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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 2013年 過去問

2013年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

 

「問題」

 次の文章は、日本における内閣制度発足当初の状況について論じたものである。当時の内閣制度が抱えていた問題点を三○○字程度にまとめ、これを踏まえて、現在の内閣総理大臣のリーダーシップのあり方について、あなたの考えを自由に論じなさい。

 明治一八年二月二二日に急転直下、内閣制度創設の運びとなる。それと同時に、第一次伊藤内閣が成立した。顔触れは、伊藤博文が総理大臣に就任したことを別にすれば、基本的に直前まで続いた太政官制の省卿配置を引き継いでおり、ただ川村海軍卿が退いて西郷従道海軍大臣となり、大本文部卿が森有礼文部大臣に、西郷が農商務卿から海軍大臣に横滑りしたのにともない谷干城農商務大臣に交代し、新設の通信大臣に複本武揚が充てられた以外には変動がなかった。いささか先走るが、明治二○年に井上撃外務大臣が進めていた条約改正交渉への反対運動が盛り上がり、その責任をとるかたちで井上が、また反対運動に同調した谷農商務相が辞任し、翌年には伊藤も退陣して黒田内閣となるが、その際の政権内の変動は小規模なものにとどまった。その時点までの藩閥政権は、一応の安定期を迎えていたと評価して差し支えないであろう。

 その安定期を迎える過程を通じて、薩長四人ずつ計八名の「元勲級指導者」ー伊藤博文・黒田清隆・井上警・山県有朋・松方正義・西郷従道・山国顕義・大山魔ーによる「政権寡占クラブ」が成立した。以後一○年以上、この八名以外の人物が内閣首班候補に浮上することはなかった。他方、八名の顔触れが薩長四人ずつであることに示されている通り、薩長間のバランスということが強く意識されている体制でもあった。明治三一年に第一次大隈内閣(張板内閣)が成立するまで、内閣首班が薩長交代であったことも、バランス感覚のあらわれとしてすでに指摘されている。(中略)

 内閣制度の下では、薩長の元勲級指導者八人の内誰か一人が内閣の長どなり、他の大臣たちを統率していかなければならなかった。内閣首班候補が常に八名の内の誰かであるということは、基本的に総理大臣となった際のリーダーシップが属人的なもの、つまり彼ら八名の維新以来の成功の歴史に依存せざるを得ず、その分曖昧な、換言するならば制度的枠組に馴まない性格を持つことを意味しており、それ自体紛争の火種となりのであった。

 加うるに、太政官制においては彼らは各省のトップであると同時に参議であった。参議であれば、省庁の利害ではなく国政を議する職であることは自明であった。各省間で利害が対立しかねない問題が生じた時に発動する談合・調整システムは、そのような条件ぬきには考えられなかった。しかし、内閣制度施行後は制度上、省において大臣であることと、内閣としての決定に参与することとの間には微妙なずれが生じる危険性が浮上した。その背景として考えられるのは、太政官制後期から内閣制度施行後を通観した場合、ある人物が長期間特定の省のトつあった事実である。

 たとえば、松方正義は明治一四年一○月に参議兼大蔵卿に就任すると、内閣制度が施行されるのにともないそのまま大蔵大臣となり、二五年八月に至るまで計一○年以上在任したし、そこまで長くないとはいえ、明治一六年一二月に参議兼内務卿に就任後、一三年五月まで内務省に君臨した山県有朋の例も有名である。同様に一六年一二月に参議兼司法卿に就任した山田顕義は、内務省における山県よりさらに一年余り長く司法省のトップであり続けた。要するに内閣とはいっても、それを構成する諸大臣は各省の利益を代表するという側面が肥大化しがちな傾向が出始め、そうした事実はそのまま各省の割拠性となってあらわれた。彼らの政治的成功は、一定期間省のトップを占め、自らの勢力を省内に扶植し、政策を円滑に行して多くの成果をあげてきたことによりもたらされたという一面があり、割拠性はそこに必然的にともなわれてくるものであったが、それは同時に弊害をもたらしかねない可能性を争んでおり、内閣制度創設はその噴出の契機となり得るものであった。

 太政官制時代なら、参議で構成される内閣の上には、実質的にどの程度の力を発揮し得るかは別にして、藩閥とも各省とも距離を置いた太政大臣・三条実美や右大臣・岩倉具視がいた。それは、調整と談合のメカニズムが働く基礎的な条件であったのだろう。しかし、内閣制度施行以後は、藩閥内の、また各省とも全く無縁とはいえない人物が政権のトップとして、内閣の中で各省間のむき出しの利害対立、もしくは政策的競合に直面しなくてはならなくなった。初代内閣総理大臣は伊藤博文、そのあとを務めたのは黒田清隆であるが、初論そうなったのは第一に伊藤・黒田両者のそれぞれ長州閥・薩摩閥におけるランクのしからしむるところであろう。しかし、伊藤の場合、最も長く務めたのがその時点ではもう消滅していた工部卿で、他には内務卿と、やや特殊な役職ともいえる宮内卿とをそれぞれ兼任ポストとして経験しているだけであり、黒田にしても長らくかかわってきた開拓使が廃止されて以降は内閣顧問をつとめるのみで、いずれも特定の省の色が薄かったことと無関係だったわけではないであろう。割拠性緩和により適した、言い換えれば太政官制時代の三条・岩倉に近い性格の総理大臣を、という配慮が働いていた可能性は高い。そうだとすれば、必然的に総理大臣の役割は主導よりは調整に傾かざるを得なくなるであろう。

 これらの不安定要因を抱えている限り、内閣というものが本来備えるべき政治力、またそれを発揮するのに必要な総理大臣のリーダーシップをどのように調達するかは大間題であるはずであった。明治一八年一二月、内閣制度創設とともに内閣総理大臣から各省大臣へ達せられた一内閣職権」において、内閣総理大臣とは「各大臣ノ首班ニシテ機務ヲ奉宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向プ指示シ行政各部プ統督ス」べきものと定められ、「行政各部ノ成績ヲ考へ其説明ヲ求メ及之ヲ検明スルコトヲ得」、また「須要ト認ムルトキハ行政各部ノ処分又ハ命令プ停止セシメ親裁プ待ツコトヲ得」る大きな権限を持っており、その下にいる各省大臣は「其主任ノ事務ニ付時、状況ヲ内閣総理大臣ニ報告」する義務を負っていた。

 このように強い総理大臣像が追求されたのは、ドイツのハルテンベルク官制にならおうとした伊藤の意向が反映された結果であるというが、それとともに、内閣制度創設の近因たる軍拡問題をめぐる対立の影響も当然考えられるであろう。非常時における強力なリーダーシップの必要性は、この問題を通じて一応藩閥首脳の合意となっていたと考えられる。だが、確かに建前上、「内閣職権」が首相の強力なリーダーシップを保証しているとはいえ、内閣制度自体、いかにも倉皇(誌1)とした成立過程をたどっており、あるべき総理大臣像について、明確にして強固な合意が藩閥内になされていたとは考えにくいし、実際、第一次伊藤内閣における伊藤博文首相は、「内閣職権」に定める強い総理大臣像とは相当な距離があった。

 そもそも、強い総理大臣、とは藩閥均衡に馴染まない性格を持つ。維新以来の成功の歴史、という非制度的かつ曖昧な裏付けしか持ち得ない人物が、「内閣職権」に定めるが如き強力なリーダーシップをこぶるおうとすれば、それ自体が軌難を生み、薩長間の均衡に亀裂を入れかねない可能性があり、また政権運営の結果、成功を収めた総理大臣は相応の優位を築き、逆に失敗した者は地位を低下させることが予想され、それもまた薩長の均衡を動揺させるおそれがあるからである。それに加え、憲法草案作成と密接に関係して、強い首相権限、すなわち「大宰相」が内閣全体の連帯責任の観念に直結し、それがイギリス的な議院内閣制へと道を開くものとならないか、という懸念も持たれていた。(中略)

 このように、薩長均衡との兼ね合い、各省割拠状態、また議院内閣制との関係といった諸問題が、リーダーシップの必要性と同じかそれ以上に意識されたためか、内閣制発足から初期議会のある時期までは、たとえば閣議でも総理大臣の主導性がごく抑制的にしか発揮されず、また例の「内閣職権」も、各省官制のようなものとは異なり、発動しないことを前提とした内々の申合事項的な性格が強かったのではないか、と推測されるのである。当時進行しつつあった立憲体制構築に向けての各省の意欲的な政策展開、たとえば山県内相による地方自治制度の設計、国田法相指導下の司法省による諸法典編纂、森文相による教育制度の整備拡充等を考えた場合、強力な権限を持つ首相のコントロールなどはむしろ阻害要因であり、当時の政治状況に馴染まないものであったといえるであろう。個々の政策が主管省により企画・立案され、それが穏当な線にとどまる限りは、首相の強力なリーダーシップ発動の必要はなく、財政を担当する大蔵省からの製時(誌2)程度の調整で、大過なく実行されていったのであろう。

 だが、政策の内容によっては、そのような調整ではなく、強力なリーダーシップのもとに内閣全体の意志統一をなし、その責任において政策を実行しなければならない局面が現れてくることは避け難かった。井上警外相の条約改正交渉は、そうした問題点が露呈された最初の例であったといってよいであろう。

村瀬信『明治立憲制と内閣」(吉川弘文館、二○一年)。

試験問題として使用するために、文章を一部省略・修正した。

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