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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 1994年 過去問

1994年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

次の文章を読んだ上で、筆者のいう「すき間」の意義を、あなたの実生活に即して論じなさい。

(注意) 解答は所定の欄に記入すること。

 

かつて、「すき間」が都市のところどころにあった。た とえば、路地や神社の境内といった都市の「すき間」は、 老人や子供たちの格好のたまり場であり、「対話」の場で あった。子供たちがそこに行けば、近所のさまざまな年 齢の友だちと出会うことができた。老人と子供にしても、 まるで血のつながった家族のように心を通わすことができた。

この春、兵庫県の明石に私が設計を担当した兵庫県立 看護大学が創設された。全国で初めての公立の四年制看 護大学である。高齢化社会がすでに現実化しているにも かかわらず、それを医療の側から支える職業的看護者の 数は、圧倒的に不足したままだ。困難な現状に、より高 度で的確な技術・患者への愛情・生命に対する異怖(い ふ)と、それを守る使命感をもった人材を送り込むべく、 全国に先駆けて開校されたのがこの大学である。

この画期的な意義をもつ学校に、ふさわしい校舎が期待された。設計にあたって私が最も重視したのが、都市 からも社会からも、そして人生からも失われてしまった 「すき間」を、この建物にどれだけ取り戻せるかという ことだ。

「すき間」とは文字どおり、モノとモノとの間にあっ て、機能をもたないゆとりの空間 (あるいは時間)のこ とである。この「すき間」は、今の日本の教育に最も欠 けている心と心の「対話」が交わされる可能性をもつ。 すべてを単純な合理性に置き換えてしまう現代の社会シ ステムのなかで、横の連携のない縦割り行政との間での 調整の困難をのりこえて、公の建物にこそこのような「す き間」をつくることが重要だと考えた。

看護には医療技術としての看護のほかに、忘れられが ちだが欠かせない心の看護というものがある。一人ひと りの気持ちを読み取りながら、ていねいな看護をしてい くことが患者には何よりも大切だ。そこで重要なのは、 人間同士の「対話」である。それが人々の間に交わされ る場として、この学校に設けられたのが、さまざまな広 場と緑あふれる中庭という「すき間」である。

それらは建物のもつ数々の機能を有機的に結びつける 空間である。直接的な機能をもたない「すき間」が、学 生たちと先生、あるいは隣接する病院の患者たちのコミ ュニケーションを可能にし、その中で優れた看護者がは ぐくまれることを望んでいる。

そのように意図してつくるまでもなく、近代以前の日 本の都市には至るところに歴史のなかで培われた路地・ 神社の境内といった「すき間」があったものだ。もしそ の「すき間」が十分に残されていたなら、核家族化が進 む今の社会で孤独に陥りやすい老人が、孤独から解放さ れる場所として機能したはずだ。

老人の精神的な不安を解消することができるのは人間 だけであり、このような「すき間」でなされる人間同士 の触れ合い、「対話」こそが、老人たちを社会的弱者とい う立場から救うことができると考える。 しかし、戦後、日本の都市はそんな精神的なゆとりを 生む「すき間」を、経済原理の名のもとに切り捨ててき た。路地は隣り合う一軒が互いにセットバックしてつく られた、都市の共有空間だった。だれもがたたずんだり、通り抜けたりできる路地は、人々の生活にふくらみを与 えていた。

ところが、このような「すき間」は、改築の度に境界 いっばいに建物を建てるので、失われる一方である。神 社の境内には今やマンションやオフィスビルが建ち上が る有り様だ。それらの屋上に設けられた申し訳程度の社 は、現代の都市の異常さを象徴している。歴史のなかで 蓄積された都市のふくらみを、近代の合理性のために排 除し続けたなれの果てが、ギスギスとした光景に支配さ れた現在の東京であり大阪である。

高度経済成長期以降ここ二十年ほどの間に、日本人の 価値観は一変し、すべてを金で測る拝金主義がまかり通 るようになってしまった。だが、経済にとって無駄に思 える、機能の「すき間」にあるあいまいなものの中に、 人間にとってかけがえのないゆとりがあった。 かつて、育ち盛りの子供たちの生活の「すき間」であ った放課後は、実に重要な役割を果たしていた。この放 課後を存分に使って、年代の異なる子供たちも一団とな って山や川を駆け回り、ケンカをし、友人を作っていった。近所の大人たちとの会話の中から、多くを学ぶこと もできた。

しかし今、放課後は塾で勉強するための時間にとって 代わられ、年齢の違う子供と話すことさえほとんどなく なってしまった。

本来の教育とは、個性を伸ばしながら一人の主体性あ る人間を育てることではなかったか。今の知識詰め込み 型の教育では、個性は失われ、自立した豊かな人間は育 たない。そこでは、知識を行動のなかで確かめ、自分の ものとし、知恵として開花させていく「すき間」、社会や 人間、自然についてのごく当たり前のことを覚える「対 話」が奪われていく。

一流企業に入社し、終生安定した生活を手に入れるこ とがまるで人生の唯一の目的とでもいうように、子供た ちは幼い時期から過酷な受験戦争へと駆り立てられる。 この「より道」のない教育のなかで、彼らはいったい、 いつ、どこで、人間と、そして自然と「対話」できるの だろうか。ただ一本のエスカレーターを上りきった先で、 何が彼らを待っているというのか。

確かに、今われわれの家のなかには家電製品が、道路 には車があふれている。この物質的な豊かさとは裏腹に、 都市の光景は貧しい。とても美しいとはいえない街並み、 文字通りウサギ小屋のような住環境、劣悪な交通事情 等々。「すき間」を無視して経済効率にまい進した日本人 を待ち受けていたのは、その程度の生活だった。

「より道」のない教育、「すき間」のない生活・都市環 境のなかで主体性を失った人々は、情報化社会の中で簡 単にマスメディアに翻弄(ほんろう)される。

「対話」から苦労して得られる真実ではなく、次々と安 場に送り出される一方的な情報におぼれた国民は、感覚 がまひし、どんな重大な事件が起ころうとも無感動・無 関心で、政治腐敗、企業犯罪に対して怒ることすらでき ず、すぐに忘れてしまう。高度化するメディアは一見、 便利で豊かな印象を与えるが、主体性ある人間の不在の ところに本当のゆとりは生まれない。 このような状況下で、政府は「生活大国」という軽薄 なスローガンを打ち出した。しかし、現在の生活環境の 劣悪さからすれば、「生活大国」日本なるものは想像すらつかない。

政治・経済、それと癒着したマスメディアがつくりあ げた拝金主義・技術主義・表層的なイメージの過剰な社 会の中で、われわれは何を本来必要としているのかを再 確認しなければならない。知識は平均的に行きわたった が、どの方向に向けて、どう生かすかという思考力は低 下しているとさえ思えるほどだ。まして合理的な目的意 識から外れた「すき間」や「対話」は見向きもされない。 個人も組織も均質化され、アイデンティティーを喪失した。

今こそ生活や都市の中から失われた「対話」や「すき 間」を見直すときではないか。不必要・無目的と切り捨 てられた都市のあいまいな「すき間」は生活に潤いを与 えるし、「対話」を通してしか人間や自然を真に理解する ことはできない。現代において普通性の座にある近代的 な合理性と、人間や自然、場所の持つ固有性を「対話」 させ、埋もれた「すき間」を救い出し、生活の中にちり ばめていくのだ。

それは何も難しいことではない。一本道ではなく、時には自分から遠回りを承知で寄り道してみよう。何かに 出会うかもしれない。何の役にも立たないような「すき 間」や、そこに生まれる「対話」を大事にすることから 始めることだ。効率や機能性が多少奪われることがあっ ても気にする必要はない。それらは至上の価値ではない のだから。

そんなたわいのないことこそが、実は世界・日本・地 域を意識しながら次世紀へと向かうわれわれにとって必 要だと私は考える。

 

安藤忠雄「失われたもの」(朝日新聞、平成五年五月)

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