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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 1998年 過去問

1998年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

次の文章を読んで、明治以降の我が国における「建前と本音」についての筆者の考えを五〇〇字程度で要約し、その内容と関連付けながら、あなたの意見を述べなさい。

 

我が国においては個人は長い間西欧的な個人である前 に自分が属する人間関係である「世間」の一員であった。 したがって何らかの会合において発言する際には個人と しての自分の意見を述べる前にまず自分が属する「世間」 の利害に反しないことを確認しなければならない。まず 「世間」人として発言しなければならなかったのである。 自分自身の意見は本音として「世間」の藤に隠れていた。 「世間」を代弁する発言はこうして個人にとっては建前 となり、本音と区別されたのである。こうして「世間」 と個人の関係の中で我が国における建前と本音の区別が 生まれたのである。

このような建前と本音の違いがくっきりとした輪郭を もって現れたのが明治以降の我が国のあり方、特に近代 化、西欧化との関係の中においてであった。明治政府は 欧米の近代化路線を採用することを決めた。しかしその際に真の意味で我が国を欧米化することが考えられたわ けではなく、少なくとも社会構造や政府機関の組織、軍 制や教育などの面での近代化が考えられていただけであ る。制度やインフラストラクチャーの面での近代化にす ぎず、西欧精神の面にまで視線が届いていたわけではな かった。つまり表面の近代化に過ぎず、精神の面では旧 来の路線の上ですべてが考えられていたのである。

このような状況の中で我が国特有の状況が増幅された のである。欧米は圧倒的な文明の力をもって我が国に圧 力をかけてきた。それは単に軍事力や合理的な法体制だ けでなく、フランス革命を経て身につけた人権理念を表 面に掲げたものであったから、抵抗のしようがなかった。 明治時代に欧米を訪れた政府の要人たちは欧米の社会の 基礎をなしている理念の圧倒的な力に感嘆を惜しまなか った。武力だけの圧力なら抵抗のしようもあったであろ うが、否定し去ることのできない崖票高な理念が掲げられ たとき、その前にひれ伏すしかなかったのである。しか も我が国の現実は欧米とはあまりにかけ離れていた。明 治時代に我が国は国を挙げて欧化政策に取りかかるしかなかったのである。しかし欧化といってもそれは法制や 行政構造、産業、教育制度などに限定され、人と人の関 係のあり方にまではとうてい及ぶものではなかった。欧 米諸国は近代化以前に数千年の時間をかけてその準備を してきたのであり、我が国が欧米化路線を採用したとし てもわずかの時間にそのすべてをたどることができるは ずもなかった。また当時の政府の要人たちも精神の面ま で欧化しようと考えていたわけではなく、いわば和魂洋 才の道を模索していたのである。

文明にせよ、文化にせよ、最終的にはその根幹に人と 人の関係の特異なあり方がある。新しい人と人の関係の あり方が生み出されたとき、新たな文明が誕生する条件 が生まれたことになる。明治時代に我が国は欧米の諸制 度を取り入れながら、結果としては人と人の人間関係に ついては従来の形を残すことになった。そのような決断 を明治政府がしたわけではない。圧倒的な欧米の近代的 諸制度を前にして身も魂も奪われてしまいかねない状況 の中でかろうじて踏みとどまったというべきであろう。 こうして我が国特有の状況が生まれた。国家の体制と法制、経済の諸制度、教育体制などは欧米に範を得て一応 近代化されながら、一人一人の人間の生き方の点では従 来の慣行が維持されたのである。

この状況はしかしやや複雑であった。なぜなら当時欧 米を訪れた人々は欧米の近代的個人のあり方に感嘆し、 我が国の個人のあり方に不満を漏らしていたからである。 欧米の個人のあり方を理想とする人々も少なからずいた のである。しかし我が国は結果としては従来の個人のあ り方を変えることはなかった。こうして近代的な枠組み の中に従来の個人のあり方だけが生き残ることになった。

従来の人と人のあり方とは一言でいえば「世間」のこ とであり、「世間」が生き残ったということなのである。 (中略)近代的な諸制度の中に伝統的な人間関係である 「世間」が生き残ったことはその後の我が国の諸問題に 深くそして決定的な影響を残すことになった。政治や経 済の諸問題だけでなく、法や教育の面においても欧米の 影響は大きかったから、これらの諸問題については常に 欧米に範が求められていた。欧米の個人のあり方は当時 の知識人を捉えてはなさなかったし、明治以降の我が国の体制の中では欧米に範をとった近代化路線が主流をな していたから、政治家も学者も文化人も公的な発言をする際には常に欧米流の内容を主として発現していたのである。

しかしひとたびその内容が発言者個人の生き方に関わ る場合には複雑な事態となった。なぜならそこには「世 間」が生きていたからであり、公的な発言をするものは 常に自分の生き方と離れて別な次元のこととして話をし たのであり、自分の「世間」に関わらないよう用心して いたのである。

こうして建前と本音の世界の区別が生まれたのである。人々は公的な発言をする際には常に欧米流の内容を主として発言し、公的な場を離れたときには自分の「世間」 に即して本音でしゃべったのである。明治以降我が国は このようにして理念の世界と本音の場の世界との二つの 極をもつことになり、特に知識人の場合はその相克は深 刻なものがあった。 大切なことは当時も今も「世間」は隠されていたこと である。人々は自分が「世間」に私的生活の足場をもっていることを隠してあたかも建前の世界だけで生きてい るかに振る舞ったのである。「世間」はこうして隠された のである。そのことは言葉としての「世間」が公的な文 書から消え去り、日常会話の中でのみ生き残ったことに 示されている。明治十年頃にソサイエティーの訳語とし て社会という言葉が定められたとき、「世間」という語は 公的な舞台から消えていった。人々はあたかも「世間」 が存在しないかのように振る舞うことになったのである。 しかし私的生活領域を基礎とした「世間」は私たちの生 活の中できわめて大きな部分を占めているから、「世間」 の中で生きている人間としてうなずけないことに対して はうわべはいかに従うかに見えても強固な反対の意志が 隠されているのである。

我が国の近代化がもたらした最大の問題がこうして生 まれた。以後今日まで人々は政治、法制、教育そのほか のあらゆる分野において二重生活をやむなくされたので ある。言葉は言葉それ自体として受け止められず、その 背後にある真の意図が常に探し求められるようになった。 発言の真意とか趣旨といわれるものがそれである。ある

人が公的な場で発言した場合、その発言がその人の私的 生活領域に根ざしたものであれば信用されるが、そうで ない場合はただの言葉として受け止められるに過ぎず、 疑いの目で見られることになる。本音とはその人の公的 でない、私的生活領域に根ざした発言をいい、「世間」に 根ざした言葉として信用される。

 

(出典) 阿部謹也『「教養」とは何か』 (一九九七年刊講談社現代新書)

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