[responsivevoice_button voice="UK English Female" buttontext="Listen to Post"]

年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 2001年 過去問

2001年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

次の文章は、「リアルであること」と題された文 章である。著者の言う、イデオロギーや夢、宗 教、死、科学などと「リアル」との関係を検討し、あな たの考えを自由に述べなさい。

ベルリンの壁が崩壊したとき、ぼくたちはテレビの映 像にくぎづけになった。そのときは、テレビのあの平面 的で、表面的な画像が、まったく時代にふさわしいもの に見えたものだ。いままでごまかしたり、隠したりされ てきた、多くの情報が公開されるようになった。あのと き世界は、深さのないテレビ映像とともに、すこしだけ 「客観」にむかって、前進したように思えたのである。 不思議なことに、ぼくはあのとき以来、あんなに好き だった映画にたいする興味を、急速に失った。幻想に幻 想を重ね、夢に夢を重ね、意味に意味の厚みをふやして いくようにしてつくられている、すべての表現に、げっ そりしはじめたのだ。

現実とのあいだに、たくさんのお金をかけて、新しい 魅力的なべールをつくりだすことよりも、すがすがしい 朝の空気のような、薄い透明な層だけをとおして、リアルに触れていたい。そのリアルを厚ぼったい物語にかえ る、政治の神話も必要はないし、スピルバーグ的な映像 の、偽善っばい虚構も、うっとおしいばかりだ。 夢やヴァーチャル・リアリティのなかで、生命を消費 していくよりも、自分の生命を、リアルな実在として、生きはじめてみたい。ときには、自分のなかでうごめい ている、いっさいの夢の進行をストップさせて、そのと きに現れてくる世界の裸のからだに、素手で触れて、そ れをなでたり、さすったりしてみたい。それが、あのベ ルリンの壁の崩壊や、ソ連の解体とともにはじまった、 九O年代の精神ではないのだろうか。

ところが、あれから数年がたってみると、ぼくたちを とりかこんでいる世界には、あいかわらずリアルは、立 ちあらわれてこないし、いたるところに、ますます厚い 観念のベールが、はりめぐらされるようになっているの に気がつく。たしかに、イデオロギーは消えた。しかし、 それが消えた分、今度はぼくたちの意識を、リアルに直 接接触させまいとする、別のメカニズムが作動しだして いるのだ。

かつて、イデオロギーが機能していたときには、その イデオロギーをとおして、いまある世界の限界をつき破 って、人間に未知の可能性を開こう、というメッセージ が語られていた。人間は快感原則の生き物だから、いま ある世界が、快適で、過ごしやすくつくられていれば、 そのなかでけっこう幸せなまま、人生を送ることもでき る。しかし、イデオロギーが発していたメッセージは、 そういう現世への埋没を、否定しながら生きていくよう にと、語っていたのである。

八〇年代とは、そういうイデオロギーのおこなう、現 実否定のよびかけに、耳に嫌をっめて、遠ざかっていこ うとする時代だった。これには、二重の意味があった。 ひとつには、いまある人生を犠牲にして、その意味を未 来に先送りしていこうとするような、イデオロギー的な 生き方をやめたい、という願望がそこにあらわれていた のである。自分たちのいまある生命を、生命そのものと は別の、意味とか夢とかのためにではなく、それをリア ルとして生きてみたい、という願望だ。

ところが、そこからは、もうひとつの意味が派生してしまった。イデオロギーには、すくなくとも、いまある 世界のあり方を否定して、そこに見なれないもの、未知 のものを出現させようとする、よびかけがこめられてい た。八○年代は、イデオロギーの幻想機能といっしょに、 それがもっていた、現実をおおうべールのむこう側に出 ていこうとする、実存へのよびかけまで、たらいの水も ろとも、流しさってしまったのだ。

そのために、日本人のなかには、自分をとりまいてい る、いまある世界とは、別のところに出ていきたいとい う願望だけが、自分を受け止めてくれるもののないまま に、宙をさまよう状況が、生まれてしまった。それをと りあえず受け止めてくれたのが、さまざまなかたちの宗 教だった。

宗教は、若者に「出家」をよびかけた。いまある世界 から、別のところへ出てこい、とよびかけた。また別の 宗教は、マスコミや教育がつくる、社会の通念などは、 みんな根拠のない虚構なのだ、だから、それをすてて、 真実の人間の共同体に入っていらっしゃい、とよびかけ た。たくさんの若者が、それにひかれた。彼らの多くは、それがかつて親たちの世代をとらえていた、イデオロギ ーの代用物だとは知らないで、宗教的な共同体のなかに は、新しい別の世界があるのだ、と思い込もうとした。

しかし、たいていの宗教は、いまある世界を出て、別の精神的な共同体のなかに入っておいで、と語るのだけ れど、その共同体が、けっきょくはもうひとつの夢、も うひとつの虚構としてつくられてしまう、という矛盾を、 のりこえることができないのだ。リアルを見るために、 生まれ育った世界を出たものの、リアルに近づくどころ か、別の幻想が、彼らを待っている。 そして、いったんそこに入ってしまうと、なかなかそ こから出てくることが、むずかしい。以前だったら、ど こか別のところへ行けば、救いがあるかも知れないと、 思うこともできた。しかし、ひとつの夢から別の夢に、 たらいまわしされた体験をもっと、人間はなかなか、そ れ以上の冒険ができなくなってしまうからだ。

だから、九〇年代は宗教の時代であるとか、宗教がこ れからはじまる新しい時代の鍵となる、といった考えは、 まるで無責任な話なのである。それは、いっときの代用品でしかない。それに、若者もふくめて、みんなそのこ とには、うすうす感づきはじめている。ほんとうに求め ているのは、これじゃないんだって。

人間がいまほんとうに求めているものは、自分の生命 とのリアルな接触ということだ、とぼくは思う。いまの ところ宗教は、科学よりも、それに答える能力の点では まさっているところもある。しかし、それにほんとうの 意味で答えることのできる宗教というのはいま人々をひ きつけている自分の魅力のほとんどを、みずから否定す ることができ、自分が宗教であることを、のりこえるこ とができたものだけだ。

残念ながら、そういうものはまだ生まれていない。も ちろん、生まれるきざしはある。人々のあいだに生まれ ている、「死」にたいする深い関心に、そのことがよくあ らわれている。「死」こそが、絶対のリアルだからだ。ぼ くたちは、死ぬことによって、かならずそれに触れる。 そして、昔から、人間は「死」というその絶対のリアル をとおして、生きていることの意味を、考えることができた。

ところが、無思想につきうごかされたまま、無明の発 達をとげている、いまの技術主義の医学や、死のリアル との接触をおそれる、臆病なプルジョア精神の憂延によ って、ぼくたちはそれから、できるだけ遠ざけられてい る。現代の世界には、分厚い「底」のようなものがあっ て、それがリアルの侵入をふせいでいる。

イデオロギーは消えたけれども、こんどは世界は総力をつくして、そのじょうぶな「底」を維持しつづけ、巨 大な夢の自己回転を、つづけていこうとするようになっ た。いやむしろ、ヴィジョンをなくして、保守的になっ た分だけ、人間をリアルからへだてる、その「底」は分 厚いものになりつつあるのではないか。

人間に、自分の生命のリアルとの触れ合いを可能にしていく、別のやり方を、ぼくは創造したいと願っている。 ぼくは、いっさいの幻想を、人間の意識からぬぐいさっ てしまいたいのかも知れない。世界の裸体は、ほんとう に美しい。その裸体を自分が所有したいとか、思いどお りにしたいとか、思ったとたんに、裸の美女は消えてまう。ぼくたちは、リアルとの、真実の性交を求めているのだ。

(出典)中沢新一『リアルであること』 (メタローグ、一九九四年)

copyright 2016/Everyday school