームを抽出しながら、主流の「市民論」における排他性をつぎのように批判する。

 公的な討議や政策決定に参加することにより、市民は自己中心的な生活や私的利益の追求という個別性を超越し、共通善についての合意に至る一般的な視座を獲得すると考えられている。シティズンシップ(誌1)は、人間生活の普遍性の表現であるとされている。シティズンシップは理性と自由の領域であり、個別的なニーズや利害や要求からなる雑多で異質性を帯びた領域とは対置されるのである。

 ヤングによれば、市民として期待される能力がこのように「普遍性」や「一般的な視座」に求められ賞賛されると同時に、その能力を持たないとされる者たちは、市民の地位から排除されてきた。本稿の関心からいえば、排除の対象は、なによりもまず家事を任される、あるいは進んで家事役割を引き受けるとされる女性たちであった。 

 現代の北米政治理論の二大潮流とも言えるリベラリズムであれ、リパブリカニズムであれ、そこで期待されている市民像ー自律的な個人、あるいは公的関心が高く活動的な市民ーは、次世代の市民を養育する者たちとは相するような性格を持つ。その政治理論上の理由の一つは、ヤングも指摘するように、家族とは個別具体的ニーズが満たされるべき場であり、さらには、家族構成員に存在すると想定されている強い愛着、家族を第一に思う気持ち、構成員同士の不平等な関係等々、公的領域が想定する徳や態度とはまったく異なる論理がそこで働いているとされるからである。』 

 さらに、現実問題として、ケア労働を担う者たちは、ケアを必要とする者たちから目を離すことができず、あるいは家事労働の負担のために現実問題として、物理的に家の外に出ることが適わないことが多い。しかも、ケア労働を担う者が突きつけられるのは、その労働は誰かが担わなければ、依存する者たちの生死に関わることがある、という問題である。この道徳的問いかけは非常に重く、だからこそ、ケア労働者は、どのような理由からであれ、その立場に置かれると、その場を離れることが困難となるのだ。わたしたちがここで考えなければならないのは、ケア労働を担う立場に多くの場合置かれてしまう女性にとって、その場にとどまり続けることは、決して自由意志で選択したわけでもなく、かといって強制されたわけでもない、という点である。 

 契約論に基づく家族論は、契約論的に自由意志の名において女性の役割分担を説明するのではなく、むしろ、女性の自然や特性によって説明しようとした。しかしながら、現代においてはむしろ、それは自由な選択の結果として理解される傾向にあり、じつはより一層女性たちに強い負荷をかけている。エヴァ・キテイは、現代のリベラリズムが、強制されたわけでもないが、自由な選択でもないような責任の引き受けの真の性格ついて、ほとんど論じてこなかったことを批判しながら、むしろ正義や善が問われるのは、こうした場合ではないかと問いかける。

 私たちの生活は、こういった、強制されてもいないし、かといって自発的に選ばれてもいないようなつながりに満ち溢れている。それは、最も親密な家族関係から同じ国の国民であること、旅の道連れまでに至る。:強制されたわけではないが自発的でもない関係性を受け入れるかどうかで、私たちは正義と善に適うように行為する自分の能力を問う。自分がある重要なニーズを満たせる唯一の立場にあるにもかかわらず、それに応えないとすれば、私たちは、自身の人間性を自問するだろう。

 自由意志で行為を選択し、つねに自らが要求するニーズを「自分のもの」と確信できるような主体を前提としているかぎり、近代の政治思想におけるよりも、より契約論的思考が行きわたり、公私にわたり自由な意志が貫徹したかに見える現代における政治思想においてこそ、主に女性たちが担ってきたケア労働は、その活動の性格から公的領域に相応しくないとされ、公的領域を巡る議論からは排除されることとなる。しかし、現代においてそれは、誰かが担わなければならないがゆえに、逆説的だが、強制ではなく、自由に選択した結果のように見えるのである。私的領域が自由の領域として観念され続ける限り、わたしたちは、社会が存続するためにも、ある特定の者たちー多くの場合は、女性ーの能力を囲い込まなければならない事態を、その者たちの自由な選択として、すなわち、公的に精査しなくともよい私的な出来事として、やり過ごすことができるのである。

〈3〉

 自由意志なのか、強制なのかといった問いには適合せず、おそらくだからこそ、社会的な弱者である女性が主に担うこ域への参加資格・条件とのあいだには、解きがたい緊張が存在する。フェミニスト法学者のロビン・ウエストは、ケアする権利ケアされる権利だけでなくーを選択の自由との関連で認めるのではなく、基本的人権の一つとして最低限保障することを提唱し、ケアする者に対する政府の支援を権利として要求する方途を探ろうとする。 

 彼女によると、ケア労働と現在の自由主義的な権利概念(と、それに基づく法体系)とは、両立不可能な関係にある。しかし、なぜ両立しないのかといえば、女性たちがその本性において自由主義的でないからでもないし、あるいは、現在以上のリプロダクティヴに関する権利が認められれば、その両立不可能性が解消されるものでもない。むしろ、このことが意味するのは、自由主義的な法体系と諸制度が、「ただ単純明白に、非常に非人間的だ」ということである。自由主義的な法体系と諸制度は、「幼児期と老齢期においてわたしたちが複数の他者に幅広く依存しているという、その本性を考慮から排除しているために、それは、私たちの人間性を正しく反映することがない。そして、それがわたしたちの人間性を正しく反映していないために、わたしたちの人間的で社会的なニーズに適切に応えられない」。 

 こうして、政治的な女性の排除という観点から、人間存在にとって必然的で避けることができない「ケア」について、多くのフェミニストたちが着目し始めるのだが、とりわけ大きな影響を与えたのが、キャロル・ギリガンによる『もう一つの声』(一九八二)であった。

 ギリガンに対する評価をここでは試みないが、彼女が政治理論に与えたインパクトは、公的領域において基底的な倫理、すなわち「正義の倫理」に対する反省を促したことにある。ギリガンが女性たちの経験から聞き取った声は、自らの権利を主張し、他者いにはとになっている家事労働と、公的領の権利を自らの権利と競合するものと捉え、あるいは、諸権利間に順列をつけ、調整しようとする「正義」の倫理とは異なる倫理について語っていた。すなわち、それが、他者への共感、自己批判、文脈の中で生じる他者への責任といっちた、より弱い者への視線から発せられる「ケアの倫理」である。ギリガンは、社会においては「正義の倫理」だけでなく、「ケアの倫理」の重要性が考慮されるべきであり、両者は相対立するものとしてではなく、むしろ統合されるべきものとしてあると主張する。

《4》

 だが、ケア労働に必要とされるさまざまな能力は、公的領域で必要とされる能力と相反するような能力なのだろうか。ギリガンのゲアの倫理が明らかにしたケアの本質とは、たしかに、すべての人ではなくある特定のひとのニーズに応えようとする深いコミットメントにあった。しかし、それが「その特定の人格のニーズ、欲求、態度、判断力、行動、そしてその存在すべての在り方にまず焦点をあてる」ことであるかぎり、公的領域においてなによりも要請されている、他者を他者として尊重する態度、その人の掛け替えのなさirrepaceabity、唯一性uniquenessを尊重する態度がそこに存在する、と考えられてもよいはずである。 

 さらに付け加えるならば、政治とは、見知らぬ他人の二ーズを代弁し、はっきりと表明する機会を持たない者たちのニーズに応えようとするものに他ならない。そうであるならば、たしかに見知らぬ人ではないにしろ、自分とは明らかに異なるニーズを持つ者をケアすることは、政治にまず必要とされる自己を越える想像力と、臨機応変な判断力を養っていることになるのではないか。家族の各構成員たちの〈あいだ〉を、世代・性差・能力・出自といった、その異なりに焦点を当てて再検討することは、家族内での異なるひとびとの複雑な依存関係を無視し得てきた政治的な「主体」像を厳しい批判に晒すことを可能にしてくれる。 

 年齢、能力、出自、性別、民族、そしてときに国籍さえ越える雑多なひとたちが集うのは、家族という領域ではないか。そのように問い返すことは、運命共同体であるかのごとく表象され、喧伝される国民国家という政治的共同体を、根底から見直す契機をも与えてくれるに違いない。

岡野八代「規範理論における主題としての「家族」」『立命館法学』三三三・三三四号(二○一○年五・六号)試験問題として使用するために、文章を一部省略・変更した。

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