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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 1995年 過去問

1995年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

次の文章を読んだ上で、あなたがこれまでに自 然に接してきた体験にも触れながら、著者のい う文化資源としての自然について論じなさい。

 

一時、フィーリングという言葉が流行した。今は感性 の時代だという主張である。既成の価値観や思考の枠組 にとらわれず、自分自身で事象にひそむ価値を感じとろ うという姿勢で、一つの新しい世界を拓こうとした意図 は買ってよい。だが、自分の感性の奥深い泉源をのぞく までに至らず、皮相な感情のゆらぎあるいは浮遊感覚を、 楽しんでいるにすぎない場合が多いのではないか。

感性は知性との強固な結合によって、世界を深く認識 する機能を発揮するが、そこまでの深みを持つに至らな い大きな理由の一つは、子どもたちの密室文化が開花し、 物との対話に歌溺する日常にあるようだ。テレビにしろ オーディオセットにしろ、コミュニケーションは受信だ けの一方向で、自分からの発信を必要としない。感じと ったものを言葉や態度で表わしてこそ、感性は深まり広 がりを持つのに、言葉の貧弱な若者が増えてきたと思う。

私がことあるごとに自然に親しもうと呼びかけてきたのは、密室から出て物との対話から離れ、いのちあるも のとの対話の日常を楽しむようにしないと、感性は潤い を失って無機的になり、やがて薬縮してしまうのを恐れ るからである。

われわれが住んでいる地球という星が、三六億年もの 悠久の時間をかけて創り出したさまざまないのち、道端 の雑草も木々も小鳥もそれぞれが、想像もできない遠い 昔の歴史を担って、今目の前にあるのである。そして、 その中に自分の存在を位置づけて考えるとき、いのちの 不思議と異敬の念が呼び起こされるであろう。永遠のい のちの相にふれること、そんな機会を、子ども時代にぜ ひ持ちたい。(中 略)

わが国ほど豊かな自然に恵まれた国は 四季のめぐりにしたがって、自然は変化 みせる。欧米の家にバイプルがあるように、歳時記 くの家にあるのは、驚くべきことだ。ウサギ小屋と郷揄 される小さな家にも庭があり、部屋には花が生けてある。 日本人は世界の数ある民族の中でも、すぐれて自然を愛 好する民族だと思っている人が多い。しかし、これは半分は正しく、半分は間違っていると思う。子どもの教育 や人間の健全な生活には、自然と親しむことが大変重要 であるが、そのような教育がなされているだろうか。 念ながら、非常に不十分と言わざるをえない。

知床半島の原生林の伐採が強行されて、シマフクロウ が絶滅の危機にさらされる。残された唯一のプナの大原 生林である白神山地の伐採計画が進められている。石垣 島の白保の環湖礁が破壊されようとしているなど、大規 模な自然破壊をあげればきりがない。国内だけでなく、 熱帯雨林材の大量消費により、世界中から非難を浴びて いるのは周知のことである。すべて経済優先の考えに基 づく暴挙であるが、もっと根本的には日本人の自然観に 基づいている。

日本人は自然保護の思想が貧困だといわれる。なぜそ うなのかを少し考えてみたい。一言にしていえば、日本 の自然が豊かすぎるからである。国土面積の森林被覆率 は七○パーセント弱、これは森と湖の国フィンランドに 匹敵する世界有数の森林国といえよう。木材の国カナダ といえども森林被覆率は三三パーセント、ドイツやフランスで二七パーセントだから、日本は大変な森林国であ る。それに種類も多い。フィンランドへ行ってびっくり するのは、樹種が非常に少ないことだ。カンバ類三種と 松、トウヒくらい知っていると、どこの森へ行っても間 に合う。

わが国は、世界でも有数の天災多発国だ。毎年台風が 襲来して草木をなぎ倒し、そこここで洪水が起こる。地 震や火山の噴火で山は崩れ、山火事で全山が燃えつきる こともある。しかし、しばらくするとススキや笹が生え、 ついで低本や松の緑が破壊された地肌を覆ってしまう。 日本の森は、壊れても焼かれても復元する強靭さをもっ ており、世界中でも最も回復力が強い森だといってよい。

清い水と豊かな緑に覆われた自然の中で育った日本人 には、それを保護しようなどという考えが生まれようもなかった。どんな災厄からも立ち直る不死鳥のような自 、それはちっぽけな人間の力をはるかに超越した不動 の存在で、人間を守りこそすれ、人間に守られるもので はありえなかった。

大野晋氏によると、大和言葉には、自然、に該当する言葉は見当らないという。現在われわれが使っている自 然という言葉は、ネイチャーの訳語である。親鷲の末燈 抄に「自然といふは、もとよりしからしむといふことばなり」とあるように、自ずから然り、つまり、あるがま まにあるものとして自然は認識されてきた。人々は自然 との一体感の中で、四時のうつろいに身をゆだね、もの のあわれを感じとり、いのちのはかなさに思いをいたした。

ヨーロッパの森は日本のそれとは違い、人為に対して もろくて弱い。農耕牧畜が始まって以来、ヨーロッパの 森林は破壊し続けられ、ほとんどなくなってしまった。 自然は人間の対立物としてとらえられ、人間によって支 配されるべき対象であった。自然破壊の極致に至ったと き、自然は管理し保護しなければならないという思想が 生まれる。プロシャで自然保護という言葉が誕生するの は、わずか二百年前のことである。

日本人にとっては、自然は人間の対立物でもなく、ま してや支配する対象でもなかった。空気や水と同じく、人間をとりまくごくあたりまえのものであった。人間の

力ではびくともしない豊かな自然、それがここ二十年の 間に巨大な破壊技術の進歩によって、急激に壊されはじ めたのである。しかし、まだ日本人の心の奥には、自然 は無限に豊かで、不落の城であるかのような印象が根を 張っている。この状況が続けば、かつてのヨーロッパが そうであったように、否もっと恐ろしい形で日本の自然 が破壊しつくされるであろう。そうなればもはや取り返 しがつかなくなる。今のうちに自然保護と愛好の思想を 育てなければならない。 〔中略〕

では、日本人は自然に対して関心がないのかというと、 そうともいえない。ある側面から見れば、最も自然の美 に鋭敏な民族だといえるのではないだろうか。たとえば、 庭が象徴的にそのことを語っている。

欧米の都市では、集合住宅に住むのが常識である。 戸建ての家を持つ人は、よほどの金持ちか特別な人だ。 わが国では、これほどの住宅難でも、誰もが独立した家を持ちたがる。三○ー五○坪の敷地にぎゅうぎゅう詰めに並んでいる住宅団地。そんな小さな家にも庭がある。

わずか二坪の空間に、サツキや石などを配置した日本 風のミニ庭園がある。面白いことには、どんな辺部な山 村へ行っても、立派な庭がある。山の緑に囲まれ、前に は小川が流れ、自然そのものが雄大な庭なのに、あえて 完結した庭を造るという行為は、日本人に独特の風習で あろう。

日本人は、大自然から美を抽出し、それを独自の繊細 で鋭敏な美意識で、造形的に自然を再構成する能力が非 常にすぐれている。銀閣寺の庭は、富士山を模し、山川 草木を見事に配するだけではなく、自砂を積んで銀沙灘と名づけた海をもとりこんで、全世界を限定された空間 に造形したものである。そんな名園だけではなく、山村 の庭だって同じ趣向だ。そこには谷川から水を引いて小 川を造り、ししおどしがある。山裾には本物のししおど しがしかけてあるが、それはイノシシとの戦いという、 生活に密着した装置である。村人はなまなましい生活の ほこりを払い、静かな夜にコトン、コトンと鳴る閑静な 音に耳を傾ける風雅な境地を庭に凝縮させた。

生花、盆栽、床の間、俳句など、自然から美を抽出し結晶化する芸術的行為に、日本人は天才的な能力を発揮 した。簡素な竹筒に自い蹴を一本さし、全宇宙の気を 象徴するという芸術は、世界のどこの国にもない。それ がわが国では、ごく普通の田舎の家でも、日常的に行わ れているではないか。日本人は自然を好まないとか自然 に対する感受性が鈍いというのではなく、自然の美を最 もよく享受してきた民族だといえよう。

自然美に対するたぐいまれな鋭利で精妙な感性を、庭 園や名勝に閉じこめないで、大自然に大きく解き放って ほしいと、私はいつも心から願っている。そうなれば、 欧米で発達した自然保護の思想とはまた別な、日本独自 の自然観が創造されていくだろう。豊かな緑は、先祖が 残してくれた大事な財産である。森林は今まで木材資源、 および治水や炭酸ガス吸収などの役割を果す環境資源と して価値づけられてきたが、これからは子どもを育てる 場として、また高度な文明社会に疲れた人間が、新鮮な 気分を回復する憩いの場として、さらに、さまざまな知 識を提供し美意識を解き放っ場である文化資源として 生活の中に取り入れていきたい。

河合雅雄「子どもと自然」 岩波新書平成二年

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