[responsivevoice_button voice="UK English Female" buttontext="Listen to Post"]

年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 2002年 過去問

2002年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

以下の文章を読み、著者のいう「つるつるした もの」に対置されるあなたの言葉を選び、その 言葉を選んだ理由を述べたうえで、「つるつるしたもの」 とあなたの言葉の一つをキーワードにして自由に論じな さい。

 

昭和が終った。何か感想を書いたら、しきりに電話を いただくようになった。そう長い電話ではない。一七七 番は天気予報の番号だが、その一七七番が逆にかかってくる、そんな気味あいの電話である。耳をすませている と、いろんなことを考えさせられる。

ウォーターフロントという言葉が使われるようになっ たのは、いつ頃からだったろう。はじめてこの言葉を耳 にした時、へンな語感の言葉だなと感じたのを覚えている。

その時には、この言葉がこんなに人口に職するとは った。しかしいま考えてみれば、水べりをウォ ーターフロントと言いかえる、そこには、それなりの理 由がやはりあったのである。

ウォーターフロントという言葉からぼくが思い浮かべるのは、何よりも、あのプールの水際である。それはタ イルかそれと類似のものに塗り固められていて、つるつ るしている。それは水を浸透させない。水を弾く。日本 語で「水べり」、「水際」という言葉から思い浮かべられ る情景は、全て、あのF悉という言葉に代表されるよ うな、陸(?)の部分に水が漆みとおる、あるいは土、 砂と水がなじむ、そうした情景である。岸壁や運河にお けるような「水際・水べり」、水に隣接しながら、水を浸 透させないイメージの水際を示す言葉は、これまで日本 語になかった。

「静か」であれば「輝の声」さえが「岩」に「しみ入る」 この国に、静かであれ喧騒にみちてあれ、とにかく、つ るつるして、水を弾く水際のイメージがひとの心を掴む 理由が現れてきた時、この言葉は登場してきたし、人々 の関心はそのような場所に向かうようになった。その順 序は、逆ではない、と考えておきたい。

ところで、この水を漆みとおらせないつるつるしたイ メージ、水に「なじまない」水際のイメージ、これはい ったい何だろう。谷崎潤一郎は『陰撃礼讃』の中にこう書いている。

(友人のー引用者)階楽園主人は浴槽や流しにタイ ルを張ることを嫌がって、お客用の風呂場を純然たる 木造にしているが、経済や実用の点からは、タイルの 方が万々優っていることは云うまでもない。たゞ、天 井、柱、羽目板等に結構な日本材を使った場合、一部 分をあのケバケバしいタイルにしては、いかにも全体 との映りが悪い。出来たてのうちはまだい、が、追い追い年数が経って、板や柱に木目の味が出て来た時分、 タイルばかりが白くつるつるに光っていられたら、そ れこそ本に竹を接いだようである。でも浴室は、趣味 のために実用を幾分犠牲に供しても済むけれども、脚 になると、一層厄介な問題が起るのである。

京都や奈良の寺院の、あの昔風の、うすぐらい、いか にも掃除の行き届いた鄭の風情は心をなごませる。激石 先生は毎朝便通に行かれるのを一つの楽しみに数えられ、 それは寧ろ生理的快感だといわれたそうだが、それも「関 寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色 を見ることの出来る日本の園」であればこそのことだろう。関東の廊には床に細長い掃き出し窓がついているの で、虫の音や雨の音、鳥の声が聞かれる。おそらく古来 の俳人は、ここから無数の題材を得ているに違いない。 「風流は寒きものなり」というのは正しい。ホテルの西 洋便所で、スチームの温気がしてくるなどは、まことに いやなものだ。

ところで、谷崎は、普通の住宅で、こういう日本式の 願を採用しようとして最も問題になるのは、便器だとい う。願を清潔に保つために、水洗式の浄化装置をつけ、 床をタイル張りにすれば「風雅」や「花鳥風月」とは全 く縁が切れてしまう。彼処がそんなに「ばっと明るくて、 おまけに四方がまっ白な壁だらけでは」激石先生のあの 生理的快感もおぼつかない。そこで自分は、浄化装置は 導入したものの、自分の家にはタイルを一切用いないよ うにした。そこで困ったのは、「便器であった」というの である。(中略)

この谷崎の言葉は、あの水を弾く、「つるつるしたもの」 が日本の生活にとり入れられる最初の例の一つが、剛の 「真っ白な磁器」だったことを教える。「つるつるしたもの」は、その最も対極性の強い場所に現れ、しかも谷崎 のような感受性の持主には、「あまりと云えば無襲千 万」、「見える部分が清潔であるだけ見えない部分の連想 を挑発させる」ものと感じられたのである。(中略)

八〇年代後半の日本の大部分の住民が、なぜ「ウォー ターフロント」にひきよせられるか。「つるつるした、水 を弾く」、こうした水べりに心ひかれるか。あの湾岸道路 から望まれる東京のウォーターフロントは、最初日本人 の生活に園の「真っ白な磁器」として現れたものの拡大 した姿なのかも知れないなどと思ってみる。そこでは「見 える部分が堅固でつるつるしているだけ、見えない部分 の連想を挑発する」。たとえば、西欧の石造りの古来から の都市で、最近になって「ウォーターフロント」に人々 が眼を向けはじめたなどという話をきかない。ぼく達は、 自分達のいる場所がやがてくる大地震に「液状化」して 反応する地盤の上にあることをうすうす感じればこそ、 あの、「つるつるした」「硬い」ウォーターフロントにひ かれている。ウォーターフロントは、たしかにあの陰撃 にみちた場所、水を凌みとおす水べりではない。

しかしそれはまた、西欧の都市におけるような水際、均質な岩 盤の水への露頭としてのそれでもないのだ。それは柔ら かいものをつつむ硬い殻に似ている。ウォーターフロン トは、ぼく達自身にたいしても、「つるつるとして」ぼく 達の何かを拒む、そのような契機、存在として、おそら くぼく達の心をひきつけているのである。(中略)

ぼくは以前、ある場所で数年間受付事務に従事したこ とがあったが、あの透明な、あるいは不透明な窓口のあ るなしが、そのような仕事にとっていかに大きな意味を もつかに気づくことがあった。他人の前に他人として現 れるには、まず自分にたいして他人にならなければなら ない。「知らないふり」をするには、まず自分にたいして 「知らないふり」をしなければならないのである。

谷崎にとって「つるつるしたもの」は陰撃を拒むもの として現れ、谷崎はそれを拒む。しかしいまぼく達に「つ るつるしたもの」はやはり陰撃を拒むものとして現れ、 ー陰撃はぼく達の好むものであるにもかかわらずーーぼく達はそれにひきつけられる。この違いはどこから くるのか。ぼく達はなぜぼく達を拒むものにこそひきつけられるのか。

ぼくはいまその理由をここで考えてみようとは思わな い。考えてみたところで、出てくるのはどこかで聞いた ような、そんなH断をまぬがれない物言いだけだろう。

ただ無言の電話などに耳を傾けていると、自分の中に、 あのウォーターフロントを感じる。それは液状地盤と水 を隔てる。しかしそれは水と水を隔てている一枚のつる つるしたプラスチック板といっても同じことだ。

それは何かをせきとめているのではない。その板をは さんで水位差のあるものが隔てられているというのでは い。水位差は同じ。板をとっても水は流れない。ただ、 そこに一枚のプラスチックを置く。自分が、そのプラス チックであるように感じるのだ。

数年間日本でないところに生活して感じたのは、「知ら ないふり」の効用ということだった。文化というのは、 「知らないふり」をするということではないか。その「知 らないふり」がどれだけ「知らないふり」として許容さ れるかが「文化」の目盛りではないか。そんな感想をもった。

カナダにいた時、ある女性と離婚した男性が、そのか つての妻と新たに結婚し、さらに離婚した男性と、ある 集まりで隣りあわせる場面にぶつかったことがある。そ の場にある緊張が流れたが、皆が「知らないふり」して いた。やがて二人がその女性の話をはじめた。彼らは「知 らないふり」してその女性の噂をし、その女性との離婚 のいきさつを話し、皆が「知らないふり」してそれを聞 いた。話されることを避けられた話題はなかった。しか し皆が「知らないふり」して、「知らないふり」すること で、何をも避けなかったのである。

人体で最も広い、のっペりした部分は実は背中だとい うことだ。ジイドがいうように、「去っていく人は背中し か見えない」。去っていく人が背中しか見えないという のは、何と人性のしくみに合致した事実だろうか。 「せなで泣いてる唐獅子牡丹」。時にひとは、その背中 の空白に耐えきれずに、背中に紋様を刻み、背中に語ら せる。背中の空白そのものを陰磐にする。しかし背中は、 やはり空白のままがいい。それが、背中の効用なのだ。

 

【出典] 加藤典洋「背中の効用」(一九八九年)(同『「天皇崩御仍函像学[平凡社、二○○一年]所取)

copyright 2016/Everyday school