[responsivevoice_button voice="UK English Female" buttontext="Listen to Post"]

年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 2011年 過去問

2011年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

[問題]

 次の文章を読み、筆者の抵抗権についての捉え方を整理したうえで、実定法を超えた抵抗権について、具体例を交えて論じなさい。

 歴史的に考えると、人びとの考え方と学者の思想が変化してきていることはすぐ分かるが、そのような変化の原因を究明し、明らかにすることは難しい。現在は法律と良心は非常に異なるものとされている。憲法で国民の良心の自由が保障されても、また裁判官は自分の良心に従うべきと規定されても、日本の法的な制度では、「法に従うべき」ということに例外はないから、法の効力を考えると、個人の良心は実は法律とは異質で、かつ無関係のものになる。つまり、法的に禁じられていない、また命じられていないこと、すなわち法律の入らないところだけに良心の自由があり、この領域だけで良心は働いているようである。

 ところが、この点についての中世法思想の発想は、それとはほとんど逆のものであった。今の言葉遣いで言えば、法(律)の果たす機能(当時の言葉遣いで「法の結果」effectus1egis)は臣民を良心的に義務づけることとされていた。したがってこの発想では、法律に背くことは何よりも良心の問題になり、道徳的かつ宗教的に考えると、違法行為になるだけではなく、「罪」(peccatum)でもあるとされた。そういうわけで、良心を無視すれば、法の効力(当時の言葉遣いで「法の力」vislegis)もあり得ないことになる。 

 これは、むろん正しい法律についてのことである。しかしもし悪法であるとすれば、このような法律は良心的に義務づけることができないから、「不正な法律は法律ではない」(lexiniustanonestlex)とされた。これは言うまでもなく、法実証主義の「悪法も法である」の否定であるから、このような思想が自然法(論)に立脚にするのは明らかである。そしてこのように考えると、悪法や権力者の不当な命に対して、抵抗するのが権利と義務になるのも当然である(自然法は実定法を破るからである)。

 この程度の説明だけでも、あの時代の法思想では良心の考慮は不可欠であったことが明らかになろうが、良心の重要性は思想のことだけではなかった。スペインの新大陸侵略について、問題にされたのはこの戦争の正当性だけではなかった。実は軍人によってインド人が鉱山などで奴隷的な仕事をさせられたり、その他の残虐行為も数多くあった。それを目撃した現地の宣教師のなかでもっとも知られている一人はドミニコ会のバルトロメ・デ・ラス・カサス(1474~1566)である。スペイン国王カール五世に送った覚え書きや書簡を今読むと、もっとも注目されるのは、行なわれた不正の詳しい報告よりも、国王の良心に対する訴えがいつも出てくる点である。

 現在の法理論では法的な権利・義務は、正当にも重要な課題とされているが、その際、良心は一切考慮されていない。同じように権力者(政府)または立法者の良心に訴えるということももうない(良心の声はもう聞こえなくなっているようである)。それでも、次に課題にする良心による抵抗の問題は、けっして無意味でも単なる過去のことでもない。

 さて、抵抗権とは何だろうか。答えは、「抵抗」する「権利」である。抵抗とは、言葉だけではなく、行ないによって(作為または不作為という方法で)「反対する」ことである。難しいのは、それをする「権利」があるか、あるとすれば、その権利はどういう性質のものであるか、また一歩進んで、その権利は義務も含まれているのかということである。これらの問題について、歴史に考えてみよう。

 現在においても、例えば争議権を労働者に保障していない国がまだある。その場合、労働者が労働条件改善その他の事由によりストライキをした場合、それは一つの抵抗権行使の形態になるであろう。しかし、争議権を労働者に保障している国において、争議権を行使することは、抵抗権の行使といえるであろうか。いずれにせよ、抵抗が行われるということは共通するであろうが、相違点として、次のことが挙げられよう。

 第一の場合は、抵抗権とは、超実定的なものであり、実定法があるにもかかわらず、その実定法に抵抗するために行動をする権利であると解釈されるが、第二の場合には、抵抗権とは、超実定的なものではなく、実定的なものである。本来の意味での抵抗権とはいえないが(近代まではなかったから)、抵抗の要素を含んでいるものであると言えよう。

 両者は根本的に異なっていることに留意していただきたい。というのは、法実証主義は前者の抵抗権(以下「超実定的抵抗権」とする)は認めないが、後者(以下「合法的抵抗権」とする)に関しては全面的にこれを認めるからである。合法的抵抗権というのは一見自己矛盾のように思われるかもしれない。というのは、一応法律的に定められた事柄または定められた権利に対して、法律的に(=実定法によって)抵抗するのは、法律の自己否定のようであるからである。しかし法制度の現代的な理解からーこれは特にメルケル(AdolphMerk11890~1970)とケルゼンが示したことであるがー合法的抵抗権は容易に説明され得る。つまり、法制度の構造自体には、種々の段階があり、したがって法規定はさまざまであるが、相互関係をもち、一つが対立または矛盾する場合は、どちらが優先するのかがすでに実定法によって定められているわけである。例えば、殺人罪の規定(原則)と正当防衛の規定(例外)があるが、正当防衛によって、人を殺してしまうという行為は合法的であるが、これは例外的なことなのである。つまり、法律的に両者は別の次元にある。制度化され、実定化された抵抗権の行使は合法的なものであるが、それは原則ではなく、例外というカテゴリーに入る。同様に、法的訴訟は裁判所の判決・決定によって黒白を決することが原則である。しかし、第一審の判決に不満な場合、被告(被告人)には、訴訟法所定の期間内に控訴する可能性が与えられているが、これは例外という本質をもつ。つまり、条件づきで「定められたこと」の範囲内で抵抗する可能性が残されているのであり、その権利を正当に行使することができるのであるから、「抵抗権」の行使として位置づけることもできる。しかし、このような抵抗権は、無制限のものではなくて、実定法という枠の中でしか行なわれ得ない。したがって、例えば最高裁の判決に対しては、再審というごく特別の場合を除いて、合法的抵抗権はあり得ない。もちろん、この場合でも従来のいわゆる超実定的抵抗権の可能性は残されているのである。以上のように、この一つの意味における抵抗権は根本的に異なるのは言うまでもない。法律によって保障されている抵抗権は、現代実定法学の問題であるが、超実定的抵抗権は、依然として法哲学の問題である。

 

 歴史的に考えると、抵抗権が自然法と全く同じように幅広く実定化されるようになったことは、高く評価すべきである。昔は暴君に対して抵抗する方法は、暴君殺(tyranicidium)の他に革命やクーデターを起こすしかなかった。しかし現在の民主制では、例えば総理大臣を殺さずに首にする、ことが制度的に可能である。これで国の安定性と秩序が保障されることにもなる。昔から国民の不満が高まった時、支配者が権力を行使しても、溜った不満はいつか爆発する、ことは、歴史が教えるところである。この意味で、抵抗権の実定化によって大きな進歩があった、また民主制とは抵抗権が幅広く実定化された政体であるとも言えよう。(中略)

 不当な国家権力に対して、抵抗する権利が認められるかどうかということは、法哲学の問題である。法実証主義は、実定法に対して抵抗する権利を認ていない。例えば、ザウワァ(WihelmSauer,1879~1961)によれば、「国家権力に対する抵抗権は、実は矛盾である。なぜならば国家にとっては、法的実定性および法的平和の保持が最高の原則だからである」としている。結局、法実証主義の立場からすれば、法と権利は、イコール「力」であり、権利と義務の問題は、その力によって定められる。勝てば権利が生じ、敗けると義務が生じる。(中略)

 合法的抵抗権を行使する動機は、必ずしも良心の問題ではない。例えばすでに挙げた例を参考にすれば、国民が今、政権を握っている政党が嫌いであるならば、次の選挙で合法的に抵抗することができる。ところが、実定法と国家権力に対して、強制されていることが明らかに不正であるとすれば、これは、どうしてもその人の良心の問題になる。その人は自分の良心に従って抵抗すべき義務さえ感じることもあろう。そして義務があれば、権利もあるはずである。(中略)

 合法的抵抗権を行使する動機は必ずしも良心の問題ではないと言ったが、普通の場合はやはり良心の問題でもある。この種の抵抗権を行使する時は、勝つことも負けることもあるのに対して、現在の法的な制度では、超実定的抵抗権の場合には負けてしまうのが普通であろう。国家権力は依然として強いものであるからだ。抵抗した人は負けるだけではなく、処罰されることによってより大きな被害を受けることもあろう。しかしこのことについては、一つの考えるベきことがある。

 一つは、いかなる民主政体でも、どんなに抵抗権の実定化が進んでいても、超実定的抵抗権の可能性とその意義は失われることがないということである。というのは、完全な政体と完全な法的制度はあり得ないからである。国家は法治国家であると思っても、地上の神、のようなものではない。そしてもう一つ考えるべきことは、この種の抵抗権の一つの副産物のようなものである。すなわち、この抵抗の結果として、行なわれている不正が公になり、それによって立法者または権力を握っている者(政府または行政機関)は、もうそれ以上知らん顔をすることができなくなり、法律が改正されたり、行政の不当な慣習が改められることになる。これは言うまでもなく、評価すべきことである。

(出典ホセ・ヨンパルト『法哲学で学んだこと一法学者の回顧録』(成文堂、二○○八年)試験問題として使用するために、便宜的に一部表現を修正した。

copyright 2016/Everyday school