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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 2006年 過去問

2006年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

[問題]

以下の文章を読んで、①著者の論旨を要約して論評し、そ 上で、著者の見解を参考にしつつ、②あなた自身が人に話を とばるものも含めて、二点以上挙げてその理由を説明しなさい。挙 る点は問題文に言及されているものに限らない。また、③あな たが何か学術的な聞き取り調査に行くと想定して、どういう調で、どういう人に、どんな質問を用意していくかを自由に書きなさい。なお、解答の記述にあたっては、上記三点の解答箇所がわ かるように、文章の最初に、一、二、三、と数字を付すこと。

 ひとの話をきく、というのはいいことだ。どんな人と話をしても、かならず 勉強になる。人生や社会について視野をひろげてゆくためにも、たくさんの人 の話をきくことがのぞましい。ご しかし、ひとの話をきくというのは、レコードやテープを機械にかけてその 音声をきく、ということとはちがうのである。レコードやテープは、

イッチ をいれさえすれば、ひとりでにスピーカーから音が流れてくる。

 しかし、生ま 身の人間の話は、スイッチをいれたからきこえてくる、というわけのものでは ない。たとえば、ここに、パングラデッシュの民話について知りたい、という 人がいるとしよう。そして、さいわい、この問題について造詣の深い学者を見 つけることができ、その学者をたずねて対面する機会にめぐまれた、と仮定し よう。そんなとき、ただ黙ってすわっているだけでその学者がべらべらとしゃ べってくれるものであろうか。黙ってすわっているだけでは、相手は、ただけ げんそうな顔つきで見つめ、しばらく時が経つと、なんとなく不気味で不倫快 な気分になってしまうにちがいない。 

 どうしたらよいのか。常識でわかることだが、ひとを訪ねたら、こちらから 口をひらき問いを発しなければならぬ。問いがあって、はじめて答えが得られる。つまり、話をきくということは間うということなのである。問いがなけれ ば、なにごとかさっばりわからない。そして、問いと答えの連続によって会話 というものが進行する。ひとをたずねて取材する能力は、べつなことばでいえ ば問う能力ということにほかならない。 

 それだけではない。問いかたのじょうずへたが取材の優劣をきめる。かつて、 梅悼忠夫氏は問いと答えというものは、鐘と擁木のうなものだ、といわれた ことがある。鐘の鳴りようは、どんなふうに憧木がそれを打つかによってきま る。腰のさだまらない、へたな人がよろよろと憧木を鐘にあてても、鐘は弱く コロンと鳴るだけであろう。しかししっかりした人物が、力をこめて打つべき ところにびったりと憧木を打ちつけるなら、鐘はこころよいひびきを朗々と鳴 りわたらせるにちがいない。たしかに、そのたとえは正しい。取材する人の問 いがへたなら、取材されるがわからかえってくる答えはなんとなくぼんやりし たものになるだろう。そしてそれと対照的に、問いがきちんと整理され、的を 射たものであるなら、すばらしい答えがかえってくるであろう。取材されるが わが、いかに大学者、もの知り、わけ知りであろうとも、取材するがわの問う 能力が貧困であるなら、せっかく面談しても、たいした収穫はないものなのだ。 ひとの話をじょうずにきくためには、よき問いを発する能力が必要なのだ。ひ とに会いにゆけばしぜんに話がきけるーそんなかんがえかたをもつ人がいる とすれば、それは大きなまちがいなのである。 そして、いまの日本人、とりわけ若い学生たちに欠落している能力は、問う 能力だ、とわたしは思う。日本の大学の教室などというのはその貧困が典型的 にあらわれている場所であって、学生たちは、先生にむかっておよそ問うとい うことをしない。たまに問う学生がいても、じょうずに問う人間はすくない。 

(中略) 

 ほかのところで書いたことだが、外国の大学で教えていると、授業というも のはことごとく問答の連鎖であ査ることに気がつく。さいしょ一○分間ほど話を すると、すぐに五、六人の学生から手があがる。その問いに答えていると、そ の答えに反応してつぎの質問が投げかけられる。そういう対話の流れが授業と いうものなのだ。知的訓練というものは、じょうずな問答の訓練のことなので ある。それは、生ま身の人間どうしが対面したときにはじめて可能なことだ。 教室の意味は、そこで問答が展開されるというところにある。問答のない教室には、なんの意味もない。 多くの人たちは、マンモス教室、マス・プロ教育といったことばでこんにち の日本の大学を批判する。ビデオ・テープを使ったりして教育の機械化をする ことについてもたいていの人が反対する。

 そしてその理由というのは、中しあ わせたように「人間的接触の不在」ということだ。それはそのとおりだと思う。 しかし、その「人間的接触」の場であるはずの教室で、まったく問答がないと いう事実をみると、たいへんに逆説的なことだが、マンモス教室だっていいで はないか、といいたくなってしまう。問う能力、というのは、この本のはじめのほうに書いたように、問題を発見することであり、あるいは問題意識をもつということである。問いがない、と いうことは、こんにちの若ものたちがおしなべて問題を見つけていないという ことであり、見つけようともしていない、ということでもある。こんにちの大学生をわたしは知的難民ということばで表現したが、かんがえればかんがえる ほど、日本の教育の事態は深刻なのである。 だからこそ、わたしは、問う能力の再開発をこんにちの教育の最大の課題だ とかんがえる。この能力の開発なしに、情報を使うことは不可能だし、とりわ け、ひとにじょうずに話をきくことなどできた相談ではないのだ。落語には 「こんにゃく問答」というのがあって、まことにトンチンカンな「問答」が笑 いをさそうが、たとえば禅の世界などでは、問答が精神を深める方法であった し、プラトン以来の弁証法というのも、人間的レベルでいうなら、じつは「問 答」ということなのであった。取材の過程は、問答の過程と同義であり、その 問答の能力は、ひとの話をきくという場面でもっともはっきりとためされるも のなのである。 

(中略) 

 いささか、へんな言い方かもしれぬが、とりわけ学生たちはこのへんでひと つの意識革命を必要としている、とわたしは思う。つまり、学生は先生を使う ことをもっとかんがえるべきなのだ。先生たちはもの知りである。本もたくさ ん読んでいるし、経験もゆたかだ。要するに、先生たちは情報のタンクのよう な存在なのである。先生が教室で話すことは、そのタンクのなかに貯蔵されて いる情報のごく一部であるにすぎない。学生である、ということはそのタンク のなかから、自由に、そして含員欲に情報をひき出すことがゆるされている、と いうことだ。そして教室というのは、そんなふうに情報をひき出すための場面なのである。

 大学というところは知識の切り売りの場所でしかない、といった ことをいう学生がいる。しかし、切り売りが気にいらないなら、もっとべつな 買い方をしたらよろしかろう。そのためには、日本の教室の伝統を破って、堂々 と臆せずに手をあげ、知りたいことを問うべきだ。たいていの先生は、それを 歓迎するはずなのである。スーパー・マーケットのごとき切り売り現象が発生 したのには、売り手がわの便宜もあろうが、買い手がわもそれを望んできたか らである。学生たちが、よき問いを発することができるようになれば、教室の 風景はがらりとかわってゆくだろうし、同時に、そこでこそはじめて「人間的 接触」というものの意味がはっきりしてゆくにちがいないのである。 べつな言い方をすれば、大学にかぎらず、およそ学校というものは、学生・ 生徒にとっての取材施設なのである。じぶんの学びたいことを自由にひき出す ことのできる場なのである。図書館を使い、先生たちのもっている情報蓄積を 使うー学校はそのためにある。先生のいうことを、一字一句もらさずにノー トにとり、そのとおり暗記するというのは、結局は情報に使われている、とい うことだ。はじめにのべたように、われわれはいま、情報に使われる立場から、 情報を使う立場に、あるいは情報を受け身でうけとめ、それによって操作され る立場から、主体的に情報をえらび、それを自律的な自我形成に役立てる立場 へ、という転換をめざしている。とするなら、その第一歩は、問うこと、しか もじょうずに問うことでなければなるまい。 知的探求は、くどいようだが、問うことが出発点なのだ。問うことがあれば こそ、図書館にもゆく。本も買う。素引もひく。そして、ひとの話をきくこと のたのしみも、問いあればこその経験なのである。問いがはっきりしていない で、あるいはなにを問うべきかもわからないままにひとに会いに行っても、な んにもならない。ひとの話をきくまえに、はっきりさせておかなければならな いのは、いぶんにとっでなにが問題であるのか、についての自己確認である。 その自己確認から問うべきこともしっかりしたかたちをとるようになるだろう し、そのしっかりした問いが投げかけられることによって、取材の対象である 鐘は朗々たる音色でこたえてくれるにちがいないのである。人間相手の取材と は、問答のことだ。問答のない取材というのは、ありえない。耳学問の成果が どんなものでありうるかは、ひとえに問答の能力によるのである。

(出典)加藤秀俊『取材学』(中央公論新社、一九七五年)

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