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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 2009年 過去問

2009年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

[問題]

 以下の文章を読み、「政治的空間としての〈公共空間〉」におる責任と自由に関する著者の主張を四○○字程度でまとめなさい。そのうえで、「セキュリティー社会」についての著者の見解に対して、その是非も含めて、あなたの考えを述べなさい。

 犯罪者にもっと罰を加えるべきだとか、惨い事件を起こした人間は「死刑にすべきである」ということは、社会という保護された空間、つまり責任が免除されている空間にいるからこそ言えるのである。この場合、もし保護された空間の外に投げ出されたとすれば、一挙に自分の発言への責任が重くのしかかることになり、死刑にすべきだというような政治的な事柄に関する発言は慎むべきものになる。ではその空間とはどのようなものなのか。

 政治的空間に属しつつ発言するという場面を想像するために、死刑に賛成する日本の八割をなすと言われている世論を覆すために提案された、作家、森巣博によるアイデアを参考にすることができる。「アムネスティ」のホームページに載せられたそのアイデアとは次のようなものである。電気椅子のスイッチを押す等の、死刑を実際に執行する任務を拘置所の刑務官ではなく、無作為抽出によって選ばれた選挙民にさせればいいのだ、と。「一回の死刑執行につき、一○○人くらいを選挙人名簿から無差別に抽出して、死刑執行官とする。もちろんこれは、死刑制度を容認する「日本国民」の義務である。拒否はできない」。こうすれば、誰も死刑すべきだというような発言を簡単に口にしなくなるだろう、と。

 この単純だが、想像力を播き立ててくれるアイデアが切り開くのは、自分が死刑執行人になるかもしれないという居心地の悪い空間の出現であり、自分がその空間の住人になるという事態である。ここに、政治的空間としての〈公共空間〉の出現を見出したいのである。

 このアイデアが主張する論理とは、現代においてはこうした意味での〈公共空間〉に属することは誰もが避けたがるがゆえに、市民は死刑を廃止したがるに違いないというものである。(中略)しかしここでは死刑廃止か賛成かについての議論を措くことにして、現代人が属すことを嫌がるようなこの空間こそ、古代人たちが属していた〈公共空間〉の現代的なモデルになりうるというところに照準を定め、〈公共空間〉とはなにかについて考えてみたい

 死刑廃止という極端な例ではなくても、公共機関によって提供されているあらゆる公共サービスが、われわれ市民に代わって政治的活動を代行してくれている。先のアイデアを別の例で考え直すなら、例えば、きちんと分別しない者は罰としてゴミ回収の労働を報酬なしでやらされるということがもし実現されるなら、人は自分が免除されていた政治的領域へと連れ戻されることになる。しかし現代においては、政治的領域(公共空間)に連れ戻されることは嫌われることなのであって、あくまでも社会に保護され、政治的な活動を免除されることを望み、また、そのこと

 こうして近代以降の時代に属すわれわれは、〈公共空間〉でも私的空間でもない保護された雑種の空間の中で、遠い外野のような場所から、野次を飛ばすようにして政治的事柄について発言することが当たり前のように許されている。

 これとは逆に、先の例に戻って言えば、古代人は優れて公共的な空間だった当時の空間の中で、誰かを「死刑にすべきだ」と発言しようものなら、すぐさま、「ではおまえの手で執行しろ」とその発言の責任をすぐにとらされる代人とを隔てている差異は何なのか。(中略)

 アレント[出題者注ーハンナ・アレント(一九○六~一九七五)、ドイツ出身の政治思想家」の議論をここでの例に沿いながら説明すると、古代人がこのような場面に出くわす場合、現代人のように嫌がることは決してない。そのように振る舞うことは死ぬほど愚かなことだからである。ここで死刑執行を何らかの理由で正当化しうるものと想定すると、彼らは誰もがやりたがらない死刑執行をみんなと同じように嫌だと拒否することはしない。むしろ誰もがやりたがらないというまさにそのことゆえに自分がやろうとするだろう。てやろうとするだろう。他者にはできず、自分だけができる活動においで、彼らは〈個性〉を示そうとするのである。そしで誰にもなされないことを自分だけが行なうことができるということにおいで彼らは本物の〈自由reedom〉を享受するのである。

 アレントは古代ギリシアの〈公的空間〉であるポリスにおいて彼らがいかに個性を自分のものとすることに熱心であったかについて次のように述べている。

 公的領域そのものにほかならないポリスは、激しい競技精神で満たされていて、どんな人でも、自分を常に他人と区別しなければならず、ユニークな偉業や成績によって、自分が万人の中の最良の者であることを示さなければならなかった。いいかえると公的領域は個性のために保持されていた。それは人びとが、他人と取り換えることのできない真実の自分を示しうる唯一の場所であった。各人が、説法や防衛や公的問題の管理などの重荷を多かれ少なかれ進んで引き受けでいたのは、真実の自分を示すというこのチャンスのためであり、政治体にたいする愛のためであった。

(中略)

 しかし、現代においては、社会という保護空間は、われわれの日常生活のすベてを覆っているように思われている。(中略)

 そしてわれわれは自分の生活がそのすべてに渡ってそれによって保護されることを望んでいる。さらには保護されなければ訴えようとさえし、訴える権利、保護される権利を法的に主張することさえ認められている

 しかし、政治的な事柄が免除され、この保護された空間に留まり続けることは、本当に居心地の良いものなのだろうか考え直す必要がある。この空間では人は無責任な発言をすることが許され、また、他者を気遣ったりすることからも免除される。隣に住んでいる老未亡人が困っているとしても、町が、市が、しかるべき公共機関が面倒を見るべきであって、自分はその義務はないと主張できる。

 裏返せば、この空間に居れば、人は他者を気遣うことをしないようになり、そのことによって他者を信用しないようになる(中略)。さらにその裏返しとして、人は互いを通報しあったり、陰口を言い合ったりする。その結果、自分を疑い深い視線で見てくる他者たち(世間)の視線に怯えながら生きていかなければならなくなるのである。

 今日、到来しつつあるセキュリティー社会とは、このような他者への不信、他者への嫌悪、他者への恐怖、不安を、監視技術などによって技術的に解決しようとする社会である。そこで関心が向けられることになるのは、不安をなくすことである。しかし、不安はそもそも〈覚悟〉をもたずに世界に属していることから生じているのである。そして、〈覚悟〉を持たないまま、不安を軽減させてくれるものとして監視技術のような技術が要請されている(「お茶の間」、〈個室〉への〈撤退〉を可能にしたテレビ、インターネットの画面の技術は、〈覚悟〉を持たないまま、世界に属しても不安を感じずに居られることに貢献した)。そうすると、ここで技術の進歩は、人間が〈覚悟〉を持たずに世界に《存在する》ことを増長させる手段でしかないという側面が表立ってくる。

 以上の議論からすれば、問題は、〈覚悟〉を持たずに世界に属そうとすることを止めることが先であって、不安を技術によって軽減することではない。先に、アレントが古代ギリシア人に依拠しながら述べたように、〈覚悟〉を持たず世界に属すこと、あるいは〈公共空間〉に現れずに済ますことは、愚かなことであり、恥ずかしいことなのである。この恥の感覚、そして喜びの感覚、これが根源的な倫理の基礎をなしてくれるのではないだろうか。

 他者によって見られ、聞かれる〈公共空間〉に自ら現れ、活動し、発言することを尊いと感じ、そうした空間から退きこもって、画面に向かって文句を言ったり、ネット上に他人を中傷することを書き込んだりすることを愚かに感じるという極めて当たり前のように思われるこれらの単純な感覚こそが逆に、混池とした倫理的状況の中で自分を見失わないための重要な指標になってくるのではないだろうか。

(出典)和田伸一郎『メディアと倫理ー画面は慈悲なき世界を救済できるか』NTT出版、一○○六年(表記は原文どおりであるが、本文中の見出しや出典は割愛してある)であった。(強調は引用者による)

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