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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 2003年 過去問

2003年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

〔問題] 以下の文章を読み、著者の議論を踏まえて、「公共化する身体」という考え方に関するあなたの意見を述べ、それと関連 づけて、公共性の問題一般について、自由に論じなさい。

 

臓器移植という医療実践が特別の意味をもつのは、それが単にひとりの患者を救うという医療行為であるにとどまらず、 臓器提供、つまりは時宜にかなった不特定の他者の死を前提とし、それが「死の認定」に関わる社会的慣行の変更を要請するからである。それは個体の範囲を超えると同時に、生死の境界をも横断する医療措置であり、避けがたく社会的問題 を引き起こすだけでなく、「生死」についての従来の一般的了解や、「生命」や「身体」のあり方やその社会的意味に根本 的な改変をせまることになる。

この医療実践は「限られた資源の再利用」といったタームでも語りうる。「廃品」の再利用(リサイクル)による「部品 交換」と言えばもっと具体的になるだろうか。どんなにぶしつけにひびこうとも、これは臓器移植の「たとえ」ではなく、 まさに臓器移植とはこのような産業社会における社会的実践のパラダイムなのである。近代医学は解剖学と手をたずさえ た生理学をベースに展開されてきたが、生理学とは身体の組織と機能を対象とした学問である。一九世紀に内燃機関が発 明され、自動機械(自動車を代表とする)が作られるようになると、人間の身体はますますその機械になぞらえやすくな る。そしてちょうどその頃、それまで内科治療がもっばらだった医学に外科措置が統合され、医療による健康の確保は、 機械装置の順調な機能の維持(エンジニアリングとメンテナンス)と同じように考えられるようになる。(中略)

臓器移植では誰が「当事者」なのか。それはふつう臓器提供者(ドナー)と移植を受ける人(レシピエント)と考えら れている。しかし「提供者」はもはや死亡したとみなされないかぎり、臓器を提供できない。それはある種の「遺贈」と いうことになるが、当人の死亡認定の後、遺された身体を管理し処置し、臓器の利用と分配を決めるのは、移植ネットワ ークを中心とする医療関係の公共的機関である。一方で、あらゆる人が「脳死」に陥るわけではない。というより、たい ていの人は「脳死」の段階を経ずに死んでゆく。「脳死」になるのは、突発的な事故とか、脳障害の場合にかぎられてい る。だから人は望んでも「提供者」になれるとはかぎらない。他方でまた、移植手術を受ける人も、医師に可能性を示さ れなければその選択はない。それに、身体の生理的な適合性の問題もあり、適当な臓器が供給されて手術を受けられるか どうかは、まったくの偶然に委ねられている。だとしたら、いわば「間身体的」なこの医療措置において、条件を整備し、 すべてを決定して実施する「当事者」とは、「公共の福利」や「人類の幸福」を代行する公共的な医療システムの全体では ないのか。(中略)

個人を超える間身体的なこの医療行為では、「ドナー」と「レシピエント」相互の不可分性 (個体性)と自律性 (生命) は解体されて組み替えられ、その組み替えは無名の「第三者」としての医療機関の介入によって支えられることになる。 結局、この操作の中でイニシアチヴをもつのはその「第三者」だけであり、「十全性」を解消された身体は、「ドナー」に とっても「レシピエント」にとっても、その「第三者」の管理に委ねられる。その「第三者」が、「わたし」が体現してい た個体性から切り離された「生理学的身体」に向き合っているのだ。長い間、個体性は人間の生存の基盤であり、原理的 な形態だと考えられてきた。人間は個として存在してきたのである。だが、いまやその個体性の境界は乗り越えられない ものではなくなっている。身体はその「十全性」から切り離されて部分になっても存在意味がある。部分化しても生理学 的に機能するならば、それには「使用価値」があるのだ。身体 (それも「生きた」あるいは「機能する」)が分解できるな ら、個的な存在はもはや絶対ではない。だとすると、この世界で確かに存在するのは、集合体としての「社会」と、それ に対応する境界のない生理学的身体の集合であるかのようではないか。生まれてはその都度消滅する個体性とは、その中 間にあって相対的な、透明な形式に過ぎないかのように。そしてその「社会」の利益と意思を、この場合は医療関係機関 が代表しかつ代行する。

ここで「公共性」を担ってこの医療実践を遂行するのは、医師団であり、病院であり、臓器移植ネットワークであり、 医療制度の全体であるだけではなく、国の医療保険制度、それを市場とする医療機器産業、製薬業などの巨大な集合であ る。その全体が莫大な費用のかかるこの実践を推進し支える役割をしている。ここでものを言うのは個々の医師ではなく、 避けがたく産業システムとして効率と利潤を求めて機能する、この巨大な医療システムの方であり、そのシステムこそが「身体」の公共化を要請しているのである。

それでも「社会」は、それを成り立たせている個人の意思を生かしながらみずからを実現してゆく。「脳死」に関する法 律にも国によってさまざまな違いがある。日本のように、「脳死」後の臓器摘出を、本人が生前に臓器提供の意思表示をし ていた場合にかぎる、としている国もあるが、欧米の多くの国では、逆に臓器提供を拒否する意思表示がなければ、提供の意思ありとみなされることが多い。「推定同意」ということである。それでも、家族の同意を必要とするのがふつうだ。だが、いまその条件はしだいに外される傾向にある。というのは、臓器が「流通」の回路に入ってゆくと、商業化はそこ で排除されていても、避けがたく需要と供給の関係のなかに置かれることになり、移植治療の技術的可能性が高まれば高 まるほど、医療システムも患者もそれを求めることになるから、臓器は慢性的な「供給不足」に陥って、つねに供給圧力 を受けることになるからだ。だからこの医療行為が定着した多くの国では、「推定同意」で済ますばかりか、家族の同意も 不要とするよう規定を改める傾向にある。(それだけでなく、人格性を解除された身体の利用法は臓器移植にかぎられず、 「公共の福利」に資するものであればその他あらゆる可能性に開かれている。さまざまな組織を採取できるし、ホルモン やその他の分泌物の「製造装置」としても使える。それに、生体実験に代わる試験の被験体ともなりうる。医学や生理学 にとってはまたとない素材である。)

だが、そうなると、あらゆる人は潜在的な「臓器提供者」だということになる(すでにふれたように、あらゆる人が「脳 死」になるわけではないが)。というより、「脳死」状態になれば、法の規定によって自動的にその身体が「公共利用」に 委ねられるのだから、それはもはや「贈与」ですらなく、「用地の接収」と言うのと同じ意味合いで、公共機関による「接 収」と言ったほうがよいだろう。いわば「使用済み身体の接収」だ。誰に借りたのでもないこの身体が、自動的に「接収」 されるとはどういうことなのか。社会に生きたということの対価を、諸個人は死後の「身体」で支払うということなのだ ろうか。このことは、是非の問題である以前に認識の問題である。従来の人間の存在形態を変えてゆく事態を前にして、 もはや「人間的」な用語で事態を粉飾するよりも、何が起こっているのかを明確に受けとめるために、「適切」な言葉で考 えるべきなのだ。

このような「医療化された社会」のまなざしは、具体的な諸個人の生き死にを通してさえ、非人称的な生理学的身体に 向けられている。そこでは個人の境界が薄れてゆくと同時に、「死」が見えなくなってゆく。「死」は生理学的な身体や器 官の「機能停止」と言い換えられ、そのために「死ぬ」ことと「動かない」こと、「壊れる」こととの区別もつかないことになる。したがって、「殺す」ことと「壊す」こととの違いも感知しにくくなる。近年よく問題にされるように「殺人が 失われている」(P・ルジャンドル)のは、モラルの未熟や崩壊のためなのではなく、このような社会的実践に貫かれた原 理の反映なのである。

ミシェル・フーコーは一九七○年代の仕事で、産業化の時代に権力がそれまでの「生殺与奪」の力を振るう権力、つま り生には関わらず死を与えることで機能する権力から、死を放置し生を管理する権力へと性格を変えたことを、さまざま な局面から分析し、そこに「バイオ・ポリティクス」の誕生をみた。死が人間を圧倒的に個別化するものだとすれば、死 を与える権力は人間を個別化するかたちで行使される。ところが、生を管理する権力は、ひとまとまりの置き換え可能な 集合的人間を対象に行使されるのだ。そこでは死による個別化は重要ではなく、そのため死の儀礼化も希薄になり、死は 権力の管理からしだいに排除されるが、まさしく生理学の相手にする生物学的レベルでの生命には、機能はあっても象徴 的意味をもつ死はないのだ。医療をめぐる現代の状況は、まさしくフーコーの言う「バイオ・ポリティクス」の地平のう ちにあり、その「ポリティクス」が無名の「公共性」によって担われているのだ。「身体」は今、生きる「わたし」から遊 離してその「公共性」に委ねられようとしている。

(原文中の小見出しおよび付記は省略した。)

 

【出典] 西谷修「公共化する身体【臓器移植の開く地平]」(『環』七号 (二○○一年) (藤原書店]所収)

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