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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 2004年 過去問

2004年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

〔問題〕以下の文章を読み、著者の論議を踏まえて、あなたが考える「世界」についての未来像を自由に論じなさい

 

過去の平和論「中略』の中で現在特に示唆的なものはどれだろうか。勢力均衡に基づく平和という、地政学的なものか、 経済交流を通しての各国間の相互依存による平和か、あるいはまた国際法や国際機構の充実と浸透に頼るべきなのか。そ れとも文化交流その他の分野における非政府組織の役割に注目すべきなのか。

〔中略〕

現代の世界を語る場合、グローバル化、グローバリゼーションという言葉がよく使われる。国際経済の波が各国に押し 寄せ、国家単位あるいは国レベルでの経済活動を困難にしている状況とか、通信技術の革命的発展(衛星放送、ファクス、 電子メール等)によって情報が世界の隅々まで同時に伝えられる現象とかを指しているが、さらにこのような状態が、国 境を超えたグローバルな意識を作り出していると見る学者も少なくない。つまり経済、技術等いわばハードの面での全世 界的繋がりと、人々の意識や感情といったソフトな面とが重なり合って、グローバリゼーションという現象を作り上げて いるというのである。

これは非常に重要な見方で、これからの世界の動向を見定める上でも示唆に富んだ枠組を提供してくれる。ただ問題は、 戦争と平和という[中略』課題を、如何にしてグローバリゼーションというテーマと結びつけていくかである。グローバ ル化ははたしてより平和な世界をもたらすものなのか。それとも色々な規模での国際紛争をこれまでよりも一層頻繁にさ せてしまうのだろうか。あるいは、グローバリゼーションは、[中略」非政府組織の活動を盛んにし、地球レベルでの市 民社会の形成を可能にさせるだろうか。そのような多くの問題が存在するのが現代の一特色でもある。

こういった諸問題が示唆するように、一日にグローバリゼーションといっても、それは決して単一的な現象ではなく、 いくっかの面を持っている。地球 (グロープ)といっても、それは単一の世界というよりは、その中に様々なレベルでの サプ・グロープ、いわばいくつかの「世界」が出来ているのだといえる。そのうちの一つが伝統的な主権国家の「世界」 であることは疑う余地がない。自らの主権や国益を主張し、その防衛のためには軍事力の行使もためらわない数多くの国 家は、依然として国際関係の中心的存在である。その中のいくつかが集まって作り上げた地域組織、例えばヨーロッパ共 同体や、国連をはじめとする多数の国際機構も、主権国家を基にした集合体だという意味では同じ「世界」に属するもの だといえる。政治学者の間では、この「世界」を「国家間関係の世界」(nterstateworld)と呼ぶ者もいる。グローバ ル化の時代にあっても、このレベルでの「世界」が従来の世界と比べてより平和なものとなるとは限らない。むしろ逆に、地球レベルでの安全保障意識が高まる結果、多数の国を引き込んだ集団防衛体制が成立し、同盟国家が国際秩序維持のた めに武力を行使する可能性が高まるかも知れない。「周辺地域」をめぐる日米安保の再定義についての論議も、そのよう な枠組の中でとらえられるべきであろう。

第二に、経済活動が作り上げる「世界」がある。通商、海運、投資、技術移転等によって世界各地が結びつけられ、国 際経済と呼び得るものが出来上がったのは、もとより最近のことではない。経済史家フランク(Andre Frank)のよう に、経済のグローバル化はすでに十五世紀頃から始まっていたと主張する論者もいる。その担い手はョーロッパ人よりは むしろアラブ人や中国人だとする点でフランクの学説はユニークだが、ヨーロッパ人も非ヨーロッパ人も合わせて、主権 国家とは異なる次元でいわば経済によって定義された「世界」を築いてきたことは確かであろう。この「世界」が、通信 手段や情報技術の飛躍的な発展によって現代では一層グローバルなものとなっていることも確かである。その結果各国の 経済制度や政策の間に共通性が出来上がっていく、あるいは出来上がるようにするのがいわゆる「グローバル・スタンダ ード」(世界標準)の概念である。第一の、主権国家を基とした「世界」と比べると、経済の「世界」はその意味では遥 かに国境を超えた繋がりを強めている。しかしそれだからといってグローバル化した経済活動が必ずしも国際関係に平和 をもたらすとは限らないことは、一九八○年代、一九九○年代の日米貿易摩擦が示す通りである。国家間の経済的相互依 存性が高まれば高まるほど、朝離や摩擦の発生する度合いが増すであろうとする識者もいる。経済面でのグローバリゼー ションは、より成功した富める国と、そうならなかった国とのギャップを広げ、したがって一つではなく、二つの「世 界」を作り上げないとも限らない。さらには、中国のWT0 (世界貿易機関)加入問題をめぐって米中関係が紛糾したこ とからも分かるように、グローバル・スタンダードという普遍的な原則の普及は、時としてそれへの反動を引き起こしか ない。グローバリゼーションの流れは必然的にその反対、ローカリゼーション(局地化)の動きを強める傾向すら持っ ているのである。

このことは第三の「世界」、すなわち広い意味での文化交流によって作られた「世界」についてもいえる。一九二○年代に顕著となった文化交流は、「一つの国際社会」を築いているように見られた。その当時は、これは一つの理想に終わ ってしまったが、一九九○年代にはそのような国際社会の出現する可能性は遥かに高いかに見える。しかしながら、文化 面でのグローバリゼーションが情報や知識の浸透、さらには共通した価値観の共有という現象をもたらす一方、それだか らなおさらのこと、それへの反動も強くなろうことも認識せざるを得ない。伝統的な文化を国際化の流れから守ろうとす るローカリズム、他民族との相違を強調するエッセンシャリズム、一国とその文化を同一視する国粋主義等色々な流れが あるが、いずれもグローバル化に対して別個の生き方を追求する動きである。経済の面においてと同様、グローバルな動 きとローカルな動きとはこれからも絡み合いながら進んでいくことになろう。しかし長期的には、文化のグローバ ションの勢いが弱まるとすれば、それは文化的ローカリズムや国粋主義のためのみならず、より根本的には、文化とは別 のレベルでの「世界」が依然として重要性を保っているからだということになるのではないか。

本書が最初に出版された一九八六年、私は結びの章で「国際交流以外に平和への道はないのではないか」と記した。 「国家権力が厳然として存在する以上、国家間の対立を解消することは不可能に近く」、一方「個人の宗派の信条を背景 としたテロリズムも止まないであろう」と考えられたからである。そのような状態にあって、「自由意志にもとづく交流 を続けること」はかってないほど重要である、と私は結んだ。そのような考えは今日でも変わっていないが、その後十数 年間の国際社会を見ると、当時は想像もつかなかった規模とスピードで、文化的に定義された「世界」が作られてきたよ うに見える。しかしまた同時に、この、いわば「文化の世界」が、上記した「国家の世界」や「経済の世界」よりも優位 に立っようになっているともいえないであろう。この三者の並存はこれからも続くであろうし、その結果国際秩序の多面 性、多様性も維持され、戦争と平和の問題も一層複雑なものとなっていくことが想像されるのである。

そのような中にあって、もう一つの「世界」、NG0やTNGOの作り出す「世界」が、これから益々重要になってい くのではなかろうか。非政府組織は、政治、経済、文化すべての面で活躍しており、それが国境を超えたネットワークを 築いているために、国際社会に新しい形の繋がりが形成されている。国際市民社会(international civil society)とも呼び得るものである。あるいはグローバル・コミュニティといっても良いかも知れない。そのようなコミュニティが出来上 がっていけば、それは第四の「世界」として国際関係に多大の影響を持つこととなろう。戦争と平和の問題もこの「世 界」を無視しては考えられないであろう。

 

(出典) 入江昭『二十世紀の戦争と平和』増補版(東京大学出版会、二○○○年)

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