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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 2000年 過去問

2000年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

一九七○年代に書かれた次の文章を読んで、特定の社会問題に焦点を合わせながら、あるいは あなた自身の経験にもとづきながら、自らの考えを自由 に述べなさい。

 

現在日本の社会状勢の多くの混乱は、筆者の見解によ れば、父性的な倫理観と母性的な倫理観の相克のなかで、 一般の人々がそのいずれに準拠してよいか判断が下せぬ こと、また、混乱の原因を他に求めるために問題の本質 が見失われることによるところが大きいと考えられる。 このため、現在の日本は「長」と名のつくものの受難の 時代であるとさえ言うことができる。つまり、長たるも のが自信をもって準拠すべき枠組をもたぬために「下か らのツキアゲ」に対して対処する方法が解らず、困惑し てしまうのである。

母性原理に基づく倫理観は、母の膝という場の中に存 在する子供たちの絶対的平等に価値をおくものである。 それは換言すれば、与えられた「場」の平衡状態の維持 に最も高い倫理性を与えるものである。これを「場の倫 理」とでも名づけるならば、父性原理に基づくものは「個の倫理」と呼ぶべきであろう。それは、個人の欲求の充 足、個人の成長に高い価値を与えるものである。

たとえば交通事故の場合を例として考えてみたい。こ こで、加害者が自分の非を認め、見舞にゆくと、二人の 間に「場」が形成され、被害者としてはその場の平衡状 態をあまりにも危くするような補償金など要求できなく なる。ここで金を要求すると、加害者の方が「あれほど 非を認めてあやまっているのに、金まで要求しやがる」 と怒るときさえある。この感情はわれわれ日本人として は納得できるが、西洋人には絶対了解できない。非を認 めたかぎり、それに相応する罰金を払う責任を加害者は 負わねばならないし、被害者は正当な権利を主張できる。 ところが、場の倫理では、責任が全体にかかってくるの で、被害者もその責任の一端を荷なうことが必要となる のである。日本人の無責任性がよく問題とされるが、そ れは個人の責任と場の責任が混同されたり、すりかえら れたりするところから生じるものと思われる。

ところで、事故の場合、加害者が言い逃れをしたりす ると、これは被害者と同一の「場」にいないものと判断し、徹底的に責任の追及ができることになっている。つ まり、わが国においては、場に属するか否かがすべてに ついて決定的な要因となるのである。場の中に「いれて もらっている」かぎり、善悪の判断を越えてまで救済の 手が差しのべられるが、場の外にいるものは「赤の他人」 であり、それに対しては何をしても構わないのである。 ここで善悪の判断を越えてという表現を用いてしまっ たが、実のところ、場の倫理の根本は、場に属するか否 かが倫理的判断の基礎になっているのだから、その上、 ここで善悪の判断などといっても、それは判断基準が異 なるのだから論外である。

場のなかにおいては、すべての区別があいまいにされ、 すべて一様の灰色になるのであるが、場の内と外とは白 と黒のはっきりとした対立を示す。日本人の心性を論じ る際に、そのあいまいさに特徴を見出す人と、逆に極端 から極端に走る傾向を指摘する人があって、矛盾した感 じを与えるが、これは上述のような観点によるとよく理 解されるのではないだろうか。

場の内外の対比は余りにも判然としており、そこに敵対感情が働くと絶対的な対立となり、少しの妥協も悪と 見なされる。ところが、場の内においては、妥協以前の 一体感が成立しており、言語化し難い感情的結合によっ て、すべてのことがあいまいに一様になってくるのであ る。

交通事故の例をあげたが、現在のわが国では、さまざ まな局面でふたつの倫理観がいりまじり、いろいろな混 乱をまき起こしていると言えないだろうか。このような 混乱を助長するもうひとつの要因として、次のようなこ とが考えられる。場の平衡状態を保つ方策として、場の 中の成員に完全な順序づけを行うことが考えられる。つ まり、場全体としての意志決定が行われるとき、個々の 成員がその欲求を述べたてると場の平衡が保てぬので、 順序の上のものから発言することによって、それを避け ようとするのである。

ここで大切なことは、この順序の確立は、あくまで場 の平衡状態の維持の原則から生じたもので、個人の権力 や能力によって生じたものではないということである。 このような特殊な状態を社会構造としてみると、「タテ社会」の人間関係となることは、中根千枝氏が既に見事に 解明している。これについては何らつけ加えることはな いが、時に学生たちと話合っていると、「タテ社会」とい う用語を彼らがしばしば誤って使用していることに気づ く。つまり、彼らは「タテ社会」という用語を、権力に よる上からの支配構造のような意味で用いるのである。 これはまったく誤解である。

タテ社会においては、下位のものは上位のものの意見 に従わねばならない。しかも、それは下位の成員の個人 的欲求や、合理的判断をおさえる形でなされるので、下 位のものはそれを権力者による抑圧と取りがちである。 ところが、上位のものは場全体の平衡状態の維持という 責任上、そのような決定を下していることが多く、彼自 身でさえ自分の欲求を抑えねばならぬことが多いのであ る。

このためまことに奇妙なことであるが、日本では全員 が被害者意識に苦しむことになる。下位のものは上位の ものの権力による被害を嘆き、上位のものは、下位の若 者達の自己中心性を嘆き、共に被害者意識を強くするが、実のところは、日本ではすべてのものが場の力の被害者 なのである。この非個性的な場が加害者であることに気 がつかず、お互いが誰かを加害者に見たてようと押しつ け合いを演じているのが現状であるといえよう。

場の構造を権力構造としてとらえた人は、それに反逆 するために、その集団を脱け出して新しい集団をつくる。 彼らの主観に従えば、それは反権力、あるいは自由を求 める集団である。ところが既述のような認識に立ってい ないため、彼らの集団もまた日本的な場をつくることに なる。そして、既存の集団に対抗する必要上、その集団 の凝集性を高めねばならなくなるので、その「場」の圧 力は既存の集団より強力にならざるを得ない。このため 「革新」を目指す集団の集団構造が極めて保守的な日本的構造をもたざるを得なくなったり、大企業のタテ社会 を批判して飛び出した人が、ワンマン経営の小会社とい う強力なタテ社会を作りあげたりする矛盾が生じてくる のである。 あるいは若者の要求にしても、絶対的平等観という母 性原理をもとにして、個の権利を主張するという父性原理を混入してくるので、なかなか始末に負えなくなるの である。場の倫理によるときは、場にいれてもらうため に、おまかせする態度を必要とするし、個の倫理に従う ときは個人の責任とか契約を守るとかの態度を身につけ ていなければならない。ところが、ふたつの倫理観の間 を縫うようなあり方には、まったく対処の方法が考えら れないのである。

場と個の倫理の問題は論じてゆけば際限のないもので、 既に日本人論として多くの人が述べてきた点とも重複す るので、この辺にとどめておくが、ひとつだけ現代の日 本の混乱を如実に示しているエピソードをあげておきたい。

それは青少年の指導を行っている人にお聞きしたこと であるが、シンナーの吸引をしていた少年達に、その体験を聞いてみると、彼らは一様に観音さまの幻覚を見、 その幻覚のなかでの、何とも言えぬ仲間としての一体感に陶酔していたという。つまり、社会から禁じられてい るシンナー遊びをする点においては、反社会的、あるい は反体制的とも言えようが、求めている体験の本質は母性への回帰であり、わが国の文化・社会を古くから支え ている原理そのものなのである。 これに類することは処々に見られ、これらの反体制の 試みが簡単に挫折する一因ともなっている。このような ことが生じるのは、結局は日本人がなかなか母性原理か ら脱け出せず、父性原理に基づく自我を確立し得ていな いためと考えられる。

 

(出典)河合集雄T母性社会日本仍病理

(中央公論社、一九七六年)

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